日语《我是猫》第十一章1

十一 床の間の前に碁盤を中に据すえて迷亭君と独仙君が対坐している。 「ただはやらない。負けた方が何か奢おごるんだぜ。いいかい」と迷亭君が念を押すと、独仙君は例のごとく山羊髯やぎひげを引っ張りながら、こう云いった。 「そんな事をすると、せっかくの清戯せいぎを俗了ぞくりょうしてしまう。かけなどで勝負に心を奪われては面白くない。成敗せいはいを度外において、白雲の自然に岫しゅうを出でて冉々ぜんぜんたるごとき心持ちで一局を了してこそ、個中こちゅうの味あじわいはわかるものだよ」 「また来たね。そんな仙骨を相手にしちゃ少々骨が折れ過ぎる。宛然えんぜんたる列仙伝中の人物だね」 「無絃むげんの素琴そきんを弾じさ」 「無線の電信をかけかね」 「とにかく、やろう」 「君が白を持つのかい」 「どっちでも構わない」 「さすがに仙人だけあって鷹揚おうようだ。君が白なら自然の順序として僕は黒だね。さあ、来たまえ。どこからでも来たまえ」 「黒から打つのが法則だよ」 「なるほど。しからば謙遜けんそんして、定石じょうせきにここいらから行こう」 「定石にそんなのはないよ」 「なくっても構わない。新奇発明の定石だ」 吾輩は世間が狭いから碁盤と云うものは近来になって始めて拝見したのだが、考えれば考えるほど妙に出来ている。広くもない四角な板を狭苦しく四角に仕切って、目が眩くらむほどごたごたと黒白こくびゃくの石をならべる。そうして勝ったとか、負けたとか、死んだとか、生きたとか、あぶら汗を流して騒いでいる。高が一尺四方くらいの面積だ。猫の前足で掻かき散らしても滅茶滅茶になる。引き寄せて結べば草の庵いおりにて、解くればもとの野原なりけり。入らざるいたずらだ。懐手ふところでをして盤を眺めている方が遥はるかに気楽である。それも最初の三四十目もくは、石の並べ方では別段目障めざわりにもならないが、いざ天下わけ目と云う間際まぎわに覗のぞいて見ると、いやはや御気の毒な有様だ。白と黒が盤から、こぼれ落ちるまでに押し合って、御互にギューギュー云っている。窮屈だからと云って、隣りの奴にどいて貰う訳にも行かず、邪魔だと申して前の先生に退去を命ずる権利もなし、天命とあきらめて、じっとして身動きもせず、すくんでいるよりほかに、どうする事も出来ない。碁を発明したものは人間で、人間の嗜好しこうが局面にあらわれるものとすれば、窮屈なる碁石の運命はせせこましい人間の性質を代表していると云っても差支さしつかえない。人間の性質が碁石の運命で推知すいちする事が出来るものとすれば、人間とは天空海濶てんくうかいかつの世界を、我からと縮めて、己おのれの立つ両足以外には、どうあっても踏み出せぬように、小刀細工こがたなざいくで自分の領分に縄張りをするのが好きなんだと断言せざるを得ない。人間とはしいて苦痛を求めるものであると一言いちごんに評してもよかろう。 呑気のんきなる迷亭君と、禅機ぜんきある独仙君とは、どう云う了見か、今日に限って戸棚から古碁盤を引きずり出して、この暑苦しいいたずらを始めたのである。さすがに御両人御揃おそろいの事だから、最初のうちは各自任意の行動をとって、盤の上を白石と黒石が自由自在に飛び交わしていたが、盤の広さには限りがあって、横竪よこたての目盛りは一手ひとてごとに埋うまって行くのだから、いかに呑気でも、いかに禅機があっても、苦しくなるのは当り前である。 「迷亭君、君の碁は乱暴だよ。そんな所へ這入はいってくる法はない」 「禅坊主の碁にはこんな法はないかも知れないが、本因坊ほんいんぼうの流儀じゃ、あるんだから仕方がないさ」 「しかし死ぬばかりだぜ」 「臣死をだも辞せず、いわんや彘肩ていけんをやと、一つ、こう行くかな」 「そうおいでになったと、よろしい。薫風南みんなみより来って、殿閣微涼びりょうを生ず。こう、ついでおけば大丈夫なものだ」 「おや、ついだのは、さすがにえらい。まさか、つぐ気遣きづかいはなかろうと思った。ついで、くりゃるな八幡鐘はちまんがねをと、こうやったら、どうするかね」 「どうするも、こうするもないさ。一剣天に倚よって寒し――ええ、面倒だ。思い切って、切ってしまえ」 「やや、大変大変。そこを切られちゃ死んでしまう。おい冗談じょうだんじゃない。ちょっと待った」 「それだから、さっきから云わん事じゃない。こうなってるところへは這入はいれるものじゃないんだ」 「這入って失敬仕つかまつり候。ちょっとこの白をとってくれたまえ」 「それも待つのかい」 「ついでにその隣りのも引き揚げて見てくれたまえ」 「ずうずうしいぜ、おい」 「Do you see the boy か。――なに君と僕の間柄じゃないか。そんな水臭い事を言わずに、引き揚げてくれたまえな。死ぬか生きるかと云う場合だ。しばらく、しばらくって花道はなみちから馳かけ出してくるところだよ」 「そんな事は僕は知らんよ」 「知らなくってもいいから、ちょっとどけたまえ」 「君さっきから、六返ぺん待ったをしたじゃないか」 「記憶のいい男だな。向後こうごは旧に倍し待ったを仕つかまつり候。だからちょっとどけたまえと云うのだあね。君もよッぽど強情だね。座禅なんかしたら、もう少し捌さばけそうなものだ」 「しかしこの石でも殺さなければ、僕の方は少し負けになりそうだから……」 「君は最初から負けても構わない流じゃないか」 「僕は負けても構わないが、君には勝たしたくない」 「飛んだ悟道だ。相変らず春風影裏しゅんぷうえいりに電光でんこうをきってるね」 「春風影裏じゃない、電光影裏だよ。君のは逆さかさだ」 「ハハハハもうたいてい逆さかになっていい時分だと思ったら、やはりたしかなところがあるね。それじゃ仕方がないあきらめるかな」 「生死事大しょうしじだい、無常迅速むじょうじんそく、あきらめるさ」 「アーメン」と迷亭先生今度はまるで関係のない方面へぴしゃりと一石いっせきを下くだした。 床の間の前で迷亭君と独仙君が一生懸命に輸贏しゅえいを争っていると、座敷の入口には、寒月君と東風君が相ならんでその傍そばに主人が黄色い顔をして坐っている。寒月君の前に鰹節かつぶしが三本、裸のまま畳の上に行儀よく排列してあるのは奇観である。 この鰹節の出処しゅっしょは寒月君の懐ふところで、取り出した時は暖あったかく、手のひらに感じたくらい、裸ながらぬくもっていた。主人と東風君は妙な眼をして視線を鰹節の上に注いでいると、寒月君はやがて口を開いた。 「実は四日ばかり前に国から帰って来たのですが、いろいろ用事があって、方々馳かけあるいていたものですから、つい上がられなかったのです」 「そう急いでくるには及ばないさ」と主人は例のごとく無愛嬌ぶあいきょうな事を云う。 「急いで来んでもいいのですけれども、このおみやげを早く献上けんじょうしないと心配ですから」 「鰹節じゃないか」 「ええ、国の名産です」 「名産だって東京にもそんなのは有りそうだぜ」と主人は一番大きな奴を一本取り上げて、鼻の先へ持って行って臭においをかいで見る。 「かいだって、鰹節の善悪よしあしはわかりませんよ」 「少し大きいのが名産たる所以ゆえんかね」 「まあ食べて御覧なさい」 「食べる事はどうせ食べるが、こいつは何だか先が欠けてるじゃないか」 「それだから早く持って来ないと心配だと云うのです」 「なぜ?」 「なぜって、そりゃ鼠ねずみが食ったのです」 「そいつは危険だ。滅多めったに食うとペストになるぜ」 「なに大丈夫、そのくらいかじったって害はありません」 「全体どこで噛かじったんだい」 「船の中でです」 「船の中? どうして」 「入れる所がなかったから、ヴァイオリンといっしょに袋のなかへ入れて、船へ乗ったら、その晩にやられました。鰹節かつぶしだけなら、いいのですけれども、大切なヴァイオリンの胴を鰹節と間違えてやはり少々噛かじりました」 「そそっかしい鼠だね。船の中に住んでると、そう見境みさかいがなくなるものかな」と主人は誰にも分らん事を云って依然として鰹節を眺ながめている。 「なに鼠だから、どこに住んでてもそそっかしいのでしょう。だから下宿へ持って来てもまたやられそうでね。剣呑けんのんだから夜よるは寝床の中へ入れて寝ました」 「少しきたないようだぜ」 「だから食べる時にはちょっとお洗いなさい」 「ちょっとくらいじゃ奇麗にゃなりそうもない」 「それじゃ灰汁あくでもつけて、ごしごし磨いたらいいでしょう」 「ヴァイオリンも抱いて寝たのかい」 「ヴァイオリンは大き過ぎるから抱いて寝る訳には行かないんですが……」と云いかけると 「なんだって? ヴァイオリンを抱いて寝たって? それは風流だ。行く春や重たき琵琶びわのだき心と云う句もあるが、それは遠きその上かみの事だ。明治の秀才はヴァイオリンを抱いて寝なくっちゃ古人を凌しのぐ訳には行かないよ。かい巻まきに長き夜守よもるやヴァイオリンはどうだい。東風君、新体詩でそんな事が云えるかい」と向うの方から迷亭先生大きな声でこっちの談話にも関係をつける。 東風君は真面目で「新体詩は俳句と違ってそう急には出来ません。しかし出来た暁にはもう少し生霊せいれいの機微きびに触れた妙音が出ます」 「そうかね、生霊しょうりょうはおがらを焚たいて迎え奉るものと思ってたが、やっぱり新体詩の力でも御来臨になるかい」と迷亭はまだ碁をそっちのけにして調戯からかっている。 「そんな無駄口を叩たたくとまた負けるぜ」と主人は迷亭に注意する。迷亭は平気なもので 「勝ちたくても、負けたくても、相手が釜中ふちゅうの章魚たこ同然手も足も出せないのだから、僕も無聊ぶりょうでやむを得ずヴァイオリンの御仲間を仕つかまつるのさ」と云うと、相手の独仙君はいささか激した調子で 「今度は君の番だよ。こっちで待ってるんだ」と云い放った。 「え? もう打ったのかい」 「打ったとも、とうに打ったさ」 「どこへ」 「この白をはすに延ばした」 「なあるほど。この白をはすに延ばして負けにけりか、そんならこっちはと――こっちは――こっちはこっちはとて暮れにけりと、どうもいい手がないね。君もう一返打たしてやるから勝手なところへ一目いちもく打ちたまえ」 「そんな碁があるものか」 「そんな碁があるものかなら打ちましょう。――それじゃこのかど地面へちょっと曲がって置くかな。――寒月君、君のヴァイオリンはあんまり安いから鼠が馬鹿にして噛かじるんだよ、もう少しいいのを奮発して買うさ、僕が以太利亜イタリアから三百年前の古物こぶつを取り寄せてやろうか」 「どうか願います。ついでにお払いの方も願いたいもので」 「そんな古いものが役に立つものか」と何にも知らない主人は一喝いっかつにして迷亭君を極きめつけた。 「君は人間の古物こぶつとヴァイオリンの古物こぶつと同一視しているんだろう。人間の古物でも金田某のごときものは今だに流行しているくらいだから、ヴァイオリンに至っては古いほどがいいのさ。――さあ、独仙君どうか御早く願おう。けいまさのせりふじゃないが秋の日は暮れやすいからね」 「君のようなせわしない男と碁を打つのは苦痛だよ。考える暇も何もありゃしない。仕方がないから、ここへ一目いちもく入れて目めにしておこう」 「おやおや、とうとう生かしてしまった。惜しい事をしたね。まさかそこへは打つまいと思って、いささか駄弁を振ふるって肝胆かんたんを砕いていたが、やッぱり駄目か」 「当り前さ。君のは打つのじゃない。ごまかすのだ」 「それが本因坊流、金田流、当世紳士流さ。――おい苦沙弥先生、さすがに独仙君は鎌倉へ行って万年漬を食っただけあって、物に動じないね。どうも敬々服々だ。碁はまずいが、度胸は据すわってる」 「だから君のような度胸のない男は、少し真似をするがいい」と主人が後うしろ向むきのままで答えるやいなや、迷亭君は大きな赤い舌をぺろりと出した。独仙君は毫ごうも関せざるもののごとく、「さあ君の番だ」とまた相手を促うながした。 「君はヴァイオリンをいつ頃から始めたのかい。僕も少し習おうと思うのだが、よっぽどむずかしいものだそうだね」と東風君が寒月君に聞いている。 「うむ、一と通りなら誰にでも出来るさ」 「同じ芸術だから詩歌しいかの趣味のあるものはやはり音楽の方でも上達が早いだろうと、ひそかに恃たのむところがあるんだが、どうだろう」 「いいだろう。君ならきっと上手になるよ」 「君はいつ頃から始めたのかね」 「高等学校時代さ。――先生私わたくしのヴァイオリンを習い出した顛末てんまつをお話しした事がありましたかね」 「いいえ、まだ聞かない」 「高等学校時代に先生でもあってやり出したのかい」 「なあに先生も何もありゃしない。独習さ」 「全く天才だね」 「独習なら天才と限った事もなかろう」と寒月君はつんとする。天才と云われてつんとするのは寒月君だけだろう。 「そりゃ、どうでもいいが、どう云う風に独習したのかちょっと聞かしたまえ。参考にしたいから」 「話してもいい。先生話しましょうかね」 「ああ話したまえ」 「今では若い人がヴァイオリンの箱をさげて、よく往来などをあるいておりますが、その時分は高等学校生で西洋の音楽などをやったものはほとんどなかったのです。ことに私のおった学校は田舎いなかの田舎で麻裏草履あさうらぞうりさえないと云うくらいな質朴な所でしたから、学校の生徒でヴァイオリンなどを弾ひくものはもちろん一人もありません。……」 「何だか面白い話が向うで始まったようだ。独仙君いい加減に切り上げようじゃないか」 「まだ片づかない所が二三箇所ある」 「あってもいい。大概な所なら、君に進上する」 「そう云ったって、貰う訳にも行かない」 「禅学者にも似合わん几帳面きちょうめんな男だ。それじゃ一気呵成いっきかせいにやっちまおう。――寒月君何だかよっぽど面白そうだね。――あの高等学校だろう、生徒が裸足はだしで登校するのは……」 「そんな事はありません」 「でも、皆みんなはだしで兵式体操をして、廻れ右をやるんで足の皮が大変厚くなってると云う話だぜ」 「まさか。だれがそんな事を云いました」 「だれでもいいよ。そうして弁当には偉大なる握り飯を一個、夏蜜柑なつみかんのように腰へぶら下げて来て、それを食うんだって云うじゃないか。食うと云うよりむしろ食いつくんだね。すると中心から梅干が一個出て来るそうだ。この梅干が出るのを楽しみに塩気のない周囲を一心不乱に食い欠いて突進するんだと云うが、なるほど元気旺盛おうせいなものだね。独仙君、君の気に入りそうな話だぜ」 「質朴剛健でたのもしい気風だ」 「まだたのもしい事がある。あすこには灰吹はいふきがないそうだ。僕の友人があすこへ奉職をしている頃吐月峰とげつほうの印いんのある灰吹きを買いに出たところが、吐月峰どころか、灰吹と名づくべきものが一個もない。不思議に思って、聞いて見たら、灰吹きなどは裏の藪やぶへ行って切って来れば誰にでも出来るから、売る必要はないと澄まして答えたそうだ。これも質朴剛健の気風をあらわす美譚びだんだろう、ねえ独仙君」 「うむ、そりゃそれでいいが、ここへ駄目を一つ入れなくちゃいけない」 「よろしい。駄目、駄目、駄目と。それで片づいた。――僕はその話を聞いて、実に驚いたね。そんなところで君がヴァイオリンを独習したのは見上げたものだ。惸独けいどくにして不羣ふぐんなりと楚辞そじにあるが寒月君は全く明治の屈原くつげんだよ」 「屈原はいやですよ」 「それじゃ今世紀のウェルテルさ。――なに石を上げて勘定をしろ? やに物堅ものがたい性質たちだね。勘定しなくっても僕は負けてるからたしかだ」 「しかし極きまりがつかないから……」 「それじゃ君やってくれたまえ。僕は勘定所じゃない。一代の才人ウェルテル君がヴァイオリンを習い出した逸話を聞かなくっちゃ、先祖へ済まないから失敬する」と席をはずして、寒月君の方へすり出して来た。独仙君は丹念に白石を取っては白の穴を埋うめ、黒石を取っては黒の穴を埋めて、しきりに口の内で計算をしている。寒月君は話をつづける。 「土地柄がすでに土地柄だのに、私の国のものがまた非常に頑固がんこなので、少しでも柔弱なものがおっては、他県の生徒に外聞がわるいと云って、むやみに制裁を厳重にしましたから、ずいぶん厄介でした」 「君の国の書生と来たら、本当に話せないね。元来何だって、紺こんの無地の袴はかまなんぞ穿はくんだい。第一だいちあれからして乙おつだね。そうして塩風に吹かれつけているせいか、どうも、色が黒いね。男だからあれで済むが女があれじゃさぞかし困るだろう」と迷亭君が一人這入はいると肝心かんじんの話はどっかへ飛んで行ってしまう。 「女もあの通り黒いのです」 「それでよく貰い手があるね」 「だって一国中いっこくじゅうことごとく黒いのだから仕方がありません」 「因果いんがだね。ねえ苦沙弥君」 「黒い方がいいだろう。生なまじ白いと鏡を見るたんびに己惚おのぼれが出ていけない。女と云うものは始末におえない物件だからなあ」と主人は喟然きぜんとして大息たいそくを洩もらした。 「だって一国中ことごとく黒ければ、黒い方で己惚うぬぼれはしませんか」と東風君がもっともな質問をかけた。 「ともかくも女は全然不必要な者だ」と主人が云うと、 「そんな事を云うと妻君が後でご機嫌がわるいぜ」と笑いながら迷亭先生が注意する。 「なに大丈夫だ」 「いないのかい」 「小供を連れて、さっき出掛けた」 「どうれで静かだと思った。どこへ行ったのだい」 「どこだか分らない。勝手に出てあるくのだ」 「そうして勝手に帰ってくるのかい」 「まあそうだ。君は独身でいいなあ」と云うと東風君は少々不平な顔をする。寒月君はにやにやと笑う。迷亭君は 「妻さいを持つとみんなそう云う気になるのさ。ねえ独仙君、君なども妻君難の方だろう」 「ええ? ちょっと待った。四六二十四、二十五、二十六、二十七と。狭いと思ったら、四十六目もくあるか。もう少し勝ったつもりだったが、こしらえて見ると、たった十八目の差か。――何だって?」 「君も妻君難だろうと云うのさ」 「アハハハハ別段難でもないさ。僕の妻さいは元来僕を愛しているのだから」 「そいつは少々失敬した。それでこそ独仙君だ」 「独仙君ばかりじゃありません。そんな例はいくらでもありますよ」と寒月君が天下の妻君に代ってちょっと弁護の労を取った。 「僕も寒月君に賛成する。僕の考では人間が絶対の域いきに入いるには、ただ二つの道があるばかりで、その二つの道とは芸術と恋だ。夫婦の愛はその一つを代表するものだから、人間は是非結婚をして、この幸福を完まっとうしなければ天意に背そむく訳だと思うんだ。――がどうでしょう先生」と東風君は相変らず真面目で迷亭君の方へ向き直った。 「御名論だ。僕などはとうてい絶対の境きょうに這入はいれそうもない」 「妻さいを貰えばなお這入れやしない」と主人はむずかしい顔をして云った。 「ともかくも我々未婚の青年は芸術の霊気にふれて向上の一路を開拓しなければ人生の意義が分からないですから、まず手始めにヴァイオリンでも習おうと思って寒月君にさっきから経験譚けいけんだんをきいているのです」 「そうそう、ウェルテル君のヴァイオリン物語を拝聴するはずだったね。さあ話し給え。もう邪魔はしないから」と迷亭君がようやく鋒鋩ほうぼうを収めると、 「向上の一路はヴァイオリンなどで開ける者ではない。そんな遊戯三昧ゆうぎざんまいで宇宙の真理が知れては大変だ。這裡しゃりの消息を知ろうと思えばやはり懸崖けんがいに手を撒さっして、絶後ぜつごに再び蘇よみがえる底ていの気魄きはくがなければ駄目だ」と独仙君はもったい振って、東風君に訓戒じみた説教をしたのはよかったが、東風君は禅宗のぜの字も知らない男だから頓とんと感心したようすもなく 「へえ、そうかも知れませんが、やはり芸術は人間の渇仰かつごうの極致を表わしたものだと思いますから、どうしてもこれを捨てる訳には参りません」 「捨てる訳に行かなければ、お望み通り僕のヴァイオリン談をして聞かせる事にしよう、で今話す通りの次第だから僕もヴァイオリンの稽古をはじめるまでには大分だいぶ苦心をしたよ。第一買うのに困りましたよ先生」 「そうだろう麻裏草履あさうらぞうりがない土地にヴァイオリンがあるはずがない」 「いえ、ある事はあるんです。金も前から用意して溜めたから差支さしつかえないのですが、どうも買えないのです」 「なぜ?」 「狭い土地だから、買っておればすぐ見つかります。見つかれば、すぐ生意気だと云うので制裁を加えられます」 「天才は昔から迫害を加えられるものだからね」と東風君は大おおいに同情を表した。 「また天才か、どうか天才呼ばわりだけは御免蒙ごめんこうむりたいね。それでね毎日散歩をしてヴァイオリンのある店先を通るたびにあれが買えたら好かろう、あれを手に抱かかえた心持ちはどんなだろう、ああ欲しい、ああ欲しいと思わない日は一日いちんちもなかったのです」 「もっともだ」と評したのは迷亭で、「妙に凝こったものだね」と解げしかねたのが主人で、「やはり君、天才だよ」と敬服したのは東風君である。ただ独仙君ばかりは超然として髯ひげを撚ねんしている。 「そんな所にどうしてヴァイオリンがあるかが第一ご不審かも知れないですが、これは考えて見ると当り前の事です。なぜと云うとこの地方でも女学校があって、女学校の生徒は課業として毎日ヴァイオリンを稽古しなければならないのですから、あるはずです。無論いいのはありません。ただヴァイオリンと云う名が辛かろうじてつくくらいのものであります。だから店でもあまり重きをおいていないので、二三梃いっしょに店頭へ吊つるしておくのです。それがね、時々散歩をして前を通るときに風が吹きつけたり、小僧の手が障さわったりして、そら音ねを出す事があります。その音ねを聞くと急に心臓が破裂しそうな心持で、いても立ってもいられなくなるんです」 「危険だね。水癲癇みずてんかん、人癲癇ひとでんかんと癲癇にもいろいろ種類があるが君のはウェルテルだけあって、ヴァイオリン癲癇だ」と迷亭君が冷やかすと、 「いやそのくらい感覚が鋭敏でなければ真の芸術家にはなれないですよ。どうしても天才肌だ」と東風君はいよいよ感心する。 「ええ実際癲癇てんかんかも知れませんが、しかしあの音色ねいろだけは奇体ですよ。その後ご今日こんにちまで随分ひきましたがあのくらい美しい音ねが出た事がありません。そうさ何と形容していいでしょう。とうてい言いあらわせないです」 「琳琅璆鏘りんろうきゅうそうとして鳴るじゃないか」とむずかしい事を持ち出したのは独仙君であったが、誰も取り合わなかったのは気の毒である。 「私が毎日毎日店頭を散歩しているうちにとうとうこの霊異な音ねを三度ききました。三度目にどうあってもこれは買わなければならないと決心しました。仮令たとい国のものから譴責けんせきされても、他県のものから軽蔑けいべつされても――よし鉄拳てっけん制裁のために絶息ぜっそくしても――まかり間違って退校の処分を受けても――、こればかりは買わずにいられないと思いました」 「それが天才だよ。天才でなければ、そんなに思い込める訳のものじゃない。羨うらやましい。僕もどうかして、それほど猛烈な感じを起して見たいと年来心掛けているが、どうもいけないね。音楽会などへ行って出来るだけ熱心に聞いているが、どうもそれほどに感興が乗らない」と東風君はしきりに羨うらやましがっている。 「乗らない方が仕合せだよ。今でこそ平気で話すようなもののその時の苦しみはとうてい想像が出来るような種類のものではなかった。――それから先生とうとう奮発して買いました」 「ふむ、どうして」 「ちょうど十一月の天長節の前の晩でした。国のものは揃そろって泊りがけに温泉に行きましたから、一人もいません。私は病気だと云って、その日は学校も休んで寝ていました。今晩こそ一つ出て行って兼かねて望みのヴァイオリンを手に入れようと、床の中でその事ばかり考えていました」 「偽病けびょうをつかって学校まで休んだのかい」 「全くそうです」 「なるほど少し天才だね、こりゃ」と迷亭君も少々恐れ入った様子である。 「夜具の中から首を出していると、日暮れが待遠まちどおでたまりません。仕方がないから頭からもぐり込んで、眼を眠ねむって待って見ましたが、やはり駄目です。首を出すと烈しい秋の日が、六尺の障子しょうじへ一面にあたって、かんかんするには癇癪かんしゃくが起りました。上の方に細長い影がかたまって、時々秋風にゆすれるのが眼につきます」 「何だい、その細長い影と云うのは」 「渋柿の皮を剥むいて、軒へ吊つるしておいたのです」 「ふん、それから」 「仕方がないから、床とこを出て障子をあけて椽側えんがわへ出て、渋柿の甘干あまぼしを一つ取って食いました」 「うまかったかい」と主人は小供みたような事を聞く。 「うまいですよ、あの辺の柿は。とうてい東京などじゃあの味はわかりませんね」 「柿はいいがそれから、どうしたい」と今度は東風君がきく。 「それからまたもぐって眼をふさいで、早く日が暮れればいいがと、ひそかに神仏に念じて見た。約三四時間も立ったと思う頃、もうよかろうと、首を出すとあにはからんや烈しい秋の日は依然として六尺の障子を照らしてかんかんする、上の方に細長い影がかたまって、ふわふわする」 「そりゃ、聞いたよ」 「何返なんべんもあるんだよ。それから床を出て、障子をあけて、甘干しの柿を一つ食って、また寝床へ這入はいって、早く日が暮れればいいと、ひそかに神仏に祈念をこらした」 「やっぱりもとのところじゃないか」 「まあ先生そう焦せかずに聞いて下さい。それから約三四時間夜具の中で辛抱しんぼうして、今度こそもうよかろうとぬっと首を出して見ると、烈しい秋の日は依然として六尺の障子へ一面にあたって、上の方に細長い影がかたまって、ふわふわしている」 「いつまで行っても同じ事じゃないか」 「それから床を出て障子を開けて、椽側えんがわへ出て甘干しの柿を一つ食って……」 「また柿を食ったのかい。どうもいつまで行っても柿ばかり食ってて際限がないね」 「私もじれったくてね」 「君より聞いてる方がよっぽどじれったいぜ」 「先生はどうも性急せっかちだから、話がしにくくって困ります」 「聞く方も少しは困るよ」と東風君も暗あんに不平を洩もらした。 「そう諸君が御困りとある以上は仕方がない。たいていにして切り上げましょう。要するに私は甘干しの柿を食ってはもぐり、もぐっては食い、とうとう軒端のきばに吊つるした奴をみんな食ってしまいました」 「みんな食ったら日も暮れたろう」 「ところがそう行かないので、私が最後の甘干しを食って、もうよかろうと首を出して見ると、相変らず烈しい秋の日が六尺の障子へ一面にあたって……」 「僕あ、もう御免だ。いつまで行っても果はてしがない」 「話す私も飽あき飽きします」 「しかしそのくらい根気があればたいていの事業は成就じょうじゅするよ。だまってたら、あしたの朝まで秋の日がかんかんするんだろう。全体いつ頃にヴァイオリンを買う気なんだい」とさすがの迷亭君も少し辛抱しんぼうし切れなくなったと見える。ただ独仙君のみは泰然として、あしたの朝まででも、あさっての朝まででも、いくら秋の日がかんかんしても動ずる気色けしきはさらにない。寒月君も落ちつき払ったもので 「いつ買う気だとおっしゃるが、晩になりさえすれば、すぐ買いに出掛けるつもりなのです。ただ残念な事には、いつ頭を出して見ても秋の日がかんかんしているものですから――いえその時の私わたくしの苦しみと云ったら、とうてい今あなた方の御じれになるどころの騒ぎじゃないです。私は最後の甘干を食っても、まだ日が暮れないのを見て、泫然げんぜんとして思わず泣きました。東風君、僕は実に情なさけなくって泣いたよ」 「そうだろう、芸術家は本来多情多恨だから、泣いた事には同情するが、話はもっと早く進行させたいものだね」と東風君は人がいいから、どこまでも真面目で滑稽こっけいな挨拶をしている。 「進行させたいのは山々だが、どうしても日が暮れてくれないものだから困るのさ」 「そう日が暮れなくちゃ聞く方も困るからやめよう」と主人がとうとう我慢がし切れなくなったと見えて云い出した。 「やめちゃなお困ります。これからがいよいよ佳境に入いるところですから」 「それじゃ聞くから、早く日が暮れた事にしたらよかろう」 「では、少しご無理なご注文ですが、先生の事ですから、枉まげて、ここは日が暮れた事に致しましょう」 「それは好都合だ」と独仙君が澄まして述べられたので一同は思わずどっと噴き出した。 「いよいよ夜よに入ったので、まず安心とほっと一息ついて鞍懸村くらかけむらの下宿を出ました。私は性来しょうらい騒々そうぞうしい所が嫌きらいですから、わざと便利な市内を避けて、人迹稀じんせきまれな寒村の百姓家にしばらく蝸牛かぎゅうの庵いおりを結んでいたのです……」 「人迹の稀なはあんまり大袈裟おおげさだね」と主人が抗議を申し込むと「蝸牛の庵も仰山ぎょうさんだよ。床の間なしの四畳半くらいにしておく方が写生的で面白い」と迷亭君も苦情を持ち出した。東風君だけは「事実はどうでも言語が詩的で感じがいい」と褒ほめた。独仙君は真面目な顔で「そんな所に住んでいては学校へ通うのが大変だろう。何里くらいあるんですか」と聞いた。 「学校まではたった四五丁です。元来学校からして寒村にあるんですから……」 「それじゃ学生はその辺にだいぶ宿をとってるんでしょう」と独仙君はなかなか承知しない。 「ええ、たいていな百姓家には一人や二人は必ずいます」 「それで人迹稀なんですか」と正面攻撃を喰くらわせる。 「ええ学校がなかったら、全く人迹は稀ですよ。……で当夜の服装と云うと、手織木綿ておりもめんの綿入の上へ金釦きんボタンの制服外套がいとうを着て、外套の頭巾ずきんをすぽりと被かぶってなるべく人の目につかないような注意をしました。折柄おりから柿落葉の時節で宿から南郷街道なんごうかいどうへ出るまでは木この葉で路が一杯です。一歩ひとあし運ぶごとにがさがさするのが気にかかります。誰かあとをつけて来そうでたまりません。振り向いて見ると東嶺寺とうれいじの森がこんもりと黒く、暗い中に暗く写っています。この東嶺寺と云うのは松平家まつだいらけの菩提所ぼだいしょで、庚申山こうしんやまの麓ふもとにあって、私の宿とは一丁くらいしか隔へだたっていない、すこぶる幽邃ゆうすいな梵刹ぼんせつです。森から上はのべつ幕なしの星月夜で、例の天の河が長瀬川を筋違すじかいに横切って末は――末は、そうですね、まず布哇ハワイの方へ流れています……」 「布哇は突飛だね」と迷亭君が云った。 「南郷街道をついに二丁来て、鷹台町たかのだいまちから市内に這入って、古城町こじょうまちを通って、仙石町せんごくまちを曲って、喰代町くいしろちょうを横に見て、通町とおりちょうを一丁目、二丁目、三丁目と順に通り越して、それから尾張町おわりちょう、名古屋町なごやちょう、鯱鉾町しゃちほこちょう、蒲鉾町かまぼこちょう……」 「そんなにいろいろな町を通らなくてもいい。要するにヴァイオリンを買ったのか、買わないのか」と主人がじれったそうに聞く。 「楽器のある店は金善かねぜん即ち金子善兵衛方ですから、まだなかなかです」 「なかなかでもいいから早く買うがいい」 「かしこまりました。それで金善方へ来て見ると、店にはランプがかんかんともって……」 「またかんかんか、君のかんかんは一度や二度で済まないんだから難渋なんじゅうするよ」と今度は迷亭が予防線を張った。 「いえ、今度のかんかんは、ほんの通り一返のかんかんですから、別段御心配には及びません。……灯影ほかげにすかして見ると例のヴァイオリンが、ほのかに秋の灯ひを反射して、くり込んだ胴の丸みに冷たい光を帯びています。つよく張った琴線きんせんの一部だけがきらきらと白く眼に映うつります。……」 「なかなか叙述がうまいや」と東風君がほめた。 「あれだな。あのヴァイオリンだなと思うと、急に動悸どうきがして足がふらふらします……」 「ふふん」と独仙君が鼻で笑った。 「思わず馳かけ込んで、隠袋かくしから蝦蟇口がまぐちを出して、蝦蟇口の中から五円札を二枚出して……」 「とうとう買ったかい」と主人がきく。 「買おうと思いましたが、まてしばし、ここが肝心かんじんのところだ。滅多めったな事をしては失敗する。まあよそうと、際きわどいところで思い留まりました」 「なんだ、まだ買わないのかい。ヴァイオリン一梃でなかなか人を引っ張るじゃないか」 「引っ張る訳じゃないんですが、どうも、まだ買えないんですから仕方がありません」 「なぜ」 「なぜって、まだ宵よいの口で人が大勢通るんですもの」 「構わんじゃないか、人が二百や三百通ったって、君はよっぽど妙な男だ」と主人はぷんぷんしている。 「ただの人なら千が二千でも構いませんがね、学校の生徒が腕まくりをして、大きなステッキを持って徘徊はいかいしているんだから容易に手を出せませんよ。中には沈澱党ちんでんとうなどと号して、いつまでもクラスの底に溜まって喜んでるのがありますからね。そんなのに限って柔道は強いのですよ。滅多めったにヴァイオリンなどに手出しは出来ません。どんな目に逢あうかわかりません。私だってヴァイオリンは欲しいに相違ないですけれども、命はこれでも惜しいですからね。ヴァイオリンを弾ひいて殺されるよりも、弾かずに生きてる方が楽ですよ」 「それじゃ、とうとう買わずにやめたんだね」と主人が念を押す。 「いえ、買ったのです」 「じれったい男だな。買うなら早く買うさ。いやならいやでいいから、早くかたをつけたらよさそうなものだ」 「えへへへへ、世の中の事はそう、こっちの思うように埒らちがあくもんじゃありませんよ」と云いながら寒月君は冷然と「朝日」へ火をつけてふかし出した。 主人は面倒になったと見えて、ついと立って書斎へ這入はいったと思ったら、何だか古ぼけた洋書を一冊持ち出して来て、ごろりと腹這はらばいになって読み始めた。独仙君はいつの間まにやら、床の間の前へ退去して、独ひとりで碁石を並べて一人相撲ひとりずもうをとっている。せっかくの逸話もあまり長くかかるので聴手が一人減り二人減って、残るは芸術に忠実なる東風君と、長い事にかつて辟易へきえきした事のない迷亭先生のみとなる。 長い煙をふうと世の中へ遠慮なく吹き出した寒月君は、やがて前同様ぜんどうようの速度をもって談話をつづける。 「東風君、僕はその時こう思ったね。とうていこりゃ宵の口は駄目だ、と云って真夜中に来れば金善は寝てしまうからなお駄目だ。何でも学校の生徒が散歩から帰りつくして、そうして金善がまだ寝ない時を見計らって来なければ、せっかくの計画が水泡に帰する。けれどもその時間をうまく見計うのがむずかしい」 「なるほどこりゃむずかしかろう」 「で僕はその時間をまあ十時頃と見積ったね。それで今から十時頃までどこかで暮さなければならない。うちへ帰って出直すのは大変だ。友達のうちへ話しに行くのは何だか気が咎とがめるようで面白くなし、仕方がないから相当の時間がくるまで市中を散歩する事にした。ところが平生ならば二時間や三時間はぶらぶらあるいているうちに、いつの間まにか経ってしまうのだがその夜よに限って、時間のたつのが遅いの何のって、――千秋せんしゅうの思とはあんな事を云うのだろうと、しみじみ感じました」とさも感じたらしい風をしてわざと迷亭先生の方を向く。 「古人を待つ身につらき置炬燵おきごたつと云われた事があるからね、また待たるる身より待つ身はつらいともあって軒に吊られたヴァイオリンもつらかったろうが、あてのない探偵のようにうろうろ、まごついている君はなおさらつらいだろう。累々るいるいとして喪家そうかの犬のごとし。いや宿のない犬ほど気の毒なものは実際ないよ」 「犬は残酷ですね。犬に比較された事はこれでもまだありませんよ」 「僕は何だか君の話をきくと、昔むかしの芸術家の伝を読むような気持がして同情の念に堪たえない。犬に比較したのは先生の冗談じょうだんだから気に掛けずに話を進行したまえ」と東風君は慰藉いしゃした。慰藉されなくても寒月君は無論話をつづけるつもりである。 「それから徒町おかちまちから百騎町ひゃっきまちを通って、両替町りょうがえちょうから鷹匠町たかじょうまちへ出て、県庁の前で枯柳の数を勘定して病院の横で窓の灯ひを計算して、紺屋橋こんやばしの上で巻煙草まきたばこを二本ふかして、そうして時計を見た。……」 「十時になったかい」 「惜しい事にならないね。――紺屋橋を渡り切って川添に東へ上のぼって行くと、按摩あんまに三人あった。そうして犬がしきりに吠ほえましたよ先生……」 「秋の夜長に川端で犬の遠吠をきくのはちょっと芝居がかりだね。君は落人おちゅうどと云う格だ」 「何かわるい事でもしたんですか」 「これからしようと云うところさ」 「可哀相かわいそうにヴァイオリンを買うのが悪い事じゃ、音楽学校の生徒はみんな罪人ですよ」 「人が認めない事をすれば、どんないい事をしても罪人さ、だから世の中に罪人ほどあてにならないものはない。耶蘇ヤソもあんな世に生れれば罪人さ。好男子寒月君もそんな所でヴァイオリンを買えば罪人さ」 「それじゃ負けて罪人としておきましょう。罪人はいいですが十時にならないのには弱りました」 「もう一返ぺん、町の名を勘定するさ。それで足りなければまた秋の日をかんかんさせるさ。それでもおっつかなければまた甘干しの渋柿を三ダースも食うさ。いつまでも聞くから十時になるまでやりたまえ」 寒月先生はにやにやと笑った。 「そう先せんを越されては降参するよりほかはありません。それじゃ一足飛びに十時にしてしまいましょう。さて御約束の十時になって金善かねぜんの前へ来て見ると、夜寒の頃ですから、さすが目貫めぬきの両替町りょうがえちょうもほとんど人通りが絶えて、向むこうからくる下駄の音さえ淋さみしい心持ちです。金善ではもう大戸をたてて、わずかに潜くぐり戸とだけを障子しょうじにしています。私は何となく犬に尾つけられたような心持で、障子をあけて這入はいるのに少々薄気味がわるかったです……」 この時主人はきたならしい本からちょっと眼をはずして、「おいもうヴァイオリンを買ったかい」と聞いた。「これから買うところです」と東風君が答えると「まだ買わないのか、実に永いな」と独ひとり言ごとのように云ってまた本を読み出した。独仙君は無言のまま、白と黒で碁盤を大半埋うずめてしまった。 「思い切って飛び込んで、頭巾ずきんを被かぶったままヴァイオリンをくれと云いますと、火鉢の周囲に四五人小僧や若僧がかたまって話をしていたのが驚いて、申し合せたように私の顔を見ました。私は思わず右の手を挙げて頭巾をぐいと前の方に引きました。おいヴァイオリンをくれと二度目に云うと、一番前にいて、私の顔を覗のぞき込むようにしていた小僧がへえと覚束おぼつかない返事をして、立ち上がって例の店先に吊つるしてあったのを三四梃一度に卸おろして来ました。いくらかと聞くと五円二十銭だと云います……」 「おいそんな安いヴァイオリンがあるのかい。おもちゃじゃないか」 「みんな同価どうねかと聞くと、へえ、どれでも変りはございません。みんな丈夫に念を入れて拵こしらえてございますと云いますから、蝦蟇口がまぐちのなかから五円札と銀貨を二十銭出して用意の大風呂敷を出してヴァイオリンを包みました。この間あいだ、店のものは話を中止してじっと私の顔を見ています。顔は頭巾でかくしてあるから分る気遣きづかいはないのですけれども何だか気がせいて一刻も早く往来へ出たくて堪たまりません。ようやくの事風呂敷包を外套がいとうの下へ入れて、店を出たら、番頭が声を揃そろえてありがとうと大きな声を出したのにはひやっとしました。往来へ出てちょっと見廻して見ると、幸さいわい誰もいないようですが、一丁ばかり向むこうから二三人して町内中に響けとばかり詩吟をして来ます。こいつは大変だと金善の角を西へ折れて濠端ほりばたを薬王師道やくおうじみちへ出て、はんの木村から庚申山こうしんやまの裾すそへ出てようやく下宿へ帰りました。下宿へ帰って見たらもう二時十分前でした」 「夜通しあるいていたようなものだね」と東風君が気の毒そうに云うと「やっと上がった。やれやれ長い道中双六どうちゅうすごろくだ」と迷亭君はほっと一と息ついた。 「これからが聞きどころですよ。今までは単に序幕です」 「まだあるのかい。こいつは容易な事じゃない。たいていのものは君に逢っちゃ根気負けをするね」 「根気はとにかく、ここでやめちゃ仏作って魂入れずと一般ですから、もう少し話します」 「話すのは無論随意さ。聞く事は聞くよ」 「どうです苦沙弥先生も御聞きになっては。もうヴァイオリンは買ってしまいましたよ。ええ先生」 「こん度はヴァイオリンを売るところかい。売るところなんか聞かなくってもいい」 「まだ売るどこじゃありません」 「そんならなお聞かなくてもいい」 「どうも困るな、東風君、君だけだね、熱心に聞いてくれるのは。少し張合が抜けるがまあ仕方がない、ざっと話してしまおう」 「ざっとでなくてもいいから緩ゆっくり話したまえ。大変面白い」 「ヴァイオリンはようやくの思で手に入れたが、まず第一に困ったのは置き所だね。僕の所へは大分だいぶ人が遊びにくるから滅多めったな所へぶらさげたり、立て懸けたりするとすぐ露見してしまう。穴を掘って埋めちゃ掘り出すのが面倒だろう」 「そうさ、天井裏へでも隠したかい」と東風君は気楽な事を云う。 「天井はないさ。百姓家ひゃくしょうやだもの」 「そりゃ困ったろう。どこへ入れたい」 「どこへ入れたと思う」 「わからないね。戸袋のなかか」 「いいえ」 「夜具にくるんで戸棚へしまったか」 「いいえ」 東風君と寒月君はヴァイオリンの隠かくれ家がについてかくのごとく問答をしているうちに、主人と迷亭君も何かしきりに話している。 「こりゃ何と読むのだい」と主人が聞く。 「どれ」 「この二行さ」 「何だって? Quid aliud est mulier nisi amicitiæ inimica……こりゃ君羅甸語ラテンごじゃないか」 「羅甸語は分ってるが、何と読むのだい」 「だって君は平生羅甸語が読めると云ってるじゃないか」と迷亭君も危険だと見て取って、ちょっと逃げた。 「無論読めるさ。読める事は読めるが、こりゃ何だい」 「読める事は読めるが、こりゃ何だは手ひどいね」 「何でもいいからちょっと英語に訳して見ろ」 「見ろは烈しいね。まるで従卒のようだね」 「従卒でもいいから何だ」 「まあ羅甸語などはあとにして、ちょっと寒月君のご高話を拝聴仕つかまつろうじゃないか。今大変なところだよ。いよいよ露見するか、しないか危機一髪と云う安宅あたかの関せきへかかってるんだ。――ねえ寒月君それからどうしたい」と急に乗気になって、またヴァイオリンの仲間入りをする。主人は情なさけなくも取り残された。寒月君はこれに勢を得て隠し所を説明する。 「とうとう古つづらの中へ隠しました。このつづらは国を出る時御祖母おばあさんが餞別にくれたものですが、何でも御祖母さんが嫁にくる時持って来たものだそうです」 「そいつは古物こぶつだね。ヴァイオリンとは少し調和しないようだ。ねえ東風君」 「ええ、ちと調和せんです」 「天井裏だって調和しないじゃないか」と寒月君は東風先生をやり込めた。 「調和はしないが、句にはなるよ、安心し給え。秋淋あきさびしつづらにかくすヴァイオリンはどうだい、両君」 「先生今日は大分だいぶ俳句が出来ますね」 「今日に限った事じゃない。いつでも腹の中で出来てるのさ。僕の俳句における造詣ぞうけいと云ったら、故子規子こしきしも舌を捲まいて驚ろいたくらいのものさ」 「先生、子規さんとは御つき合でしたか」と正直な東風君は真率しんそつな質問をかける。 「なにつき合わなくっても始終無線電信で肝胆相照らしていたもんだ」と無茶苦茶を云うので、東風先生あきれて黙ってしまった。寒月君は笑いながらまた進行する。 「それで置き所だけは出来た訳だが、今度は出すのに困った。ただ出すだけなら人目を掠かすめて眺ながめるくらいはやれん事はないが、眺めたばかりじゃ何にもならない。弾ひかなければ役に立たない。弾けば音が出る。出ればすぐ露見する。ちょうど木槿垣むくげがきを一重隔てて南隣りは沈澱組ちんでんぐみの頭領が下宿しているんだから剣呑けんのんだあね」 「困るね」と東風君が気の毒そうに調子を合わせる。 「なるほど、こりゃ困る。論より証拠音が出るんだから、小督こごうの局つぼねも全くこれでしくじったんだからね。これがぬすみ食をするとか、贋札にせさつを造るとか云うなら、まだ始末がいいが、音曲おんぎょくは人に隠しちゃ出来ないものだからね」 「音さえ出なければどうでも出来るんですが……」 「ちょっと待った。音さえ出なけりゃと云うが、音が出なくても隠かくし了おおせないのがあるよ。昔むかし僕等が小石川の御寺で自炊をしている時分に鈴木の藤とうさんと云う人がいてね、この藤さんが大変味淋みりんがすきで、ビールの徳利とっくりへ味淋を買って来ては一人で楽しみに飲んでいたのさ。ある日藤とうさんが散歩に出たあとで、よせばいいのに苦沙弥君がちょっと盗んで飲んだところが……」 「おれが鈴木の味淋などをのむものか、飲んだのは君だぜ」と主人は突然大きな声を出した。 「おや本を読んでるから大丈夫かと思ったら、やはり聞いてるね。油断の出来ない男だ。耳も八丁、目も八丁とは君の事だ。なるほど云われて見ると僕も飲んだ。僕も飲んだには相違ないが、発覚したのは君の方だよ。――両君まあ聞きたまえ。苦沙弥先生元来酒は飲めないのだよ。ところを人の味淋だと思って一生懸命に飲んだものだから、さあ大変、顔中真赤まっかにはれ上ってね。いやもう二目ふためとは見られないありさまさ……」 「黙っていろ。羅甸語ラテンごも読めない癖に」 「ハハハハ、それで藤とうさんが帰って来てビールの徳利をふって見ると、半分以上足りない。何でも誰か飲んだに相違ないと云うので見廻して見ると、大将隅の方に朱泥しゅでいを練りかためた人形のようにかたくなっていらあね……」 三人は思わず哄然こうぜんと笑い出した。主人も本をよみながら、くすくすと笑った。独ひとり独仙君に至っては機外きがいの機きを弄ろうし過ぎて、少々疲労したと見えて、碁盤の上へのしかかって、いつの間まにやら、ぐうぐう寝ている。 「まだ音がしないもので露見した事がある。僕が昔し姥子うばこの温泉に行って、一人のじじいと相宿になった事がある。何でも東京の呉服屋の隠居か何かだったがね。まあ相宿だから呉服屋だろうが、古着屋だろうが構う事はないが、ただ困った事が一つ出来てしまった。と云うのは僕は姥子うばこへ着いてから三日目に煙草たばこを切らしてしまったのさ。諸君も知ってるだろうが、あの姥子と云うのは山の中の一軒屋でただ温泉に這入はいって飯を食うよりほかにどうもこうも仕様のない不便の所さ。そこで煙草を切らしたのだから御難だね。物はないとなるとなお欲しくなるもので、煙草がないなと思うやいなや、いつもそんなでないのが急に呑みたくなり出してね。意地のわるい事に、そのじじいが風呂敷に一杯煙草を用意して登山しているのさ。それを少しずつ出しては、人の前で胡坐あぐらをかいて呑みたいだろうと云わないばかりに、すぱすぱふかすのだね。ただふかすだけなら勘弁のしようもあるが、しまいには煙を輪に吹いて見たり、竪たてに吹いたり、横に吹いたり、乃至ないしは邯鄲かんたん夢ゆめの枕まくらと逆ぎゃくに吹いたり、または鼻から獅子の洞入ほらいり、洞返ほらがえりに吹いたり。つまり呑みびらかすんだね……」 「何です、呑みびらかすと云うのは」 「衣装道具いしょうどうぐなら見せびらかすのだが、煙草だから呑みびらかすのさ」 「へえ、そんな苦しい思いをなさるより貰ったらいいでしょう」 「ところが貰わないね。僕も男子だ」 「へえ、貰っちゃいけないんですか」 「いけるかも知れないが、貰わないね」 「それでどうしました」 「貰わないで偸ぬすんだ」 「おやおや」 「奴さん手拭てぬぐいをぶらさげて湯に出掛けたから、呑むならここだと思って一心不乱立てつづけに呑んで、ああ愉快だと思う間まもなく、障子しょうじがからりとあいたから、おやと振り返ると煙草の持ち主さ」 「湯には這入らなかったのですか」 「這入ろうと思ったら巾着きんちゃくを忘れたのに気がついて、廊下から引き返したんだ。人が巾着でもとりゃしまいし第一それからが失敬さ」 「何とも云えませんね。煙草の御手際おてぎわじゃ」 「ハハハハじじいもなかなか眼識があるよ。巾着はとにかくだが、じいさんが障子をあけると二日間の溜め呑みをやった煙草の煙りがむっとするほど室へやのなかに籠こもってるじゃないか、悪事千里とはよく云ったものだね。たちまち露見してしまった」 「じいさん何とかいいましたか」 「さすが年の功だね、何にも言わずに巻煙草まきたばこを五六十本半紙にくるんで、失礼ですが、こんな粗葉そはでよろしければどうぞお呑み下さいましと云って、また湯壺ゆつぼへ下りて行ったよ」 「そんなのが江戸趣味と云うのでしょうか」 「江戸趣味だか、呉服屋趣味だか知らないが、それから僕は爺さんと大おおいに肝胆相照かんたんあいてらして、二週間の間面白く逗留とうりゅうして帰って来たよ」 「煙草は二週間中爺さんの御馳走になったんですか」 「まあそんなところだね」 「もうヴァイオリンは片ついたかい」と主人はようやく本を伏せて、起き上りながらついに降参を申し込んだ。 「まだです。これからが面白いところです、ちょうどいい時ですから聞いて下さい。ついでにあの碁盤の上で昼寝をしている先生――何とか云いましたね、え、独仙先生、――独仙先生にも聞いていただきたいな。どうですあんなに寝ちゃ、からだに毒ですぜ。もう起してもいいでしょう」 「おい、独仙君、起きた起きた。面白い話がある。起きるんだよ。そう寝ちゃ毒だとさ。奥さんが心配だとさ」 「え」と云いながら顔を上げた独仙君の山羊髯やぎひげを伝わって垂涎よだれが一筋長々と流れて、蝸牛かたつむりの這った迹あとのように歴然と光っている。 「ああ、眠かった。山上の白雲わが懶ものうきに似たりか。ああ、いい心持ちに寝ねたよ」 「寝たのはみんなが認めているのだがね。ちっと起きちゃどうだい」 「もう、起きてもいいね。何か面白い話があるかい」 「これからいよいよヴァイオリンを――どうするんだったかな、苦沙弥君」 「どうするのかな、とんと見当けんとうがつかない」 「これからいよいよ弾くところです」 「これからいよいよヴァイオリンを弾くところだよ。こっちへ出て来て、聞きたまえ」 「まだヴァイオリンかい。困ったな」 「君は無絃むげんの素琴そきんを弾ずる連中だから困らない方なんだが、寒月君のは、きいきいぴいぴい近所合壁きんじょがっぺきへ聞えるのだから大おおいに困ってるところだ」 「そうかい。寒月君近所へ聞えないようにヴァイオリンを弾く方ほうを知らんですか」 「知りませんね、あるなら伺いたいもので」 「伺わなくても露地ろじの白牛びゃくぎゅうを見ればすぐ分るはずだが」と、何だか通じない事を云う。寒月君はねぼけてあんな珍語を弄ろうするのだろうと鑑定したから、わざと相手にならないで話頭を進めた。 「ようやくの事で一策を案出しました。あくる日は天長節だから、朝からうちにいて、つづらの蓋ふたをとって見たり、かぶせて見たり一日いちんちそわそわして暮らしてしまいましたがいよいよ日が暮れて、つづらの底で蛼こおろぎが鳴き出した時思い切って例のヴァイオリンと弓を取り出しました」 「いよいよ出たね」と東風君が云うと「滅多めったに弾くとあぶないよ」と迷亭君が注意した。 「まず弓を取って、切先きっさきから鍔元つばもとまでしらべて見る……」 「下手な刀屋じゃあるまいし」と迷亭君が冷評ひやかした。 「実際これが自分の魂だと思うと、侍さむらいが研とぎ澄した名刀を、長夜ちょうやの灯影ほかげで鞘払さやばらいをする時のような心持ちがするものですよ。私は弓を持ったままぶるぶるとふるえました」 「全く天才だ」と云う東風君について「全く癲癇てんかんだ」と迷亭君がつけた。主人は「早く弾いたらよかろう」と云う。独仙君は困ったものだと云う顔付をする。 「ありがたい事に弓は無難です。今度はヴァイオリンを同じくランプの傍そばへ引き付けて、裏表共よくしらべて見る。この間あいだ約五分間、つづらの底では始終蛼こおろぎが鳴いていると思って下さい。……」 「何とでも思ってやるから安心して弾くがいい」 「まだ弾きゃしません。――幸いヴァイオリンも疵きずがない。これなら大丈夫とぬっくと立ち上がる……」 「どっかへ行くのかい」 「まあ少し黙って聞いて下さい。そう一句毎に邪魔をされちゃ話が出来ない。……」 「おい諸君、だまるんだとさ。シーシー」 「しゃべるのは君だけだぜ」 「うん、そうか、これは失敬、謹聴謹聴」 「ヴァイオリンを小脇に抱かい込んで、草履ぞうりを突つっかけたまま二三歩草の戸を出たが、まてしばし……」 「そらおいでなすった。何でも、どっかで停電するに違ないと思った」 「もう帰ったって甘干しの柿はないぜ」 「そう諸先生が御まぜ返しになってははなはだ遺憾いかんの至りだが、東風君一人を相手にするより致し方がない。――いいかね東風君、二三歩出たがまた引き返して、国を出るとき三円二十銭で買った赤毛布あかげっとを頭から被かぶってね、ふっとランプを消すと君真暗闇まっくらやみになって今度は草履ぞうりの所在地ありかが判然しなくなった」 「一体どこへ行くんだい」 「まあ聞いてたまい。ようやくの事草履を見つけて、表へ出ると星月夜に柿落葉、赤毛布にヴァイオリン。右へ右へと爪先上つまさきあがりに庚申山こうしんやまへ差しかかってくると、東嶺寺とうれいじの鐘がボーンと毛布けっとを通して、耳を通して、頭の中へ響き渡った。何時なんじだと思う、君」 「知らないね」 「九時だよ。これから秋の夜長をたった一人、山道八丁を大平おおだいらと云う所まで登るのだが、平生なら臆病な僕の事だから、恐しくってたまらないところだけれども、一心不乱となると不思議なもので、怖こわいにも怖くないにも、毛頭そんな念はてんで心の中に起らないよ。ただヴァイオリンが弾きたいばかりで胸が一杯になってるんだから妙なものさ。この大平と云う所は庚申山の南側で天気のいい日に登って見ると赤松の間から城下が一目に見下みおろせる眺望佳絶の平地で――そうさ広さはまあ百坪もあろうかね、真中に八畳敷ほどな一枚岩があって、北側は鵜うの沼ぬまと云う池つづきで、池のまわりは三抱えもあろうと云う樟くすのきばかりだ。山のなかだから、人の住んでる所は樟脳しょうのうを採とる小屋が一軒あるばかり、池の近辺は昼でもあまり心持ちのいい場所じゃない。幸い工兵が演習のため道を切り開いてくれたから、登るのに骨は折れない。ようやく一枚岩の上へ来て、毛布けっとを敷いて、ともかくもその上へ坐った。こんな寒い晩に登ったのは始めてなんだから、岩の上へ坐って少し落ち着くと、あたりの淋さみしさが次第次第に腹の底へ沁しみ渡る。こう云う場合に人の心を乱すものはただ怖こわいと云う感じばかりだから、この感じさえ引き抜くと、余るところは皎々冽々こうこうれつれつたる空霊の気だけになる。二十分ほど茫然ぼうぜんとしているうちに何だか水晶で造った御殿のなかに、たった一人住んでるような気になった。しかもその一人住んでる僕のからだが――いやからだばかりじゃない、心も魂もことごとく寒天か何かで製造されたごとく、不思議に透すき徹とおってしまって、自分が水晶の御殿の中にいるのだか、自分の腹の中に水晶の御殿があるのだか、わからなくなって来た……」 「飛んだ事になって来たね」と迷亭君が真面目にからかうあとに付いて、独仙君が「面白い境界きょうがいだ」と少しく感心したようすに見えた。 「もしこの状態が長くつづいたら、私はあすの朝まで、せっかくのヴァイオリンも弾かずに、茫ぼんやり一枚岩の上に坐ってたかも知れないです……」 「狐でもいる所かい」と東風君がきいた。 「こう云う具合で、自他の区別もなくなって、生きているか死んでいるか方角のつかない時に、突然後うしろの古沼の奥でギャーと云う声がした。……」 「いよいよ出たね」 「その声が遠く反響を起して満山の秋の梢こずえを、野分のわきと共に渡ったと思ったら、はっと我に帰った……」 「やっと安心した」と迷亭君が胸を撫なでおろす真似をする。 「大死一番たいしいちばん乾坤新けんこんあらたなり」と独仙君は目くばせをする。寒月君にはちっとも通じない。 「それから、我に帰ってあたりを見廻わすと、庚申山こうしんやま一面はしんとして、雨垂れほどの音もしない。はてな今の音は何だろうと考えた。人の声にしては鋭すぎるし、鳥の声にしては大き過ぎるし、猿の声にしては――この辺によもや猿はおるまい。何だろう? 何だろうと云う問題が頭のなかに起ると、これを解釈しようと云うので今まで静まり返っていたやからが、紛然ふんぜん雑然ざつぜん糅然じゅうぜんとしてあたかもコンノート殿下歓迎の当時における都人士狂乱の態度を以もって脳裏をかけ廻る。そのうちに総身そうしんの毛穴が急にあいて、焼酎しょうちゅうを吹きかけた毛脛けずねのように、勇気、胆力、分別、沈着などと号するお客様がすうすうと蒸発して行く。心臓が肋骨の下でステテコを踊り出す。両足が紙鳶たこのうなりのように震動をはじめる。これはたまらん。いきなり、毛布けっとを頭からかぶって、ヴァイオリンを小脇に掻かい込んでひょろひょろと一枚岩を飛び下りて、一目散に山道八丁を麓ふもとの方へかけ下りて、宿へ帰って布団ふとんへくるまって寝てしまった。今考えてもあんな気味のわるかった事はないよ、東風君」 「それから」 「それでおしまいさ」 「ヴァイオリンは弾かないのかい」 「弾きたくっても、弾かれないじゃないか。ギャーだもの。君だってきっと弾かれないよ」 「何だか君の話は物足りないような気がする」 「気がしても事実だよ。どうです先生」と寒月君は一座を見廻わして大得意のようすである。 「ハハハハこれは上出来。そこまで持って行くにはだいぶ苦心惨憺たるものがあったのだろう。僕は男子のサンドラ・ベロニが東方君子の邦くにに出現するところかと思って、今が今まで真面目に拝聴していたんだよ」と云った迷亭君は誰かサンドラ・ベロニの講釈でも聞くかと思のほか、何にも質問が出ないので「サンドラ・ベロニが月下に竪琴たてごとを弾いて、以太利亜風イタリアふうの歌を森の中でうたってるところは、君の庚申山こうしんやまへヴァイオリンをかかえて上のぼるところと同曲にして異巧なるものだね。惜しい事に向うは月中げっちゅうの嫦娥じょうがを驚ろかし、君は古沼ふるぬまの怪狸かいりにおどろかされたので、際きわどいところで滑稽こっけいと崇高の大差を来たした。さぞ遺憾いかんだろう」と一人で説明すると、 「そんなに遺憾ではありません」と寒月君は存外平気である。 「全体山の上でヴァイオリンを弾こうなんて、ハイカラをやるから、おどかされるんだ」と今度は主人が酷評を加えると、 「好漢こうかんこの鬼窟裏きくつりに向って生計を営む。惜しい事だ」と独仙君は嘆息した。すべて独仙君の云う事は決して寒月君にわかったためしがない。寒月君ばかりではない、おそらく誰にでもわからないだろう。 「そりゃ、そうと寒月君、近頃でも矢張り学校へ行って珠たまばかり磨いてるのかね」と迷亭先生はしばらくして話頭を転じた。 「いえ、こないだうちから国へ帰省していたもんですから、暫時ざんじ中止の姿です。珠ももうあきましたから、実はよそうかと思ってるんです」 「だって珠が磨けないと博士にはなれんぜ」と主人は少しく眉をひそめたが、本人は存外気楽で、 「博士ですか、エヘヘヘヘ。博士ならもうならなくってもいいんです」 「でも結婚が延びて、双方困るだろう」 「結婚って誰の結婚です」 「君のさ」 「私が誰と結婚するんです」 「金田の令嬢さ」 「へええ」 「へえって、あれほど約束があるじゃないか」 「約束なんかありゃしません、そんな事を言い触ふらすなあ、向うの勝手です」 「こいつは少し乱暴だ。ねえ迷亭、君もあの一件は知ってるだろう」 「あの一件た、鼻事件かい。あの事件なら、君と僕が知ってるばかりじゃない、公然の秘密として天下一般に知れ渡ってる。現に万朝まんちょうなぞでは花聟花嫁と云う表題で両君の写真を紙上に掲ぐるの栄はいつだろう、いつだろうって、うるさく僕のところへ聞きにくるくらいだ。東風君なぞはすでに鴛鴦歌えんおうかと云う一大長篇を作って、三箇月前ぜんから待ってるんだが、寒月君が博士にならないばかりで、せっかくの傑作も宝の持ち腐れになりそうで心配でたまらないそうだ。ねえ、東風君そうだろう」 「まだ心配するほど持ちあつかってはいませんが、とにかく満腹の同情をこめた作を公けにするつもりです」 「それ見たまえ、君が博士になるかならないかで、四方八方へ飛んだ影響が及んでくるよ。少ししっかりして、珠を磨いてくれたまえ」 「へへへへいろいろ御心配をかけて済みませんが、もう博士にはならないでもいいのです」 「なぜ」 「なぜって、私にはもう歴然れっきとした女房があるんです」 「いや、こりゃえらい。いつの間まに秘密結婚をやったのかね。油断のならない世の中だ。苦沙弥さんただ今御聞き及びの通り寒月君はすでに妻子があるんだとさ」 「子供はまだですよ。そう結婚して一と月もたたないうちに子供が生れちゃ事でさあ」 「元来いつどこで結婚したんだ」と主人は予審判事見たような質問をかける。 「いつって、国へ帰ったら、ちゃんと、うちで待ってたのです。今日先生の所へ持って来た、この鰹節かつぶしは結婚祝に親類から貰ったんです」 「たった三本祝うのはけちだな」 「なに沢山のうちを三本だけ持って来たのです」 「じゃ御国の女だね、やっぱり色が黒いんだね」 「ええ、真黒です。ちょうど私には相当です」 「それで金田の方はどうする気だい」 「どうする気でもありません」 「そりゃ少し義理がわるかろう。ねえ迷亭」 「わるくもないさ。ほかへやりゃ同じ事だ。どうせ夫婦なんてものは闇の中で鉢合せをするようなものだ。要するに鉢合せをしないでもすむところをわざわざ鉢合せるんだから余計な事さ。すでに余計な事なら誰と誰の鉢が合ったって構いっこないよ。ただ気の毒なのは鴛鴦歌えんおうかを作った東風君くらいなものさ」 「なに鴛鴦歌は都合によって、こちらへ向け易かえてもよろしゅうございます。金田家の結婚式にはまた別に作りますから」 「さすが詩人だけあって自由自在なものだね」 「金田の方へ断わったかい」と主人はまだ金田を気にしている。 「いいえ。断わる訳がありません。私の方でくれとも、貰いたいとも、先方へ申し込んだ事はありませんから、黙っていれば沢山です。――なあに黙ってても沢山ですよ。今時分は探偵が十人も二十人もかかって一部始終残らず知れていますよ」 探偵と云う言語ことばを聞いた、主人は、急に苦にがい顔をして 「ふん、そんなら黙っていろ」と申し渡したが、それでも飽あき足らなかったと見えて、なお探偵について下しものような事をさも大議論のように述べられた。 「不用意の際に人の懐中を抜くのがスリで、不用意の際に人の胸中を釣るのが探偵だ。知らぬ間まに雨戸をはずして人の所有品を偸ぬすむのが泥棒で、知らぬ間に口を滑すべらして人の心を読むのが探偵だ。ダンビラを畳の上へ刺して無理に人の金銭を着服するのが強盗で、おどし文句をいやに並べて人の意志を強しうるのが探偵だ。だから探偵と云う奴はスリ、泥棒、強盗の一族でとうてい人の風上かざかみに置けるものではない。そんな奴の云う事を聞くと癖になる。決して負けるな」 「なに大丈夫です、探偵の千人や二千人、風上に隊伍を整えて襲撃したって怖こわくはありません。珠磨たますりの名人理学士水島寒月でさあ」 「ひやひや見上げたものだ。さすが新婚学士ほどあって元気旺盛おうせいなものだね。しかし苦沙弥さん。探偵がスリ、泥棒、強盗の同類なら、その探偵を使う金田君のごときものは何の同類だろう」 「熊坂長範くまさかちょうはんくらいなものだろう」 「熊坂はよかったね。一つと見えたる長範が二つになってぞ失うせにけりと云うが、あんな烏金からすがねで身代しんだいをつくった向横丁むこうよこちょうの長範なんかは業ごうつく張りの、慾張り屋だから、いくつになっても失せる気遣きづかいはないぜ。あんな奴につかまったら因果だよ。生涯しょうがいたたるよ、寒月君用心したまえ」 「なあに、いいですよ。ああら物々し盗人ぬすびとよ。手並はさきにも知りつらん。それにも懲こりず打ち入るかって、ひどい目に合せてやりまさあ」と寒月君は自若として宝生流ほうしょうりゅうに気燄きえんを吐はいて見せる。 「探偵と云えば二十世紀の人間はたいてい探偵のようになる傾向があるが、どう云う訳だろう」と独仙君は独仙君だけに時局問題には関係のない超然たる質問を呈出した。 「物価が高いせいでしょう」と寒月君が答える。 「芸術趣味を解しないからでしょう」と東風君が答える。 「人間に文明の角つのが生えて、金米糖こんぺいとうのようにいらいらするからさ」と迷亭君が答える。 今度は主人の番である。主人はもったい振ぶった口調で、こんな議論を始めた。 「それは僕が大分だいぶ考えた事だ。僕の解釈によると当世人の探偵的傾向は全く個人の自覚心の強過ぎるのが原因になっている。僕の自覚心と名づけるのは独仙君の方で云う、見性成仏けんしょうじょうぶつとか、自己は天地と同一体だとか云う悟道の類たぐいではない。……」 「おや大分だいぶむずかしくなって来たようだ。苦沙弥君、君にしてそんな大議論を舌頭ぜっとうに弄ろうする以上は、かく申す迷亭も憚はばかりながら御あとで現代の文明に対する不平を堂々と云うよ」 「勝手に云うがいい、云う事もない癖に」 「ところがある。大おおいにある。君なぞはせんだっては刑事巡査を神のごとく敬うやまい、また今日は探偵をスリ泥棒に比し、まるで矛盾の変怪へんげだが、僕などは終始一貫父母未生ふもみしょう以前いぜんからただ今に至るまで、かつて自説を変じた事のない男だ」 「刑事は刑事だ。探偵は探偵だ。せんだってはせんだってで今日は今日だ。自説が変らないのは発達しない証拠だ。下愚かぐは移らずと云うのは君の事だ。……」 「これはきびしい。探偵もそうまともにくると可愛いところがある」 「おれが探偵」 「探偵でないから、正直でいいと云うのだよ。喧嘩はおやめおやめ。さあ。その大議論のあとを拝聴しよう」 「今の人の自覚心と云うのは自己と他人の間に截然せつぜんたる利害の鴻溝こうこうがあると云う事を知り過ぎていると云う事だ。そうしてこの自覚心なるものは文明が進むにしたがって一日一日と鋭敏になって行くから、しまいには一挙手一投足も自然天然とは出来ないようになる。ヘンレーと云う人がスチーヴンソンを評して彼は鏡のかかった部屋に入はいって、鏡の前を通る毎ごとに自己の影を写して見なければ気が済まぬほど瞬時も自己を忘るる事の出来ない人だと評したのは、よく今日こんにちの趨勢すうせいを言いあらわしている。寝てもおれ、覚さめてもおれ、このおれが至るところにつけまつわっているから、人間の行為言動が人工的にコセつくばかり、自分で窮屈になるばかり、世の中が苦しくなるばかり、ちょうど見合をする若い男女の心持ちで朝から晩までくらさなければならない。悠々ゆうゆうとか従容しょうようとか云う字は劃かくがあって意味のない言葉になってしまう。この点において今代きんだいの人は探偵的である。泥棒的である。探偵は人の目を掠かすめて自分だけうまい事をしようと云う商売だから、勢いきおい自覚心が強くならなくては出来ん。泥棒も捕つかまるか、見つかるかと云う心配が念頭を離れる事がないから、勢自覚心が強くならざるを得ない。今の人はどうしたら己おのれの利になるか、損になるかと寝ても醒さめても考えつづけだから、勢探偵泥棒と同じく自覚心が強くならざるを得ない。二六時中キョトキョト、コソコソして墓に入いるまで一刻の安心も得ないのは今の人の心だ。文明の咒詛じゅそだ。馬鹿馬鹿しい」 「なるほど面白い解釈だ」と独仙君が云い出した。こんな問題になると独仙君はなかなか引込ひっこんでいない男である。「苦沙弥君の説明はよく我意わがいを得ている。昔むかしの人は己れを忘れろと教えたものだ。今の人は己れを忘れるなと教えるからまるで違う。二六時中己れと云う意識をもって充満している。それだから二六時中太平の時はない。いつでも焦熱地獄だ。天下に何が薬だと云って己れを忘れるより薬な事はない。三更月下さんこうげっか入無我むがにいるとはこの至境を咏えいじたものさ。今の人は親切をしても自然をかいている。英吉利イギリスのナイスなどと自慢する行為も存外自覚心が張り切れそうになっている。英国の天子が印度インドへ遊びに行って、印度の王族と食卓を共にした時に、その王族が天子の前とも心づかずに、つい自国の我流を出して馬鈴薯じゃがいもを手攫てづかみで皿へとって、あとから真赤まっかになって愧はじ入ったら、天子は知らん顔をしてやはり二本指で馬鈴薯を皿へとったそうだ……」 「それが英吉利趣味ですか」これは寒月君の質問であった。 「僕はこんな話を聞いた」と主人が後あとをつける。「やはり英国のある兵営で聯隊の士官が大勢して一人の下士官を御馳走した事がある。御馳走が済んで手を洗う水を硝子鉢ガラスばちへ入れて出したら、この下士官は宴会になれんと見えて、硝子鉢を口へあてて中の水をぐうと飲んでしまった。すると聯隊長が突然下士官の健康を祝すと云いながら、やはりフヒンガー・ボールの水を一息に飲み干したそうだ。そこで並なみいる士官も我劣らじと水盃みずさかずきを挙げて下士官の健康を祝したと云うぜ」 「こんな噺はなしもあるよ」とだまってる事の嫌きらいな迷亭君が云った。「カーライルが始めて女皇じょこうに謁した時、宮廷の礼に嫻ならわぬ変物へんぶつの事だから、先生突然どうですと云いながら、どさりと椅子へ腰をおろした。ところが女皇の後うしろに立っていた大勢の侍従や官女がみんなくすくす笑い出した――出したのではない、出そうとしたのさ、すると女皇が後ろを向いて、ちょっと何か相図をしたら、多勢おおぜいの侍従官女がいつの間まにかみんな椅子へ腰をかけて、カーライルは面目を失わなかったと云うんだが随分御念の入った親切もあったもんだ」 「カーライルの事なら、みんなが立ってても平気だったかも知れませんよ」と寒月君が短評を試みた。 「親切の方の自覚心はまあいいがね」と独仙君は進行する。「自覚心があるだけ親切をするにも骨が折れる訳になる。気の毒な事さ。文明が進むに従って殺伐の気がなくなる、個人と個人の交際がおだやかになるなどと普通云うが大間違いさ。こんなに自覚心が強くって、どうしておだやかになれるものか。なるほどちょっと見るとごくしずかで無事なようだが、御互の間は非常に苦しいのさ。ちょうど相撲が土俵の真中で四よつに組んで動かないようなものだろう。はたから見ると平穏至極だが当人の腹は波を打っているじゃないか」 「喧嘩けんかも昔むかしの喧嘩は暴力で圧迫するのだからかえって罪はなかったが、近頃じゃなかなか巧妙になってるからなおなお自覚心が増してくるんだね」と番が迷亭先生の頭の上に廻って来る。「ベーコンの言葉に自然の力に従って始めて自然に勝つとあるが、今の喧嘩は正にベーコンの格言通りに出来上ってるから不思議だ。ちょうど柔術のようなものさ。敵の力を利用して敵を斃たおす事を考える……」 「または水力電気のようなものですね。水の力に逆らわないでかえってこれを電力に変化して立派に役に立たせる……」と寒月君が言いかけると、独仙君がすぐそのあとを引き取った。「だから貧時ひんじには貧ひんに縛ばくせられ、富時ふじには富ふに縛せられ、憂時ゆうじには憂ゆうに縛せられ、喜時きじには喜きに縛せられるのさ。才人は才に斃たおれ、智者は智に敗れ、苦沙弥君のような癇癪持かんしゃくもちは癇癪を利用さえすればすぐに飛び出して敵のぺてんに罹かかる……」 「ひやひや」と迷亭君が手をたたくと、苦沙弥君はにやにや笑いながら「これでなかなかそう甘うまくは行かないのだよ」と答えたら、みんな一度に笑い出した。 「時に金田のようなのは何で斃れるだろう」 「女房は鼻で斃れ、主人は因業いんごうで斃れ、子分は探偵で斃れか」 「娘は?」 「娘は――娘は見た事がないから何とも云えないが――まず着倒れか、食い倒れ、もしくは呑んだくれの類たぐいだろう。よもや恋い倒れにはなるまい。ことによると卒塔婆小町そとばこまちのように行き倒れになるかも知れない」 「それは少しひどい」と新体詩を捧げただけに東風君が異議を申し立てた。 「だから応無所住おうむしょじゅう而に生其心しょうごしんと云うのは大事な言葉だ、そう云う境界きょうがいに至らんと人間は苦しくてならん」と独仙君しきりに独ひとり悟ったような事を云う。 「そう威張るもんじゃないよ。君などはことによると電光影裏でんこうえいりにさか倒れをやるかも知れないぜ」 「とにかくこの勢で文明が進んで行った日にや僕は生きてるのはいやだ」と主人がいい出した。 「遠慮はいらないから死ぬさ」と迷亭が言下ごんかに道破どうはする。 「死ぬのはなおいやだ」と主人がわからん強情を張る。 「生れる時には誰も熟考して生れるものは有りませんが、死ぬ時には誰も苦にすると見えますね」と寒月君がよそよそしい格言をのべる。 「金を借りるときには何の気なしに借りるが、返す時にはみんな心配するのと同じ事さ」とこんな時にすぐ返事の出来るのは迷亭君である。 「借りた金を返す事を考えないものは幸福であるごとく、死ぬ事を苦にせんものは幸福さ」と独仙君は超然として出世間的しゅっせけんてきである。 「君のように云うとつまり図太ずぶといのが悟ったのだね」 「そうさ、禅語に鉄牛面てつぎゅうめんの鉄牛心てつぎゅうしん、牛鉄面の牛鉄心と云うのがある」 「そうして君はその標本と云う訳かね」 「そうでもない。しかし死ぬのを苦にするようになったのは神経衰弱と云う病気が発明されてから以後の事だよ」 「なるほど君などはどこから見ても神経衰弱以前の民だよ」