《樱之诗》禀与直哉的草地对话 重译+导读+注释(4)(终)绝对的神与弱小的神

【导读】在这一节中,禀和直哉对各自的美学观点进行了总结,即“绝对的神(絶対的な神)”与“弱小的神(弱い神さま)”之争。
维特根斯坦在《关于伦理学的演讲(A Lecture on Ethics)》中说道:“就事实和命题而言,只存在着相对的价值和相对的善、正确等等。”在维特根斯坦看来,如果我们说一件艺术品是美的,那么这就意味着相对于某个特定的标准而言它是美的。但是,当我们说一个事项具有绝对的价值(比如绝对的美)之时,我们的意思则是:它本身就是具有价值的,或者说它时时、处处都是有价值的。显然,在世界中我们是不可能找到这样的事项的,因此在世界中不存在任何绝对的价值。正因如此,他在《逻辑哲学论》中写道:“世界的意义必然位于世界之外……在其内不存在任何价值”、“伦理学是先验的(《战时笔记》中作“超验的”)”。我们看到,禀和直哉的观点恰好可以对应于前期维特根斯坦所谈论的这两种“价值”,由此我们便可以将《樱之诗》与《素晴日》联系起来,得到一幅以前期维特根斯坦为中心的、更为完整的思想图景。
【直哉】「だから、稟の美には観客は必要がなかった……」
「所以说,对禀的美来说观众是没有必要的……」
【直哉】「なるほど、もし稟の言う通りなら、美の価値に他人の介在する理由はない」
「原来如此,要是如禀所说的话,在美的价值上就没有他人介身其中的理由了」
【直哉】「人が介在しない美か……、たいそうストイックな美ではあるが……」
「无人介身其中的美吗……,是非常自制的(stoic)美就是了……」
【禀】「そういう芸術家はいますよ」
「这样的艺术家是有的啊」
【禀】「先ほど、草薙くんが口にした詩」
「刚才,草薙君念的诗」
【禀】「エミリ・ディキンソンは生前、わずか7つの詩だけ発表しています」
「艾米莉·迪金森生前,仅仅发表了7首诗而已」
【禀】「1700篇以上の作品がありながらです」
「尽管她有1700篇以上的作品」
【禀】「彼女は、何故、7つしか詩を発表しなかったのでしょうか?」
「她为什么,只发表了7首诗呢?」
【禀】「彼女の詩に、はたして観客が必要だったでしょうか?」
「对她的诗来说,观众当真是必要的吗?」
【直哉】「……」
「……」
【禀】「ソ連時代のレニングラード・フィルの常任指揮者にエフゲニー・ムラヴィンスキーという天才がいます」
「苏联时代的列宁格勒爱乐交响乐团的常任指挥中,有一位名叫叶夫根尼·穆拉文斯基(Евгений Мравинский)的天才」
【禀】「あるリハーサルの時に、あまりにも完璧でその天才を持ってすら信じられない演奏が出来た」
「有一次排练的时候,演奏太过完美,连这位天才都难以置信」
【禀】「ムラヴィンスキーは、その演奏のクライマックスにおいて、この世のものではないような感覚に襲われました」
「穆拉文斯基在那次演奏的高潮之时,感到一种仿佛不属于此世的感觉袭来」
【禀】「だから、彼は、本番をキャンセルした」
「因此,他取消了正式演出」
【禀】「その理由として、『あの通しのリハーサルの様な演奏は今後二度と出来るはずがないからである』と彼は言った」
「这样做的理由,他说,是“因为像那次彩排那样的演奏今后不可能再有第二次了”」
【直哉】「その話は知ってるよ。一応クラシックは嗜む程度には聴いているからな」
「这个故事我知道哟。因为我姑且是个古典音乐爱好者呢」
【禀】「草薙くんほどの芸術家であるならば、そういう瞬間があったハズです。これは、世に出なくても良い。そんな感覚にとらわれた事が」
「是草薙君这个级别的艺术家的话,理应有过这样的瞬间。被“这件作品,不公之于世也无妨”这种感觉所俘获的瞬间」
【直哉】「なるほど、それは手厳しい指摘だな……」
「原来如此,这真是个严厉的指摘呢……」
【注释】这一段话中,禀试图通过诉诸直哉的亲身感受来反驳他的观点。这一策略在严格论证的意义上似乎是无效的(因为从“艺术家感觉艺术不需要观众”并不能推出“艺术不需要观众”),但在说服、启发的意义上是有效的。
维特根斯坦在《关于伦理学的演讲》中为了解释“(既然)没有任何事态自身具有我们称作的绝对判断的强制力,那么是什么东西诱使我们所有的人,比如像我自己仍然想要使用‘绝对的善’、‘绝对价值’这种说法”,诉诸了三种他个人的体验——对世界的存在感到惊异的体验、感到绝对安全的体验和感到有罪的体验。这和禀这里的做法是一致的。
【禀】「草薙くんならば分かっていると思います。美の価値、倫理の価値、そういったものには、絶対の調停者が必要である事」
「我觉得是草薙君的话就会明白。美学的价值,伦理学的价值,对这样的东西来说,绝对的调停者是必要的」
【注释】这里禀和前期维特根斯坦一样将“美”与“伦理(幸福)”并举(《逻辑哲学论》6.421:“伦理学和美学是一个东西。”)。这启示我们:可以将禀与直哉对“美”和对“幸福”的论述看成是一体的。
【禀】「最後の審判。この時にあらゆる醜美が裁かれます」
「最后的审判。届时所有的美丑都将被裁决」
【禀】「だから、芸術家は芸術のために、美のために命をかけられるのです」
「所以,艺术家才可以为了艺术、为了美而拼上性命」
【直哉】「つまりは神か……」
「也就是神吗……」
【禀】「はい、聴衆が価値を持つのではありません。見るものが価値をつけるのではありません」
「是的,并不是听众具有价值。并不是观者赋予其价值」
【禀】「美は、美として存在するが故に価値がある」
「美作为美而存在,因此就有价值」
【注释】此即维特根斯坦所说的“绝对的价值”。
【直哉】「そして、それは、神の存在理由でもある」
「而且,这也是神的存在理由」
【禀】「はい」
「是的」
【直哉】「なるほど……」
「原来如此……」
俺は一言も反論出来なくなる……。
我一句话也反驳不了了……。
【禀】「草薙くん……私から質問して良いかな?」
「草薙君……我可以提一个问题吗?」
【直哉】「なんだ?」
「什么?」
【禀】「草薙くんには神さまはいないの?」
「在草薙君那里,神不存在吗?」
【直哉】「その質問は意味がなさ過ぎるよ……」
「这个问题太没意义了啊……」
【禀】「そうでしょうか?」
「是吗?」
【直哉】「稟は、絵を描く事、美を作り成す事、その行為の背景そのものを“神”と言っているのだから」
「因为,禀你是把画画、创造美这些行为的背景本身称为“神”」
【直哉】「別に、お前は、天国にいる神様の話なんてしてないだろ?」
「你并不是在谈论什么住在天堂里的神吧?」
【禀】「うん。私が言う神はそういうもの」
「嗯。我所说的神是这样的东西——」
【禀】「人が何を信じて、美を創り上げるか、って事」
「人类是相信着什么,而创造出美的」
【注释】这里作者是要澄清:禀所说的神是哲学上的神,而不是(特定)宗教上的神。维特根斯坦也会这样使用“上帝”一词,例见《战时笔记》:“我们可以将我们所依赖的东西称作上帝。”
【直哉】「だとしたら、俺にだって神さまはいるだろ」
「这样的话,即使在我这里,神也存在吧」
【禀】「うん、それは分かる。
けど、草薙くんの神さまは、美の前で、裁く事も、罰する事もしない。
最後の審判の日に何もしない神さま……」
「嗯,这点我明白。
不过,草薙君的神,在美的面前,不会做出裁决,也不会做出惩罚。
那是一个在最后审判之日什么事也不会做的神……」
【直哉】「最後の審判の日に何もしないか……
いや、それはどうかな……」
「在最后审判之日什么也不会做吗……
不不,究竟如何呢……」
【禀】「するの?」
「会做吗?」
【直哉】「どうだろうな」
「谁知道如何呢」
【直哉】「稟の神は、超然だ。その絶対的な神のための美。そういったものを人は形にする」
「禀的神是超然的。为了这绝对的神而存在的美。人类将这样的东西变为有形之物」
【直哉】「古くから西洋……いや、元々原始宗教美術が持っていた性格だ」
「这是自古以来西方……不,从一开始原始宗教美术就已经具有的性格」
【直哉】「だったら、ワイルド的に言えば稟が言う美とはこういう事だ」
「那么,用王尔德的话来说,禀所说的美就是这样一回事——」
【直哉】「人は美を、あるいは、神を模倣する」
「人模仿美,或者说,模仿神」
【直哉】「何故ならば、美は人の存在より遙か先に存在しているからだ」
「要问为什么,因为美在比人类的存在还要久远的过去就已经存在了」
【直哉】「それは、数学者が、数式が人が存在する以前から完全な形で存在すると信じるのと同じ様にだ」
「这种想法,就和数学家相信数式从人类存在之前就以完全的形态存在是一样的」
【注释】这是抽象对象的一个标志性特征:永恒性(eternality)或非时间性(atemporality)。这里的“数式”应当理解为“数式所指称的数学对象”。
【直哉】「だったら、俺が信じる神、あるいは美というのはこういうものかもしれない」
「那么,我所相信的神,或者说所谓的“美”,也许是这样的东西——」
【直哉】「神は人を模倣する
そして
美は人を模倣する」
「神模仿人
并且
美模仿人」
【禀】「なるほど、その言い方……美もまた、人が作り出したものだという事だね……」
「原来如此,这个说法……就等于说“美也是人创造出的东西”呢……」
【直哉】「ああ、そうなるな」
「嗯,是啊」
【注释】应当注意的是,我们不应将“美是人创造出的东西”理解为“美是(人的)心灵独自创造出的东西”,而应将其理解为“美是人在世界之中创造出的东西”,进而“美是人与世界合作创造出的东西”。对此,我想引用当代美学家萨特韦尔(Crispin Sartwell)的著作《美的六种命名(Six Names of Beauty)》中的一段话,我认为它是对直哉美学观点的绝佳总结:
美的对象的多样性曾被用来论证美的主观性。的确,我们无法找出某些内在的品质(intrinsic quality),它们为一切被人们认为美的事物所共有。但这些事物的美也并非仅由我们的欲求所成就。“美在观察者的眼中”这种说法是错误的,因为美是包含观察者和对象在内的情境的一个特征(feature),欲望生于此境,又反过来促使我们为之行动、伤心落泪、爱恋难舍或心潮澎湃。美的事物不是夕阳在视网膜上留下的影像,或这种影像在脑神经上激起的火花。我们体验到的是夕阳之美本身。我们赋美于物,物又还美于我们;美是我们与世界共同创造的产物(beauty is something that we make in cooperation with the world)。
【直哉】「人が作ったものなら、それは完璧じゃない。美に完璧は無く、人々の想いによって虚ろに変化する」
「既然是人创造的东西,那它就不会是完美的。美并不完美,会根据人们的想法而空虚地变化」
【直哉】「人の美に一貫性は存在しない」
「人的美不存在一贯性」
【禀】「弱い神さまだね」
「真是个弱小的神呢」
【直哉】「弱い神さまか……たしかにそうだな。
人々の想い次第で、いくらでも価値を変えてしまう、それこそ二束三文で売られるような神さまかもしれない……」
「弱小的神吗……的确如此呢。
会根据人们的想法而任意改变价值的,也许正就是个不值几文的神……」
【直哉】「美のイデア、そんなものが見えている様なお前には、到底価値なんてないものかもしれない……」
「对于仿佛能够看见美的理型(ἰδέα)的你来说,也许根本毫无价值……」
【注释】请注意这里用的是イデア而不是アイデア(英语idea)/イデー(德语Idee),指的是希腊语中的ἰδέα,即柏拉图哲学中所说的“理型”。这再一次支持了我们将“美是抽象对象”的柏拉图主义(platonism)观点归给禀的做法,因为柏拉图的“理型”乃是哲学史上最早的抽象对象。
(需要澄清的一点是,首字母小写的“柏拉图主义”在当代哲学中指的并不是柏拉图本人的哲学观点,而是“X存在”“X是抽象对象”“X独立于人类”这三个主张的合取,尽管它明显与柏拉图有紧密的联系。事实上,禀显然不会全盘接受柏拉图本人的哲学观点——比如他对艺术和艺术家的鄙夷。)
【直哉】「それは弱い神さまだ」
「那是个弱小的神」
【直哉】「だが、人が美と向き合った時」
「但是,当人面向美的时候」
【直哉】「あるいは感動した時」
「或是有所感动的时候」
【直哉】「あるいは決意した時」
「或是有所决意的时候」
【直哉】「そしてあるいは愛した時」
「又或是有所热爱的时候」
【直哉】「その弱き神は人のそばにある」
「这个弱小的神就会在人的身旁」
【直哉】「人と共にある神は弱い神だが、
それでも、人が信じた時にそばにいる」
「与人同在的神是弱小的神,
但尽管如此,当人有所相信的时候,它就会在身旁」
【直哉】「人が作り出した神は、たしかに弱いかもしれない」
「人创造出的神,也许的确很弱小」
【直哉】「けど、人が作り出した神だからこそ、人と共にある」
「但是,正因为它是人创造出的神,所以才会与人同在」
【注释】绝对的、超验的、世界之外的美只有禀这样的天才能够“看见”,而相对的、经验的、世界之内的美则能够为所有人所拥有。
【直哉】「俺は、美というものを、そう考えている……」
「我对“美”这种东西,就是这样想的……」
【禀】「それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします」
「若那是虚无的话虚无本身即是如此
在某种程度上为众人所共通」
【禀】「(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)」
「(因为就像一切是我之中的众人一样
它是众人各自之中的一切)」
【禀】「まるで春と修羅だね」
「简直就像春与修罗呢」
【注释】上面的四句诗引自宫泽贤治的诗集《春与修罗》的序诗,禀用它们来概括直哉的美学观点。
前两句稍微好懂一些。“那(それ)”在原诗中指的是“被记录下的如其所是的景色(記録されたそのとほりのこのけしき)”,在这里则用来指直哉意义上的美。
后两句则略有困难。“它是众人各自之中的一切”的原文“みんなのおのおののなかのすべてです”主语不明,有的译者认为主语是“一切”(如顾锦芬将这句译作“一切也是大家各自心中的一切”,参见《不要输给风雨:宫泽贤治诗集》),也有的译者认为主语是“我”(如Hiroaki Sato将这句译作“I am everything in everyone”,参见《Miyazawa Kenji: Selections》),等等。为了能够容纳各种不同的理解,我在翻译时选择了“它”作为主语。
【直哉】「ああ、そうだな……。春と修羅みたいだ」
「嗯,是啊……。就像春与修罗一样」
【禀】「そっか……」
「这样啊……」
【禀】「…………………………………………………」
「…………………………………………………」
(译者注:这是实际显示的文字。禀的语音说的是:
「本当は……私だって、そうなんだけど……」
「其实……即使是我,也是这样就是了……」)
稟が何かをつぶやいた。
禀喃喃自语着什么。
立ち上がる稟。
禀站起身来。