有用性の「貧しさ」
节选自岸見一郎《人生は苦である、でも死んではいけない》
「有用性」(=経済性)は、人間の幸福にとっては何の意味もない。だが人間は、通常、この有用性に縛られて生きている。縛られていることすら多くの場合、意識されていない。どういうことか見ていこう。
有用性でしか自分や自分の人生の価値を見られない人がいる。「それが何になるのか」「そんなことをして何のためになるのか」。そのように問うことがすでに有用性に毒されている。
社会的な栄達を求める人は、学生の時は、無駄な勉強を切り捨て、効率的に勉強する。勉強は資格を取るなどして安定した職に就き、出世するため、総じていえば成功するためであって、その目標達成に関係ないことには目もくれない。そして、成功すれば幸福になれると固く信じて疑わない。
大学の看護学部で生命論理を教えていたが、国家試験ははるか先のことなのに、試験に出ないことは学んでも無意味で時間の無駄だと考える学生は、教師の前でも過去問題集を取り出して勉強していた。
本も教科書以外は読まない。読むとしても実用的な本を読む。速読する人もいる。日に何冊も読むという。著者の立場から言えば、何年もかけて書いた本を数分で読んでいったことなど思いもよらないのだろう。情報を収集するためであれば「読む」必要もないので、本を読まないで済ませる方法を説くまである。
大学を専門学校化しようとする動きもある。大学ではいずれ「有用」な学問しか教えられなくなるだろう。私が長年教えていた奈良女子大学では、古代ギリシア語は受講生が少ないという理由である年、突如閉講になった。
ギリシア語を閉講するという動きは前からあった。しかし、ギリシア語を閉講するのは、奈良女子大学の恥だと強硬に主張する教授がいたので、何度もその提案は却下された。
教授たちが、ギリシア語、ラテン語が西欧文化の基礎であることを知らないもないはずだが、やがて、古典語を読めない若い教師が教授会で優勢になると、経済的に見合わない、対費用効果が見込めない(というのが理由だったのだろう)ギリシア語は切り捨てられた。
加藤周一は大学生の時、医学部の講義だけでなく、文学部の講義も聞いていた。仏文学の鈴木信太朗助教授による、フランスの詩人、マラルメ研究は途方もなく詳細で、加藤が出席したときには、詩人の生涯という話の一部分で、ある年マラルメの借りた家の家賃がいくらだったかが講義で扱われた。
「『いや、おどろいたね』と私はその頃仏文科の学生であった中村真一郎にいった。『文句をいうなよ、君などは運がいいほうだ』と中村は答えた、『今年はとにかくマラルメの話じゃないか。考えてもみたまえ、マラルメが生まれるまでに、一年もかかったのだぜ、一年も!』」(加藤周一『羊の歌』)
大学の学問はこういうものなのだ。学生が労せずしてやすやすと理解できる講義でなければアンケートに低い評価をするようなことは本来おかしいのである。
なぜ大学がこんなことになってしまったのか。
高校時代に教えを受けた教師は多くは立派な人だったが、中に一年浪人したら生涯年収がどれほど減るかという話をする教師がいて驚いたことを覚えている。損をしないためには、大学で何を勉強するかなど考えず、とにかく入れるところに入るのがいいというのだ。実際、入れるところに入ろうとする人は多い。何かを勉強したいと思っても、入れなかったら何も始まらないではないかという。
そのような学生にとって、浪人したり、留年することは社会に出る前から挫折することなので、そうなることを避けたいと思う。そこで、どの大学に入るのかを偏差値で決める。何を大学で学びたいかということは問題にならない。名のある大学ならどの学部でもいいと思う。どの学部に入るかでその後の人生はずいぶんと変わってくるはずなのだが。
こうして、大学時代は就職前に送るステージでしかなく、大学での勉強は(勉強をするとすればだが)就職のための勉強である。
リクルートスーツに身を包んで就職活動をする学生は、ワープロのソフトも表計算のソフトも使えます、と即戦力のある「人材」として、自分を企業に売り込もうとする。この「人材」という言葉は「人才」とも書き、もともとは優れた才能を持つ人物を意味していたが、今では組織運営の材料というくらいの意味になっている。材料なら他の人と交換可能である。
当然、企業も他の誰にも代えられない「他ならぬあなた」を採用しない。即戦力のある新卒であれば誰でもいい。また、学生が大学で何を学んだかはあまり問題にしない。何も学んでこなかったら即戦力はならないはずだが、必要なことは会社に入ってから学ぶほうが大学で余計な事を学んでくるよりも望ましいと考えるのだ。そのような教育を受けると、いよいよ「人材」になる。
学生は無気力ではなく、必死で就職のための勉強をするのであれば、自分で何を学ぶかを決めているように見えるかもしれないが、何を勉強するかを決めるときの基準である有用性や成功は学生が自分で選んだわけではないのである。社会や世間がよしとした価値観に乗っかっているにすぎない。皆がしていることとなら、安心なのだ。
しかし、彼(女)らが価値あることとして何の疑問もなく目指している社会的栄達、成功は外から与えられた価値でしかなく、内発的に自分が求めたというより、外にある価値に自分を合わせただけである。それゆえ、彼(女)らは積極的で能動的に生きているようだが、その生き方は受け身でしかなく主体的とは言えない。
いつか電車の中で乗り合わせた若い人が突然、何を読んでいるのか問うてきた。その時私がある日本の著名な精神科医の書いた本を読んでいたのを知って気を許したからか、うつ病を患っているという彼は私に打ち明けた。
「大人たちは僕に社会適応しろというのです。でも、それは僕の死を意味します」
自殺を考えるような若者はみな真面目で感受性が強い。彼(女)が直感的に忌避するのは、何の疑問もなく成功を求め、そのために社会に適応することに何の違和感も感じないような生き方だ。そんな生き方を強いられるくらいなら死んだほうがよほどましだと考える人がいても不思議ではない。
イ・チャンドン監督の『バーニング』に、登場人物の一人が、アフリカのカラハリ砂漠のサン族には、リトルハンガーとグレートハンガーがいると語る場面がある。リトルハンガーはお腹が空いて飢えている人、グレートハンガーは、人はなぜ生きるのかをいつも知ろうとする、人生の意味に飢えた人だ。
成功を目指し、実際に成功する人たちは人生の意味に飢えるグレートハンガーではないので、やがて見るように、成功が幸せをもたらすわけではないことを知らない。成功を目標に人生設計をしてみても、老いや病気、さらには死が人生の行く手を遮ることがあることを、何の躓きもなく順風満帆な人生を送ってきた人は考えない。人生の意味など考えもしない。だがそのような生き方は本来的な生き方ではないと真面目な人は知っている。
本来的な生き方とは何か。今ここを生きることだ。それと比べれば、これから先の人生に何事も起こらないかのように人生設計をし、生きる意味などこれぽっちも考えず、人と同じように生きることに満足するような人生は非本来的な偽りの人生だ。このような人生を生きることでは本当の意味での幸福に至ることは決してない。