续 袭色目与重色目(补)
【四五言的个人空间-哔哩哔哩】 https://b23.tv/A3cZdoV https://b23.tv/A3cZdoV

文、图 bing
http://www.bb.em-net.ne.jp/~maccafushigi/mac/9.htm





表着:経白緯萌黄三重襷地濃萌黄白樺の丸(裏萌葱平絹)←お印の白樺!
打衣:紫無文綾(裏紫平絹)
五衣:紅匂松立涌(裏同色平絹)
単:紅幸菱 http://kusagusa.cocolog-nifty.com/dairy/2018/07/post-92b1.html



◆ 枕草子の衣装(服)に関する色々 清少納言の感じ方 三巻本 ・能因本より
<先ずは、各々に清少納言が語っている段>
「唐衣は 赤色 。藤。夏は二藍。秋は枯野。」

[からぎぬ, からぎぬ]
女官が正装するとき着用した短い上衣。奈良時代の背子はいしの変化したもので,幅の狭い広袖があり,襟を羽織のように折り返して上衣の上に着る。唐の御衣おんぞ。 https://kotobank.jp/word/唐衣http://bwu.bunka.ac.jp/shiyukai/%E5%B9%B3%E6%88%9024%E5%B9%B4%E5%BA%A6%E3%80%80%E3%80%8C%E6%96%87%E5%8C%96%E5%AD%A6%E5%9C%92%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E7%A7%8B%E6%9C%9F%E7%89%B9%E5%88%A5%E5%85%AC%E9%96%8B%E8%AC%9B%E5%BA%A7%E3%80%8D%E9%96%8B/%E4%BA%94%E8%A1%A3%E3%83%BB%E5%94%90%E8%A1%A3%E3%83%BB%E8%A3%B3%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%8D%98%E3%80%80%E6%98%AD%E5%92%8C3%E5%B9%B4%E3%80%80%E8%B3%80%E9%99%BD%E5%AE%AE%E6%95%8F%E5%AD%90%E5%A6%83/

紫地亀甲鶴丸模様唐衣、白地若松立涌模様五衣、白地四ッ菱格子桐竹鳳凰文様裳からなる。唐衣裳は、別名「十二単」とも称される、宮中における女性の正装。十二単は表着の下に十二枚もの袿を襲ねたことからそう呼ばれたが、平安時代後期より五枚となり、近世以降は五衣と呼ばれた。正式な構成は、写真にある五衣・唐衣・裳の他に小袖や袴など五種類の衣裳を着ける。これに檜扇を持ち、懐には帖紙を入れ、頭に髪上具をつけ、朝廷での即位式や大嘗祭などの儀式に臨んだ。当時の写真から、昭和3年(1928)の即位の礼の時に、朝香宮允子妃が着用した装束かと考えられる。允子妃の第一王女紀久子は昭和6年、13代鍋島直泰に降下している。https://www.nabeshima.or.jp/collection/index.php?mode=detail&heritagename=%

数多くの衣を重ねたようで、『栄花物語』わかばえ
万寿2年(1025年)正月の条に女房たちが、十五領
もしくは十八、二十領などの「衣」を重ねていたとあります。
現在の十二単姿とは唐衣の裾を着放つなど着装上の変化を知ることができます。 https://www.toyoko-tohoku.co.jp/%EF%BC%9C%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%9C%9D%EF%BC%9E%E3%80%80%E5%85%AC%E5%AE%B6%E5%A5%B3%E6%88%BF%E3%80%80%E5%94%90%E8%A1%A3%E8%A3%B3%E8%A3%85%E6%9D%9F%E5%A7%BF%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%8E%E3%81%AC%E3%82%82/
「女の表着は 薄色。葡萄染。萌黄。桜。紅梅。すべて、薄色の。」

身丈163.6センチメ一トル 裄83.6センチメ一トル 室町時代
当神宮御祭神の御装束神宝類の一つで、表着は女房装束の一番上に用いる衣である。萌黄色の地に小葵文をあらわし、さらにその上に桐·竹·鳳凰の文様を紫と黄の糸で表した華麗な装束である。桐竹鳳凰の文様は吉祥文の一種であり、天皇が用いられるものだが、当神宮のものは定形の文様と異なり貴重である。

■平安時代の装束と言えば
平安時代といえば誰でも思い浮かべるのが、十二単でしょう。
正式には「女房装束(にょうぼうしょうぞく)」といい、「五衣(いつぎぬ)」「唐衣(からぎぬ)」「裳(も)」の総称です。
よく、五衣の色重ねを10枚、表着が1枚、唐衣が1枚の合計12枚が十二単の決まりだと言う人もいますが、これは俗説です。
五衣は平安初期には、華やかさを競う風潮から20枚から30枚も重ねて着たという記録があります。
平安後期には五衣の色重ねを五領(五枚)に制限する「五領制」が定められましたので、語源はともかく、正式な決まりとしては五衣の色重ねは五つということになります。




長袴:紅無地紗 袷仕立
単衣:萌黄幸菱紋紗 掛衿付
五衣:雲立枠紋紗 紅梅襲裏無地紗
打衣:赤無地綾裏生絹
表着:萌黄白小葵紋地 三色臥蝶丸紋綾裏付
(各仕様はいただいた資料より引用)
袴も紗の袷で夏仕様という徹底ぶり。
単は通常の単よりも透け感があって軽やかでした。
コレだけ着るのなら結構涼しいかなと。
五つ衣も紗の袷でした。
本来なら一枚づつ着せていくのですが、
時間の都合で五枚重ねて着せていますとの事。
一気に五つ衣を着るので肩にズシっときます。
打衣は砧で打って光沢を出した衣。
表着は華やかな二陪織物。
流石にここまでくると通常の十二単と同様重いデス…(;´Д`)

「汗衫は 春は躑躅。夏は青朽葉。朽葉。 」



女児が表衣 うえのきぬ を着ないで衵だけを着ている姿。幼童が、上に汗衫(かざみ)を着ないであこめを着ている姿。https://kotobank.jp/word/衵姿-423907

公家童女の正装は円領あげくび、衽つき、闕腋、身二巾、袖二巾で身丈は後身曲尺1丈5尺、前身曲尺1丈2尺の長さである。円領の汗衫を垂領(たれくび)に着け、汗衫の下は衵(あこめ)、五つ衣、打衣、単、白の表袴を、濃きの長い張袴の上にかさねている。
満佐須計装束抄 まさすけしょうぞくしょう の寸法によった。


物忌 ものいみ
汗衫 かざみ
衵 あこめ(表着 うわぎ として着る)
打衣 うちぎぬ
衣 きぬ(袿 うちき・五つ衣 いつつぎぬ)
単 ひとえ
表袴 うえのはかま
濃き袴 こきはかま
衵扇 あこめおうぎ
汗衫 かざみ の当帯 あておび(宛帯)


ゆだち(結裁)
小袖 こそで
切袴 きりばかま
蝙蝠 かわほり(扇 おうぎ)

「織物は むらさき。白き。紅梅 もよけれど、見ざめこよなし。」

女性用のものは内側に着ることから「うちき」とも呼ばれました。
衣の色を美しく見せるために、何枚か重ねて着る場合もありました。
この衵には、文様のある萌黄(萌葱(もえぎ))色の織物の上に、
紫や白の色糸で二重に文様を浮かび上がらせる高い技術が用いられています。 https://kotobank.jp/word/織物-41480
袙姿【袭色目和重色目(中)-哔哩哔哩】 https://b23.tv/iZEi3Yuhttps://b23.tv/iZEi3Yu

「綾の紋は 葵。かたばみ。あられ地。」



下げ髪の鬢批(びんそぎ)
単(ひとえ)の衣(きぬ)(袿(うちき))
衵扇(あこめおうぎ)
単(ひとえ)
紅(あか)の打袴(うちばかま)
「裳は 大海(おおうみ)。」
* 汗衫(かざみ)は、汗取り用の麻の単の衣。
* 大海は、海 ・湖に因む、海辺 ・湖畔の景色である松 ・千鳥 ・波などの柄。 (海賦文)



五衣(いつつぎぬ)の上に打衣を着けます。https://yuusoku.jp/bunka/docs/juunihitoe_sokutai/ ◆ 柔装束から強装束へ …… 衣紋道の起こり https://costume.iz2.or.jp/column/40.html


ここでは年若い女子の公おおやけではなく私の晴れ着として用いられた姿とした。即ち上から細長、小袿、単を着け濃きの袴をはいている。

袿 うちき
単 ひとえ
濃(こき)袴(はかま)
衵扇 あこめおうぎ(檜扇 ひおうぎ)
当(あて)(宛)帯(おび)

Young daughter of the noble family in the full dress hosonaga with three kimono, at Insei period in latter term of Heian era.https://costume.iz2.or.jp/costume/22.html

袿 うちき
三 み ツ小袖 こそで
単 ひとえ
濃 こき 袴 はかま
衵扇 あこめおうぎ(檜扇 ひおうぎ)
当帯 あておび


上流階級の方はどんな生活だったか、想像いたしますと、雅でしょうね❣️ 小袖と着物の違いが、袖の丸みと衿の形です。
袖も最初は全部、縫ってありました❣️
ちょっと、十二単を体験してみたい私です

「小袖」というと、袖が小さな昔の着物の原型だけを指すと思われるかもしれませんが
実は厳密に言うと、
たとえば、成人式に女性たちが着ている振袖(ふりそで)も「小袖」に部類されます。
豪華な振袖や留袖にしても、カジュアルなゆかたにしても、袖の下にぶ ら下がっている袂の部分は袋状に閉じられています。
これが、「小袖」です。
平安時代の十二単とかで、袖口が大きく開いている袖の形状を、「大袖(おおそで)」と言うのに対し、
「小袖」は袖口が狭いことから付いた名称なんです。
最初の登場は、大宝律令(奈良時代後期)で、
最高の礼装とされていた大袖の下に着た、細い衣のことで、
平安貴族たちが来ていた衣装の下に着用する、「下着(現代の着物の長襦袢てき存在)」でした。
一方、庶民は「小袖」を上着にも下着に使っていました。
やがて鎌倉時代くらいからどんどん普通の一般着になっていき、
室町、安土桃山時代などでは、「辻が花染」等を凝らした、華やかな小袖がいっぱい登場します。
そして、これがもとになり、
いわゆる「着物」が、江戸時代中期頃から登場して、着物の型が完成しました。
昔の「小袖」と現代の着物を比較すると、
「身幅」が着物より大きいと思います。
結構ゆったりしてて、動きやすかったみたいですよ。
また、女性用の着物は引きずるかと思うくらい「身丈」が長く、お腹のところで折り返して、「おはしょり」(御端折り)を作りますよね。
それに対して、昔の小袖は、今の男性用の浴衣みたいに短かったので、すごく着付けがスピーディーなんです。
これをこれからアレンジ復元していきます。
(画像は、ウィキペイア 「小袖」「和服」 から。)
https://ameblo.jp/garnet-falco/entry-11341476547.html

童装束の色目には、格高く貴重な濃色(こきいろ)(濃い紫色)が多用されますが、当時短命であった幼子の無事の成長を祈願する両親や祖父母の愛によるものと思われます。
https://kimono-japan.co.jp/kimonodo/restoration/kugedoujo
因みに、中宮定子は、
ショートジャケット(唐衣)1点・ガウン8点(表着、袿、単)・裳1点・紅袴1点・小袖肌着1点の12枚です。

十二単というのは俗称で正式には唐衣裳(からぎぬも)といい礼装でした。礼装ですから儀礼儀式用で普段は上図の袿姿(うちきすがた)で過ごしていました。上級者は必ず袴を穿いて衣(きぬ)をはおっていました。 https://kitukemeijin.hatenadiary.org/entry/20110407/1302130066 肌小袖とは【読み:はだこそで】肌に直接着る小袖のことです。つまり肌着の古名で室町時代から用いられ、色は白、丈は対丈で、今日の長襦袢に相当するものです。http://www.so-bien.com/kimono/種類/肌小袖.html#:~:text= https://kotobank.jp/word/肌小袖-1392264

[はだぎ, はだぎ]
肌にじかにつける衣類。下着。はだぎぬ。https://kotobank.jp/word/肌着

「ジバン」「ジュバン」は、「袖の広い上着」を意味するアラビア語「jubbeh」が語源となる。
日本の下着は白無垢の対丈仕立てであったが、南蛮人によって襦袢がもたらされた16世紀頃からは、丈の短い襦袢が流行し、腰あたりまでの「半襦袢」、身丈ほどの「長襦袢」などが作られた。 https://gogen-yurai.jp/jyuban/ https://kotobank.jp/word/襦袢-78144

主に露出防止やべたつき防止・防寒の役割を持ちます。
着物の下から少し覗かせることでオシャレさの演出もできます。
肌襦袢と似ており間違えられることが多いですが、長襦袢と肌襦袢にはたくさんの違いがあります。https://kitsuke-school.jp/basic/42/








[げんろくそで, げんろくそで]
着物の袖形の一。丈が短く袂たもとの丸みの大きな袖。女物の普段着,幼女の着物などに用いる。https://ja.ichacha.net/japanese/元禄袖.html

①袖幅が狭く、身幅が広い。
②襟肩あきが狭い。
③衽下がりが少ない。
④立褄(たてづま)(qi1)が短い。襟先(えりさき)から、褄先(つまさき)までの称。襟下(えりした)。 https://kotobank.jp/word/立褄・竪褄-2059998
⑤衽幅が広い。
⑥後身幅と前身幅がほとんど同寸法。
⑦裄(ゆき)(hang2)が短い。
⑧袖口が狭い。
「日本の美術 67 小袖」神谷栄子編 より
元禄(1688.9.30−1704.3.13)ごろに現代とほぼ同じような形になります。
武田勝頼(1546−1582)の継室、桂林院の肖像。
初期小袖時代~江戸時代前半は男女、貴賤を問わず立て膝かあぐらで坐っていました。

https://rekan.jp/179/#:~:text=


16461709江戸幕府第五代将軍(16801709)。家光の四男。幼名徳松。母(桂昌院)は本庄氏。上野館林一五万石の領主。四代将軍家綱の養子となり将軍職を継いだ。大老堀田正俊のもとで湯島に聖堂を移築するなど文治主義の政治を展開,その後,側用人柳沢吉保を登用,悪貨乱発・生類憐みの令の制定など悪政を重ねた反面,その治政下に元禄文化の出現を見た。犬公方いぬくぼう。https://kotobank.jp/word/徳川綱吉








打掛腰巻姿の武家上流婦人 冬期の打掛に対し夏期には、この打掛の上半身を脱いで腰に巻きつけ夏期の正装とした。これを腰巻姿という。
夏の正装としてこの形式は江戸時代にもうけつがれたが、江戸期になると間着が外から見えるので夏の間着に染繍をほどこし、かえって打掛の文様を簡略にするようになった。 https://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000103


[こしまき, こしまき]
女性の和装用の肌着。腰から脚部にかけてまとう布。湯文字ゆもじ。二布ふたの。
中世以降,女官や武家の夫人の夏の礼装用の衣服。帷子かたびらの上に肩脱ぎに着て腰に巻きつける,小袖に似た着物。近世では形式化した。
能楽の女装束の一。着付けの上から縫箔ぬいはくの小袖を腰に巻くようにつけ,手は通さず後ろに垂らすもの。「羽衣」などで用いる。

ダーツを入れたヨークを付け、ウエストベルトの脇からヒモを出して巻きスカート風に。
これがまた快適ですねん😄
スカート部分は藍の生葉染めしたガーゼに綿レース、ヨークはリバティガーゼです。
それにしても
洋服を作っていても下着にこだわり
着物を作っていても下着にこだわるのは❔
大事なところを守るものだから神が宿る神聖な場所にまとうものだから⛩️
怒りと悲しみをかかえた女性性を癒すためかも知れないと思うのです。キロンの傷をリリスが包み込む、みたいな。
https://ameblo.jp/mainichimisin/entry-12573404732.html

A woman in everyday wear; kosode and yumaki (light wrapping skirt).

この湯巻も12世紀頃には袴にかわる略装として貴族の人々にも用い出され、白平絹ではなく染付のものを着たことが平家物語にも見える。
このような風習が一般の人々にも及んでいたわけで、信貴山縁起絵巻、飛倉の巻では袿姿の長者に対して召し使いの女が小袖に文様が染められている腰布をつけている図があり、また伴大納言絵詞の町の人々の女装に染ものの腰布をつけた小袖姿がある。これは「ひだ」がないので湯巻と思われる。
また「かけ湯巻」という言葉が「とはずがたり」にあるが、このかけ湯巻というのは腰布の上端に紐がつけられていないもので、一枚の布だけのものを腰にはさんだと思われる。
ここでは薄茶色無文の帷子かたびらに縹色絁あしぎぬ地に簡単な白纐纈文のある「かけ湯巻」をつけた姿とした。https://kotobank.jp/word/湯巻-145361

帷子(かたびら)
かけ湯巻(ゆまき)



平安時代に、いわゆる十二単(じゅうにひとえ)の下着や
庶民の衣服として用いられていたものが、時代を経て変化し、
江戸時代に至って基本的な服装の形としての小袖が完成しました。
当館には江戸時代後期の小袖を中心に65領が収蔵されています。 小袖とは江戸時代、階層を問わず着用された衣服で、 現代のきものの原型に当たるものです。 当時の女性たちは階層こそ違えども、それぞれの美意識 のもと、意匠・装いを工夫し楽しんでいました。 小袖雛形本は、小袖の模様を収録した出版物で、一般の書店で販売され、現代のファッション 雑誌同様、読者である女性が単に見て楽しむだけでなく、呉服屋で小袖を注文する際にその中か ら模様を選び、注記された加飾技法を参考に、希望する小袖の仕様を決定するファッションブッ クとしても使用されていました。 寛文6年(1666)に刊行された『御ひいなかた』に始まり、江 戸時代後期初頭に至る約150年間に、およそ170~180種もが出版されました。https://www.kyoritsu-wu.ac.jp/pdf/academics/collection/gakunai03.pdf#:~:text=%


僧尼が腰につけた短い黒色の衣。ひだがあり、袴に似る。裙くん。https://kotobank.jp/word/腰衣-64679 https://www.suzukihouiten.jp/columns/detail/757
*仅供参考
文、图 bing
https://costume.iz2.or.jp/costume/ 衣裳一覧
https://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000036 服飾資料
https://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000162 婦女結髪模型、14種
http://www7a.biglobe.ne.jp/~ee-kimono/kami.html 髪形
https://kitukemeijin.hatenadiary.org/entry/20130530/1369873561 小袖と現在の着物の違い(留袖)
http://www.ateliet-tom.com/tom/nunohanasi-2.htm 第四回 きもの考 きものを呉服ということがあります。奈良時代以前、衣装のお手本は中国でした。当時の北方中国は、襟のつまった盤領(あげくび)で筒袖の胡の服で、南方中国は合わせ襟の垂領(たれくび)で広袖の呉の服でした。当時の日本は両者が併用されていたようでしたが着物が合わせ襟の小袖の時代を迎え、呉の服、呉服と呼ばれるようになったようです。 小袖 平安時代以来の公家の衣装の表着(おもてぎ)は、袖口が大きく開いていて、袂(たもと)が袋になっていませんでした。これを「大袖」と呼ぶのに対し、その下に着る衣服は、袖口が
小さかったことから「小袖」と呼ばれました。大袖が公家の男性など、ごく限られた人にしか用いられなくなる一方で、袖口が縫い詰められて袂が袋になった小袖が、表着として一般的になります。そして、衣料全般を指す「きるもの」=小袖という感覚が生まれ、今日、小袖形の衣服を「きもの」と呼ぶ下地になっています。
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo07/wo07_01123/wo07_01123.pdf 荆楚岁时记
http://www.bb.em-net.ne.jp/~maccafushigi/mac/3.htm 平安朝 (平安時代) 衣装







【模样、文样、纹样的差异是?通过麻叶、七宝、青海波、市松图像解说-哔哩哔哩】 https://b23.tv/chbyjmH https://b23.tv/chbyjmH

盛装男子埴輪(土俑)
一軀
埴製、素焼、一部に着色。
総高137.5 最大幅(上衣裾)45 最大奥行(上衣裾)27 人物高109.5 肩幅37 基台幅(宽度)29 基台奥行(高度)18
考古
古墳時代 6世紀
盛装男子埴輪
H048383
収蔵品番号 1537-0
部 門 考古
区 分 考古
部門番号 考351
https://www.narahaku.go.jp/collection/1537-0.html
文、图 bing
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