【小小骑师 伟大人格】武丰故事(2022日本杯6小时前)
【日本杯的那一天,第一场比赛,我接受了田村康仁练马师的委托】
那天的第一场比赛比平时稍早的在9点半开始,是一场泥地1400米的2岁未胜利战。我被委托的马叫做Platinum Jubilee。是菊花赏冠军一胜再胜的练马师田村康仁马房的马
我从亮相圈的走过地下通道,在去马场的上坡到上被一个厩务员叫住了。
"这是我的最后一场比赛",他说。还是个很年轻的孩子,听我回了一句“哎?”后,他又说道“我要回农村了”
这位厩务员的名字叫中川京介,1990年3月1日出生,32岁。 正如武丰所说,对于从JRA辞职来说,他还太年轻了。但是当我和他细聊的时候发现他有很多的想法。
【我爹是园田的练马师,原来我也在那里工作】
后来他成功从JRA的赛马学校毕业,决定加入JRA,在田村康仁的马房努力工作
'我一直在做练马师助理,但是我今年变成了铲屎骑乘师。

铲屎骑乘师就是说"既负责马匹的训练骑乘又要负责照顾马匹的日常生活。同时兼顾了只训练不铲屎的厩务员和只负责照顾不负责训练的厩务员的两个职业。
如果只考虑收入的话,从园田来到JRA的中川,要比以前大大的满足了。 但是在他心灵的一个角落里,他总是对自己的家乡充满了憧憬。
【虽然我很努力才进了赛马学校,但是我时常问自己,此生就这么渡过,我会满足吗?】
结婚后有了孩子,明年2月就有二宝了。如果考虑经济方面的话毫无疑问现在的生活更好。
【我总觉得有比金钱更重要的东西,如果不回老家的话,我觉得总有一天会后悔】
他和老婆谈论了这个事情,然后。。
"我会跟着你的,你就做你想做的事吧。"这让我下定决心。
他把回到园田的决定告诉了田村练马师。 这样对中川来说,Platinum Jubilee在日本杯那天的比赛就成了他最后一次送担当马入场了。

中川说。
【Platinum Jubilee其实应该明年再跑的,但那时候我就不在了。练马师为了让我陪她跑才选择了现在出战】
当我向田村练马师询问这一点时,他说【我不是用这个来勉强中川】,然后给出了以下答案。
'他在上一场比赛中获得第二名,所以我想如果我给他一些时间,我觉得如果在明年初跑的话应该能赢, 但他赛后的步态很好,精神状态也很好,所以我想在中川负责的时候可以再让他跑一次!"。
所以我为我即将离开的同事准备了一份特别的礼物。
我为这场比赛委托了日本骑神-武丰
我想,'最后一场比赛如果是武丰来骑的话,一定会成为中川君一生的回忆吧"所以委托了武丰,结果他爽快的答应了

田村说,但是我没有把这些事情告诉武丰
'我希望骑师能够骑得舒服,不管我们的情况如何。 我知道他不是一个会因此而感到压力的人,但我决定最好不要说什么多余的话,所以我没说。"
另一方面,中川却很开心,自己跑去跟武丰说了
'让武丰先生来骑我的最后一场比赛,真是很好的纪念。
于是就发生了本文的开头那段。
【那赢了的话我们拍张合照吧,我会加油的】
说完武丰消失在了马场,10分钟后,武丰以头名冲线
【今年也开始骑马了以后,这是我照顾的马里第一场胜利】
最后的比赛赢得了最初的胜利,正在我感慨的时候,武丰回来了,他说
【我遵守承诺了哦】

按照约定我们拍了照片。田村练马师装裱后交给了中川。比赛后,故事还有后续
武丰以最棒的礼物总给了中川,但是他却低调的调侃道:"我年纪大了,所以早上的时候就会比较给力"他说,并继续说道。
赛后,武丰问田村练马师【那个厩务员要辞职了?】,'是的,没错'。但是在我主动开口问他之前,这件事他没有向我透露过一个字,非常帅气
"这场比赛,其实还有另一个和武丰很亲近的马主想委托武丰'"但是他说【我已经接受了田村练马师的委托】
练马师对武丰说【这也能赢,我和中川君都很星云】,结果武丰却说【幸运的是我】
【我想,随口都能说出这种话的武丰,真是非常了不起的人】田村练马师说
然后他又说。
'我真的很高兴,赢了,了却了这么一桩事情。
在飘扬青帆获得全场欢呼问鼎日本杯的6小时前发生了这么一件不为人知的故事,田村练马师现在在美浦辛勤劳作,中川君已经离开特雷森明年将会回到园田的老爸帐下。武丰,还在骑着他的马儿
==========================日语原文==========================
「ジャパンCの日の事でした。第1レースで、田村(康仁)調教師から騎乗依頼を受けました」
当日の第1レースはいつもより早い午前9時31分の発走。ダート1400メートルの2歳未勝利戦で、依頼されたのはプラチナジュビリー。アスクビクターモアで菊花賞(GⅠ)を勝った田村康仁厩舎の馬だった。
パドックで跨り、地下道をくぐり、馬場へ向かう坂を上っていると、曳いている厩務員から声をかけられた。
「『僕はこれが最後のレースなんです』と言われました。まだ若い子だったから『え?』と聞き返すと『田舎に帰るんです』と返されました」
その厩務員の名は中川京介。1990年3月1日生まれの32歳。武豊が言うように、JRAを辞めるには若い年齢だが、本人に確認すると、様々な想いが窺い知れた。
「父親が園田で調教師をしていて、元々自分もそこで働いていました」
その後、JRAの競馬学校に合格し、JRA入りを決意。田村康仁厩舎ひと筋で働いてきた。
「ずっと調教助手をしていたのですが、今年になってから持ち乗りに変わりました」
アオラキも担当していた中川京介調教厩務員(当時)
『持ち乗り』とは2頭の担当馬の面倒を見ながら、その担当馬の調教にも騎乗する持ち乗り調教厩務員の事。調教だけに跨る調教助手と、調教には乗らずに馬の面倒だけを見る厩務員を足して2で割ったような役職だ。
園田からJRA入りした中川は、収入面だけを考えれば、以前よりも大分、満たされるようになった。しかし、心の片隅には、いつも故郷を慕う気持ちがあった。
「苦労して競馬学校に入れたわけですけど、果たして一生、ここでやっていくので良いのか?という想いは常に持っていました」
結婚をして子宝にも恵まれた。来年の2月には2人目も生まれる。金銭面を考えたら、尚更、現在の暮らしを守った方が良く思える。しかし……。
「お金よりも大事な事があると思いました。このまま地元に戻らないでいれば、いつか後悔する。そう思ったのです」
そんな胸の内を、夫人に相談した。すると……。
「『私はついていくだけだから、やりたいようにやってください』と言われて決心がつきました」
園田に戻る事を決意。田村に告げた。こうして迎えたジャパンCデーのプラチナジュビリーが、中川にとって担当馬を競馬場へ送り込む最後のレースとなった。
田村康仁調教師(左)と中川
中川は言う。
「プラチナジュビリーは、本当なら年明けに使う予定でした。でも、その時期だと僕がもう辞めているので、僕のいるうちに使ってくれる事になったようです」
この点を田村に聞くと「決して中川君のために無理矢理使ったわけではない」と口を開いた後、次のような答えが返ってきた。
「前走で2着に来たので、少し間を開けて年明けに使えば確勝級だと考えました。でも、レース後の歩様も良いし、元気だったので、中川君の担当しているうちにもう1度、使えるな!!となりました」
そこで去り行く仲間に粋なプレゼントを用意した。
鞍上に日本のナンバー1ジョッキーを手配したのだ。
「ラストランで武君に乗ってもらえれば、一生の思い出になるでしょう。そう思って、依頼したところ、快く受けてくれました」
アスクビクターモアで菊花賞(GⅠ)を勝った際の表彰式での田村(中央)
守られた約束
もっとも、武豊にはそんな厩舎の事情はひと言も告げなかった。再び田村。
「うちらの都合に関係なく、ジョッキーには気持ち良く乗ってもらいたいと思いました。それでプレッシャーを感じる人ではないのは分かっていたけど、余計な事は言わない方が良いと判断したので、あえて言いませんでした」
一方、この計らいが嬉しかった中川は、天才ジョッキーに言った。
「自分のラストランで武さんに乗ってもらえるなんて、良い記念になりました」
それに対しての武豊の答えが冒頭に記したモノだった。
「じゃあ記念写真を撮れるように、頑張ってきますよ」
こう言って馬場へ消えた約10分後、武豊は先頭でゴール板を通過した。
「今年から持ち乗りになった自分にとって、担当馬が勝つのはこれが初めてでした」
最初で最後の勝利。感慨にふけっていると、レースを終えた武豊が戻って来て、言った。
「約束を守ったよ」
武豊と約束して撮られた口取り写真。田村が額装して中川に渡した(本人提供写真)
勝利後、更に続いたエピソード
中川の門出を最高の形で祝った武豊だが、格好つける事もなく「年寄りだから朝早いのは強いんです」と、おどけると、更に続けた。
「レースが終わってから『厩務員さん、辞めるんですって?』という感じで田村先生に聞いたら、そこで初めて『そうなんだよ』と言われました。こちらが聞くまで一切、そんな話をしなかった田村先生が、凄く格好良く見えました」
そんな事はないと否定した田村は「それよりも……」と言って新たな逸話を語った。
「同じレースに武君が懇意にしているオーナーの馬が使っていたから『そちらに乗らないでよかったの?』って聞いたら『田村先生の馬を先に受けていましたから』と答えられました」
漢気を感じ「その上で勝てるなんて、自分も中川もラッキーだったよ」と言った田村に対し、武豊が更に答えた。
「ラッキーだったのは僕の方です」
田村が続ける。
「間髪入れずにそう答えられる武君は、本当に素晴らしい人格者だと思いました」
そして、改めて言った。
「勝てた事で、こんな凄い人に迷惑をかけずに済んだかと思うと、本当に良かったです」
ヴェラアズールの勝利で盛り上がったジャパンCの僅か6時間ほど前に、こんなドラマが人知れずひっそりと起きていた。田村は今日も美浦で汗を流すが、中川は既にトレセンを去り、年明けからは園田の父の下で働く。そして、武豊は変わらず馬に乗り続けている。

