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「ゆれる」TK 第一章 第二节 君がいない

2023-06-23 22:57 作者:12センチ  | 我要投稿


君がいない

没有“你”在

    我并不是很理解“喜欢唱歌”是什么样的感觉,但我青春时期唱歌的记忆倒是不少。那时候的我在想着什么、又是为了什么而歌唱的呢?

    因为父母都喜欢听J-POP[1],在全家出门的车上,录音机里会播放往年的民谣,像是南方之星[2]、山下达郎[3]等人的歌曲。受父母的影响,我毫无疑问地也喜欢上了J-POP。

    小学的时候,不知为何,我们全家大概每周都会去一趟卡拉OK。我想可能是父亲发起的吧。在一家人前往主干道边显眼十足的卡拉OK的车上,父亲已经哼起了南方之星的歌。

    在被华丽壁纸包围的小房间里,我不时地唱着南方之星的「逢いたくなった時に君はここにいない(想见你时你却不在身边)」和山下达郎的「クリスマス・イブ(圣诞夜)」。父亲为了不打扰我唱歌,用很小的声音跟着旋律,有时还拿着麦克风一起唱。母亲和姐姐一边翻阅着歌本[4],一边寻宝似的挑选合适的曲目。虽然一家四口不可能为了麦克风而争抢,但不知为何,我们最后总是需要延长预定的两个小时。

    中学时期,我唱了猿岩石[5]的「白い雲のように(像白云一样)」,并在卡式录音带中进行了多重录音[6]。然后也不知为了什么,我给姐姐听了。

    为什么选择了猿岩石,为什么给姐姐听,这些都是谜。然而虽然不记得理由了,但经常能想起那个录音的午后。我和姐姐的房间不知为何有一部分是相通的,我用为了堵住它而布置的书架上的音响,连接上卡拉OK用的廉价麦克风,唱了起来。

    不知是因为喜欢混音的感觉,还是因为对唱歌感兴趣,总之“唱歌”就像呼吸一样,自然而缓慢地融入进我的身体。

    将音轨从录音机复制另一个录音机的过程中[7],我隐约感受到了给自己和声并进行混音的快乐。“啊,不是挺好的吗?”我清楚地记得当时从中感受到了某种微妙的满足感,以至于没有去在意姐姐冷淡的评价。麦克风录音和录音机复制都能轻松完成的aiwa组件[8],实在是得力的助手。

    有一次,母亲拜托我在亲戚的婚礼上表演歌曲。

    在那之前我可能看起来相当喜欢唱歌,但在家人以外的人面前唱歌,我还是很抗拒的。在我的人生中,和朋友一起去卡拉OK的经历屈指可数(只记得初中时陪朋友一起唱过Metallica[9]的「Battery」),在音乐课选拔在全班面前唱歌的人的测试上,也曾故意唱得很烂以避免被选上。我并不是唱得特别好,并且十分不想在众人面前唱歌。

    我不认为这样的自己能应对母亲的要求,但最终,我决定唱米米CLUB[10]的「君がいるだけで(只要有你在)」,并开始了练习。在房间里一边听磁带一边唱,直到把歌词背下来。和家人一起去卡拉OK时也反复唱了好几遍。

    但是在婚礼当天,礼堂没有这首歌的卡拉OK音源。当时的通信卡拉OK[11]还不像现在这样普及。“给我等下,好好确认啊!”我记得当时还是个孩子的我这么想。

    “换首别的曲子不也行吗?”

    虽然母亲这么说,但我还是拒绝了。正因为不是什么都能唱,所以会想要做好万全的准备,从那时开始就一直这么想了。

    “我没法唱没有练习过的曲子。”

    结果,我没能给幸福的二人传达祝福的歌曲。

    而我本人则被巨大的失落感所包围。

    “「只要有你在」?曲目上却是「没有你在」呢……”[12]

    心里想要唱南方之星的「逢いたくなった時に君はここにいない」。

    对我而言,“唱歌”是什么呢?

    实际上至今为止我都未曾想过,同时也搞不明白。虽然是因为喜欢吉他才开始玩音乐的,但从未想过将来自己会和吉他一起编织旋律。

    我喜欢的东西,和把它传达给别人的过程,这两者紧密的关系构建了我创作的音符。

    很久以前,在学生时代交往过的一个女孩为我做了一顿饭,然后她自己把它扔进了垃圾桶,跟我说:“去家庭餐厅吧!”。虽然那一瞬间我不清楚发生了什么事,但一个人能够做到的事情,无论大小,它都可能成为“作品”。事到如今,我非常共情那种半途舍弃的感觉。

    在某个瞬间,我也打开了那个开关。当我自己开心地唱着歌的时候,如果有听众的话,“是否是我能够传达的歌呢?”仿佛有像是龙珠里战斗力探测器[13]一样的东西启动了。

    自己心中不知不觉形成的边界线,让我拒绝把自己展示给别人。这在我的音乐人生中形成了巨大的壁垒,但也正因为有了这种思考,才有了现在的音乐风格,既惹人怜爱又招惹麻烦。会有无人共情的情况,也有理解痛苦的人在,但大多数情况下都只是被归类为“很麻烦的人”。在追逐理想的道路上,创作者总是孤独的。

    那天没能在婚礼上唱歌所产生的空虚感,至今仍铭刻在我心里。年幼的我心中产生的“无法传达”的选项,至今仍给比谁都强烈地希望着“想要传达”的我的音乐赋予了锐利而扭曲的光芒,我如此相信着。


[1] :J-POP(英文Japanese Pop的缩写,是和制英语)是指在日本制作的流行音乐。

[2] :南方之星(Southern All Stars),日本知名乐团。简称为「SAS」或「サザン」,1978年出道,2008年宣布活动休止,2013年宣布再度复出,灵魂人物为主唱之一的桑田佳佑。

[3] :山下达郎是日本乐坛深受1960年代美国流行与摇滚乐影响,并持续创作优质音乐的音乐人。也是无伴奏重唱、Doo-wop和声乐风相关权威人物之一。重视和声,将自己的配唱部分以多重录音方式构成“一人无伴奏重唱”的手法也广为所知。

[4] :歌本是指在电话簿大小的册子上,写有卡拉OK歌名和选曲号码的一览书,用遥控器输入选曲号码。随着触摸屏遥控器的普及,人们已经完全不看歌本了。

[5] :猿岩石,由森脇和成和有吉弘行组成,1997年在搭车旅行途中创作的「白い云のように」获得年底日本唱片大赏优秀作品赏。

[6] :多重录音(multi-track recording)是一种使用拥有多个(通常为4个以上)音轨的多音轨录音机(MTR),将每个乐器部分录在不同的音轨上,最后将每个音轨合并重新录音(混音)的录音系统。

[7] :复制(dubbing)是指复制录像带、音频等的记录内容。将小型盒式录音机或VHS等的记录内容连接2台录音机进行复制,或使用CD收录机等将音乐CD录制到小型盒式或盒式迷你光盘上。

[8] :aiwa是一个以影音设备为主的家电设备品牌。

[9] :Metallica是一支美国重金属乐队。该乐队于1981年由主唱兼吉他手James Hetfield和鼓手Lars Ulrich在洛杉矶组建,其职业生涯的大部分时间都在旧金山。

[10] :米米CLUB(英文:KOME KOME CLUB)是日本的乐队。1982年结成。所属经纪公司是ウェルストーン・ヴォイス。

[11] :通信卡拉OK是利用专用线路、电话线路从专用服务器发送并演奏乐曲等的卡拉OK系统及其设备。大部分是通过MIDI数据传送的。

[12] :一是指曲目上没有“只要有你在”这首歌,二是“君がいるだけで(只要有你在)”和“君はいなかった(没有你在)”使用了相同句型。

[13] :战斗力探测器是一种能够测量战斗者实时战斗力的科技设备。通过战斗力探测器,可以测出任何一个战士的实时能力值,并用数字的形式展现出来。



以下为日文原文:

君がいない

    僕は「歌うことが好き」という感覚がよく分からない。それと相反して、青春時代に歌った記憶は少なくない。あの頃の僕は、何を思い、なんのために歌っていたのか。

    両親はJ‒POPが好きで、家族で出かけるときの車中では、往年のフォークからサザンオールスターズ、山下達郎さんなどの曲がカセットデッキから流れていた。紛れもなくそんな両親の影響を受け、僕もJ‒POPが好きになっていた。

    小学生時代、僕たち家族は、なぜか毎週のようにカラオケに行っていた。言いだしっぺは父親だっただろうか。幹線道路沿いで一際目立つカラオケ店に家族で向かっている車中、父親は既にサザンを口ずさんでいた。

    派手な柄の壁紙に囲まれた小さな部屋の中で、僕はサザンの「逢いたくなった時に君はここにいない」や、山下達郎さんの「クリスマス・イブ」をたびたび歌った。父親は僕の歌を邪魔しないよう小さな歌声で旋律に乗り、時にマイクを持ち一緒に歌った。母親と姉は歌本をペラペラとめくりながら、宝探しをするように歌うべき一曲を選んでいた。家族4人でマイクの奪い合いでもしていたはずはないのだけど、なぜだか僕たちはいつも、入店時に伝えた2時間を延長する羽目になっていた。

    中学生の頃には、猿岩石の「白い雲のように」を歌い、カセットテープに多重録音したこともある。そして僕はどういうつもりか、姉にそれを聴かせた。

    なぜ猿岩石をピックアップしたのか、どうして姉に聴かせたのか、すべてが謎だらけ。だけど、その理由を覚えていない割に、そのとき録音した昼下がりのことをよく思い出す。なぜか部屋の一部が繫がっていた僕と姉の部屋で、その通路を塞ぐように置いてある本棚に置いたコンポに、カラオケ用の安いマイクを繫げて歌った。

    重ねることが楽しかったのか、歌うことへの興味を持っていたのかは分からないが、「歌」は息をするように自然な行為として、徐々に僕の体に組み込まれていった。

    カセットからカセットへとダビングをして、自分の声でコーラスを重ねる快感をうっすらと感じた。「ああ、いいんじゃない?」という、姉の素っ気ない感想が気にならないほどの妙な満足感を得たことをよく覚えている。マイクでの録音もダビングも難なくこなすaiwaのコンポは、相棒として無敵だった。

    あるとき、母親から親戚の結婚式で歌を披露してほしいと頼まれた。

    ここまでで、僕はだいぶ歌うことが好きなように見えていたかもしれないが、家族以外の誰かの前で歌うことには抵抗を感じていた。友達とカラオケに行ったことなど人生で数えるほどしかないし(中学のときに友達がMetallicaの「Battery」を歌うのに付き合った記憶だけがある)、音楽の授業では、クラスみんなの前で歌う人を選考するテストで、必要以上に下手に歌って選ばれないようにしたこともある。取り立てて上手いわけでもない僕は、余程人前で歌いたくないという意識が強く働いていたようにも思う。

    そんな僕が母親の依頼に素直に従ったとは思えないが、いずれにせよ、米米CLUBの「君がいるだけで」を歌うことに決まり、僕は練習を始めた。部屋でカセットテープを聴きながら、歌詞を暗記するまで歌い続ける。家族と行ったカラオケでももれなく何度も歌った。

    しかし結婚式当日、式場には「君がいるだけで」のカラオケ音源がなかった。今のように通信カラオケもそれほど普及していなかったあの頃。「ちょっと待ってくれ、さすがにそれは確認しておいてくれよ」と子どもながらに思ったのは覚えている。

    「他の曲でもいいじゃない」

    母親はそう言ったが、僕は拒んだ。なんでも歌えるわけでもないからこそ、しっかりと準備したものを出したいという気持ちは、あの頃からあったのだろう。

    「練習していない曲を歌えない」

    結局、僕が幸せの真っただ中にいる2人に、祝いの歌を届けることはできなかった。

    そして当の僕は、大きな喪失感に包まれていた。

    「君がいるだけで? 曲目リストに君はいなかった……」

    心の中では、サザンの「逢いたくなった時に君はここにいない」を歌いたい気持ちだった。

    僕にとって「歌うこと」とは。

    正直なところ、今に至るまで考えたことがないし、分かったこともない。ギターは好きで始めたけれど、まさか将来、自分がそのギターと共にボーカルをやるなんてことは思ってもいなかった。

    好きなものと、それを人に聴かせるという切っても切れない関係が、僕の中で音を立てて形成されていく。

    遥か昔、学生の頃に付き合っていた女の子が、僕のために作ってくれた料理を、彼女自らゴミ箱に捨て、「ファミレスに行こう!」と言いだしたことがあった。一瞬何があったのか分からなかったが、対象の誰かができることによって、それは大小関わらず「作品」になってしまうのかもしれない。今となっては、中途半端なものを捨ててしまう、その気持ちがよく分かる。

    どこかの瞬間で、僕もそのスイッチがONになってしまっている。一人だったら楽しく歌えていた歌も、そこに聴かせる誰かが存在してしまうと、聴かせるべき歌かどうかという『ドラゴンボール』のスカウターみたいなものが発動してしまう。

    自分の中にいつしかできたボーダーラインが、人に提供することを拒む。それは、僕の音楽人生においてとても大きな壁を作っているけれど、その思考があるからこそ今の音楽が生み出される愛すべき厄介なものだ。誰にも共感されないこともあるし、痛いほど分かってくれる人もいるが、大方「ややこしい人だ」で済まされる。創作における理想への道は孤独だ。

    あの日、結婚式で歌えなかったことに対する虚しさが、いまだに僕の心に刻まれている。まだ幼い自分の中に生まれた「届けない」という選択肢が、誰よりも「届けたい」と強く願う僕の音楽に、今なお鋭利でいびつな光を与えてくれていると信じている。


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