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水干

2022-05-05 11:12 作者:四五言  | 我要投稿

水干是男子平安装束之一。顾名思义,使用沾了水会变硬的简单布料,所谓晴雨两用既方便(《续深窗秘抄》)又简单的服饰,因此命名。 

 

和狩衣相似,盘领(圆襟)一体(没有背缝)的形式。但是领口不用蜻蛉拦住,而是用领的背中心部分和领上前端的纽绑起来拦住。胸前和袖有总菊缀装饰。这种装饰本来是防止缝合开线加固的目的。袖口部分有袖括,刺穿的长部分叫做“大针”,短部分叫“小针”,下面出来的剩余部分叫做“露”。 

 

在平安时代末期的画卷中,可以看到京都的平民多数穿着水干的样子。布料绸缎麻布之类的不固定。庶民好像用染麻或折来表示颜色和纹样的布料,贵族穿的时候多用高级布料。平安时代普通男性的服装,后来公家,镰仓时代进入武家之中被使用,另外,从镰仓时代到室町时代,作为公武小孩(成人前)的礼服被广泛使用。白拍子(游女)的水干,是和童形(小孩)水干构思相连的东西吧。随着时间推移,水干变得华丽,形式齐备,布料质量原本是丝绸以外的布,麻布、葛布多,使用平绢、纱、绫。 

 

穿着一般是穿在袴上,寺院的小孩等的叫“挂水干”,像狩衣一样穿在袴上系带。襟绳除了普通系结外,翻折领在胸前系等各种穿法,在近世武家服制规定中众说纷纭。 

 

贵族的穿着时间,从院政期(応徳三年(一〇八六)から建久三年(一一九二))到镰仓时代,上皇在宇治等远处幸行时,能列举出供奉贵族使用的例子,在镰仓时代后期的“春日权现验记绘”和“弱竹物语绘卷”中,贵族在家庭内的简装可以看到使用了黄色无文水干图。但是,进入室町时代后,直垂流行,武家也经常使用直垂,所以除了童水干等之外,穿着机会减少。能看到近世新井白石像经常使用水干着装图,从幕府的服饰制度中退出。在公家社会,白生平绢和白精好底上系上白绳、黑色袖括和菊缀,用同样的布料附上黑色菊缀“长绢”水干作为小孩的礼服被广泛使用。而且经常被用作公家随从的服装。 

 

众知白拍子是女子用的。第二次世界大战后,作为女子神职的简装被使用。昭和63年(1988年),女子神职的装束被重新制定,神社本厅的服制中基本上省去,规定附记中,记载着暂时可以使用。因此,现在也有使用水干的女子神职人员。 

 

另外,作为流镝马时的射手装束,使用武士常服水干。 

 

水干的穿法 

 

水干有像狩衣一样用组带系住领口的方法,领向内侧折叠成V领,前绳将襷系在胸前的方式。一般将上衣的下摆揶在袴里穿,寺院的小孩等穿的叫“挂水干”,像狩衣一样穿在袴上系带。 

 

穿着带配饰水干的放免 

 

水干的意思是用水洗干,最初是一般庶民穿的,后来下级官员和武士使用,镰仓时代以后和狩衣一样成为了武家的礼服。形状和狩衣相似,圆领、首上的蜻蛉头和受绳代替系绳。穿好时要装在袴里。平安末期流行华丽的喜好,将被称为“附物”的异样装饰品挂在衣服上。这是被称为平安末期的“放免”,可以说是警察下级刑警的样子,放免是将犯下轻罪的不良分子,反过来用于市中取缔等。 

 

1 平礼乌帽子  

2 水干  

3 水干颈上的绪  

4 水干菊缀  

5 附物  

6 水干袖括绪 

7 括袴  

8 藁胫巾  

9 乱绪


*个人翻译 仅供参考 点击主页 发现更多


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水干 

 

水干(すいかん)は、男子の平安装束の一つ。名称は糊を付けず水をつけて張った簡素な生地を用いるからとも、晴雨両用に便利なため(『続深窓秘抄』)ともいうが、いずれにせよ簡素な服飾であることからの命名のようである。 

 

狩衣に似て盤領(丸えり)の一つ身(背縫いがない)仕立てである。ただし襟は蜻蛉で止めず、襟の背中心にあたる部分と襟の上前の端につけられた紐で結んで止める。胸元と袖には総菊綴(ふさきくとじ)の装飾がある。この装飾は、本来は縫い合わせの綻びを防止、補強する目的だったものです。袖口部分には袖括りがあり、刺し貫いた長部分を「大針」、短部分を「小針」と言い、下に出た余り部分を「露」と称した 。 

 

平安時代末期の絵巻では、都の庶民の多くが水干を着ている様子が見られる。生地は絹や麻布など一定しない。庶民は麻を染めたり摺ったりして色や文様を表した生地を用いていたようであるし、貴族が着る場合は高級な生地を多用した。平安時代には一般男性の服装であったが、のちに公家、鎌倉時代に入って武家の間に用いられるようになり、また鎌倉時代から室町時代には公武の童形(元服前)の礼装として多用される。白拍子の水干も、童形水干と発想がつながるものであろう。 


時代が下るとともに水干は華麗になって、形も整い、生地の質も元来絹以外の布であったのが、麻布・葛布が多かったものが、平絹、紗、綾を用いるようになりました。 

 

 

着装は通常袴に籠めて着装するが、寺院の稚児などには掛水干といって狩衣のように袴の上に着て帯を締める着装も行われた。襟の紐は普通に結ぶほか、襟を折って胸前で結ぶなどさまざまな着方が行われ、近世武家故実においては諸説がおこなわれた。 

 

貴族の着装の機会は、院政期から鎌倉時代に、上皇が宇治などの遠所に御幸するときに供奉の貴族が用いた例などを挙げることができ、鎌倉時代後期の「春日権現験記絵」や「なよ竹物語絵巻」では貴族が家庭内での略装として黄色い無文水干を用いている図が見られる。しかし、室町時代に入ると貴族にも直垂が広まり、武家も直垂を多用したので、童水干などを除いて着装機会は減少した。近世では新井白石像に水干着装図が見られるなどしばしば用いられたが、幕府の服飾制度からは脱落している。公家社会では、白生平絹や白精好地に白い紐、黒い袖括りと菊綴をつけ、同じ生地で黒い菊綴を着けた「長絹」という水干が童形の礼装として多用された。またしばしば公家の従者の装束としても使用されている。 

 

女子用としては白拍子が用いたことが良く知られている。第二次世界大戦後は女子神職の略装として掛水干が用いられた。昭和63年、女子神職の装束が新たに制定されて、神社本庁の服制から一応省かれたが、規定の付記に、当分の間用いることができると書かれている。したがって現在も水干を用いている女子神職もいる。 


また、流鏑馬の時の射手装束としても、武士の平常服であった水干が用いられています。 http://t.cn/A66RU507[/cp]

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