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续 袭色目与重色目(补)

2022-09-04 21:02 作者:四五言  | 我要投稿

【四五言的个人空间-哔哩哔哩】 https://b23.tv/A3cZdoV https://b23.tv/A3cZdoV



文、图 bing

http://www.bb.em-net.ne.jp/~maccafushigi/mac/9.htm


https://www.kyokane.co.jp/blog/costume/blog-5880/
http://item.rakuten.co.jp/k-soleil/16hina-ya-87/
http://herman.leonardjoel.com.au/woqewAV51976.html
https://blog.goo.ne.jp/abcdefghij/e/f08062107cd108f0735510e920dfb62e
唐衣:白小葵地紫向松喰鶴丸(裏紫小菱)
表着:経白緯萌黄三重襷地濃萌黄白樺の丸(裏萌葱平絹)←お印の白樺!
打衣:紫無文綾(裏紫平絹)
五衣:紅匂松立涌(裏同色平絹)
単:紅幸菱 http://kusagusa.cocolog-nifty.com/dairy/2018/07/post-92b1.html
https://blog.goo.ne.jp/abcdefghij/e/81c3e1e28c80f0baab41cc5e3b80d667
https://www.warakuan.jp/blog/chiebukuro/1243.html
http://www.maroon.dti.ne.jp/toki/do-12hitoe.html


◆ 枕草子の衣装(服)に関する色々 清少納言の感じ方 三巻本 ・能因本より


<先ずは、各々に清少納言が語っている段>


「唐衣は 赤色 。藤。夏は二藍。秋は枯野。」 


唐衣
[からぎぬ, からぎぬ]
女官が正装するとき着用した短い上衣。奈良時代の背子はいしの変化したもので,幅の狭い広袖があり,襟を羽織のように折り返して上衣の上に着る。唐の御衣おんぞ。 https://kotobank.jp/word/唐衣http://bwu.bunka.ac.jp/shiyukai/%E5%B9%B3%E6%88%9024%E5%B9%B4%E5%BA%A6%E3%80%80%E3%80%8C%E6%96%87%E5%8C%96%E5%AD%A6%E5%9C%92%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E7%A7%8B%E6%9C%9F%E7%89%B9%E5%88%A5%E5%85%AC%E9%96%8B%E8%AC%9B%E5%BA%A7%E3%80%8D%E9%96%8B/%E4%BA%94%E8%A1%A3%E3%83%BB%E5%94%90%E8%A1%A3%E3%83%BB%E8%A3%B3%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%8D%98%E3%80%80%E6%98%AD%E5%92%8C3%E5%B9%B4%E3%80%80%E8%B3%80%E9%99%BD%E5%AE%AE%E6%95%8F%E5%AD%90%E5%A6%83/
昭和初期(20世紀)(唐衣)丈51.3cm 裄66.4cm (五衣)丈195.3cm 裄73.0cm (裳)腰幅49.0cm 丈170.9cm 五衣・唐衣・裳 いつつぎぬ・からぎぬ・も
紫地亀甲鶴丸模様唐衣、白地若松立涌模様五衣、白地四ッ菱格子桐竹鳳凰文様裳からなる。唐衣裳は、別名「十二単」とも称される、宮中における女性の正装。十二単は表着の下に十二枚もの袿を襲ねたことからそう呼ばれたが、平安時代後期より五枚となり、近世以降は五衣と呼ばれた。正式な構成は、写真にある五衣・唐衣・裳の他に小袖や袴など五種類の衣裳を着ける。これに檜扇を持ち、懐には帖紙を入れ、頭に髪上具をつけ、朝廷での即位式や大嘗祭などの儀式に臨んだ。当時の写真から、昭和3年(1928)の即位の礼の時に、朝香宮允子妃が着用した装束かと考えられる。允子妃の第一王女紀久子は昭和6年、13代鍋島直泰に降下している。https://www.nabeshima.or.jp/collection/index.php?mode=detail&heritagename=%
構成は唐衣、裳、表着、打衣、袿(5枚を重ねるとき、後に五つ衣といわれる)、単、紅の長袴(若年未婚は濃色)、衵扇、帖紙となっています。
          数多くの衣を重ねたようで、『栄花物語』わかばえ
          万寿2年(1025年)正月の条に女房たちが、十五領
          もしくは十八、二十領などの「衣」を重ねていたとあります。
          現在の十二単姿とは唐衣の裾を着放つなど着装上の変化を知ることができます。 https://www.toyoko-tohoku.co.jp/%EF%BC%9C%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%9C%9D%EF%BC%9E%E3%80%80%E5%85%AC%E5%AE%B6%E5%A5%B3%E6%88%BF%E3%80%80%E5%94%90%E8%A1%A3%E8%A3%B3%E8%A3%85%E6%9D%9F%E5%A7%BF%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%8E%E3%81%AC%E3%82%82/


「女の表着は 薄色。葡萄染。萌黄。桜。紅梅。すべて、薄色の。」 


https://www.atsutajingu.or.jp/jingu/bunkaden/possession/01.html 重要文化財 表着 萌黄小葵地桐竹鳳凰文ニ重織 (古神宝類)  1 領
身丈163.6センチメ一トル 裄83.6センチメ一トル 室町時代
当神宮御祭神の御装束神宝類の一つで、表着は女房装束の一番上に用いる衣である。萌黄色の地に小葵文をあらわし、さらにその上に桐·竹·鳳凰の文様を紫と黄の糸で表した華麗な装束である。桐竹鳳凰の文様は吉祥文の一種であり、天皇が用いられるものだが、当神宮のものは定形の文様と異なり貴重である。
http://www.tenhodo.co.jp/archives/juunihitoe.html 十二単(じゅうにひとえ)
■平安時代の装束と言えば
平安時代といえば誰でも思い浮かべるのが、十二単でしょう。
正式には「女房装束(にょうぼうしょうぞく)」といい、「五衣(いつぎぬ)」「唐衣(からぎぬ)」「裳(も)」の総称です。
よく、五衣の色重ねを10枚、表着が1枚、唐衣が1枚の合計12枚が十二単の決まりだと言う人もいますが、これは俗説です。
五衣は平安初期には、華やかさを競う風潮から20枚から30枚も重ねて着たという記録があります。
平安後期には五衣の色重ねを五領(五枚)に制限する「五領制」が定められましたので、語源はともかく、正式な決まりとしては五衣の色重ねは五つということになります。
唐衣(からぎぬ)と裳 上が唐衣、下が裳
五衣 いつつぎぬ
https://www.miyabi-yuki.jp/2021/04/20/%E5%A3%AE%E9%BA%97%E3%81%AA%E5%92%8C%E5%AE%AE%E3%81%AE%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%8D%98/
http://fudenoato.cocolog-nifty.com/fude/2015/10/post-bf40.html 左上から…
長袴:紅無地紗 袷仕立
単衣:萌黄幸菱紋紗 掛衿付
五衣:雲立枠紋紗 紅梅襲裏無地紗
打衣:赤無地綾裏生絹
表着:萌黄白小葵紋地 三色臥蝶丸紋綾裏付
(各仕様はいただいた資料より引用)
袴も紗の袷で夏仕様という徹底ぶり。
単は通常の単よりも透け感があって軽やかでした。
コレだけ着るのなら結構涼しいかなと。
五つ衣も紗の袷でした。
本来なら一枚づつ着せていくのですが、
時間の都合で五枚重ねて着せていますとの事。
一気に五つ衣を着るので肩にズシっときます。
打衣は砧で打って光沢を出した衣。
表着は華やかな二陪織物。
流石にここまでくると通常の十二単と同様重いデス…(;´Д`)
二陪織物の表着 https://www.kokugakuin.ed.jp/shiryokan/ 表着(うわぎ)は、一般的には、上に着る衣服のことを言います。 https://www.handjc.net/aa-uwagi.html#:~:text=%


「汗衫は 春は躑躅。夏は青朽葉。朽葉。 」 


http://kimono-japan.co.jp/kimonodo/restoration/%EF%BC%9C%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%9C%9D%EF%BC%9E%E5%85%AC%E5%AE%B6%E7%AB%A5%E5%A5%B3-%E6%AD%A3%E8%A3%85%E6%B1%97%E8%A1%AB%E5%A7%BF
汗衫 かざみ 汗取りの衣服の意。奈良時代には一般の男女が布 (麻) 製で窄袖 (さくしゅう) の単 (ひとえ) の汗衫を着た。https://kotobank.jp/word/汗衫-44143
https://costume.iz2.or.jp/costume/117.html あこめ‐すがた【×衵姿】
女児が表衣 うえのきぬ を着ないで衵だけを着ている姿。幼童が、上に汗衫(かざみ)を着ないであこめを着ている姿。https://kotobank.jp/word/衵姿-423907
汗衫(かざみ)は本来汗のつく内衣(肌着)であって、単のものであったろう。やがて下級者の表衣となり、更に長大化して公家の童女の正装に用いられた。従って本来の汗衫と、公家童女の汗衫とは、形状も自から異るが、単のものであることに変りはない。
公家童女の正装は円領あげくび、衽つき、闕腋、身二巾、袖二巾で身丈は後身曲尺1丈5尺、前身曲尺1丈2尺の長さである。円領の汗衫を垂領(たれくび)に着け、汗衫の下は衵(あこめ)、五つ衣、打衣、単、白の表袴を、濃きの長い張袴の上にかさねている。
満佐須計装束抄 まさすけしょうぞくしょう の寸法によった。
汗衫(かざみ)を着けた公家童女晴れ姿
下げ髪 さげがみ
物忌 ものいみ
汗衫 かざみ
衵 あこめ(表着 うわぎ として着る)
打衣 うちぎぬ
衣 きぬ(袿 うちき・五つ衣 いつつぎぬ)
単 ひとえ
表袴 うえのはかま
濃き袴 こきはかま
衵扇 あこめおうぎ
汗衫 かざみ の当帯 あておび(宛帯)
https://costume.iz2.or.jp/costume/515.html
汗衫 かざみ
ゆだち(結裁)
小袖 こそで
切袴 きりばかま
蝙蝠 かわほり(扇 おうぎ)
童女平常の夏の汗衫 かざみ 姿


「織物は むらさき。白き。紅梅 もよけれど、見ざめこよなし。」 


https://www.hakubutu.wakayama-c.ed.jp/yosooi/sakuhin.htm 衵とは、上着と肌着との間に着る衣のことで、
女性用のものは内側に着ることから「うちき」とも呼ばれました。
衣の色を美しく見せるために、何枚か重ねて着る場合もありました。
 この衵には、文様のある萌黄(萌葱(もえぎ))色の織物の上に、
紫や白の色糸で二重に文様を浮かび上がらせる高い技術が用いられています。 https://kotobank.jp/word/織物-41480


袙姿【袭色目和重色目(中)-哔哩哔哩】 https://b23.tv/iZEi3Yuhttps://b23.tv/iZEi3Yu


http://stockillust.blog.shinobi.jp/Page/3/


「綾の紋は 葵。かたばみ。あられ地。」   


単(衣)公家(くげ)衣服の一種。単衣(ひとえぎぬ)の略。平安時代以降、素肌または肌着の上に着用した単仕立て・垂領(たりくび)、広袖(ひろそで)形式の衣。 男女の別があり、男子の単は袙(あこめ)とほぼ同型で、身丈が短く、脇(わき)を縫い付けない衣。その地質は、束帯(そくたい)や衣冠の場合、五位以上の者に紅(くれない)の繁菱(しげびし)または遠菱(とおびし)の綾(あや)、六位以下の者に平絹を用いるとした。直衣(のうし)や狩衣(かりぎぬ)の場合、禁色(きんじき)以外の好みの色の綾や平絹が用いられた。 女子の単は袿(うちき)や袙と同型であるが、裄(ゆき)や身丈がやや長めで、脇を縫い付けてある。その地質は、冬に五位以上の者が綾や平絹、夏に生(き)綾、生平絹のほか羅(ら)、縠(こく)、紗(しゃ)などの薄物(うすもの)を用いた。綾や縠などの文様は繁菱、遠菱、幸菱(さいわいびし)など。その色は禁色以外の好みのものや、襲色目(かさねいろめ)によるものとしている。なお、単襲(ひとえがさね)といって、女子が盛夏に、単仕立ての衣を数領かさねて着装する服装も行われた。 https://kotobank.jp/word/単-120309 https://costume.iz2.or.jp/costume/519.html
公家の女房の平常の姿として袿、単、袴がある。 即ち固地の生とし、紋は浮線綾も考えられるが、ここでは幸菱文とし、色は上を二藍、下を萠黄の杜若重ねとしその下には小袖、袴は紅長袴とした。

   

下げ髪
下げ髪の鬢批(びんそぎ)
単(ひとえ)の衣(きぬ)(袿(うちき))
衵扇(あこめおうぎ)
単(ひとえ)
紅(あか)の打袴(うちばかま)


「裳は 大海(おおうみ)。」


* 汗衫(かざみ)は、汗取り用の麻の単の衣。 
* 大海は、海 ・湖に因む、海辺 ・湖畔の景色である松 ・千鳥 ・波などの柄。 (海賦文)


https://matome.naver.jp/odai/2146695502618655001/2146705298284559103
[7]  袿の上に濃き蘇芳の打衣(うちぎぬ)を着る。本来打衣は生絹(すずし)を砧(きぬた)で打って柔らかくした生地で、表面に穏やかな光沢がみられた。後世は、漆塗りの板に糊を引いて平絹を張り、乾かして剥ぎ、光沢のでた板引(いたびき)と呼ばれる布地を用いる。https://www.iz2.or.jp/kizoku/shozoku2.html https://kotobank.jp/word/打衣-34758
<打衣(うちぎぬ)>
五衣(いつつぎぬ)の上に打衣を着けます。https://yuusoku.jp/bunka/docs/juunihitoe_sokutai/ ◆ 柔装束から強装束へ …… 衣紋道の起こり https://costume.iz2.or.jp/column/40.html
https://costume.iz2.or.jp/costume/37.html

公家くげ女子じょし細長ほそなが 細長には諸説があり、また細長という名称であっても同一の形状ではない。これは平安時代の公家の幼児服と年若い女子の晴れ着で、幼児服は円領の水干すいかんの丈を長くしたようなものである。年若い女子の表着としてのものは垂領で、衽がなく腋のあいた身丈の長いものである。また別に近世では袿と同様の形状で衽がなく、身丈の長いものを細長と称して、産衣や幼児服として用いられた。
ここでは年若い女子の公おおやけではなく私の晴れ着として用いられた姿とした。即ち上から細長、小袿、単を着け濃きの袴をはいている。
細長 ほそなが
袿 うちき
単 ひとえ
濃(こき)袴(はかま)
衵扇 あこめおうぎ(檜扇 ひおうぎ)
当(あて)(宛)帯(おび)
院政時代の公家女子 くげじょし、三ツ小袖 こそで に細長 ほそなが 姿
Young daughter of the noble family in the full dress hosonaga with three kimono, at Insei period in latter term of Heian era.https://costume.iz2.or.jp/costume/22.html
細長 ほそなが
袿 うちき
三 み ツ小袖 こそで
単 ひとえ
濃 こき 袴 はかま
衵扇 あこめおうぎ(檜扇 ひおうぎ)
当帯 あておび
ここでは年若い女子の公おおやけではなく私の晴れ着として用いられた姿とした。即ち上から細長、小袿、単を着け濃きの袴をはいている。 院政時代頃から今迄下着として直接膚につける小袖が昇華し、装束の一具となって来た。 細長の時にも下に三つ小袖の着装のある事を思い、ここでは三つ小袖を襟もとで表現した。 13世紀になるとこのような禁令により廃止の方向へ向かった。 しかし、小袖の着装とこれが、上着として用いられる流れは、15、16世紀へとつづき小袖の一般社会、武家社会に於ける重用、そして今日に及ぶ小袖即ち和服、日本のきものとなって来たと思われる。
https://ameblo.jp/kimonochiyo/entry-12408830131.html 平安時代のお姫様の下着の小袖から、今の着物が出来たんです 今の着物って、平安時代の小袖からです 平安時代からの歴史が今まで繋がってるってすごいです💕
上流階級の方はどんな生活だったか、想像いたしますと、雅でしょうね❣️ 小袖と着物の違いが、袖の丸みと衿の形です。
袖も最初は全部、縫ってありました❣️
ちょっと、十二単を体験してみたい私です
小袖(こそで)は、現代一般的に用いている、和服の元となった衣類です。
「小袖」というと、袖が小さな昔の着物の原型だけを指すと思われるかもしれませんが
実は厳密に言うと、
たとえば、成人式に女性たちが着ている振袖(ふりそで)も「小袖」に部類されます。
豪華な振袖や留袖にしても、カジュアルなゆかたにしても、袖の下にぶ ら下がっている袂の部分は袋状に閉じられています。
これが、「小袖」です。
平安時代の十二単とかで、袖口が大きく開いている袖の形状を、「大袖(おおそで)」と言うのに対し、
「小袖」は袖口が狭いことから付いた名称なんです。
最初の登場は、大宝律令(奈良時代後期)で、
最高の礼装とされていた大袖の下に着た、細い衣のことで、
平安貴族たちが来ていた衣装の下に着用する、「下着(現代の着物の長襦袢てき存在)」でした。
一方、庶民は「小袖」を上着にも下着に使っていました。
やがて鎌倉時代くらいからどんどん普通の一般着になっていき、
室町、安土桃山時代などでは、「辻が花染」等を凝らした、華やかな小袖がいっぱい登場します。
そして、これがもとになり、
いわゆる「着物」が、江戸時代中期頃から登場して、着物の型が完成しました。
昔の「小袖」と現代の着物を比較すると、
「身幅」が着物より大きいと思います。
結構ゆったりしてて、動きやすかったみたいですよ。
また、女性用の着物は引きずるかと思うくらい「身丈」が長く、お腹のところで折り返して、「おはしょり」(御端折り)を作りますよね。
それに対して、昔の小袖は、今の男性用の浴衣みたいに短かったので、すごく着付けがスピーディーなんです。
これをこれからアレンジ復元していきます。
(画像は、ウィキペイア 「小袖」「和服」 から。)
https://ameblo.jp/garnet-falco/entry-11341476547.html


<平安朝> 公家童女 袿・細長姿 (くげどうじょ うちき・ほそながすがた) 濃色(こきいろ)の小袖・帯・長袴を着け濃色幸菱文の単(こきいろさいわいびしもんのひとえ)、「狭衣物語」や「栄花物語」に見える”桜萌黄重ね(さくらもえぎがさね)“の袿(うちき)、桜重ね(さくらがさね)の細長(ほそなが)を重ね着にしています。
童装束の色目には、格高く貴重な濃色(こきいろ)(濃い紫色)が多用されますが、当時短命であった幼子の無事の成長を祈願する両親や祖父母の愛によるものと思われます。
https://kimono-japan.co.jp/kimonodo/restoration/kugedoujo 


因みに、中宮定子は、 
ショートジャケット(唐衣)1点・ガウン8点(表着、袿、単)・裳1点・紅袴1点・小袖肌着1点の12枚です。

A=唐衣裳 B=袿 C=小袖袴 D=はつき(葉付 打掛) E=湯巻 きもの、昔は小袖と呼ばれていたのですが、その小袖は貴族の間では当初は肌着として着用されていました。
 十二単というのは俗称で正式には唐衣裳(からぎぬも)といい礼装でした。礼装ですから儀礼儀式用で普段は上図の袿姿(うちきすがた)で過ごしていました。上級者は必ず袴を穿いて衣(きぬ)をはおっていました。 https://kitukemeijin.hatenadiary.org/entry/20110407/1302130066 肌小袖とは【読み:はだこそで】肌に直接着る小袖のことです。つまり肌着の古名で室町時代から用いられ、色は白、丈は対丈で、今日の長襦袢に相当するものです。http://www.so-bien.com/kimono/種類/肌小袖.html#:~:text= https://kotobank.jp/word/肌小袖-1392264


小袖 こそで 文献のうえでは養老2 (718) 年の『養老律令』にみえているのが最初で,礼服の下衣として用いられた。当初は盤領 (あげくび) の中国的形態であったが,平安時代に入って日本の筒袖系統のものと融合して今日の和服の源流をなす形態を整え,公家の男女の襯衣 (はだぎ) として用いられた。https://kotobank.jp/word/小袖-65013 しん‐い【×襯衣】肌着。ジュバン。https://kotobank.jp/word/襯衣-525382 https://ameblo.jp/garnet-falco/entry-11341476547.html 肌着
[はだぎ, はだぎ]
肌にじかにつける衣類。下着。はだぎぬ。https://kotobank.jp/word/肌着

襦袢/じゅばん 襦袢とは、和服用の下着。じばん。半襦袢・長襦袢・肌襦袢など。 漢字の「襦袢」は当て字で、じゅばんはポルトガル語の「ジバン」か、その古形「ジュバン」の転訛といわれる。
「ジバン」「ジュバン」は、「袖の広い上着」を意味するアラビア語「jubbeh」が語源となる。
日本の下着は白無垢の対丈仕立てであったが、南蛮人によって襦袢がもたらされた16世紀頃からは、丈の短い襦袢が流行し、腰あたりまでの「半襦袢」、身丈ほどの「長襦袢」などが作られた。 https://gogen-yurai.jp/jyuban/ https://kotobank.jp/word/襦袢-78144 
長襦袢とは、着物の下に着るインナーウェアのことです。
主に露出防止やべたつき防止・防寒の役割を持ちます。
着物の下から少し覗かせることでオシャレさの演出もできます。
肌襦袢と似ており間違えられることが多いですが、長襦袢と肌襦袢にはたくさんの違いがあります。https://kitsuke-school.jp/basic/42/
https://ameblo.jp/garnet-falco/entry-11341476547.html

https://sengoku-his.com/125
着物の各部の名称 https://paradjanov.biz/art/favorite_art/favorites_j/4972/
「小袖 日本伝統の装い、その華やかな歴史をたどる」長崎巌 より
https://ameblo.jp/garnet-falco/entry-11341476547.html
http://www.kimonosakusaku.com/blog/2009/05/post_119.html
お市 戦国一美女 https://kusanomido.com/study/history/japan/azuchi/46002/
「図説 戦国女性と暮らし」 より http://paradjanov.biz/art/favorite_art/favorites_j/4990/ 元禄袖
[げんろくそで, げんろくそで]
着物の袖形の一。丈が短く袂たもとの丸みの大きな袖。女物の普段着,幼女の着物などに用いる。https://ja.ichacha.net/japanese/元禄袖.html
初期小袖の特徴
①袖幅が狭く、身幅が広い。
②襟肩あきが狭い。
③衽下がりが少ない。
④立褄(たてづま)(qi1)が短い。襟先(えりさき)から、褄先(つまさき)までの称。襟下(えりした)。 https://kotobank.jp/word/立褄・竪褄-2059998
⑤衽幅が広い。
⑥後身幅と前身幅がほとんど同寸法。
⑦裄(ゆき)(hang2)が短い。
⑧袖口が狭い。
「日本の美術 67 小袖」神谷栄子編 より
元禄(1688.9.30−1704.3.13)ごろに現代とほぼ同じような形になります。
武田勝頼(1546−1582)の継室、桂林院の肖像。
初期小袖時代~江戸時代前半は男女、貴賤を問わず立て膝かあぐらで坐っていました。
http://bushoojapan.com/book/2017/05/19/99307 武田勝頼 (たけだ かつより)は、父・ 武田信玄 の跡を継いだ甲斐の 戦国大名 です。 戦国時代 の1546年に武田信玄の4男として生まれました。 母は側室・ 諏訪御料人 になります。
https://rekan.jp/179/#:~:text=
第113代 東山天皇 徳川綱吉(5代)治世の元、安定した朝幕関係を維持した https://jhistory-archives.site/tennou/higashiyama/ https://kotobank.jp/word/元禄-493340
https://rekishi-style.com/archives/11367 徳川綱吉 [とくがわつなよし]    DEFINITION
16461709江戸幕府第五代将軍(16801709)。家光の四男。幼名徳松。母(桂昌院)は本庄氏。上野館林一五万石の領主。四代将軍家綱の養子となり将軍職を継いだ。大老堀田正俊のもとで湯島に聖堂を移築するなど文治主義の政治を展開,その後,側用人柳沢吉保を登用,悪貨乱発・生類憐みの令の制定など悪政を重ねた反面,その治政下に元禄文化の出現を見た。犬公方いぬくぼう。https://kotobank.jp/word/徳川綱吉
小袖の変遷 「小袖 日本伝統の装い、その華やかな歴史をたどる」長崎巌 より https://paradjanov.biz/art/favorite_art/favorites_j/4978/
小袖模様配置の変遷
「小袖 日本伝統の装い、その華やかな歴史をたどる」長崎巌 より
<安土桃山時代> (小袖の完成)武家 打掛姿(ぶけ うちかけすがた)打掛(うちかけ)の呼び名は内掛(うちかけ)の小袖(こそで)の略称です。武家婦人は公家服飾の「袿(うちき)」の代りに小袖・帯姿の上から、もう一枚別の小袖を「うちかけて」着ました。「打掛」の誕生です。内掛けは武家上流女子の冬の礼装として用いられましたが、江戸時代には公家女子も瑛の晴れ着として用いるようになり「搔取(かいとり)」と呼びました。 https://www.toyoko-tohoku.co.jp/<安土桃山時代>%E3%80%80武家%E3%80%80打掛姿(ぶけ%E3%80%80うちか/
https://www.touken-world.jp/tips/54779/
いわゆる打掛です http://www.tenhodo.co.jp/archives/juunihitoe.html
武家社会になり公家儀式が簡略化されるに伴い,襯衣であった小袖が次第に表着化し,14世紀中期から小袖袴という服飾形態が武家の間で行われ,15世紀に入ってからは袴も略されて小袖帯の姿と化した。ここに小袖の装飾化,帯の変化がもたらされ,礼装の際の打掛や腰巻が発生した。また,上着,下着,肌着の区別,さらに生地の変化が生れ,小袖,布子 (ぬのこ) (木綿の綿入れ。〔冬〕小袖),袷 (あわせ) ,単 (ひとえ) ,帷子 (かたびら) などと細分化され,その後は染織技術と裁縫上の進歩から華麗な現代の小袖へと推移した。https://kotobank.jp/word/小袖-65013 https://kotobank.jp/word/布子
<安土桃山時代>
打掛腰巻姿の武家上流婦人 冬期の打掛に対し夏期には、この打掛の上半身を脱いで腰に巻きつけ夏期の正装とした。これを腰巻姿という。
 夏の正装としてこの形式は江戸時代にもうけつがれたが、江戸期になると間着が外から見えるので夏の間着に染繍をほどこし、かえって打掛の文様を簡略にするようになった。 https://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000103
http://blog.livedoor.jp/kurowasai/archives/258228.html
腰巻き
[こしまき, こしまき]
女性の和装用の肌着。腰から脚部にかけてまとう布。湯文字ゆもじ。二布ふたの。
中世以降,女官や武家の夫人の夏の礼装用の衣服。帷子かたびらの上に肩脱ぎに着て腰に巻きつける,小袖に似た着物。近世では形式化した。
能楽の女装束の一。着付けの上から縫箔ぬいはくの小袖を腰に巻くようにつけ,手は通さず後ろに垂らすもの。「羽衣」などで用いる。
腰巻き 着物でもロングスカートでも腰巻きを愛用しているのですが、普通の和服用の腰巻きは、上の部分を折り返さないといけないので、好きでなくて。
ダーツを入れたヨークを付け、ウエストベルトの脇からヒモを出して巻きスカート風に。
これがまた快適ですねん😄
スカート部分は藍の生葉染めしたガーゼに綿レース、ヨークはリバティガーゼです。
それにしても
洋服を作っていても下着にこだわり
着物を作っていても下着にこだわるのは❔
大事なところを守るものだから神が宿る神聖な場所にまとうものだから⛩️
怒りと悲しみをかかえた女性性を癒すためかも知れないと思うのです。キロンの傷をリリスが包み込む、みたいな。
https://ameblo.jp/mainichimisin/entry-12573404732.html
鎌倉時代 小袖、かけ湯巻をつけた女
A woman in everyday wear; kosode and yumaki (light wrapping skirt).
湯巻は今木とも記され、本来は高貴な方が湯を使われる時、腰に巻かれるものであり、またそれに奉仕する女房達が袿か衵あこめの上からまとったもので多くは生絹を用いていた。御湯殿での奉仕のほか天皇が理髪される時にも近侍の女房がつけている(西宮記)。また小さい御子を湯に入れる時、桶の底にもこれを敷いたことなども記されている(うつほ物語)。
この湯巻も12世紀頃には袴にかわる略装として貴族の人々にも用い出され、白平絹ではなく染付のものを着たことが平家物語にも見える。
このような風習が一般の人々にも及んでいたわけで、信貴山縁起絵巻、飛倉の巻では袿姿の長者に対して召し使いの女が小袖に文様が染められている腰布をつけている図があり、また伴大納言絵詞の町の人々の女装に染ものの腰布をつけた小袖姿がある。これは「ひだ」がないので湯巻と思われる。
また「かけ湯巻」という言葉が「とはずがたり」にあるが、このかけ湯巻というのは腰布の上端に紐がつけられていないもので、一枚の布だけのものを腰にはさんだと思われる。
ここでは薄茶色無文の帷子かたびらに縹色絁あしぎぬ地に簡単な白纐纈文のある「かけ湯巻」をつけた姿とした。https://kotobank.jp/word/湯巻-145361
下(さ)げ髪
帷子(かたびら)
かけ湯巻(ゆまき)
〈桃山小袖〉 桃山時代は小袖の基本型が完成した時代で、その文様や配置にも大いに特色があります。 桃山時代の小袖に見られる文様の特徴は、例えば一定の区画をもうけて、そのなかに文様を詰める手法が上げられます。 近世初頭の染繍の小袖について、室町後期を前期とすれば中期は桃山盛期であり、後期は慶長時代ということになる。https://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000113 https://www.sensho.or.jp/kimono_encyclo/monyo_kaisetu/kaisetu2.html#:~:text=% http://item.rakuten.co.jp/kimono/nagoyaobi-kaganui1/
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/00011718 黒綸子地桐唐草入大葉文様小袖 慶長小袖とは、黒と紅や白で染め分けた地、あるいはそれらの単色の地を、あたかも埋め尽くすかのように、刺繍と摺箔(金箔や銀箔を糊で貼って装飾とする技法)による模様を加えたものをいいます。 この慶長小袖には、室町・桃山時代の特色と江戸時代の特色とが見られます。 作例の中には、大柄なモティーフを全体的にあらわしたものもあります。 それは、あたかも一枚のカンバスであるかのようにデザインする江戸時代の小袖意匠らしい表情をもっています。 そうした意味で、江戸時代の小袖意匠の出発点に位置づけられるでしょう。 慶長小袖には黒染めが多用されていますが、黒染めには劣化が大きい性質があります。 https://www.museum.or.jp/event/62180#:~:text=慶長小袖とは、
江戸小袖 https://www.silkcenter-kbkk.jp/gallery/Senshokuhin/smallsleeve.html 小袖は、今日の着物(和服)の原型で、袖口が小さく縫いつまっていることからこう呼ばれます。
平安時代に、いわゆる十二単(じゅうにひとえ)の下着や
庶民の衣服として用いられていたものが、時代を経て変化し、
江戸時代に至って基本的な服装の形としての小袖が完成しました。
当館には江戸時代後期の小袖を中心に65領が収蔵されています。 小袖とは江戸時代、階層を問わず着用された衣服で、 現代のきものの原型に当たるものです。 当時の女性たちは階層こそ違えども、それぞれの美意識 のもと、意匠・装いを工夫し楽しんでいました。 小袖雛形本は、小袖の模様を収録した出版物で、一般の書店で販売され、現代のファッション 雑誌同様、読者である女性が単に見て楽しむだけでなく、呉服屋で小袖を注文する際にその中か ら模様を選び、注記された加飾技法を参考に、希望する小袖の仕様を決定するファッションブッ クとしても使用されていました。 寛文6年(1666)に刊行された『御ひいなかた』に始まり、江 戸時代後期初頭に至る約150年間に、およそ170~180種もが出版されました。https://www.kyoritsu-wu.ac.jp/pdf/academics/collection/gakunai03.pdf#:~:text=%
腰衣 https://conveniinfo-job.com/2021/03/19/%E4%BA%94%E6%9D%A1%E8%A2%88%E8%A3%9F/
こし‐ごろも【腰衣】
僧尼が腰につけた短い黒色の衣。ひだがあり、袴に似る。裙くん。https://kotobank.jp/word/腰衣-64679 https://www.suzukihouiten.jp/columns/detail/757


*仅供参考

文、图 bing 

https://costume.iz2.or.jp/costume/  衣裳一覧

https://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000036 服飾資料

https://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000162 婦女結髪模型、14種

http://www7a.biglobe.ne.jp/~ee-kimono/kami.html 髪形

https://kitukemeijin.hatenadiary.org/entry/20130530/1369873561 小袖と現在の着物の違い(留袖)

http://www.ateliet-tom.com/tom/nunohanasi-2.htm 第四回  きもの考 きものを呉服ということがあります。奈良時代以前、衣装のお手本は中国でした。当時の北方中国は、襟のつまった盤領(あげくび)で筒袖の胡の服で、南方中国は合わせ襟の垂領(たれくび)で広袖の呉の服でした。当時の日本は両者が併用されていたようでしたが着物が合わせ襟の小袖の時代を迎え、呉の服、呉服と呼ばれるようになったようです。 小袖 平安時代以来の公家の衣装の表着(おもてぎ)は、袖口が大きく開いていて、袂(たもと)が袋になっていませんでした。これを「大袖」と呼ぶのに対し、その下に着る衣服は、袖口が
小さかったことから「小袖」と呼ばれました。大袖が公家の男性など、ごく限られた人にしか用いられなくなる一方で、袖口が縫い詰められて袂が袋になった小袖が、表着として一般的になります。そして、衣料全般を指す「きるもの」=小袖という感覚が生まれ、今日、小袖形の衣服を「きもの」と呼ぶ下地になっています。

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo07/wo07_01123/wo07_01123.pdf 荆楚岁时记

http://www.bb.em-net.ne.jp/~maccafushigi/mac/3.htm 平安朝 (平安時代) 衣装


https://japaneseclass.jp/trends/about/%E5%94%90%E8%A1%A3
https://japaneseclass.jp/trends/about/%E5%94%90%E8%A1%A3
https://white-fuga.hatenablog.com/entry/2019/07/20/213406
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https://sengokumiman.com/k_style/princesskorean.html


【模样、文样、纹样的差异是?通过麻叶、七宝、青海波、市松图像解说-哔哩哔哩】 https://b23.tv/chbyjmH https://b23.tv/chbyjmH


せいそうだんしはにわ
盛装男子埴輪(土俑)
一軀
埴製、素焼、一部に着色。
総高137.5 最大幅(上衣裾)45 最大奥行(上衣裾)27 人物高109.5 肩幅37 基台幅(宽度)29 基台奥行(高度)18
考古
古墳時代 6世紀
盛装男子埴輪
H048383
収蔵品番号 1537-0
部 門 考古
区 分 考古
部門番号 考351
https://www.narahaku.go.jp/collection/1537-0.html


文、图 bing

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