欢迎光临散文网 会员登陆 & 注册

「押井さんの卒業制作映画は、どこか『天使のたまご』と似合っているところがあった」

2022-11-04 17:03 作者:机巧莫几不会画画  | 我要投稿

出処:押井守・キネカ大森・6夜連続ティーチ・イン記録 「アニメよ、いったいおまえに何ができるのか?」37~55ページ

日付:(1986年)3月10日

片桐卓也プロフィール

    昭和31年生まれ。早稲田大学卒業。フリー編集者。映画好きで、山中貞雄監督の「丹下左膳・百萬兩の壺」を必見の映画と確信。

金子修介プロフィール

    昭和30年生まれ。東京学芸大学卒業。大学時代に映像芸術研究会に所属。卒業後、日活に助監督として入社。監督作品「宇能鴻一郎の濡れて打つ」「みんなあげちゃう」。

押井守プロフィール

 昭和26年生まれ。東京学芸大学卒業後、ラジオの仕事や会社勤めをへて、アニメーションの世界へ。竜の子プロ→スタジオぴえろに勤務後、フリーに。映画「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」を監督し大ヒットをとばす。現在は、「紅い眼鏡」(実写/千葉繫主演)を監督中。

「ブニュエル、見たぜ」にカルチャーショック

片桐 金子さんは、押井さんの大学時代の4年後輩なんですって?

金子 ええ。映像芸術研究会の先輩・後輩になります。

片桐 そこで、押井さんの学生時代がどのようなものであったか、後輩の金子さんのほうからまずお話をうかがいましょうか。

金子 ふたりとも東京学芸大学の小学校教員養成課程でして、ぼくが国語科で押井さんは美術を専攻していました。

 しかし、ふたりの出会いは、大学の授業にはいっさい関係ないところからスタートしたんです。ぼくが“映研”の存在を知って、その部室を訪れたときのこと。当然ぼくは1年生の春。ところが、いつ行っても部室には鍵がかかっている。で、どうしたら入室できるかをいろいろな人に聞いてみたら、どうも「押井さんという人が鍵をもっている」というウワサを耳にした(笑)。

 しかし、この押井さんは、なかなか部室にやってこない。やっとのことで、見つけた押井さんに話を聞くと、映像芸術研究会は、押井さんをふくめてたったふたりだという(笑)。しかも、4年前に押井さんが設立したときからずーっとふたりだけで、4年目にして初めて後輩、つまりぼくが入会したというわけだったんです。

片桐 ということは、金子さんが押井さんに初めて会ったときは、押井さんが卒業してしばらくのときだったんですね。

押井 いいえ。ぼくは、大学に入って4年間は映画ばかり撮っていましたから、単位をひとつも取ってなかったんです。だから、あと残りの2年間で卒業するための勉強と、映画を作ってできた借金の返済のためのアルバイトばかりをやっていました。

金子 ですから、ぼくが入学してからは、卒業のときまで押井さんは1本も映画を作らなかったですね。

 で、最初の出会いのときに、押井さんと、もうひとりの先輩の3人で近所の喫茶店にいったんです。

 そしたら、押井さんから開口一番「ブニュエル、見たぜ」というセリフが出ましたね(笑)。

 ブニュエルというのは、ルイス・ブニュエルという監督のことで、当時「ブルジョアジーの秘かな愉しみ」という彼の映画が日本でも上映されていたんです。1974年ごろの春のことです。そのことばをサラリと口に出す押井さんは何とカッコイイのかなぁと、そのときは一種のカルチャーショックを受けましたね(笑)。

 ぼくも、高校時代8ミリ映画に凝っていた、いわゆる“映画青年”でしたけど。押井さんも筋金入りでしたね。

片桐 そのおふたりが、究極的には現在のような映画の仕事についていらっしゃるわけですが、その当時は、教員養成の授業を受けていたというのは不思議ですねぇ。

金子 ぼくが、小学校の国語の先生になるコースでした。

片桐 それがいまではロマン・ポルノの監督として名を馳せているわけですから、人間の進む一寸先はまったくわからないですね(笑)。

 その意味では、押井さんは美術を専攻されて、デッサンの勉強もなさったそうですから、いまのアニメーションの監督という仕事と相通じる部分があるのでしょうね。

押井 いやいや、それが絵は下手でしたよ。絵が何とか描けるようになったのは、アニメーションの世界に入って絵コンテを描くようになってからですね。

 だけど、それでもぼくの描く絵は、人間のプロポーションをつかめないほど下手なんです。たとえば、どのプロポーションを描いても脚はガニ股になってしまう。ですから、アルバイトで匿名の絵コンテを描いても、ぼくのはすぐバレてしまう。

 「うる星やつら」の、あたるがガニ股になってしまったというのが実情です(笑)。

小学校の教師になっていたかもしれない

金子 ぼくが入学してから2年間は映画は撮ってませんでしたけれど、その前に撮った映画を見せてもらったのですが、それが何と形容したらいいのか、ムチャクチャな映画でしたね(笑)。

押井 あれは「屋上」だろ?8ミリで50分ぐらいの長さだったかな。あの作品はふたりの共同製作で、もうひとりの人間が脚本を書いたんです。

片桐 その人は、学芸大のもうひとりの映研の学生ですか。

押井 いいえ、ちがいます。なぜか一橋大学の学生で、当時のぼくのプロヂューサー的役割をはたしていた男です。いま彼は、自衛隊の情報将校になっているらしい(笑)。当時から、権力に憧れていた男ですからね(笑)。

 ストーリーは、ふたりの男が夜汽車に乗っていると、可愛い女の子に出会って、朝、列車が駅に着くと、そこが屋上だった(笑)。そこで3人で共同生活を始め、その奇妙な三角関係のなかで、マゾっ気のある男が、別の男になぐり殺される、といったもので、ぼくもできあがった物を見たときは、びっくりしまして、オレもワケのわからん男にひっかき回されてるなぁと思いましたね(笑)。

 そのとき、ぼくは、監督兼カメラマンで、しかも、役者としても登場しています。

片桐 殺されるマゾの男ですか(笑)。

押井 いやいや、女の子が悪漢に襲われてヒドイ目にあっているのを、主人公に知らせに行く少年の役です(笑)。

 この通りの童顔ですから、他の映画に登場したときも、たいていは、少年の役でしたね(笑)。

金子 その「屋上」という映画は、なにがなんだかワケのわからない映画でしたが、卒業制作の「ドーリア」という映画は、何となく「天使のたまご」と似てなくはない映画ですね。16ミリで25~26分の小品でしたけど、スチール映画でした。

押井 その映画の場合は、ストーリーに関係ないスチールを先に撮っておき、それをあとからつなげてひとつの物語にするものでした。

 内容は、鳥の概念、観念のことをぼくが好きだったこともあって、それをテーマにして作っていきました。

 その撮影用に、白いハトを1羽500円で買ってきて、1年間ハトと一緒にアパートで暮らしたことがあります。そのハトのスチールと、井の頭公園(東京・武蔵野)の池の波紋とか、そこに浮かんでいる板きれだとかのスチールを撮っておき、あとで、それらをひとつに並べて物語を作っていくわけです。

 この作業がぼくはわりと好きで、いまから思えば、ロケで大きな声を張り上げて演技指導をしたりする実写よりも、アニメーションの監督に向いている資質だったなぁ、という気はします。

 1年間、ハトを部屋のなかに飼っていると部屋中が羽根とフンだらけになって、あるとき、思いあまって、夜中にハトを放したことがあります。

 つまり、それはハトの死を意味するわけで、ハトは人間がエサをやらないと生きていけないのです。その意味で、ぼくは、鳥に愛情があるというのではなくて、鳥の概念を追いかけていただけだといえますね。

 当時のぼくは、端的にいえば、全世界を相手に映画を作っているという気負いがあって、極度に抽象的であり、観念的であったことは確かですね。

 そんなぼくらの世代の映画観といったものを根底からくつがえしたのが、金子さんでしてね(笑)。内容は、最初から学園コメディであって、さらに製作ニュースという新聞を発行して資金を集めちゃう。その他にもいろいろなところから資金調達の方法を考え出して、映画製作にかかわろうとしている。その姿勢には正直いってぼくもショックを受けましたね。そのあまりに実践的な映画とのかかわりに対して、ね。

金子 だけど、お金は足りませんでしたよ。大学で上映しても、観客はほとんどいませんでしたね。

片桐 金子さんは、でも4年間で卒業したのでしょう。

金子 ええ。

片桐 そして、日活の助監督として入社された。

金子 そうです。

片桐 押井さんは、学芸大学を卒業されたあとの経緯はどうなっているのでしょうか。

押井 卒業して、ラジオの仕事をしてすぐやめ、そのあと1年半ぐらい会社勤めをしました。だけど事務所にいて、ひたすらテレビのCMを録画するだけで、いいかげんウンザリして、そこをやめ、しばらくは失業してブラブラしていました。

金子 そのころですが、教師にでもなろうか、といっていたのは......。

押井 そう。

金子 そのときね、暗い表情をして、オレは教師になるからっていうんです。で、ぼくの友だちにその申込書をあずけたんですよ。

 ところが、ぼくの友だちはそれを提出するのをコロッと忘れてしまい、結局、押井さんは教師の道を閉ざされてしまった。

 それで、竜の子プロに入ったんでしたよね。

押井 うん。

金子 それを聞いて、ぼくはコーフンしましてね。押井さんは、映画には興味をもっていたけれど、アニメーションについては映画ほどの熱心さはなかった。しかし、ぼくは、世代がひと回り下のせいもあって、アニメーションには思い入れがあって、竜の子プロからの帰り、押井さんのが絵コンテをもって帰ると「これが、あの絵コンテというものか」と、ひどくうっとりしたことがあります(笑)。

押井 「ヤッターマン」のころだったよなあ。

金子 そうです。しかし、ぼくの友だちが、もし誠実に教員申込書をもって行ったら、今日のアニメ監督・押井守はなかったかもしれない、というのは……。

押井 運命のめぐりあわせだろうねぇ。

眠くなる一歩手前で小刻みの感動を与えつづける

片桐 話は「天使のたまご」に移りますが、ご覧になって、印象はいかがですか、金子さん。

金子 じつはね、その前にこういう話があるんですよ。

 押井さんが「うる星やつら」のチーフディレクターになったとき、ぼくにその脚本をひとつ書いてみないか、と依頼したわけ。そのとき押井さんは「おまえも日活で助監をやっているあいだに、まずメジャーの洗礼を受けたほうがいいよ」といったんです。「メジャーの洗礼を受けるということが、メジャーの仕事をすれば、とにかくわかるっ」といった。その張本人が、こういう作品を手がけたことは、ちょっと理解に苦しむんですよ(笑)。

押井 映画のなかで、メジャーであるかマイナーであるかを考えても、どうにもならないのじゃないか。映画産業自体がいまはマイナーになりつつあるというときに、映画のマイナー性、メジャー性は関係ないのじゃないかな。

 「うる星やつら」だって、スタートしたときは完全なマイナーで、そりゃもうボロクソにいわれ、脅迫状さえ来たほどでしたからね。「2001年宇宙の旅」というスタンリー・キューブリックの映画、いまでこそSF映画の古典といわれるほどの大メジャーになっているけれど、ぼくが中学校のとき見た当時は「何だかサッパリわからない」「よくこれだけひとりよがりの映画が作れるなぁ」という批評があったくらいの、完全なマイナーだったからね。

 こう考えると、映画にとってのマイナー、メジャーは何なのだろうということですよね。

金子 ……まあ、その点は置きまして「天使のたまご」の感想は、ひとことでいえば、寂しいなぁ、という印象でした。豊かな感じがない。ホメようとすれば、いくらでもホメられるけれど、きょうは、先輩、後輩の特権をフルに生かして、あえて悪口をいわせてもらいますよ(笑)。

 つまり、解放感があまり感じられないのですね。もう少し、説話的なストーリーがあったほうがよかったと思う。

 あと具体的な話として、最後のシーンで、少女の乗ったものが、ノアの方舟だったという落ちは、ショッキング度としては大したことがなっかた。それよりも「うる星やつら2」の映画で、友引町がじつはカメの甲羅の上にあったというほうが、よりショッキングでした。

 カットは非凡でしたけど、構成全体は非凡なものを感じなかった。すでにどこかで見たような気がしました。

押井 たぶん、金子ならそういうだろうなぁと思っていた(笑)。

 金子のいったことに、あえてぼくなりの説明を加えさせてもらえば、「天使のたまご」のノアの方舟と「うる星やつら」のカメの甲羅とは、演出上の効果の意味あいがぜんぜんちがうということ。

 友引町がカメの甲羅の上にあることは、金子のいう通り、ショッキングでなければならなかった。そのために、お金もかけてオプチカル合成もしたりし、ワンカットで見せた。

 けど、今回のノアの方舟の場合はそんなこと考えなっかたから、背景を4枚描いてもらって終わりにした。その意味あいは、いままでこのアニメーションで見てきたドラマを反芻してほしいということだったんだ。

 「天使のたまご」は、見ている人が、退屈で退屈で眠くなるようなギリギリのところで、緊張感を持続させる小刻みの感動を与えつづけたい、という手法をとった。

 それが、エンターテインメントであるかどうかは、いまの段階では、何ともいえない。ただぼくは、エンターテインメントだと強調したい。

金子 いま押井さんがいった「眠ってしまうギリギリのところ」ということばがあったけれど、眠ってしまったらどうなるかという問題があるような気がするんですよ(笑)。

アニメーションが現実をなぞったら終わり

金子 押井さんのネラっている意図は十分わかります。だけど、もう少し何とか……たとえば、最初のシーンの手のカットなどは、フルアニメにすれば、もっと質感が出たのじゃないかと思うわけです。

 また、水の描写が波紋によって描かれていましたが、水という感じがしなっかた。ディズニーの「ピノキオ」に出てくるような水の質感がなっかたんですよ。確か「風の谷のナウシカ」のときも、水の波紋が出てきて、今回の映画と同じような気がした。

 あの水だと頭のなかで「あれは水だ」という認識がなければ、とても水とは思えない。もし、予算が許すならば、フルアニメでやったら人物の動きなどは、きっといいと思うんですがねぇ……。

片桐 アニメーションでは、水の表現は、本当にむずかしいですよね。

押井 ノルシュテインという人の「霧につつまれたハリネズミ」というアニメーションがありますが、そこに描かれる川は、とても水の表現がすばらしいんです。それはセルアニメじゃないせいかもしれないけれど……。

 そのとき、ぼくは、水の冷たさまでをセルアニメで表現するのはムリだなぁ、と感じたんです。

 しかし、アニメーションというのは、もともとある種の抽象的な表現で実感を喚起するのが表現上の原則である、とぼくは思います。アニメーションのもっている抽象性、別のことばでいえば様式性といったもの、これを全面に打ち出すのがアニメーション本来の姿だと思っています。

 だから、水の波紋は、フルアニメにすれば確かにリアルになることを十分承知のうえです。

 また、少女や少年の歩き方についても、リアルさを出そうとするなら、ラルフ・バクシのやっているライブ・アクションのやり方ですれば、もっとも効果があがることになる。

 それは、ぼくはぜったいしたくない。バクシのやっていることは賛成できないのです。

 2コマ、3コマ、あるいは1コマのアニメーションを作るにしても、ライブ・アクションを使うよりも、人間の手が生み出すある種の様式美のほうが、やはり価値があるはずだと思います。

 アニメーションが、何かをなぞっているかに見せて、じつは様式のなかに観客をひきずり込んでしまう、これがアニメーション本来の演出ですよ。

 ぼくは、お金があっても、フルアニメをやりたいとは思わない。現実をなぞるバクシのアニメーションはグロテスクですよ。ディズニーのアニメーションも、小さいときからあまり好きじゃなかった。

 くり返しになるけれど、ぼくがこのアニメーションで意図したことは「人間の心のなかに眠っている起源の古い感情を呼び起こしてみたい」ということ。

 それは、たとえばバクシのようなアニメーションの世界では絶対に生まれてこないことです。少なくともぼくはそう思っています。

 アニメーションの表現の可能性と物語性の可能性が、うまくかみあっていない、と問われたら、その批判は甘んじて受けるけれど、「もっと物語性を」「フルアニメにしたほうがリアルになる」という批評を受けても、ぼくは正直いって、困る。本当に困るんだ......。

観客との質疑応答

質問者A(以下A) いまビデオアニメが氾濫していますが、ぼくはビデオアニメはほとんど見たことがないし、見るのは時間の無駄じゃないかと思っていますが、押井さんはどうお考えですか?

押井 ビデオの著作者ではあるけれど、製作者ではないので好きなことをいっちゃいます。ものすごく高いんですよね、はっきりいって。これが100円とかね(笑)、せめてロードショーを見るときの値段の1500円なら納得できる。それが1本、1万何千円。内容がそれに見合うようなものかというと、ほとんどがそうじゃないと思う。ビデオアニメ全体についてどう思うかといわれれば、そう思うとしかいえませんね。

 オリジナルビデオの可能性についてどう考えるかといわれれば、その可能性はあまり信じられないという感じですね。ぼく自身「ダロス」という作品で数年前に先鞭をつけちゃった立場だし、1本こうして「天使のたまご」という作品を作ったばかりで、こんなことをいうのは、不遜というかメチャクチャひどい話だと思うかもしれない。けど、テレビ、劇場につづく第3の表現の場としての意味で燃えていたころから考えると、残念ながらその後の展開はそういうふうにならなかった。

 その理由は、やっぱりいろいろな問題はあると思うけれども、第一にプロデュースする人間の問題であり、第二には制作現場の人間の問題だと思いますね。現在は、ビデオというとテレビと劇場用作品の中間ぐらいのクオリティで作っときゃいいんだろうというような感じで、実示しえなかったこと、それが問題だと思いますね。

 ビデオアニメに未来はあるでしょうか?

押井 はっきりいって、ぼくはないと思いますね。ビデオとかディスクとかのニューメディアといわれるようなものが、表現の場として定着するには基本的な何かが欠落していると思います。映画をパッケージにして本と同じようにして売るということが、どういうことなのか検討されない限りは、だめでしょうね。

 たとえば、ビデオソフト1本の定価は、原価計算して出てきた値段でしかない。ところが、いわゆる映画の場合はちがうわけですよ。

 その作品があたっても、あたらなくても、入場料金は1500円。あたらなかった場合は製作者がリスクを負う。その代り、あたったらぜんぶぼろもうけだよと。こういうシステムがあって初めて、無謀な企画もありうるし10本に1本あたればいいやという考え方も出てくる。そういう製作の土壌が生まれない限り、ビデオの世界での表現は出現しないだろうと思いますね。

 *

質問者B(女性) 金子さんと押井さんとの話の中でフルアニメの話が出ましたが「天使のたまご」は、フルアニメではないけれど、背景とかも芝居をしている感じがしてすごいと、私は思いました。けど、顔のアップになるとペタッとして画面が止まってしまう感じを受けたのですが?

押井 それは、現場でもラッシュを見たときアニメーターをはじめとしてみんなショックを受けたことなんですよね。ひきのサイズ・フルサイズ・バストサイズで動いているときはあれほど生命感があったものが、少年のアップになったときは、口パクだけしてるって。仕上げの女の子なんかは、それを見たときスクリーンの前でわめいたんですよ。「突然、アニメーションになった!」って。いわゆる見慣れたアニメーションになっちゃったということですよね。

 それを防ぐ方法というのは、あるにはあるんですよ。アップになった場合でも、何か芝居をつけるということなんですよ。首を回すだけでもなんでもいい。アメリカのアニメーションっていうのは、そうなっている。たえず動いているんですよね。けど、それをやっちゃうと、さっきぼくがいったような意味合い(編注/48~49ページの話のこと)では、破綻してしまう。

 というわけで、アップでもあれは目をつぶってやっちゃったんです。でも、ぼくのカット割りがもっとよければそう意識されないですんだかもしれない。その点では失敗だったと思っています。

 ぼくもラッシュを見たときには「しまった!」と思いましたよ、あれは。セリフを入れて、音楽をかぶせればもう少しなんとかなるんじゃないかと最後まで希望を持っていたんですけど、結局、少年のアップはある種の違和感を感じてしまうものになったのは、どうにもならなかった。まったく、あなたのおっしゃる通りです。

 *

質問者C(以下C) 話はもどりますが、さっきビデオアニメの限界の話がありました。ぼくは、ビデオアニメだけじゃなく、劇場もテレビアニメーションもなんか覇気がないというか、ドラマ自体に胡散臭いものを感じているんです。それは、戦争のように目に見えるような形で進行しているのではなく、どこからか不可解な目に見えない形で解体されていっている気がするんです。

 アメリカ映画、たとえば「グーニーズ」やスピルバーグの一連の作品を見ても、バカバカしい。「うる星やつら」でさえ、胡散臭い。昔のテレビアニメは稚拙だけれど、どこか真実味があったのに。

 つまり、どこを向いても、解体の波が押し寄せている感じがある。それなのに押井さんは、アニメーションの手法を信じているという。押井さんは、ドラマ全体の未来をふくめた形で、そのへんをどう考えているのかお聞きしたいです。

押井 映画の技術がどうのこうのとか、1秒間60コマの世界がくるとかといった所とはまったく無関係な部分で、映画が本来持っていた力がどんどん衰弱してる。それは大もとでいえば、ぼくもドラマの問題だと思う。

 物語がだんだん機能しなくなっていると思うし、もっといえば虚構というものに人間がかかずり合っていたレベルが、みえなくなってきていると思うんです。どんなに巧みに、どんなにリアルに物語を作っても、現実ではありえないもの、別の話を見るということ持っていた意味を、人間がつかみそこねている気がしてるんです。

 与えられた物語をいかに見せるか、いかに人を興奮させるかっていうことだけじゃなく、どういう物語だったらいいのかという問題だと思うんです。どのような物語だったら、見る人間にとって切実であると同時に、日常ではない虚構の世界でありうるのかということです。それが、いちばん大きな課題だって気がするんですよ。

 ところが、正直いって、それがぜんぜんわからない。わからないからこそ、ここ数年もがいているわけです。

 ただ、その中でぼくがやってみようとしていることは、冒険活劇の世界であるアニメーションの世界に、ややちがうスタイルの物語を持ち込もうということなんです。それは、観念劇であったり、極端に表現に依存する物語らしからぬ物語だとか、です。そういうことをやってみて、糸口でもつかみたいと思っているわけです。

 とにかく、その問いかけがあるあいだは、そういう気持ちでやるしかないということですね。それも、作家的作業をはたすという形の中でではなく、人のお金で作らせてもらって、なるべく多くの人に見てもらって、回収してという形態の中に、その問いを持ち込んでいかない限りだめだろうという確信はあります。やっぱり、大衆的なものでなきゃあかん、というカンはある。といって、スピルバーグじゃあかん。どうしたらいいのか、身もだえしているところです。

 同じ問いについて、金子さんはどう考えられますか。スクリーンでいま見せるべき虚構は、どのようなものだとお考えですか?

金子 ぼくもよくわかんないです。「バック・トゥ・ザ・ヒューチャー」を見たとき「すべての文化は、歴史を忘却させる装置になりさがっている」という論文を読んだ記憶が、よみがえってきたんです。まさに「バック・トゥ・ザ・ヒューチャー」は、文字通りおもしろいんだけど、歴史を忘却させる装置になっていると感じました。おもしろいことが、歴史を忘れさせることなんだと、実感したんですよね。

 だから、おもしろいってことはそういうことに奉仕することなのかって、悩んでしまったりしました。だけど、まあ、ぼくは、押井さんほど頂点に登りつめてないので(笑)、これからもがんばっていきたいと思います。講訳師にならないように、実作者としてがんばっていきたいと思いますね。

押井 実作者であることは大事なんだよ。ぼくも、べつに講訳師になる気はないわけで。ただ、じゃあ、どんどんパワフルに作っていけばいいのかっていうと、なんかちがう。それだと万歳突撃になっちゃうと思う。

 何かひとつでいいんだよね。ひとつ試みることがあればと思うんだけど。

金子 でも、押井さんの場合は、エンターテインメントに徹するっていうスタート台を、だれかがもう1回、作ってあげなきゃいけないんじゃないかと......このままだと仙人になってしまう(笑)。

 話を聞いてても、「天使のたまご」を見てる印象と同じなんですよね。みんなで一生懸命、押井さんをメジャーのエンターテインメントのスタート台にたたせる!そうしてもらいたいと思います。

「押井さんの卒業制作映画は、どこか『天使のたまご』と似合っているところがあった」的评论 (共 条)

分享到微博请遵守国家法律