芥川龙之介《罗生门》讲义(五)转载&完结
一、正文
§「羅生門」と「高野聖」
極めて近代的な意匠をこらした「羅生門」を、それと一見対極にある小説と比べてみたい。それによって近代的なるものがより鮮明に照らし出されるのではないか。比較のために持ち出すのは、泉鏡花の「高野聖」である。芥川龍之介と泉鏡花は文学史的な位置づけも対照的といっていい。硯友社の中心作家、尾崎紅葉(一八六八―一九〇三)の死と入れ替わるかのように、紅葉より一歳年長の夏目漱石が小説を書き出し、江戸時代を引きずったかのような硯友社の文学とは対蹠的な新しい文学の潮流を作り出した。芥川はその漱石に連なる。一方、泉鏡花は尾崎紅葉の弟子として小説を書き始め、芥川が時代の表舞台で活躍している時期に、いわばその裏側でせっせと自分の小説世界を繰り広げていた。江戸の面影がのこる路地裏のひっそりとした住まいで火鉢に手をあてながら書き続けたかのように。まったくかけ離れるかに見える二人であるが、実は接点はあって、芥川は鏡花全集の賛辞を書いているし、芥川の葬儀の席では泉鏡花が真情あふれた、そして名文とはこういうものをいうのかとうなるような弔辞を読んでいる。芥川はこれもまた資質のうえでも文学のうえでも相い容れない志賀直哉を羨望していたとはよく言われるが、実は彼は泉鏡花に対してこそ自分には及びがたいという思いを抱いたのではなかったか。近代路線を疾走せざるをえなかった芥川にとって、黙々と前近代の小説を紡いでいる鏡花はまねたくてもまねられない存在だったと思われる。
「高野聖」は明治三三年(一九〇〇)に発表され、「羅生門」より十五年早い。どちらも二十代の時の作であり(泉鏡花は時に二十八歳)、二人にとって代表的な作品であるほかに共通する所はなく、むしろ差異ばかりが目立つ。何より大きな違いは、合理性の有無である。「羅生門」には元の話もそうであるが、非合理的な部分がまったくない。そのために、死者の髮を抜くという、その行為自体は恐ろしいものであっても、得体の知れないものに触れた空恐ろしさは感じられない。すべてが合理的に説明され、合理的に事が運ぶのである。一方、「高野聖」は非合理性が話の根幹を作っている。妖しい女の手に撫でられることによってそこに通りかかった人がみな動物に変えられてしまうのである。このありえない話を合理的に解釈することもできないわけではない。「上人」の話をすべて上人の作り話と解すれば、一気に合理的な物語に転じる。しかしそうしたら、物語のおもしろさも一気に消滅してしまう。読者は語り手の「私」と同じように上人の話を実際の体験として信じなければならない。つまり「高野聖」においては非合理性が物語の核心を作っている。近代小説はそれに先立つゴシックロマンスなどに濃厚な非合理性を排除したところに生まれたといっていい。非合理性を核とする「高野聖」はその意味でも前近代的な小説に属する。
物語の結構が前近代的であるのと呼応するかのように、「高野聖」はその文体も古風である。豊富な語彙がちりばめられているが、その多くは古めかしい。「辿り着いたのが名指の香取屋。」 のような体言止め、「ねぢねぢした厭な壮佼壮佼(わかもの)で。」のように文の末尾を省略してしまう言い方、いずれも近代以前の行文のなごりをとどめる。それに対して「羅生門」の文体は、百年近くを経た今読んでも古めかしさはほとんどない。そのまま通用するということは、見方を変えれば、芥川の文体以後、日本の小説の文体はそれによって確立した、それが定着して以後は大きな変化はない、と言うこともできる。
非合理の奇怪な内容、古風な文体、いずれも「高野聖」が前近代的な小説であることを示す顕著な特徴であるが、にもかかわらず決して色あせているわけではない。読者を引き込んで息もつがせずに読み耽らせてしまう小説の力をいまだに存分に備えているのは、何によるのだろうか。
それを解き明かすことは筆者の及ぶところでないが、その一つは物語を読み進ませる駆動力を備えていること。伏線を所々に設けながら、この先、何が起こるかに引かれ、最後に農夫が謎解きをするまで、読み手は作者の思うままに操られる。しかもそこに至る道筋で、読者は「頭身の毛も太る」 (「羅生門」のことば)ようなぞっとする怖さと、ぞくぞくする好奇心を持続できるのである。あるいは話を展開していくこうした牽引力は、近代小説では求めないもので、物語的な特徴であるともいえる。
二つは「高野聖」の個々の描写における鮮烈な印象。「羅生門」の方にも鴉が夕焼けの赤い空を背景に「胡麻をまいたように」 飛び回る光景、楼上に「黄いろい光」が「揺れながら映」 る光景など、ことに視覚的に鮮明な描写がある。「高野聖」の方は山中で木から落ちてくる「山海鼠山海鼠(やまなまこ)」と呼ぶほどに巨大なひるが体にまといつく、触覚に関わる描写がある。「羅生門」の視覚性優位に比べて、原初的な感覚である触覚を駆使することによって、「高野聖」では気味悪さが生々しく迫る。そして何より、山中の女の妖艶な姿態、彼女と夫婦関係にあることがほのめかされる痴呆の少年の異様な形象。自分の臍をいじるばかりで口もきけない異形の少年には、すさまじいばかりの印象を与えられる。
小説の語り口には「羅生門」にも「高野聖」にも工夫が凝らされている。しかしその工夫のありかたが同じでない。「羅生門」には時に故意に作者を登場させることで、一方的に説き進む物語的な話法から逸脱しようとしていたが、「高野聖」の仕掛けは語りが二重になっていることである。すなわち旅する「私」がたまたま同行した「旅僧」、すなわち「高野山に籍を置」いて各地を説教して歩く「高野聖」の体験談というかたちを取る。中心となる話はすべて旅僧の語ったことである。直接の話者とは別の人の語ったこととして叙述を展開するのは、唐代伝奇をはじめとして物語によく見られるが、しかし小説「高野聖」における語りの二重性は、伝統的なものというより、むしろ逆に近代的なものであるかも知れない。少なくともこの語りの装置によって、内容の非合理性にヴェールがかぶせられるのである。そして旅僧の語る話に引き込まれる「私」は、読者の立場を代行し、話を受け入れやすくしている。
「羅生門」は『今昔物語』の話を近代小説に仕立てるために、心の動きとテーマを加えたと先に記したが、「高野聖」には登場人物の心理描写も用意されたテーマもない。テーマを探そうという気にもならないほどに、物語自体のおもしろさに惹きつけられてしまうのである。こうして読者を魅了する「高野聖」を単なる物語に過ぎないとして遠ざける見方もありうるだろう。ただこの作品をカウンターパートに置くことによって、日本の近代小説の性格が照らし出されるのではないだろうか。近代文学に必要な心理描写、テーマをあえて加えない。この対蹠的な二作を並べてみると、心理描写、テーマを備えた近代文学とは異質の文学もありうることがわかり、近代文学への疑義が生じてしまうのである。
§「羅生門」と「野火」「ひかりごけ」
「羅生門」の話を煎じ詰めれば、老婆が屍体の髮を抜く、それを見た下人が老婆の服を剥ぎ取る、といういわば悪の連鎖である。いずれも自分が生きていくために他者の身体の一部、ないし身体に附随するものを奪う行為であり、それが連鎖することで「羅生門」が成立する。では他人の身体の一部を奪うことで生き延びようとする行為を突き詰めていくとどうなるか。他者の身体の一部を奪う行為の究極は、死者の肉体を食べること行き着く。自分の命をつなぐために人肉を食べるという、おぞましい行為である。その問題に向かい合った小説として、大岡昇平の「野火」と武田泰淳の「ひかりごけ」の二つを取り上げよう。いずれも戦後の作品であって「羅生門」と時代は隔たるが、題材の連続性という点で必ずしも唐突な比較ではないだろう。
「野火」は大岡昇平の戦争体験に基づいているが、もちろん小説のなかの「私」は作者自身ではなく、精神病院に入れられた元兵士の手記というかたちを取る。章の一つは「狂人日記」と題されているが、「狂人日記」といえばまずゴーゴリの小説があり、そこから題名を取った魯迅の小説「狂人日記」がある。魯迅の「狂人日記」は周知のように人を食う身内に囲まれ、自分も食われるのではないかとおののく男の恐怖が綴られ、「野火」と同じく食人肉のモチーフが中心となっている。共通するところはそれだけではなく、魯迅の「狂人日記」は友人の弟が病気の時に書いた日記を手に入れるという前書きがあり、大岡昇平の「野火」も初出では俘虜病院で知り合った肉を食べない奇妙な男に書かせた手記であるというかたちを取る。ただしのちにその冒頭部分は削って、末尾に主人公の男が精神病院で医師の勧めによって書いた手記であることが明らかにされる。つまり魯迅も大岡昇平もともに精神に異常をきたした男の綴ったものとして、合理的な枠組みを与えている。それは泉鏡花「高野聖」がやはり「私」が旅の僧から聞いた話とする結構をもつのと似通った工夫である。いわば異常な出来事に緩衝装置としての役割を果たしている。
魯迅と大岡昇平とはこのように共通するところがあるが、しかし魯迅の場合、人を食らうことは中国の旧社会が個人としての人間を抹殺することの隠喩であって、「野火」が戦争末期の極限状況のなかで人の肉を食べることを直接の問題としているのとは異なるので、魯迅についてはこれ以上に取り上げない。
「野火」は病気のために軍営から追い出され、かといって病院でも受け入れてもらえず、食料も尽きてあてもないまま南の島を歩き続ける「私」の物語である。彷徨の途中で瀕死の将校に出会う。将校は「俺が死んだら、ここを食べてもいいよ」といって、「私」に腕を見せる。彼がほどなく死ぬと、「私」はさんざん迷ったあげく、とうとう剣を抜いて死者の体に刃を入れようとする。
その時変なことが起った。剣を持った私の右の手首を、左の手が握ったのである。(『野火』・二十九・「手」)
そして「私」は突然、何者かの「声」を聞く。
「汝の右手のなすことを、左手をして知らしむる勿れ」(『野火』・二十九・「手」)
結局、「私」は死者の肉体を食べることを思いとどまる。「私」が聞いた声は神の声であるかのように書かれている。そこに至るまでも「私」は何度か神の声らしきものを聞くことがあり、また常に誰かに見られているような感覚を味わう。彼の行動を見ている存在とはこれも神であることが示唆される。しかしながら「私」はもともとのクリスチャンであるとは設定されておらず、最後に精神病院に入った「私」が医師に向かって「僕の神の観念は甚だ不完全なものですね」(『野火』・三十八・「再び野火に」) というように、かなり漠然としたものだ。それゆえ、彼が聞いたのは神の声というよりも、人の深層にある倫理観が神の声となって聞こえたと解することもできる。人肉を食らうという極限の悪に向かいかけたのを、自分のなかのもう一人の自分が押しとどめるのである。神の声か自分の判断かというところが、「野火」の記述は微妙で曖昧であるが、しかしもしいずれかに断定して書かれたとしたら、この小説はわかりやすいが底が浅いものになってしまう。神か人かという二項対立ではおさまらないところに、人が生きるうえで指針とする何者かの存在が示唆される。キリスト教における絶対的な存在である神に直結できないとすれば、「野火」は日本的な精神風土に基づいた小説と言えるかも知れない。
「羅生門」では盗人にならねば自分が餓死してしまうという二者択一に迷う下人のなかで、善と悪がせめぎ合う。決断がつかない下人に「勇気」を与えたのは、老婆が屍体の髮を自分が生きるために抜いているという行為を目睹したことであった。つまり自分自身での判断は停止して、他者の判断、行為によって決めたのだった。老婆が屍体の髮を抜くことで下人は自分が同じことをしても許容されるかに思ったのである。『今昔物語』の原話では、老婆の衣、屍体の衣、老婆が取った屍体の髮もすべてを持ち去るのに対して、「羅生門」では老婆の衣だけを剥ぎ取って逃げるのは、善悪に悩んだ下人の「良心」のなごりでもあるし、悪の連鎖が重なることなくつながることをあらわしてもいる。老婆の服を奪い盗人になる方向に進んだ下人と、死者の身体を食らうことをやめた「野火」の「私」とは、どちらも迷いながら反対の結果に向かう。「私」の方は自分自身の判断によったのだけれども、もしそこに人肉を食べているもう一人の男がいたとしたら、「私」も下人のように躊躇を振り切って同じことをした可能性もある。逆に老婆の行為を見た下人が老婆に対する「憎悪」をさらに燃え立たせて、盗人になるより餓死がましだと考える可能性も排除はできない。そのように考えれば、下人と「私」の結果の違いも紙一重のものということになる。
そして実際、一時は思いとどまった「私」も、ほかの二人の兵士と合流して彼らが猿の肉と称して、実は兵士を殺してその肉を食べているのを知ると、自分も気づかぬふりをしてその肉を食らう。最後にその仲間を撃ち殺したところで本人が書いた回想は終わっている。殺した仲間の肉は食べていないと「私」は思っている。
食人肉の事件に題材を取った小説に武田泰淳の「ひかりごけ」(一九五四年)がある。これも複雑な構成をもつ小説で、北海道を旅する「私」は村の「校長」に案内されてひかりごけを見に行く。そしてかつてその地に漂流した船長が仲間の屍体を食べて生き残った事件を聞かされる。「校長」はその異常なできごとをいとも軽々しく語るのだが、「私」は村の歴史を編纂した「S君」からさらに詳しく聞きただす。曖昧な記録しかのこらない事件に対して「S君」は小説のような推理を話す。そして最後には「私」がその事件をもとに作り上げた戯曲が置かれている。つまり語り手である「私」自身は、「野火」の「私」が人肉を食する当事者であるのと違って傍観者にすぎないが、羅臼を旅する自分、村の二人の相い異なる話、そして自分で書いた戯曲、それらから成り立つというように、構成がはなはだ入り組んでいる。穏やかな旅行者の見聞から書き出された小説が、最後に過激な内容の戯曲を置くのは木に竹を接いだかに思われるが、しかし作者の言わんとすることを述べるためにはこうしたかたちを取らざるをえない、苦心の末にたどりついた構成なのだと納得できる。
「ひかりごけ」とは羅臼の海に面した岩のくぼみに自生する苔の一種で、金緑色の光を発する天然記念物である。これを題名としているのは、人肉を食べた人間には首のうしろにひかりごけのような光の輪が浮かぶと言い伝えられていることによる。小説に付された戯曲は漂流した船員たちの飢餓を描く第一幕、一人生きのこった船長が裁かれる裁判の第二幕、その二つの幕から成る。裁判のなかで船長は人肉を食べた自分にだけはひかりごけのような光の輪が着いている、それが見えるはずだという。しかし検事にも弁護士にも裁判長にも傍聴する人々にもそれは見えない。逆に船長以外の人々の首にはみな光の輪が着いて、「おびただしき光の輪、密集してひしめく」(『ひかりごけ』第二幕・法廷の場) という書きで幕が下りる。
すなわち「ひかりごけ」では人肉を食べた行為を否定するのでなく、その人を裁く行為を糾弾しているのである。人肉を食べるという行為にはそうせざるをえない必然があり、それほどの状況に追い込まれたこともない人々が、法的に悪として裁くことの偽善ぶりを告発する。裁く人々こそ加害者なのだと言おうとしているかのようだ。
「野火」は死を覚悟するような状況で人肉を食べることへのためらいが、まわりの兵士たちがそれをしているのを見て、しだいに禁忌が薄れていき、自分も同じ行為をするに至るという経緯を描いている。食人肉を悪とすることは一貫していて、ただそれに対する罪悪感が希薄になっていくというにすぎない。「羅生門」も同じであって、下人が強奪の行為を悪とすることに変化はなく、悪と知りながらあえてするだけのことである。「羅生門」も「野火」も悪に手を染める立場だけが描かれる。それに対して「ひかりごけ」は彼らの行為を悪とみなし自分は善であると信じ込んでいる人たちに批判を向けるのである。そのように見てくると、「羅生門」と「野火」との連続性は、「ひかりごけ」によって途切れ、前二者にはなかった観点が導入されたということができる。このようにして人間の善悪をめぐる小説は新しい展開を迎えたのである。
二、中文翻译
§《罗生门》与《高野圣》
我想把极具近代匠心的《罗生门》与乍一看截然相反的小说进行比较。难道不是由此更鲜明地照出近代的东西吗?为了进行比较,我将泉镜花的《高野圣》拿出来。芥川龙之介和泉镜花在文学史上的地位也可以说是截然相反。与砚友社的核心作家尾崎红叶(1868—1903)的死相反,比红叶年长一岁的夏目漱石开始了小说创作,创造了与江户时代的砚友社文学截然相反的新文学潮流。了。芥川与漱石相连。另一方面,泉镜花作为尾崎红叶的弟子开始写小说,在芥川活跃于时代舞台的时期,泉镜花在其背后孜孜不倦地展开着自己的小说世界。就像在保留着江户风貌的小巷里的僻静住所,手放在火盆上继续写作一样。看似相去甚远的两个人,其实是有交集的,芥川写了镜花全集的赞词,在芥川的葬礼上,泉镜花读了充满真情的悼词,并感叹所谓名文就是这样的东西。看。人们常说芥川羡慕无论在资质上还是在文学上都不相匹配的志贺直哉,其实他对泉镜花才有自己难以企及的想法。对于不得不在近代路线上疾驰的芥川来说,默默谱写着前近代小说的镜花是想模仿也模仿不了的存在。
《高野圣》发表于明治33年(1900年),比《罗生门》早了十五年。都是二十多岁时的作品(泉镜花当时二十八岁),对两人来说,除了都是具有代表性的作品之外,没有什么共同之处,只有明显的差异。最大的差异在于合理性的有无。《罗生门》中没有任何不合理的地方,就像原来的故事一样。为此,死者的发拔的,其行为本身是可怕的,也难以捉摸的东西提到了空恐ろし是感觉不到。一切都能得到合理的解释,一切都能以合理的方式进行。而在《高野圣》中,非合理性构成了故事的基础。在妖女手的抚摸下,所有路过的人都变成了动物。也不是不能合理解释这个不可能的故事。如果把“上人”的故事全部理解为上人编造的故事,就会一下子转变成合理的故事。但这样一来,故事的趣味也会一下子消失殆尽。读者必须和讲述者“我”一样,相信上人的话作为实际体验。也就是说,在《高野圣》中,非合理性构成了故事的核心。近代小说可以说是在排除了哥特罗曼史等小说中浓厚的非合理性的基础上诞生的。以非合理性为核心的《高野圣》在这个意义上也属于前近代的小说。
与故事结构的前近代风格相呼应,《高野圣》的文体也是古风的。虽然有丰富的词汇,但其中很多都很陈旧。“终于来到了著名的香取屋。”之类的话语,“佼啊,佼啊,令人讨厌。”像这样省略文章末尾的说法,都保留着近代以前行文的痕迹。与此相对,《罗生门》的文体即使在近百年后的今天读来也几乎没有过时的感觉。如果换个角度来看,也可以说芥川的文体之后,日本小说的文体由此确立了下来,此后再无大的变化。
不合理的奇怪内容、古板的文体,这些都是体现《高野圣》是前近代小说的显著特征,但这并没有褪色。小说之所以能吸引读者,让人欲罢不能,至今仍充分具备这种力量,靠的是什么呢?
要弄清楚这一点,笔者是望尘莫及的,但其中之一就是具备让故事继续读下去的驱动力。在到处设置伏笔的同时,读者被接下来会发生的事情所牵着走,直到农夫最后解谜,读者都被作者的意志所操纵。而且,在到达这一阶段的过程中,读者还能保持“全身发福”(《罗生门》语)般的恐惧和强烈的好奇心。或者也可以说,展开故事的这种牵引力是近代小说所不追求的,是叙事性的特征。
二是对“高野圣”个人描写的鲜明印象。《罗生门》中也有乌鸦在红色晚霞的天空中“像撒了芝麻一样”飞来飞去的景象,楼上“黄光”“摇曳着”的景象等,在视觉上有特别鲜明的描写。《高野圣》则描写了在山中从树上掉下来的巨大的白昼,被称为“山鼠”,纠缠在身上,与触觉有关。与《罗生门》的视觉性优势相比,《高野圣》通过运用原始感觉——触觉,让人感到恐怖。更重要的是,山中女人妖艳的姿态,暗示与她有夫妻关系的痴呆少年的异样形象。这个只会玩弄自己肚脐、不会说话的异形少年,给人留下了极其可怕的印象。
在小说的叙述方式上,《罗生门》和《高野圣》都下了功夫。但其方法却不尽相同。《罗生门》有时会故意让作者登场,试图摆脱一味地讲述故事的叙事方式,而《高野圣》的手法则是双重叙事。即旅行中的“我”偶然同行的“旅僧”,即“在高野山定居”、在各地布道的“高野圣”的体验谈。中心故事都是旅僧说的话。以与直接叙述者不同的人的故事展开叙述,这在以唐代传奇为代表的故事中很常见,但小说《高野圣》中叙述者的双重性,与其说是传统的,不如说是近代的。也许吧。至少通过这个叙事装置,给内容的非合理性蒙上了一层面纱。而被旅僧讲述的故事所吸引的“我”,代替了读者的立场,使其更容易接受。
前面说过,《罗生门》为了将《今昔物语》的故事改编成近代小说,添加了心理活动和主题,而《高野圣》既没有登场人物的心理描写,也没有预设的主题。被故事本身的趣味所吸引,甚至不想去寻找主题。也有观点认为,吸引读者的“高野圣”只不过是一个故事而已。只是通过把这部作品放在柜台上,或许能折射出日本近代小说的性格。近代文学所必需的心理描写,不刻意添加主题。将这两篇截然相反的作品放在一起看,就会发现也有可能存在与近代文学具有心理描写和主题的不同性质的文学,从而对近代文学产生疑义。
§《罗生门》与《野火》《光之谷》
“罗生门”的故事,如果煎じ诘めれ老婆子,尸体发拔,看到它的仆人老婆子的衣服剥下来,采取的所谓邪恶的连锁。无论哪一种行为,都是自己为了生存而剥夺他人身体的一部分,甚至是身体附带的东西,在这种连锁反应的作用下,《罗生门》得以成立。那么,追究通过剥夺他人身体的一部分来苟延残喘的行为会怎样呢?剥夺他人身体一部分的行为,其终极结果就是吃死者的肉体。为了延续自己的生命而吃人肉,这是令人发指的行为。作为直面这个问题的小说,举大冈升平的《野火》和武田泰淳的《光之家》两篇吧。虽然都是战后的作品,与《罗生门》时代不同,但从题材的连续性来看,未必是唐突的比较。
《野火》基于大冈升平的战争体验,当然,小说中的“我”并非作者本人,而是一名被送进精神病院的退伍士兵的手记。其中一章的题目是《狂人日记》,说到《狂人日记》,首先想到的是果戈里的小说,然后是鲁迅的小说《狂人日记》。众所周知,鲁迅的《狂人日记》描写了一个男人被吃人的亲人包围,害怕自己也被吃掉的恐惧,和《野火》一样,以食人肉为中心。共同点还不止于此,鲁迅的《狂人日记》的序言是得到了朋友的弟弟生病时写的日记,大冈升平的《野火》也是在俘虏医院认识的一个不吃肉的奇怪男人写的手记。采取某种形式。只是后来删去了开头部分,在末尾明确写了这是男主人公在精神病院根据医生的建议写的手记。也就是说,鲁迅和大冈升平都认为这是一位精神失常的男子所写的作品,并给出了合理的框架。这与泉镜花的《高野圣》同样以“我”从旅僧那里听到的故事为结构,是相似的。也就是说,它对异常事件起到了缓冲的作用。
鲁迅和大冈升平有这样的共通之处,但在鲁迅那里,吃人是中国旧社会对个人的抹杀的隐喻,“野火”在战争末期的极限状况下吃人的肉这与鲁迅的直接问题有所不同,所以关于鲁迅就不再多谈了。
《野火》讲述的是“我”因病被赶出军营,医院也不接收,食物也用尽,漫无目的地在南方岛屿上行走的故事。彷徨途中遇到濒死的军官。军官说:“如果我死了,你可以吃这里。”并向“我”展示手臂。他死后,“我”犹豫再三,终于拔出剑,要将刀插入死者的身体。
这时发生了奇怪的事情。左手握住了我拿着剑的右手手腕。(《野火》·二十九·《手》)
然后“我”突然听到了什么人的“声音”。
“汝右手所为,勿使左手知也。”(《野火》·二十九·《手》)
最终,“我”打消了吃死者肉体的念头。“我”听到的声音被写得仿佛是神的声音。在此之前,“我”曾多次听到神的声音,并时常体会到被人注视的感觉。由此可见,看着他行动的人就是神。但是“我”并没有被设定为原本的基督教徒,最后进入精神病院的“我”对医生说:“我的神的观念非常不完整。”(《野火》·三十八·《再次成为野火》)就像这样,相当模糊。因此,与其说他听到的是神的声音,还不如说是人深层的伦理观成为神的声音。面对吃人肉这种极限的恶,自己心中的另一个自己阻止了。是神的声音还是自己的判断,《野火》的记述微妙而暧昧,但如果是凭什么断定写出来的,这部小说就会变得浅显易懂,但底子很浅。在不是神就是人的二元对立的情况下,还存在着某种人的生存指针。如果不能直接联系基督教中绝对存在的神,那么《野火》或许可以说是一部基于日本精神风土的小说。
在《罗生门》中,仆佣迷失在不做贼就会饿死自己的二选一中,善与恶相互斗争。无法决断家带来了“勇气”的老婆子,尸体的发为了生存超过自己目睹了事情的行为。也就是说,自己停止了判断,而是通过他人的判断和行为做出了决定。老婆子尸体的拔发,仆人自己做同样的事也