测试
~2敗目~ 全速力で後ろ向き
週が明け、月曜日の授業は1限から体育。しかも持久走だ。 学校の外周を走っていると、朝の冷たい空気が渇かわいた喉のどを刺してくる。 俺は早くも疲れて足を緩ゆるめた。
これを3周するのはキツイぞ。上う手まいこと周回遅れになって1周ごまかせないかな ……。 集団の後方をダラダラ走っていると、フッと ──夏の香りがした。 冬の路上ではありえない感覚。戸惑っている俺の隣に、小麦色の影
が並んだ。「ぬっくん、もうバテたの?」 ──焼やき塩しお檸檬れもん。 持久走と聞いてテンションがガン上がり。朝から体操服姿だった異
常者だ。 それを甘あま夏なつ先生に怒られて、教室で制服に着替え始めてやっぱり女
しか
友達に
られてた。「ほら、まだ1限だから体力を温存しないと。朝から持久走はキツくない?」「えー、朝から走れるなんて最高じゃん。ほら、もっとペース上げて!」 焼塩は俺の背後に回ると、背中をグイグイ押してくる。やめて。
「女子のコースはグラウンドだろ。どうして男子コースを走ってるんだよ」「とっくにゴールしたよ。物足りないから男子コース走らせてって先生に頼んだの」 相変わらず無駄に元気だ。
呆あきれつつも感心していると、焼やき塩しおが俺を押す手を緩ゆるめて身体からだを寄せ
てくる。「八や奈なちゃんに聞いたよ。妹さんに彼氏できたんだって?」
……八や奈な見みのやつ口が軽い。
「いやまだ疑惑の段階だって。俺に言わせれば観測されないうちは存在しないも同様だし、つまり妹に彼氏はいないと同義なんじゃないかと──」 いやこれ、走りながら話すのキツイな ……。 それ以上言葉が続かず息を切らせていると、焼塩が俺の前に回って顔をのぞきこんでくる。「ぬっくん、難しいこと言うね。つまり観測すれば妹さんに彼氏ができるってこと?」「彼氏が ……いるかどうか ……分かるって、とこかな」 切れ切れになんとか答えると、焼塩が当然とばかりに言う。「じゃあ、観測すればいいじゃん」 え? どういうことだ。 酸素の足りない脳で考えていると、焼塩が言葉を続ける。「追試の一環として『社会貢献活動』のレポート書かなくちゃいけなくてさ」
「テストに ……そんなの ……あったっけ ……?」「普通に追試しても追い付かないから、裏技的なアレなんだって。甘あま夏なつちゃんに『色々ヤバいから誰にも言うな』って釘くぎさされたから秘密だよ」 それ、俺にも言っちゃ駄だ目めなんじゃないかな ……。「それが ……なんの関係が?」「観測の話だって。桃もも園ぞの中の陸上部に、練習を見てくれって頼まれててさ。ちょうどいいから、それをレポートにしようかなって」 市立桃園中学校。俺と焼塩の母校で、佳か樹じゆが在学中だ。「つまり ……俺も ……」「そ、ついてきて彼氏さんの情報を探ればいいじゃん。妹さん、部活とかはしてないの?」「生徒 ……会……」 ヤバイ、そろそろ走りながら話すのは限界だ。 足元がおぼつかなくなってきたぞ ……。「へえ、妹さん生徒会に入ってるんだ。んじゃ、桃園中の先生に話しとくね!」 焼塩は俺の背中をバンと叩くと一気に足を速める。 見る間に遠ざかる背中を見ながら ──俺はあきらめて歩き始めた。
◇
その日の晩。俺は我が家のキッチンで鍋をかき混ぜていた。 両親と佳か樹じゆの帰りが遅くなるので、俺が夕飯を作ることになったのだ。 コンロのスイッチを切り、カレールーを割り入れる。 形を失っていくルーをぼんやり眺めていると、リビングの扉が開い
た。「お兄様、ただいまです」 寒さに頰ほおを赤くしながら、佳樹が部屋に入ってくる。「おかえり、今日は遅かったな」
「はい、卒業生を送り出す準備で生徒会の仕事が忙しくて」 佳樹はトテトテと近寄ってくると、俺の後ろから抱きついてくる。「こら、料理中にはやめなさい」「ダメです。佳樹のお兄様バッテリーが0%なんです」 そう言って背中に顔をギュッと押しつけてくる。 ……やれやれ、こんなところは変わらないな。 だけどこんな甘えん坊の佳樹が、俺に隠しゴトをするようになった。 いつかはこんな日が来るとは思っていたが ──。「はい充電完了、元気になりました。お兄様、今日はカレーですね」 佳樹は俺から身体からだを離すと、冷蔵庫を開ける。
「じゃあ佳樹がサラダを作りますね。豆とう苗、みようサラダで使っちゃいましょうか」 佳樹はいつも通りの明るさだ。 弱火でカレーをかき混ぜながら、俺はさりげない口調で話しかけ
る。
「あー、そういえば佳樹は生徒会の庶務だったよな」
「先月から副会長になりました。桃もも園ぞのは年明けから新しい任期が始まりますよね?」 ……そうだっけ。おぼろげな記憶を掘り起こしていると、佳樹がむくれ顔をする。「お兄様も去年まで桃園中だったじゃないですか。佳樹との甘い学園生活、もう忘れちゃったんですか?」 甘いというか、押しかけてくる佳樹から逃げ回っていた記憶ばかりあるのだが ……。
「いや俺、帰宅部で生徒会とは接点なかったし。佳樹が副会長なら、会長ってどんな人なんだ?」「同じクラスの河合かわい君という人です。お兄様、それがどうかしましたか」
「あ、いや、ちょっと気になって」 ……ふむ、会長が『橘君たちばな』ではなかったか。でも生徒会って他にも役員がいるよな。橘君が生徒会の可能性は残るが、クラスメイトの線も捨てきれないし ──。「お兄様、火を少し弱めた方がいいですよ」 忘れてた。俺はコンロを弱火にする。 鼻歌まじりにレタスを洗う佳か樹じゆの様子を横目でうかがう。「それじゃ生徒会の仕事で、しばらく帰りは遅いのか?」「今週いっぱいはそうですね。このくらいの時間になりそうです」「ふうん、そうか」 俺は鍋の底からゆっくりとカレーをかき混ぜる。
──明日の放課後、焼やき塩しおと一緒に桃もも園ぞの中学に行くことになった。
今日の佳樹の帰宅は7時前。 明日も同じくらいだと考えれば、充分に学校での佳樹を観察することができる。「……お兄様、ひょっとして佳樹が遅くてさびしいんですか?」「へ?」 佳樹はえへへと笑うと、俺の腕に頭をグリグリしてくる。「愛されすぎるのも困りものですね。佳樹もお兄様と会えなくてさみしいですよ?」「こら、料理中はグリグリ禁止だぞ」 ……まあ、あえて否定することもあるまい。
俺は隠し味に八はつ丁ちよう味み噌そを入れると、鍋のフタを閉じる。
明日の『観測』を気取られないようにいつも通り ──優しいお兄ちゃんを演じるのだ。
◇
翌日の放課後。俺は母校、桃園中学校のグラウンドにいた。 なつかしさに浸る暇もなく、焼塩の元気な声が辺りに響いた。「みんなー、元気してたー?」『してましたーっ!』 焼塩が拳を突き上げると、集まった女生徒の拳がそれに続く。 ──桃園中学女子陸上部。こいつら焼塩並みにテンション高い。
制服姿の生徒もいるのは、きっと引退した3年生だろう。
焼塩のやつ、ちゃんと人望あったんだな ……後輩たち全員面倒くさそうだけど ……。「やはり彼女の人柄ですね。焼塩さんは控えめに言って天使なんです」 俺の隣でオデコを光らせ、ウンウンと頷いうなずているのは朝あさ雲ぐも千ち早はや。
焼塩の想い人と結ばれた才女だが、今では焼塩と親友と言ってもいいくらい仲が良い。 ……それよりなんでここにいるのかな。この人、桃園中学出身じゃないはずだけど。「えーと、朝雲さん。聞きにくいんだけどなんでここに ──」 と、数十本の視線が俺に集まっているのに気付く。 陸上部の女子部員たちが、俺をジッと見つめているのだ、「え ……なに ……?」 怯おびえて後ずさる俺の耳に、キンキンとした声が飛びこんでくる。
「先輩、あの男の人だれですか?」「彼氏ですかーっ?」「ずるーい!」「細ーい!」
うわ、中学生ってこんなにうるさかったっけ。 助けを求めるように視線を送ると、焼やき塩しおはニヤリと笑って ──いきなり俺と腕を組んできた。「ちょっ ?!」 思わず逃げようとすると、焼塩はギュッと腕に力をこめてくる。
「えー、みんなどう思う? はい、正直なところ教えて!」
黄色い歓声がドッと上がる。
「彼氏だ彼氏!」「見せつけに来たんだーっ!」「いいなーっ!」「ずるーい!」
えぇ ……なんだこの展開。戸惑う俺に向かって焼塩はウィンクをして腕から離れる。「ざんねーん、彼氏じゃありません! 正解はぬっくんでした!」 なんだそれ。そんなオチ、いくら中学生でも通用しないぞ。
「ぬっくんコンチワー!」「ぬっくん彼女いますかー?」「勉強教えて!」「ぬっくん細ーい!」
笑いさざめきながら手を振ってくる女子部員たち。 通用してる。やっぱこいつら焼塩の後輩だ。 感情を殺して固まっていると、焼塩が一歩前に出る。「よし、じゃあさっそく走ろうか! みんな準備はできてる?」『できてまーす!』 やれやれ、ようやく練習が始まるのか。 段取りでは、練習中に頃合いを見計らって離脱することになっている。 さりげなく下がろうとした俺に向かって、バサリと焼塩のブレザーが降ってきた。
「……え? おい焼塩!」
俺が言うのも無理はない。焼塩はグラウンドの真ん中で、制服のリボンを外しだしたのだ。 制止を無視してリボンを外し終えると、素早くブラウスを脱ぎ捨てる。 その下には ──ツワブキ陸上部のユニフォーム。「ぬっくん、ちゃんと下に着てるって」 笑いながらスカートのファスナーに手をかける焼やき塩しお。
着てればいいってもんじゃない。 さすがに止めようとすると、朝あさ雲ぐもさんが俺の肩をトントン叩く。「そうだ、朝雲さんからもなにか言って ──」「はい、これも持ってください」 そう言って俺に焼塩のブラウスとリボンを渡してくる。「え、その」「では檸檬れもんさん、制服は畳んであちらに置いておきますね」 朝雲さんは焼塩が脱ぎ捨てたスカートを拾うと、校庭の隅に向かって歩き出す。「ありがとチハちゃん! さ、みんな気合入れてくよー!」『はーい!』 焼塩の服を抱えたまま立ち尽くしていると、朝雲さんがチョイチョイと俺を手招きする。 小走りで駆け寄ると、朝雲さんが悪戯いたずらっぽい笑みを向けてくる。
「温ぬく水みずさん。服を畳んだらこの場を離れましょう。大丈夫、みんな完
全に私たちのことは忘れてますから」
あ、そうか。このタイミングで抜けだせばいいのか。 じゃあ焼塩はこのために、わざわざ人前で服を ──いや、あれは天然だな。 ふと隣を見ると、朝雲さんは焼塩のスカートを手に、ニマニマと笑っている。「……朝雲さん、なんか嬉しそうだね」「だってこの学校って、光みつ希きさんの母校でしょう? 正直すごく楽しみなんです。この機会に光希さんの痕こん跡せきを隅々まで探しちゃおうか
と」 ウキウキと足を速める朝雲さんの後を追う。 一人で学校を調査するより、誰か一緒の方が心強いのは確かだ。 ただ、それはそれとして。
……なんでこの人ここにいるんだろ。
◇
二階の男子トイレから廊下の様子をうかがう。 人影がないことを確認すると、俺はホッとしながら足を踏み出した。 首元のホックを少し迷ってから外し、俺は大きく深呼吸をする。 そう、俺が身に着けているのはツワブキの制服ではない。 市立桃もも園ぞの中学の男子制服 ──いわゆる学ランだ。「すこし袖そでが短くなったかな ……」 木を隠すなら森の中。中学時代の制服を着て潜入調査を行うのだ。 焼やき塩しお発案なのが少々不安だが、目立たないのが信条の俺にとって悪くない作戦である。
……それはそうとまだかな。 俺は視線を女子トイレの入口に送る。 と、見計らったかのようにトイレから一人の女子が現れた。 ワンピースの制服に身を包んだその子は、俺の前でクルリと回る。「どうですか? なんだか少し照れますね」 桃もも園ぞの中学の女子制服姿で現れたのは朝あさ雲ぐもさんだ。
「うん、大丈夫。中学生で全然通用するよ」「あら、ありがとうございます。 ……でもそれ、誉め言葉ではないですよ?」 オデコをキラリと光らせ、含みのある笑顔を向けてくる。 そうなのか。女性は若く見られると喜ぶって書いてあったのに、ネットもあてにならないな。「檸檬れもんさんの制服なので、少し裾すそが長いですね。ほら、袖も余ってま
す」 朝雲さんは両手を前に伸ばして袖をつかむ。「あー、でも普通にしてたら分からないって」 ……でもブカブカの袖ってなんかいいよな。 文芸部にも一人ブカブカ系女子がいるが、あれはなんか違うし。 浮かれ気味の朝雲さんは胸の前で両の拳をグッと握る。
「さあ、さっそく探検を始めましょう。3年4組の教室ってどこです
か?」
「え? 俺の妹、2年生だけど」「光みつ希きさんのいた教室です。せっかくの機会なので、自分の彼氏のことをもっと知ろうかと」 この人なにしに来たんだ。つーかそもそもなんでいるんだ。「俺は2組だったからよく分かんないって」 いや待て、2組だったのは2年生の時だったかな ……。「では3年生の教室はどこですか?」「さあ。三階 ──いや、新校舎だったかな。ここって旧校舎だっけ?」「……温ぬく水みずさん、本当にこの学校に通っていました?」
失礼な。ちょっと中学時代の記憶が曖あい昧まいなだけです。 朝雲さんは気を取り直して廊下の先を指さした。「それでは行ってみましょう。二階が1年生の教室なので、順番的に3年生は四階ではないでしょうか」 朝雲さんはトトト、と滑るような足取りで階段に向かう。「いいけど、この格好で知り合いに会ったら気まずいな」
「知り合い、いるんですか?」「いないけど?」 朝あさ雲ぐもさんは無言で頷くうなずと、軽やかに階段を上っていく。 彼女を追って階段を上る。
三階を通りすぎて四階が近付くと、なつかしさと違和感の入り混じった感覚が俺を包む。 記憶が俺の脳裏でゆるやかに形をとっていく。
毎朝、ずっとうつむいて上った階段。
1年間めくれたままだった7段目の滑り止めは、今では綺き麗れいに補修されている。 軽く息を切らせながら四階に上がると、誰もいない長い廊下を眺め
る。 夕方の弱々しい陽の光が廊下を照らしている。 まだ一年も経たっていないのに、スマホの画面越しに見ているような不思議な気分だ。「この奥が光みつ希きさんがいた教室ですね。ちょっと見てきます」 朝雲さんは瞳とオデコを輝かせ、俺を置いて走り出す。
俺はゆるゆると廊下を進み、3年2組と書かれた部屋札の下で立ち止まる。 ──ここが俺のいた教室だ。 しばらく感傷に浸っていた俺の耳に、遠くから階段を上る音が聞こえてきた。 こんなところに立っていると目につくな ……。 中に誰もいないのを確認してから、逃げこむように教室に入る。 窓際の後ろから3番目が俺の席だった。 少しためらってから椅子に座る。窓の外に見える市役所の庁舎は変わらないけど、あのころは普通に使っていた机が小さく感じる。「まだ一年も経ってないんだよな ……」 当時から、ここが自分の居場所でないようなそんな気がしていた。 いつも窓の外を眺めていて、クラスの連中がグラウンドの見知らぬやつらと同じくらい遠く感じていた ──。 ◇ ◇ ◇ ◇
市立桃もも園ぞの中学3年2組、温ぬく水みず和かず彦ひこ。
コードネーム
これがいまの俺に与えられている仮名だ。 中学生という立場も所しよ詮せん、3月までの仮かり初そめの姿にすぎない。 だから友達がいないことを少しも気にする必要はない。ないのだ。 俺は休み時間の教室で片かた肘ひじをつき、図書室で借りた本を開く。 最近はまっている『瑠璃色の王国』シリーズは、中華風の異世界に飛ばされた女子高生、涼子の冒険物語だ。 7巻から始まった第2部は、涼子が敵国の皇帝に求婚されるという急展開。正直、先が気になって仕方ない。 ……涼子のやつ、ミステリアスなイケメン皇帝に優しくされたからってトキメキやがって。国で待ってるツンデレな堅物将軍のことは忘れたのか? ジリジリしながらページをめくった瞬間、隣の席から響いてきた声が俺の手を止めた。「ホントだって! こう、くるくるって五回転くらいしたんだよ!」 明るい声の主は、クラスメイトの焼やき塩しお檸檬れもん。 日焼けした長い手足でポーズをとりながら、バレエのようにくるりと回る。 と、勢いをつけすぎた焼塩が俺の机にドシンとぶつかった。
「あちゃ、ごめんね!」
「え、いや、大丈夫 ……」 俺は本を閉じながらモソモソと呟くつぶや。「もー、なにやってんのさ檸檬」「ほら、こっち座って」「え、でも ──」 焼塩が申し訳なさそうな視線を向けてくるが、正直放っておいてもらいたい。俺はあくまでクラスの背景でいたいのだ。「ホントにごめんね」 焼塩は手を合わせて謝ると、自分の席に戻る。 さあ、読書を再開しよう。再び本を開くが、なんとなく集中できない。 ──焼塩檸檬。確か陸上部のキャプテンで、朝礼でよく表彰されているよな。 スポーツ万能で人気者。しかも可か愛わいい。 俺とは対極、この先も決して交わることのない相手だ。 ……それはそうと、ふざけて回ってた焼塩の姿、なにかを思い出すな。 日焼けした顔。桃もも園ぞの中の制服は独特のラインをしたワンピースで ──。「可愛いエリンギってところか」 思わず呟いた俺が顔を上げると、そこにはエリンギ ──ではなく、焼塩の顔。「エリンギ?」
「へっ ?! いや、あの」 言葉の出ない俺の手元を焼塩がのぞきこむ。「温ぬく水みずって本読むんだね。なに読んでんの?」
「えっ? あの、図書室で ──」「おーい、檸檬れもん。先行くよー」 ようやく言いかけた言葉を女子の声が塗りつぶす。「あたしもすぐ行くー! 温ぬく水みず、邪魔してごめんね!」「え、あ、はい」 ……あいつ、俺の名前知ってたんだな。 焼やき塩しおが風のように去ると、教室はすっかり静かになった。 さあこれで読書に集中できるぞ、涼子と大陸の平和を賭けた一戦が始まるのだ。 …… ………… ………………それにしても静かだな。 本から視線をあげると、教室には俺一人。「あ、次って音楽じゃん」 俺はカバンからリコーダーを取り出すと、急ぎ足で音楽室に向かった──。
◇ ◇ ◇ ◇
追憶にひたりながら教室を見まわす。 結局卒業まで窓の外と小説と教科書と。それだけを見て過ごしていた。
特に後悔はしていないが、高校生になった今はなんとなく分かる。 好きだったにせよそうでないにせよ、確かにここは俺の居場所だった。 いまの居場所は ──少しばかりにぎやかで。昔の俺なら逃げ出していたに違いない。 苦笑いしながら窓の外を眺めると、グラウンドに女子陸上部の姿はない。 あれ、学校の外にでも走りに行ったのかな。「焼塩、お願いだから問題だけは起こさないでくれよ ……」「呼んだ?」 っ ?! いつの間に来たのか。隣の椅子を引きながら、座ってきたのは焼塩だ。 いかにも寒そうなユニフォーム姿にもかかわらず、汗で軽く湯気が上がっている。「いやー、走った走った。後輩たちもなかなかのもんだね、安心したよ」「えっと、なんでここにいるんだ。陸上部の方はもういいのか」「みんなで鬼ごっこしてんの。あたしを捕まえたら、ジュース奢おごって
あげるって」「……校舎の中で?」 さっそく問題起こしてやがる。 焼塩は掌でてのひらパタパタと顔をあおぎながら、黒板を眺める。
「やっぱこの角度だ。ねえ、あたしこの席だったよね?」
「いや ……そうかな」
俺は思わず言葉をにごす。 ろくに接点もなかった女子の席を覚えてるとか、なんかキモがられそうだし。「ほら、覚えてるでしょ。ぬっくん、隣の席だったし」「え、俺のこと認識してたんだ」「当たり前じゃん。誰とも話さずに本読んでるし、なんだろこの人って思ってたから」 ……うんまあ、異論はない。「じゃあ俺は、いつも一人で本読んでる人って印象だったのか」「それだけじゃない気がするな。えーと ……」 焼やき塩しおは腕組みをして考えこむ。と、なにかを思い出したのかポンと
手を叩く。「あ! ぬっくんってストーカーしてたでしょ!」 っ ?! 突然なに言いだした。「いやいや、そんなことしてないって!」「あれ、ぬっくんがされてた方か。ごめんごめん」 ひどい誤解だ。 ……え?「俺にストーカーいたの? 初耳なんだけど」「ほら、小柄で長い髪の可か愛わいい子。心当たりある?」
……心当たりがありすぎる。俺は平静を装いながらたずねる。「その子、そんなにいつもいたのか?」「休み時間は大抵いたよ。たまに授業中にも」 マジか。全然気付かなかった。
「いやー、あれは愛が深いよね。ぬっくん、家まで来たりしなかっ
た?」 毎日来てたし、なんなら一緒に住んでた。「……多分それ俺の妹だと思う」 俺の告白に、さすがの焼塩も顔を曇らせる。「なんで妹さんがストーカーやってんのさ」 なんでだろ。俺にも分からん。「ストーカーでも、妹は健全な方のストーカーだから大丈夫だって」「へえ、そういうのあるんだ」 ……ごめん、無い。焼塩の澄んだ瞳にさすがの俺も心が痛い。「妹とはツワブキ祭の準備で会ったことあるだろ。教室に来たじゃん」「そういやそうだっけ。ぬっくんのストーカー、確かにあの子だ」 と、なにかに気付いたようにジッと俺を見つめてくる。「なに?」「じゃあ今日はぬっくんがストーカーだね」 ……否定はできない。 だがしかし。これは妹を守るためにやむを得ないことで、いわば正義のストーカーだ。「ていうか座ってる場合じゃないな。焼やき塩しおも鬼ごっこ中だろ?」
焼塩が答えるより先、教室の入口に体操服姿の女子が現れた。
「先輩はっけーん!」「おーい、ここいたよー!」「なんかイチャイチャしてるーっ!」
焼塩は弾かれるように立ち上がる。「ヤバッ! じゃ、ぬっくん後でね!」 まだ塞ふさがれてない教室後ろ側の扉から、素早く逃げ出す。
それを追いかける陸上部員を見送ると、俺はゆっくり立ち上がる。 ──味のしない記憶を嚙かみしめてる場合じゃない。そろそろ調査を始めないと。 朝あさ雲ぐもさんとは合流した方がいいのかな。
でもあの人って隠おん密みつ行動苦手だし、むしろ一人の方が ……。
その考えを見抜いたかのように、教室の入口から朝雲さんがヒョコリと顔を出す。「温ぬく水みずさん、なんかイチャイチャしてましたー」「朝雲さんまでイジるのは止やめて?」「あら、イジってるんじゃないですよ。さあ、情報は入手しました。
さっそく行きましょう」 朝雲さんに手招きされるまま、廊下を歩く。「えーと、どこに向かってるの」「邪魔しちゃ悪いと思って校内を歩いていたのですが。運よく図書室にたどりつきまして」「あそこ夕方は司書の先生がいるだろ。大丈夫だった?」「はい、すっかり仲良くなりました。学校案内やクラス報、部活案内なんかを紹介してもらって ──全校生徒をチェック済です」 はい? この人なんか変なこと言ったぞ。階段を下り始めた朝雲さ
んを追う。
「えっと、すでに全校生徒をチェックしたの? これだけの時間で?」「ええ、ちょっとしたコツがあるんです」 朝雲さんは広いオデコをチョンとつつく。「必要なページを映像で覚えてから、頭の中でゆっくり読み返すんです。それなら滞在時間も最小限で済みますから」 なるほど。理屈は分かるがワケ分からん。朝雲さん、本当に人間か。 朝雲さんは引き気味の俺に向かってニコリと微笑ほほえむ。
「妹さんと橘さたちばなんの仲を調べているんですよね? この学校に橘姓の生徒は一人だけ。もちろん先生にも職員にも該当者はいません」 階段を下り切った朝あさ雲ぐもさんがクルリと振り返ると、ワンピースの裾すそがフワリと揺れる。
「──2年4組、橘たちばな聡。さとし園芸部所属の男子生徒です」
◇
園芸部の部室は校舎裏にあるらしい。 らしい、というのは俺が園芸部の存在を知ったのはこれが初めてで、すでに校内見取り図も把は握あくした朝雲さんの方が桃もも園ぞの中に関して知識が多い。
……もう俺の代わりにこの人が卒業生でよいのではなかろうか。
朝雲さんはすれ違う3年生に軽く会え釈をしやくしながら、俺と並んで廊下を進む。「ここの図書室は立派でしたね。ツワブキより広いんじゃありませんか?」「改修の時になんかの部屋と統合したんだ。ついでになんかの実証校
になったから、なんかあんなに広くなったんだって」 我ながらな.ん.か.が多い。 朝雲さんは足をとめると、廊下の窓から外を眺める。
「あそこが園芸部の畑ですね。ほら、温室の隣です」 視線を追うと、そこには教室の半分ほどの広さの畑。横には温室も建っている。 畑には青いジャージ姿の男子生徒が一人いて、両腕に抱えた袋から白い粉をまいている。「あの子が橘君ですね。今年度の部活紹介に写真が出ていました」 ──彼が橘君か。俺の喉のどがゴクリと鳴る。
背は同年代の中でも低めに見える。 中学生らしい華きや奢しやな身体からだ。切れ長の瞳で顔立ちは悪くない。
さわやかさに加えて、どことなく艶っぽい雰囲気も漂っている少年だ。 ……なんかわりとモテそうな感じだな。 モテ男にロクなやつはいない(偏見)。ここはキッチリ彼の本性を暴く必要がある。「じゃあ行きますよ、温ぬく水みずさん」
「え、ちょっと」
朝雲さんは校舎から外に出ると、迷いのない足取りで橘君に向かっ
た。 俺も少し迷ってから彼女を追う。「こんにちは、少しよろしいですか」「はい、なんですか」 顔を上げた橘少年に向かって、朝雲さんは両手を胸に当てながら軽く一礼。「私たち、1年の渡わた辺なべといいます。突然ですが園芸部を見学させても
らいたくて」
.
?! 俺たちが中学1年生ってさすがに無理があるだろ。それと、私た.ち.? 頭上にはてなマークを浮かべていると、朝あさ雲ぐもさんが悪戯いたずらっぽい流し目を送ってくる。「私とこの人は二卵性双生児の双子なんです。ね、カズ君?」「へ? そ、そうだね姉さん」 待て、なんでそんな複雑な設定を導入した。 ぎこちなく頷くうなず俺を不思議そうに見ながら、橘少たちばな年は抱えた袋を地面に下ろす。「ああ、見学なら大歓迎だよ。俺は2年の橘。二人とも園芸に興味があるのかい?」「はい、昔から興味があって。先輩、いまはなにをなさっているんですか?」 朝雲さんは橘少年の足元をのぞきこむ。「キャベツを植える準備をしてるんだ。温室に育てた苗があるから見
てみるかい」
「はい、喜んで」 足取り軽く温室に向かう橘少年。その後に続こうとした朝雲さんの腕をつかむ。「ちょっと朝雲さん。なんで双子とか言い出したの?」「一年生に渡辺姓は六人いるので、特定されにくいかなって」「だからって双子はないだろ。かえって疑われるじゃん」「じゃあ許いい嫁っなずけてことにしますか? ラブコメみたいでワクワクし
ますね、カズ君」 ……朝雲さん、この状況面白がってるな。 温室に入ると、中は八畳ほどの広さで綺き麗れいに整頓されている。
「種から苗を育ててるんだけど、最後の間引きをするとこなんだ」 橘少年は嬉しそうな表情で、中央の大きな作業台を指差した。 一抱えほどのトレイの中に小さなポットが詰まっている。 ポットとは要はビニール製のミニ植木鉢で、これで苗を育ててから地面に植えるのだ。中には数枚の葉が付いた芽がいくつか生えている。 朝雲さんが目を輝かせながらのぞきこむ。「間引きってことは葉を抜くんですか?」「ああ、一番大きいのを残して他の芽を全部抜くんだよ。君たちもやってみる?」「はい、喜んで」 嬉々として作業を始める朝雲さん。「朝 ──姉さん、こういうの興味あったんだ」
「だって実践には書籍だけでは得られない知識があるんだよ。例えば一番大きい芽と言っても、高さ、茎の太さ、葉の広さ ──色々な要素があるでしょ? カズ君も頭で考えるだけじゃなくて、手を動かさないと」 朝雲姉さん、口調まで変わってるぞ。 ぼんやり突っ立つ俺に向かって、橘少たちばな年が優しく話しかけてく
る。「弟さんだよね。良ければ少し手伝ってくれないかな」 ……あれ、高校生が中学生に気を遣われてるぞ。「あ、はい。なにをすればいいですか」「こっちの列の間引きをしてくれる? ゆっくりでいいから」 えーと、ポットに生えてる芽の中で一番大きなのを抜くんだよな。 こっち ──いや、こっちかな。でもこれの方が葉っぱが立派だな……。「そんなに迷わなくても、君の感覚で構わないよ」「でもほら、抜くのを間違えたら枯れたりしませんか?」 橘少年がクスリと笑う。「君が自分で選んだのなら間違いじゃないんだ。部活動だし、どう育ってもそれも経験のうちだから大丈夫」 ……なんかこの人、俺より大人じゃないか? 少なくとも八や奈な見みよ
りは精神年齢が上だ。 三人で黙々と作業を続けて10分ほど経たったころ。朝あさ雲ぐもさんがいい
笑顔でオデコの汗を拭ぬぐう。「ふう ……先輩、こちらは大体終わりました」
「こっちも終わったよ。弟さんも ──うん、まあ大丈夫」
大丈夫じゃない時の言い方をされた。 橘少年は苗のトレイを棚に上げると、パンパンと手をはらう。「来週、苗を植えるからぜひ来てよ。二人は何組なの?」「へ?」 ……ヤバイ、そこの設定は詰めていなかったぞ。 言葉に詰まる俺に、腕をからめてくる朝雲さん。「カズ君、そろそろ先生のところに行く時間だよ。すいませんが先
輩、私たちこれでお暇しいとまますね」「あ、そうなんだ。放課後は毎日誰かいるから、いつでも来てね」 橘少年は屈託のない笑顔を向けてくる。「ええ、また来ます。カズ君もちゃんとお礼を言おうね」「あ、はい。ありがとうございました」 俺たちは深々と頭を下げると、足早に園芸部の農園を去る。背中に視線を感じながら校舎の中に入ると、俺は大きく息をつきながら朝雲さんの腕から抜け出す。
「さっきの不自然じゃなかったか? クラスを聞かれて急に出ていくとか」「ですけど仕方ありません。実は檸檬れもんさんから連絡がありまして」 焼やき塩しおから連絡? そんなのいつ ──。 朝雲さんはニマリと笑うと俺に手を突き出してくる。
「じゃーん。お姉ちゃんはスマートウォッチを導入しました」 スマートウォッチ。確かスマホと連動して色々できる腕時計だよな。 突き出された画面には焼やき塩しおから届いた謎のメッセージが表示されている。
『カテゴリーS 接近中』
……なにこれ。眉をひそめる俺の顔の前でチッチッチと指を振る朝あさ雲ぐもさん。
「カズ君、檸檬れもんさんはやみくもに走り回っているように見えて、実はターゲットを探して校舎を探索しているんだよ」 カテゴリーSのターゲット ──つまりシスターの『S』ってことか。「え、佳か樹じゆがここに向かってるなら早く離れないと」
振り向いて走り出そうとした俺は、目の前の人影にぶつかりそうになる。「うわ、ごめん! 急いでて」「いえ、こちらこそ。大丈夫ですか?」 反対に謝ってきたのは、肩にクワを担かついだ背の高い女生徒だ。
その顔はどこかで見たことが ──。
「ゴンちゃーん! どこですかー」「っ!!!」 聞き覚えのあるこの声はいうまでもない。 俺は朝あさ雲ぐもさんの手をつかんで、慌ててその場を離れる。
廊下を曲がって物陰から様子をうかがっていると、俺たちが来た方に向かって小柄な女生徒が駆けていく。 艶やかな長い黒髪。整った小さな顔に細い手足。トテトテ走る小さな歩幅。 言うまでもなく ──佳か樹じゆだ。
「ヌクちゃんか。どうしたん?」「先生からゴンちゃんが園芸部に向かってると聞いたから」 かすかに聞こえてくる話し声。 俺はギリギリまで身を乗り出して耳を澄ます。「注文してた新しいクワが届いたから、聡にさとし渡そうと思ったじゃん
ね」「そうなんだ。佳樹も橘君たちばなに用があるから一緒に行ってもいい?」「いいけど、ヌクちゃんがなんの用だかん?」「14日の予定を打ち合わせようかと思って。教室じゃちょっと、ね?」 やはり ──バレンタインの日、二人は会うのか。 しかも教室では話せない内容だと ……? ゴンちゃん断れ。すぐ断れ。「……ふうん。ほいじゃ、ついでに私のクワも渡しといてくれん?」
「あれれ、橘君に会わなくていいの?」
「構わんでね。ほいじゃこれ、お願い」「はい、分かったよ。佳樹にお任せあれ」 俺の祈りもむなしく、佳樹と橘少年が二人きりになる流れだ。 ゴンちゃんは佳樹が来た方に去っていく。 ……しばらく様子をうかがってから廊下をのぞくと、そこに佳樹の姿はない。 佳樹の後を追うべきか。だけど園芸部の畑の周りには身を隠す場所がない。 会話を聞ける距離にまで近付くのは無理だよな ……。 そんなことを考えていると、朝雲さんがゆらりと首を傾かしげる。
「カズ君、さっきの背が高い女の子は妹さんの知り合いなの?」「えーと、確か佳樹の友達で何度か家に遊びに ──その設定まだ続く?」「わりと気に入ってたんですが。さて、ちょっとチューニングしますね」 ……チューニング? 朝雲さんは瞳を輝かせ、スマートウォッチをいじりだす。「待って、ひょっとして園芸部になにか仕掛けてきたの? GPSはもう使わないって約束したはずじゃ」「はい、私は反省しました。GPSを仕掛けるなんて人の尊厳を踏みにじる行為です。決して許してはいけません」 うん、その通りだ。良く分かってる。「じゃあどうして」
「温ぬく水みずさん。いまの私たちの会話が誰かに聞かれていたとして、その
人を責めることはできますか?」 ……え? 俺は思わず辺りを見回す。 ガランとした廊下には人ひと気けはなく、遠くから運動部の掛け声が響いてくるばかりだ。
「いやまあ、廊下なんだし聞かれても仕方ないかと」 朝あさ雲ぐもさんは力強く頷くうなず。
「はい、その通りです。例えば建物の外観を自由に見られるように、公共の場で話している内容を聞いてしまっても咎とがめられることはないのです」 なるほど ……? なんかそんな気がしてきた。「えーとつまり、GPSはダメだから盗聴器を仕掛けてきたと」 朝雲さんはゆっくり首を横に振る。「人は言葉に引きずられる生き物です。盗聴器ではなくスマートバグ ──私はそう呼んでます」 なにそれ、カッコいいじゃん。「つまり二人の会話を聞くのは倫理的に問題がない ……そういうことだね」「はい、そういうことです」「そういうことなら仕方ない。でも他の人に言っちゃダメだよ?」「分かりました。二人だけの秘密です」 チューニングが済んだスマートウォッチに二人で耳を寄せる。
『────よ──から ────これなら ──』
雑音にまぎれて途切れ途切れに聞こえる声は ──橘少たちばな年だ。 俺と朝雲さんは耳を寄せた態勢のまま、すり足で窓際に移動する。 耳みみ障ざわりな雑音が溶けるように消える。
『──じゃあ予定通りでいいですか?』
聞こえてきたのは間違いない、佳か樹じゆの声だ。俺は思わず息をのむ。
『ああ、それでお願いするよ。悪いね、わざわざ園芸部まで来てもらって』『佳樹なら構いません。こんな話、人前では照れちゃいますし』
人前だと照れるような話をしていた ……? いや待て、恥ずかしい話といっても恋愛トークとは限らない。俺だって中学生で、先生を『お母さん』と呼んだことあるし。 混乱した俺の脳みそは、続く会話に完全に焼かれることになる。
『ええと、君のお兄さんにこの話は ──』『ふふっ ……14日のことは、お兄様には内緒ですよ?』
はっ ?! 俺に内緒で恥ずかしい話っ ?!「お兄ちゃんそういうのは認めないんだけど!」 俺が声を上げると、朝あさ雲ぐもさんが驚いた顔をする。
「温ぬく水みずさん、あちらには声は聞こえませんよ?」「そっか、じゃあ直接行って ──」
「それだと見つかってしまいますが、いいんですか?」 良くないし、落ち着いて考えよう。俺は手を胸に当てて深呼吸。 ……佳か樹じゆは橘少たちばな年とバレンタインデー当日の話をしに来たのだ。
ちょっとそれが人には聞かせられない恥ずかしい話で、俺にも内緒だというだけで ──。「いやそれはおかしい。朝雲さんもそう思わない?」「さっきからおかしいのは温水さんだけです」 そうかもしれんが膝の震えが止まらない。 いまの会話を聞く限り、二人はずいぶんと親密なようだ。付き合っているかどうかまでは分からないが、佳樹を好きにならない男子などこの世にいるはずがない ──。「つまり彼が俺の弟になる ……お兄ちゃんがお義兄にいちゃんに ……?」
「はい、いったんストップです」 血の気が引いた俺の頰ほおを、朝雲さんが両手で挟みこんでくる。「え、ストップって ──」「はい、大きく息を吸ってー」「あ、はい」 俺は大きく息を吸う。「次は吐いて吐いてー」 続いて二回に分けて息を吐く。それを3度ほど繰り返すと、ようやく少し落ち着いてきた。「いいですか、妹さんたちは少しイチャイチャしただけです。そのく
らい、お姉ちゃんともするでしょ?」
「いや、したことないけど」 それにお姉ちゃん違う。「じゃあ後でしてあげるね。さ、カズ君。檸檬れもんさんと合流して帰ろっ
か。はい、制服はちゃんと着ましょう」 朝あさ雲ぐもさんは俺の首元に手を伸ばすと、制服のホックをはめ直す。 あれ ……本当にお姉ちゃん ……? お姉ちゃんだっけ ……俺はカズ君……カズ君かも ……。 ボンヤリと目の前のオデコを眺めていると、廊下を小柄な女生徒が通りかかる。 と、女生徒は足を止めて、信じられないとばかりに目を丸くした。「あれ? あれれれれ?」 女生徒は俺の手をつかんでピョンピョンと飛び跳ねる。「きゃーっ! お兄様 ?! どうしたんですか ?! ひょっとして中学に入り直したんですか ?!」 お兄様 ……あれ、そうか ……俺には妹がいる ……これが ……妹……?「ひょっとして佳か樹じゆか……?」 ようやく正気を取り戻した俺に、佳樹がぐいぐいと迫ってくる。「うわ、うわわ! やっぱり学生服のお兄様も素敵です! すいません、一緒の写真を ──」 スマホを取り出した佳樹は、大きな目をパチクリさせる。「あれ? 前に佳樹の家でお会いした朝雲さん、ですよね? どうしてうちの制服を」
朝雲さんはニコリと微笑ほほえむ。「ご無沙汰してます。今日は私、カズ君のお姉ちゃんをさせてもらってます」 ……待って、話を複雑にしないで? お姉ちゃんという単語を聞いた途端、佳樹の瞳に怪しい光がともる。「お兄様のお姉ちゃん ……? ズルい! 佳樹もお姉ちゃんしたいです!」 ほら、言わんこっちゃない。すっかり興奮した佳樹が俺の手をブンブン振り回す。「いや、ちょっと落ち着こうか」「無理です! お姉ちゃんならカズ君にご飯食べさせてお着替え手伝って、お背中流して添い寝して ──ああもう、一日が足りません!」 普通のお姉ちゃんはそんなことしない。 そしてやりたがってることはいつもの佳樹と変わらない。「よし、分かったからいったん止まろう。はい佳樹、俺の指を見てー」 俺は両手の人差し指を立てる。「2本の指が追いかけっこをしてますねー。こっちの指が近付いて、こっちの指にタッチしました。次はこっちの指がー」
「追いかけてー、タッチしまーす ……」 指を目で追っていた佳樹はようやく我にかえったのか。 真面目な顔に戻ると、コホンと咳せき払ばらい。
「少し落ち着いたか?」
「……はい。それではお兄様、これはどういうことか説明して頂けますか?」「え? ええと ……」 しまった。落ち着いたらこうなるに決まっている。 助けを求めて視線を送ると、朝あさ雲ぐもさんはコクリと頷いうなずて一歩前に出
る。 よし、期待してるぞお姉ちゃん。「佳か樹じゆさん。私と和かず彦ひこさんがこんな格好でここにいるのは ──」
「いるのは?」「──プレイです」「「にゃっ ?!」」 いきなり期待を裏切られた。「昔の制服を着て母校に侵入し、姉弟ごっこをする高校生男女 ──そんなのフシダラな遊戯に興じているに決まっています。決して潜入調査とか、そんな大それたことは考えていません!」 一気に言い切った朝雲さんは、ドヤ顔で俺に流し目を送ってくる。 えぇ ……この人的にはこれが正解なのか。ごまかすにしてもヒドすぎる。 しばらく口をパクパクさせていた佳樹は、もう一度咳せき払ばらいをすると
平静を装って話し出す。「で、では一緒に来てください。生徒指導の先生に身柄を引き渡します」 朝雲さんが不思議そうに首を傾かしげる。
「あら、私たちなにかを探りに来たんじゃありませんよ? ただのプ
レイです」 ……もうやめて。佳樹がこれまで見たことのないような目で俺を見てるぞ。 今晩の家族会議を覚悟していると ──いきなり佳樹の身体からだが浮き上
がった。「きゃっ ?!」「副会長確保ーっ! これで肉まんゲット !!」 佳樹をお姫様抱っこして、勝利の雄たけびを上げたのは焼やき塩しおだ。
その後を追って、廊下の角から陸上部の女子が現れる。
「また先を越されたーっ!」「檸檬れもんパイセン、元気すぎ!」「待って、まだ終わってないよ!」
焼塩は不敵な笑みで後輩たちを振り返る。「ふふ ……あたしの手から副会長を取り戻せば肉まんは君らのモノだ。さあ、追いついてごらん!」「え、ちょっと焼塩なにをして ──」「後は任せて!」 焼塩はウインクを残して、佳樹を抱えたまま走り出した。
その後を数人の女子が追いかける。
「待て肉まーんっ!」「そっち回り込んで!」「私、二階から攻めるから!」
……こいつら一体なにをやってんだ。 焼やき塩しお&焼塩チルドレンが通り過ぎた後には、呆あつ気けに取られた俺たちがポツンと残されていた。 しばらく立ち尽くしていた朝あさ雲ぐもさんが俺の肩をチョンとつつく。
「それじゃ、私たちは先にお暇しいとまましょうか」 えーと、佳か樹じゆは持ってかれたままだけど ──焼塩は「後は任せて」って言ってたしな。
……うん、任すとしよう。 俺は素直に頷くうなずと、制服のホックを外した。
◇ ◇ ◇ ◇
──自分が赤ちゃんだったころの記憶はない。 これは当時は覚えていたけどすぐに忘れてしまったり、記憶が残っていても思い出せなかったりするせいらしい。 佳か樹じゆが生まれたとき俺はまだ1歳の中盤で、普通ならそのころの記
憶はないはずだ。 だからこれは親に聞いた話や、もっと大きくなってからの記憶と混ざり合ってできた思い出だ。
それまで家の中心だった俺は、主役を取って代わられてずいぶんと拗すねていたらしい。 いま思えば当然のことで、ようやく歩き出した俺を構いながら、生まれたばかりの佳樹を世話する両親の苦労はどれほどだっただろう。 妹の難しい名前も上う手まく口に出せなくて。 世界に現れた新たな登場人物に、俺は寂しさと苛いら立だちを感じていたんだと思う。 俺の2歳の誕生日。ようやく自分が主人公に舞い戻ったその日も、泣き始めた佳樹につきっきりの母を見て、俺はすっかり拗ねてしまった。 紙の王冠を投げ捨てて、部屋の隅で膝を抱えているうちに眠ってしまった。 次に目を覚ました時、さほど時間は経たっていなかったと思う。 身体からだにかけられた毛布に気付いて隣を見ると、母親が笑いかけてきた。「おはよう、お兄ちゃん」 その呼び名にまたむくれた俺を、母親は構わず抱きあげた。 連れて行かれたのは佳樹の眠るベビーベッドだ。 母の腕から見下ろす佳樹は自分よりもずっと小さくて、でも人間の形をしているのが不思議だった。「佳樹も起きたよ。ほら、お兄ちゃんにおはようって」
いつに間にか目を覚ましていた佳樹が、小さな手を伸ばしてきた。
恐る恐る指で触ると、佳樹はそれを握りしめてきた。
小さくて、暖かくて、だけど想像よりずっと力強い手。 ぼんやりと固まる俺に向かって、佳樹は不意に ──笑った。 その瞬間、俺は気付いた。
──自分はお兄ちゃんなんだ、と。
お兄ちゃんになってからのはっきりした記憶は、3歳ごろから始まっている。 そして中学に上がってからの佳樹も、まるで小さな時と同じように俺に付きまとっていた。 だからその時の記憶のまま、近付いていた兄離れの時期も自分の中で勝手に先延ばしにしていたのだろう。 その日はいつかは訪れる ──でもそれは今日ではない、と。
◇ ◇ ◇ ◇
いつの間にか日は沈み、街はすっかり暗くなっていた。 俺は歩道の石畳に視線を落とし、まっすぐ歩くことだけに意識を向ける。 ……足元の石畳が途切れて、街灯に照らされた横断歩道が現れた。 横断歩道に踏み出そうとした俺の腕を誰かがつかむ。「温ぬく水みずさん、車が来てますよ!」
俺を止めたのは朝あさ雲ぐもさんだ。
ツワブキ高校の制服に身を包み、少し戸惑ったように俺を見つめ
る。「あの、どこに向かってるんですか?」「……え? 家に帰ろうかと思って」 そう言って辺りを見回すが、明らかに自宅の近所ではない。 気付かないうちに豊とよ橋はし駅の近くまで歩いていたようだ。
「ごめん、俺についてきたの? 後は一人で大丈夫だから ──」 朝雲さんはゆっくりと首を振る。「いまの温水さんを放ってはおけません。少しどこかで休んでいきましょう」 誤解を招きそうなセリフと共に連れこまれたのは、マッターホーンという豊橋でも老舗の洋菓子店。我が家でもよく使うが、喫茶コーナーに入るのは初めてだ。 椅子に座ってクラシカルな店内を見回していると、朝雲さんがスマホの画面を見せてくる。「焼やき塩しおさんも後輩たちと別れて、こっちに向かっているそうです」
無言で頷くうなず俺の前に、店員さんがコーヒーを置く。「飲み物だけでよかったんですか?」「なんかお腹なか空いてなくてさ」 朝雲さんはミックスジュースとケーキを前に、ニヤケ顔を慌てて引
き締める。「……あくまで糖分不足の解消です。疲れた脳には適度な補給が必要なんです」「分かってるよ、今日は心配かけてごめん」
コーヒーに砂糖を入れてかき混ぜていると、朝雲さんがケーキをの
せたフォークを差し出してくる。「はい、アーン」「へ? いやちょっと、人前だし」「後でイチャイチャしてあげるって約束したでしょ? お姉ちゃんは約束は守るんです」 その遊び、まだ続いてたのか。 あきらめそうにないので仕方なく食べると、口に懐かしい甘さが広がった。 朝雲さんが頼んだのは、店の名を冠したマッターホーンという名のケーキ。軽めのスポンジとクリームに混ざった栗の食感が ──って、
久しぶりだけどやっぱ美う味まいなこれ。 しばらくチョコ系に浮気してたが王道に戻るか ……。 コーヒーを飲もうと手を伸ばすと、テーブルの向こう側で朝あさ雲ぐもさん
が微笑ほほえんでいる。「少し元気が出ましたか?」「ありがと、わりと元気が出たよ」 ここまで気を遣わせといて、沈んだ顔をしている場合じゃない。 無理にでも笑顔で返すと、朝雲さんの隣の椅子にドサリとスポーツ
バッグが置かれた。「二人ともなにやってんの?」 茶色い瞳を丸くして見下ろしているのは焼やき塩しおだ。うわ、変なとこ見られた。
朝雲さんが嬉しそうに手を合わせる。
「今日は私がカズ君のお姉ちゃんなんです」
「なにそれ、楽しそうじゃん! あ、すいませーん!」 え、いまの説明で通じたのか。 立ったまま注文を終えた焼塩は朝雲さんの隣に座る。「なんだ、凹んでるって聞いてたけど大丈夫そうじゃん。イチャつく元気もあるみたいだし?」 片かた肘ひじをつきながら、からかうように言う焼塩。
綾あや野のに知られると面倒だし、ここは話を逸そらさないと。「そういえば焼塩が運んでいった佳か樹じゆ──妹はどうなった?」「妹さん? なんかキョトンとしてたよ」
そりゃするだろ。聞きたいのはそこじゃない。「えーと、妹はちゃんと解放されたんだろうな」「ちゃんと生徒会室まで運んだよ。勝負はあたしの勝ちでした!」 ルールは知らんが勝ったのか。 ……まあ無事ならいい。 俺がコーヒーをすすっていると、焼塩の頼んだ紅茶とチョコケーキが来る。 焼塩が頼んだケーキはチョコ味とノーマルのスポンジが市松模様になっていて、周りがチョコレートでコーティングされている。これも昔から人気のメニューだ。 ケーキにフォークを入れながら、焼塩がいつになく落ち着いた口調
で呟くつぶや。「妹さんさ。なんてゆーか大丈夫じゃないかな」「……妹と話をしたのか?」
「走るのに忙しくてそんなに話せなかったけど。あの子、周りと仲良
くて友達もたくさんいるみたいだし。なんてゆーか」 焼塩はケーキをパクリと口に入れる。「───大丈夫な子だよ。ちゃんと自分を持ってしっかりしてる。ぬっくんが心配なのは分かるけどさ、もう少し信用してあげなって」 焼やき塩しおはチョコケーキの角をフォークですくうと、俺の口元に突きつ
けてきた。「はいカズ君、アーンして」「おい、焼塩までなにやってんだよ」 さすがに怖おじ気けづいて目を逸そらすと、焼塩が身を乗り出してくる。
「チハちゃんのは食べれて、檸檬れもんお姉ちゃんのケーキは食べられな
いっていうの?」「の? の?」 焼塩、めっちゃカラんでくる。朝あさ雲ぐもさんまで便乗するし。 やむを得ずケーキを食べると、焼塩は満足げな笑みを浮かべた。
「よし、これで一件落着。さ、ゆっくりケーキ食べよっか」 落着はしてないが。してないが、兄としてもっと佳か樹じゆを信用しないとな。 ……そもそもイチャついたからって彼氏というわけではない。なにしろ俺がその証拠だ。 一人で頷いうなずていると、朝雲さんがなぜかソワソワと窓の外を見る。
「ずいぶん遅くなりましたね。温ぬく水みずさん、妹さんはもう家に帰ったころですか?」
「生徒会の仕事で、まだ学校にいるんじゃないかな。今週は遅いらしいし」「じゃあ、ちょうどいいタイミングですね」 ……? なにが? 不思議に思っていると、朝雲さんが腕に巻いたスマートウォッチを見せてくる。「チハちゃん、それなに?」「スマートウォッチです。これで桃もも園ぞの中に仕掛けた盗聴 ──」
「朝雲さん、ストップ!」 慌てて遮るさえぎと、朝雲さんは澄まし顔でコクリと頷く。「……スマートバグです。盗聴器ではありません」 だから言うなって。 焼塩は目をキラキラさせて朝雲の手元をのぞきこむ。「なにそれカッコいいじゃん! 探偵の秘密道具みたいなやつだよね?」「はい、その通りです。これを使うと、探偵力で遠く離れた場所の音を聴くことができるんです。具体的には生徒会室の扉の前にいるかのような音が」 探偵力って怖いな ……。あれ、でも待ってくれ。「桃園中から離れてるし、電波が届かないんじゃないか」 俺の当然の疑問に、朝雲さんは当然とばかりに答える。「校内にモバイル Wi-Fiの本体を置いてきました。子機からの電波は、そこから飛ばします」「ひょっとしてこのために Wi-Fi契約したの? マジで?」
朝あさ雲ぐもさんはニコリと笑うと、無言でスマートウォッチをいじりだす。 ……もうなるようになれ。半ば開き直って朝雲さんの探偵力を見守ることにする。「ねえねえ、チハちゃんこれってどうなんの? 光ったりする?」「次回までに周りにLEDを足しときますね。さあ、繫がりましたよ」 俺たちはスマートウォッチに耳を寄せる。 ……サリサリというかすかなノイズ。「なにも聞こえないな。誰もいないんじゃないか?」「あ! いまなんか聞こえたよ!」 確かになにか聞こえたぞ。しばらく息を潜めていたが、それ以上はなにも聞こえない。 と、朝雲さんが何かに気付いたのか、パッと顔を上げる。「これ、 Wi-Fiではなく盗聴器から直接電波を拾ってますね」「スマートバグ」「はい、スマートバグ」 分かればよろしい。そして盗聴器が近くにあるということは ──。「偶然同じ機種を使ってる人がいるってことか?」「いえ、アプリと紐付けしないといけないのでそれはないです」 朝雲さんは腕をあちらこちらに動かしていたが、最後には俺の方を
見たまま動かなくなる。「……なに、俺をジッと見て」「温ぬく水みずさん、そのカバンってなにが入っていますか?」
「へ? さっきまで着てた桃もも園ぞの中の制服だけど」 カバンのファスナーを開けると、朝雲さんのオデコがキラリと光る。「電波の強度が強まりました。中になにかありますね」 え、まさかそんな。上着を引っ張り出して探っていると、首の後ろからなにかがポロリと落ちた。拾い上げると、それは親指の先くらいの黒いチップだ。 あれ、表面になんか番号が書いてある。「……№1?」「生徒会室の扉に付けたスマートバグですね。 ……待ってください、じゃあこの反応は」 朝雲さんは自分のカバンに手を入れる。 と、しばらくして俺が見つけたのと同じ形のチップを取り出した。
「№2──妹さんの制服に仕掛けたものです」 こいつ、そんなことしてたのか。そろそろ朝雲さんもこ.い.つ.扱いでいいはずだ。 黙りこむ俺たちを焼やき塩しおがフォーク片手、不思議そうな顔で眺める。「えーと、つまりなにが起きたの?」 朝雲さんは人差し指をアゴに当て、困ったような表情で首を傾かしげる。「ワトソンお兄さんが、可か愛わいいモリアーティにしてやられた ──というとこですね」
「そうだね、ワトソンお姉ちゃんが」「ふうん、よく分かんないけど。ごちそうさまでした」
二人のワトソン君に向かって、焼やき塩しおはパンと手を合わせた。
Intermission 居残りさんがつれづれと
放課後の部室では八や奈な見みと小こ鞠まりが、特に話をするでもなく思い思いに過ごしていた。 片腕を枕にダラダラと雑誌を見ていた八奈見は「お」と呟くつぶや。「小鞠ちゃん、これ美お味いしそうだよ。餅チョコだって」「うぇ? チョ、チョコで ……餅?」 不意に話しかけられた小鞠は、眉をひそめながら文庫本に栞をしおりはさむ。
「そ。つまりチョコ味の餅なんだよ」「え、えと ……そうなのか」 まったく増えない情報量に戸惑う小鞠。「ほら、バレンタインも近いじゃん。文芸部の女性陣で友チョコ交換しようって話してたでしょ?」「してた、っけ?」 首を傾かしげる小鞠。自信満々に頷きうなずかけた八奈見は、ゆっくりと首を
横に振る。「……いや、してないね。言うの忘れてた」「そ、そうか」 小こ鞠まりは再び文庫本を開く。八や奈な見みは退たい屈くつそうに雑誌を閉じる。
「学校見学会って今週末だよね。準備とかしなくて大丈夫かな」「こ、ここんとこ部長、役立たずだし」「だね。温ぬく水みず君のシスコンぶりにも困ったもんだよ」 本来なら今頃、週末の学校見学会に向けた準備をしているはずなのだ。 例年は文芸部にもそれなりに人が来るらしい。
「うちらがこんな忙しいのにサボるなんてさ。けしからんよ温水君」 スマホをいじりだした八奈見を、小鞠が不思議そうに見る。「あ、あいつ焼やき塩しおと一緒に、出かけたんだろ?」「……なにそれ。私、知らないんだけど」 八奈見は剣けん呑のんな表情で顔を上げる。「うぇ? だ、だって二人で桃もも園ぞの中に行くって」「中学校? 檸檬れもんちゃん、留年通り越して中学からやり直すの……?」
その方が本人のためかも ──言いかけた小鞠は言葉を飲みこむ。「ち、違くて。い、妹の学校にストーカー、しに行った」「あー、そういや二人はオナ中だっけ」 八奈見は呆あきれたように肩をすくめる。
「ホント、妹ちゃんがからむと温水君はアレだね。アレだからお菓子でも食べよっか」 言いながら八奈見が取り出したのは駄だ菓が子しの『チョコケーキ』。
チョコパイを薄くしたような見た目のお菓子だ。「最近これにハマってるんだよね。特に二枚入ってるところが素敵なの」 八奈見は小袋を開けると、チョコケーキを二枚とも取り出す。「小鞠ちゃんも食べる? 美お味いしいよ」「じゃ、じゃあ一枚 ──」 手を伸ばした小鞠の前で、八奈見はチョコケーキを重ねたままかじりつく。 一瞬固まる小鞠の手に、新しい小袋を乗せる八奈見。
「これ、重ねて食べると美味しいんだよ。やってみる?」「い、一枚ずつでいい ……」 小鞠が一枚食べ切る間に3袋を空にした八奈見は、お茶を淹いれに席を立つ。
「温水君はダメダメだし、学校見学会の準備は私たちがやるしかないよね。部誌作るって言ってたけど、みんな原稿はまだだし ──」「え、えと、大体書けた」 二枚目のチョコケーキをモサモサと食べながら、小鞠。 八奈見はお茶を淹れる手を止める。「ほら、見学に来た中学生だって、部誌もらっても嬉しくないでしょ?」「そ、そんなことないんじゃ ……」
弱々しく反論する小こ鞠まりの前に、八や奈な見みがトンと湯ゆ呑のみを置く。
「小鞠ちゃん、私たちは高校生だよ。うちらにあって、中学生にないもので勝負しようよ」「ちゅ、中学生にない、もの?」 八奈見は椅子に座ると、これ見よがしに髪をバサリとかきあげる。
「──女子力、だよ」

