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太平洋战争前夜——日本驻美大使馆时间线梳理

2023-03-29 17:45 作者:DD杏仁的养成方法  | 我要投稿

本文为《太平洋战争前夜——IJN驻美武官/轻巡“球磨”舰长横山一郎少将》文章的中间部分,由于bilibili篇幅限制原因另起一文。

接下来本人摘录珍珠港那一天横山一郎的回忆录及其他所有驻美使馆的人的回忆录,理一下开战前日本驻美国大使馆内的时间线:(文中时间均为日本东京时间,夏威夷时间需要-19小时,华盛顿时间-14小时

1941年12月8日の駐ワシントン帝国大使館の風景について書く 当時の大使館は、海軍大将野村吉三郎が大使、外交官出身の来栖三郎が応援大使として仕切っていたが、部下の外交官たちが野村大使を支えたという情報は、驚くほどない。 三等書記官八木正男は、下から見た大使館上層部をこう証言している「参事官や一等書記官は,みんな仲がよくなかった」,参事官井口貞夫は「もともと気の弱い性格で,逆に何事も自信家の奥村さんには言われっぱなしだった.軍隊経験をした者にとっては不思議としかいいようがない」・「井口氏は,よくひとりごとをいいながら館内を歩いていた.本来そういう人だった」大使館のナンバー3にあたる「若杉公使は病床にふせっており,殆んど出勤できず,帰国後まもなく死去した」

翻译:1941年12月8日,在驻华盛顿的日本大使馆中,海军大将野村吉三郎担任大使,外交官出身的来栖三郎担任支援大使,大使馆内,外交官们对海军出身的野村大使来解决美日紧张这件事并不令人吃惊。三等书记官八木正男说:“当时参事官和一等书记官的情况都不太好,参事官井口贞夫原本性格就懦弱,反而什么事都被自信的奥村先生说了。对于有过军队经验的人来说,只能说是不可思议。井口先生经常一边说着一个人的话一边走在馆内。他就是这样的一个人,相当于担任大使馆三号人物的一等书记官若杉公使卧病在床,几乎不能上班,回国后不久就去世了。”
野村吉三郎

日米開戦迫る12 月6 日(日本時間),ルーズヴェルト大統領は天皇に親電を送ることにし,ハル国務長官に親電草案を送った.ハル長官は,同僚と修正を加えた上でホワイトハウスに送付した.「その日の夕方,ルーズヴェルト大統領はこれにただ次のような註をつけただけで私のところに送り返して来た。「大至急グルーに送れ.灰色暗号(秘密の度合の最もうすい暗号)でいいと思う.時間を節約するのだ.傍受されてもかまわない.」 解説すると灰色暗号ことグレイコードは、日本では陸海外務省で解読済の暗号書で、アメリカ国務省は電信費削減用に使用していたに過ぎない代物である。

翻译:日美开战迫在眉睫的12月6日(日本时间),罗斯福总统决定向天皇发送亲电,并向赫尔国务卿发送了亲电,“那天傍晚,罗斯福总统只在上面加了以下注释,就把它送回了我这里。罗斯福总统批示:“紧急发送,灰色密码(秘密程度最浅的密码)就可以了,为了节约时间,发可以被监听的电报”,灰色密码在日本是陆海外务省解密的密码件,但是由于其容易被破解,在美国国务院只是用来减少电信费支出时候的标准电报码的替代品。

12月6日21時10分,外務省は「ハル・ノートに対する日本側回答を送るが,長文につき14部に分割し,全部接到するのは明日になる可能性がある」,「訓令次第何時にても米側に手交し得る様文書の整理其の他予め万端の手配を了し置かれ度し」と いう901号電を東京中央電信局から発電した

12月6日21时10分,外务省从东京中央电信局向日本驻美国大使馆发电了901号电文,“针对《赫尔备忘录》,日本已经完成了回答,但由于篇幅过长,被分割成14份,应该是明天能全部到达”,“根据训令,任何时候都可以与美方交换的文件的整理,除此之外,对于美日交涉还预先做好了非常周全的安排”

12月6日22時10分から7日1時25分にかけて,外務省は開戦通告電報902号電信13部を発信した

翻译:12月6日22时10分至7日1时25分,外务省发布了开战通告电报902号电报中的13部

12月7日2時,駐米日本大使館は901号電信を訳した.電信課の吉田寿一は,今夜も徹夜だと考え,引続き接到した電文を順次解訳して,その都度,電信官が直接大使か参事官か書記官室に届けた

翻译:12月7日2时,驻美日本大使馆翻译了901号电报。电信科的吉田寿一依次翻译了电文,电讯官直接将电文送到大使、参事官和书记官室。

※ 对于902号电文,当时驻美大使馆官员的证言——(902号电文中,前13部是美日谈判回顾,也可以说是前情提要,第14部电文是谈判破裂保有自由行动的“准战书”)

① 八木正男三等書記官

「六日から届き始めた電報が,その前に来た訓令よりも,かなりの重要性をもったものだということはわかりました.ただ,次々に来る電報の内容は,これまでの日米交渉の経緯が書かれているだけで,まさか最後通牒だとは思えなかったのです」

“当时我明白了六号开始发来的电报比之前发来的训令更重要。但是,接踵而来的电报的内容,我以为内容只是记载了迄今为止日美谈判的经过并写了终止谈判,没想到外务省的用意是宣战的最后通牒。”

②松平康東一等書記官

「野村さんとぼくとで日米交渉を担当していた.大統領には野村さんが会い,それ以外の条約関係はぼくがやっていたんです.戦争を防ごう,そのための条約をつくろう,ということです.本来ならぼくじゃなくて,若杉や井口さんの仕事だろうが,若杉は日米交渉反対派,野村さんに逆らってばかりいた.自分の東京の家を新築したもので,そのための家具をさがし回っていて,大使館にいないことも多かった.井口は軍部に楯つくのが厭で,日米交渉感知せず,の態度だった.奥村は熱心にやってもよさそうだが,深入りしたくないという態度であった.まあ七日に開戦,それも真珠湾攻撃だなんて,誰も考えつかなかった.予想もできなかった.外務省からはたえず極秘電報がきていて,戦況を含めた情報がもたらされる.十二月の初めだったか,家族を帰せといってきた.そのための旅費も送ってきた.これはいよいよ戦争かもしれない,とは思ったね」

“野村大使先生和我负责日美和谈交涉。在之前野村先生会见罗斯福总统时,提议的和解条约关系是我起草的。当时是为了防止战争,为此制作的条约。本来不是我,而是若杉和井口先生来负责起草条约的工作,若杉是日美和谈交涉的反对派,总是违抗野村先生;井口的话,因为新建了自己在东京的房子,所以在美国到处寻找家具,很多时候不在大使馆,也因为井口无暇顾及军部,表现出对日美谈判不敏感的态度;奥村似乎很有干劲,但其态度只是表面热心,不太想深入美日谈判。美日是12月7日开战,谁也没想到日本会偷袭珍珠港。我也没想到。发生这事后,外务省不断发来绝密电报,带来包括战况在内的信息。也在那时,十二月初,我叫我的家人回国,为此,我还寄给他们旅费。我想这可能就是战争了。“

③ 一等書記官奥村勝蔵

「午後カラ其ノ別電ガボツボツ到着シ始メ,夜半迄ニハ十三通ガ出揃ッタ.ソノ中ニハ部分的ニ電信ガ崩レテ居テ判読シ難イ場所モアッタノデアル」

“午后电报一个个发来,一直到半夜,我才翻译完前13份,中间部分由于电信信号不好,难以判读”

④ 野村吉三郎大使

「六日から入電した對米最後通牒には,末尾において交渉を打切るということが書いてあつただけで,行動の自由を留保するという字句が拔いてあつた.この最後通牒は非常に出來の惡い文章で,その英文も世界が日本の戰爭目的を理解し得ないのも無理はないと思われるくらい讀むに堪えない惡文であつた」

“从12月6日起,日本发来的对美最后通牒中,只在末尾写了‘终止谈判’,并标出了“保留行动自由“的字句。这最后通牒是一篇非常糟糕的文章,其英文层面模糊不清,开战不写开战,写保留行动自由。世界无法理解日本的战争目的,也不无道理。”

事実上、大使館スタッフは外務省が宣戦布告文として送った電文を、そのようには誰一人受け取らなかった。

事实上,大使馆工作人员并没有收到外务省的宣战布告文电文。(其实是拒绝谈判的告文,隐晦表示开战,而非开战战书)

12月7日,アメリカ国務省の極東政策担当者Alger Hiss証言 「わたしはぜんぜん危機感もなく,夕方近く家に帰った.退庁直前に,大西洋の西端から海軍の短い電報が事務室に届いた.今から思うと,その電報は,軍人であれ外交官であれアメリカの高官は日本が判断力を失い攻撃してくる懸念はないと高をくくっていたことを示している.海軍は日本の船団がインドシナの沖合を南下していることを報告してきたのだ.その電報はさらに,船団がこのまま進めば,マレーのコタバルに到達するが,これはたんなる陽動作戦で,おそらく進路を北へ転じてシャム湾に入るだろうと付け加えていた.フランス領インドシナ(現在のヴェトナム,カンボジア,ラオス)は一九四〇年にフランスの首都がヒトラーの手に落ちた後,すでに日本によって侵略されていたので,このように日本の船団が航行しても新しい攻撃を意味することにはならず,したがって,アメリカにとって重要なことだとは思われなかったのである.国務省のわたしたちと同じように,海軍の電報も日本がマレーの英国植民地を攻撃することはないだろうと推測していた」

翻译:12月7日,援引美国国务院远东政策负责人Alger Hiss证言“那天我一点危机感也没有,傍晚就回家了。下班前,从大西洋西海岸传来了海军的短电报。现在想来,这封电报想说明的信息是:无论是军人还是外交官,美国高官都抱有‘日本可能会丧失对现在局势判断力而向美国发起进攻’的担心。海军当时报告说,日本有一支舰队正在从印度支那近海(南海)海域南下航行。该电报进一步说明,如果舰队继续前进,就会到达马来西亚的哥打巴鲁港。当时美国判断,该南下航行只是佯攻,法属印度支那(今越南、柬埔寨、老挝)自1940年法国落入希特勒手中后,早已被日本占领。日本的舰队这样南下航行并不意味着对该区域新的攻击。因此,当时对于美国来说,这个电报并不被认为是重要的。和我们国务院的判断一样,海军那边也推测日本并不会攻击马来的英国殖民地“

12月7日9時40分,Roosevelt大統領が昭和天皇宛に親電を発することを国務省が新聞に発表

12月7日9时40分,美国国务院宣布罗斯福总统将向昭和天皇发出亲电。(内容大概是“日本舰队正南下东海(佛印冲),希望天皇能下令让舰队返回。)

7日10時頃,ハル国務長官は,駐日グルー大使宛に第817号電で「親電の内容を含む貴下宛の重要な電報が,今暗号化されつつある」と打電した.同時刻に国務省の発表としてRoosevelt大統領が昭和天皇宛に親電を発することを,AP・UP電が伝えた.グルー大使はこのラジオを聴いたが親電の内容・伝達方法

7日10时许,赫尔国务卿在第817号电报中向美国驻日大使格鲁发出了“包括亲电内容在内的寄给贵下的重要电报,现在正在被加密”的电报。据美联社电报道,格鲁大使收到了电报亲电的内容和传达方法。

7日10時頃,吉田寿一電信官補証言 「八時ごろですが,奥村書記官が顔をだして『寺崎さんの送別会があるから一緒に行かないか』といったんです.われわれもまったく食事をしないで,この仕事に打ちこんでいましたから腹ペコでした.それで連れていってもらうことにしたんです」これとは別に、中華料理屋チャイニーズ・ランターンで夕食会が開催され,井口貞夫・松平康東・外交官補藤山楢一・八木正男らが出席した.

7日10点左右,根据吉田寿一电信官证言:“8点左右,奥村书记官和我说‘有寺崎先生的送别会,一起去吧’。当时我们都没吃饭,因为埋头于处理日本发来最后通牒的翻译工作,所以肚子饿了。”
当时,在中华料理店“中国·兰顿”举办了晚宴,井口贞夫、松平康东、藤山楢一、八木正男等人都出席了。

外交官補藤山楢一証言 「井口参事官が部屋に入ってきて,「忙しいだろうが,ひとまずメシにしよう.たまには皆で食事がしたいよ」と言い出した.突然では,結城両書記官の姿は見当たらなかったが,今から考えると多分大使公邸の野村,来栖両大使の傍らにいて続々と到着する電信について協議していたのであろう」。

外交官补 藤山楢一 证言:“井口参事官走进房间,说:‘虽然很忙,但大家还是先吃饭吧,大家也好久没一起吃饭了。’突然发现,在大使馆没有看到结城两书记官的身影,但现在想来,大概是在大使馆和野村、来栖两位大使商讨怎么和美方交涉陆续到达的电报信件吧。“

三等書記官八木正男 「六日の夜は,寺崎さんを囲んで会食をしたのは事実です.チャイニーズ・ランターンは,大使館から車で十五分ほどのところです.書記官や官補たち六,七人で,ふたりの大使や若杉公使は参加していなかったですね.若杉さんは,そのときはもう身体がわるくて寝たきりでした.われわれもこの店にはそんなにいなかった.午後九時半には,家に帰っていましたから……」

三等书记官八木正男证言:“6号晚上,确实是和寺崎先生去聚餐的。在‘中国·兰特’餐馆,当时从大使馆开车过去,大约15分钟左右的路程。大使馆内的书记官六七人、两位大使和若杉公使都没有参加。若杉先生那时身体已经不舒服,卧床不起,所以没法来参加。”晚上九点半我吃完饭就回家了……”

7日10時頃,朝日新聞NY特派員の森恭三はワシントン支局に連絡を取った. 「APのニュースが天皇に対するルーズベルト大統領の親電を報じてきたときである.記憶はさだかでないが,午後八時頃ではなかったかと思う.親電の内容は,「日本艦隊が東シナ海(仏印沖)を南下しつつある.天皇の力によってこれを停めてほしい」という趣旨のものであった.この親電に対しては,政府も何とか返事せねばなるまいが,イエスの返事が来ることはあるまい,ノーであれば戦争だ,と直感したからである.そういう意味のコメントを本社に打電したのち,私は「朝日」のワシントン支局を電話で呼び出した.中村正吾記者(後に,朝日新聞西部本社代表)がいて,「日本大使館へ様子を見に行き,いま帰って来たところだ」と言う.その話によると,東京から重要電報らしいものがぞくぞく到着しつつあるようだ.ところが,大使館に詰めているのは奥村一等書記官(勝蔵,後に,外務次官,特命全権大使)だけで,他の館員は全部中南米へ転勤して行くだれかの送別会出席のため,出払っており,奥村書記官一人がタイプをたたいている,というのである.私たちは,変だなあと話しあった」

7日10时许,朝日新闻NY特派员森恭三与华盛顿分局取得了联系。
森恭三说“美联社的新闻报道罗斯福总统对天皇的亲电的时间,虽然有些记忆不清,但我想应该是晚上8点左右。亲电的内容是“日本舰队正南下东海(佛印冲),希望天皇能下令让舰队返回。”对于这一亲电,日本政府也必须设法回复,如果不回复的话,也不会有耶稣帮回复,迎接我们的就是战争。把这想法和公司反馈后,我给朝日新闻华盛顿分局打了电话。当时接电话的中村正吾记者(后来是朝日新闻西部总公司代表)说:“我一会儿前去日本大使馆看过情况,现在刚回来。大使馆里只有奥村一等书记官(奥村胜藏,后来的外务次官,特命全权大使),其他大使馆官员们都为了出席调到中南美的某人的送别会而离开参加宴会了,只有奥村书记官一个人在打字。我们都觉得很奇怪。“

野村吉三郎大使証言 「最初の十二通は前の晩の夜中までかゝつて來て,最後の一通が追つて打つてよこすことになつてをつた.その追つてよこすといふ肝心の電報が來てゐるかゐないか,それが最も主要なる回答たることはよくわかつてゐたにも拘らず,あの前の晩に若い館員が轉任するといふので,大使館の連中はいづれも支那料理屋へ飯を食ひに行つてゐて,電報が來てゐるかどうかも知ることが出來ない.私は武官を呼ぶのに自分で電話をしなければならない始末.これが日米開戰前の日本大使館の状況であつた」

野村吉三郎大使证言:“最初的十二部电报一直到前一晚的半夜才来,第13部是后来才递交过来的。我明白这个是很重要的事情,可由于前一晚有年轻的馆员要转职,所以大使馆的人们都去中国饭店吃饭了,我也不知道到底翻译好的电报有没有送来,我只好自己打电话叫横山武官来大使馆帮忙翻译,这就是日美开战前日本大使馆的情况。“

駐米海軍武官横山一郎は、大使館電信課で夕刻迄に解読できた電報を野村大使から見せられたという.

驻美海军武官横山一郎在大使馆电信科,看到了从野村大使那里看到了傍晚之前的电报。(简单来说,就是东京把莫斯代码发到驻美使馆,电报员翻译成日语,然后横山再翻译成英文手写稿,然后奥山书记官誊写成美国人要的正式机打文稿)

駐米海軍武官輔佐官寺井義守証言 「大使館の事務室で夜遅くまで書類の整理をしていた.海軍武官事務室は,大使館事務室の二階端にあって,大使の寝室とは中庭をへだてて向きあっていた.土曜日の夜のこととて,館内に人気はなかった.野村大使はあれやこれやを思い悩んで,寝つかれなかったのではなかろうか.そのとき,私の部屋の灯火をもとめて,二階廊下伝いに私の部屋に足を運ばれたのであろう.部屋にはいると,いきなり私に,「寺井君,日本は如何しようとしているのかね」と 質問を発せられた.私は即座に,「まさかアメリカに戦争を仕掛けることはありますまい.日本軍の南仏印等の進出から,万一,アメリカ側から戦端を開くようなことも考慮して,ここ数日来の動きをしているのではないでしょうか」と答えた.これを黙って聞いておられたが,そのままなにも言わずに,また,来た道を通って帰っていかれた.私もその夜は,そのまま宿舎に帰って寝た」

驻美海军武官辅佐官寺井义守证言:“我在大使馆的办公室里整理文件到深夜。海军武官办公室位于大使馆办公室的二楼,与大使的卧室隔着院子相对。因为是星期六晚上,所以馆内没啥人。野村大使那时候大概是为了帮我开灯,沿着二楼走廊来到了我的房间,我想,野村大使这么晚没睡,大概因为这个那个而烦恼吧?一进房间,野村问我:‘寺井君,日本是怎么做的呢?’,他继续说道:‘难道不会向美国发动战争吗?从日军进军南佛印等地开始,考虑到必将会和美国开战,这几天会不会先采取行动呢?”,然后自说自话间顺着自己走过来的路走回去了,我那天晚上也直接回宿舍睡觉了。”

7日10時30分から11時30分,駐米大使館では翻訳すら終えていない開戦通告電報902号電信13部を、アメリカは傍受解読の上、関係各所に配布した

7日10时30分至11时30分,日本驻美大使馆收到了没有解译的开战通告电报902号电报13部,美国同时也截获了该电报,并且解译后向有关部门发放了消息。

7日11時,ハル国務長官は,グルー大使宛にRoosevelt大統領の親電を打電した

7日11时,赫尔国务卿给美国驻日大使Joseph Clark Grew发去了罗斯福总统的亲电。

7日11時頃,外交官補藤山楢一証言 「一緒に行けると言った寺崎書記官の姿が見えなかったが,私たちが食事を始めて一時間ぐらい経って慌しく駆けつけた.「ルーズヴェルト大統領から天皇陛下に親電が送られた,との連絡を受けてね」と寺崎氏は,驚くべきニュースをもたらした.連絡を受けた寺崎氏は直ちに公邸の両大使に報告し,協議をしていたのだという.私の隣席の松平氏が,「これで戦争だね」と言った.あまりにも唐突に思える発言に,同席の皆は思わず笑い声をあげてしまった.しかし,松平氏はにこりともせずに言葉を続けた.「龍田丸は必ずロスまで来ると言ったが,藤山君には気の毒だけれどもう帰れないね」」

7日11点左右,外交官补藤山楢一证言:“寺崎书记官说可以一起去吃饭,可一开始没见他人,我们开始吃饭一个小时后才匆匆赶来了。同时带来一个消息——‘罗斯福总统给天皇陛下发亲电了。”带来了惊人的消息。接到消息的寺崎先生立即向两位大使报告,进行了协商。我的邻座松平先生说:‘这就是战争啊’。对于这个唐突的发言,在座的各位不由得发出了笑声。但是,松平笑也不笑地继续说:‘龙田丸一定会到洛杉矶来,对藤山君很可怜,但是已经回不去了。’

7日11時30分,三等書記官八木正男は大使館に戻った. 「奥村さんもわれわれと共に戻ってきて,また書記官室でタイプを打ち始めました」,「清書するのに手間取ったのは奥村氏である.独身だった奥村氏は,大使館に泊り込みだった.前の日,そして七日は何時から仕事をしていたか不明である.しかし,七日になっても,それまでの十三通をすべて清書すらしていなかったようだ.奥村氏はすらすらタイプを打てるわけでもなく,一字一字ていねいというと聞こえはいいが,一本指でしか打てなかったため,とにかく時間がかかった.おまけに奥村氏は完全主義者だった.間違いを発見すれば破り捨て,最初から打ち直すといった,面倒な作業を続けていた」

7日11时30分,三等书记官八木正男回到大使馆,“奥村先生也和我们一起回来了,回来后他又回到书记官室打字了。”,“拿到文件后最费时费力的工作——誊书(将手写的电报翻译文用打字机誊写成正式文件,美国人不认手写件)是奥村先生来做的。奥村先生一个人住在大使馆里。也不知道他是什么时候开始工作的,反正到了12月7日,之前的十三份电报翻译文一直都没誊写好。奥村先生打字并不熟练,很小心翼翼生怕打错字,所以他只用一根手指打,总之花了很多时间。奥村先生是个完美主义者,发现错误就撕掉,从头再来,继续着麻烦的打字工作。“

7日12時,Roosevelt大統領の親電を東京の中央電信局が受信した。

7日12时,东京中央电信局收到了罗斯福总统的亲电。

7日13時頃,開戦通告電報902号電信13部を駐米大使館は解訳した

7日13时许,日本驻美大使馆解译了开战通告电报902号电报13部

7日14時,東郷茂徳外務大臣が,野村吉三郎駐米大使に親電に関する照会電報を打電した

7日14时,东乡茂德外务大臣给驻美大使野村吉三郎发去了有关亲电的询问电报

7日16時,外務省課長加瀬俊一「精確をもって知られる電信課長から電話で,「唯今午後四時,第十四本目を発電します.いいですね,発電しますよ.」と断わって来た.覚書の最終の部分を打電したのである.その末節には,カクテ日米国交ヲ調整シ合衆国政府ト相携エテ太平洋ノ平和ヲ維持確立セントスル帝国政府ノ希望ハ遂ニ失ワレタリと言って,交渉を打ち切る旨が記してある.暫くして私は次の訓電を起草した. 対米覚書貴地時刻七日午後一時ヲ期シ米側(成ルベク国務長官)ニ直接御手交アリタシ」

7日16时,日本外务省课长加濑俊一证言:“我当时接到电信课长的电话,电信课长说:‘现在是下午四点,发第十四份电报。现在时间上还行,请允许我发电。’于是,开战布告的最终部分发了出去。这个第14部的内容是——‘美日邦交调整,与美国政府合作,维持太平洋和平,成立联合治理政府的希望最终还是失败了’,记载了停止谈判的意思。过了一会儿,我放心不下起草了下面的训电‘对美备忘录(也就是开战布告),请务必于贵地时刻12月7日下午1点时间前(日本时间8日凌晨3点前,夏威夷时间7日早8点前)亲手呈交美方。’”
这两个电报分别是902号电报第14部和第904号电报。

7 日17 時頃,毎日新聞外務省担当の佐々木碩哉記者は加瀬俊一課長を再訪した. 「「寒いから,次官室を借りよう」.二人きりで向いあった.「われわれはいま,時間を問題にしているのだ」.加瀬氏は意味深いことばを口にした.佐々木記者は帰りに,別館の調査部を訪れた.廊下を通ると,朝海課長が電話をかけている声が聞こえてきた.「“南西の風,晴れ”----その通報を午後十二時と午前二時,二度出すのだ」開戦を知らせる隠語通報である(佐々木の記憶では「南西の風」だったという).素知らぬ顔で部屋に入った.その足で霞ヶ関の外相官邸を訪れた.東郷外相は会わなかった.そこへ改造社社長山本実彦が訪れてきた.「大臣は,今夜は省内の会議があるので,お目にかかれません」,係員にことわられて,山本氏は玄関に行き,天空を見つめていた.氏も形勢を察知していたのではないか」

7日17时左右,每日新闻外务省负责人佐佐木硕哉记者拜访了加濑俊一课长。“天气很冷,我们租外务次官室来采访吧。”佐佐木这么说。面对调侃的加濑别有所思,说了一句意味深长的话:“现在时间是个问题。”佐佐木记者回去的时候,访问了别馆的调查部。经过走廊时候,听到了朝海课长打电话的声音。这是通知开战的隐语通报(佐佐木记忆中是“西南风”)。佐佐木接下来前往霞关的外交部长官邸采访,当时东乡外相没看见,只有改造社社长山本实彦也在门口等着。工作人员对山本及佐佐木说:“部长今天晚上有省内会议,不能和您见面。”被工作人员拒绝,山本走到门口,凝视着天空。佐佐木战后回忆道:“他是不是也察觉到了形势?“

7 日17 時,大使館電信課員吉田寿一 「われわれがともかく十三部まで終わったのは,七日の午前三時でしたね.それで大使館を出て,近くのマンションに戻ったんです」.11 月以降徹夜続きの電信 課員は,出勤を1 時間ずらして9 時に出勤しようという申し合わせをして帰宅した.

珍珠港7日17时,根据大使馆电信科职员吉田寿一证词:“我们电信员解译电文一直到7日上午3点才刚解译完第13部,接着离开大使馆,回到了附近的公寓睡觉。”

一等書記官奥村勝蔵証言 「既ニ七日午前三時頃ニナッタノデ,私ハ電信課員ニ各自一旦自宅ニ引揚ゲテ翌朝ハ又早クカラ来ル様指示シ,私自身モ大使官邸ノ一室デ寝ニ就イタ.其ノ夜電信課ニハ当直員ガ残留シテ居タコトハ勿論デアル」 宿直は会計担当の館務補助員野原恒常

一等书记官奥村胜藏证言“12月7日凌晨3点,我和电信课员两个人明天早上一早还要来大使馆报到,我嫌麻烦就在大使馆的一间房间中下榻了,这天夜里大使馆留了一个值班员”,当晚的宿舍值班人员是会计担当的馆务辅助员野原恒常。

7日19時,開戦通告電報902号14部と904号電信をアメリカは解読した

7日19时,美国截获并解密了开战通告电报902号14部和904号电报。

7日19時30分,堀内正名電信官は「最後ノ一通ヲ待チタルモ来ラズ.一応帰宅ノ上朝食後可成早ク登庁スルコトトシ,午前五時半帰宅セリ」

7日19时30分,值班的堀内正名电信官证言:“我这时候收到902号电报第14部也就是最后一部电报,但是没解译,一直是等待破译的状态,我想今天先回家休息,然后吃完早饭后早到大使馆工作,于是,凌晨5点半我回家了。”

アメリカが解読を終えた902号電信14部は、まだ大使館には届いていないのである

也就是说,美国早已截获并解密完毕的902号电信14部(谈判破裂的准开战布告),此时由于没有电信员不在大使馆,日本大使馆后于美国人知道。

7日21時,グルー大使が親電予告電を受領する 「晩方遅くハル氏から超緊急の短い電報がきて,大統領のメッセイジを含む電報を只今暗号に組んでいる,これを出來るだけ早く天皇に傅達せよとのことであつた.私はすぐドウーマンに大使館にきて東郷の秘書友田二郎に電話をかけ,夜中の十二時ごろ私が至急に大臣とあえる手配をしてくれと頼んだ.つまりドウーマンは実際メッセイジが到着し,暗号が解かれつゝある時,電話をかけたのである.この電報はそれに表示してある通り,正午日本の郵便局に着いていたのだが,その緊急性にもかゝわらず,午後十時卅分まで配達されなかつた.二通の電報を國務省が出したのは十二月六日午後八時と九時である.友田は私がこんなに遅く会見を申込んだので,あわてたらしく,明日まで待つことが出來ぬほどの急用かとドウーマンに聞いた.翌日のドウーマンの印象によると,友田はその時今にも戰爭が勃発することを知つていたはずがないとのことである」

7日21时,美国驻日格鲁大使收到电报,格鲁大使证词:“晚上很晚,赫尔发来了一封超紧急的短电报,把包括总统信息在内的电报编成了暗号,说是要尽快发给天皇。我马上让多曼到大使馆给东乡的秘书友田二郎打电话,让他安排半夜十二点左右我和外务大臣东乡见面。”也就是说,也就是说,多曼在实际信息到达,密码被解开时,给东乡秘书打了电话。这封电报如上面所示,正午到达了日本的邮局,尽管这份电报其紧急性令人担忧,但实际上一直到晚上十点半还没送到。国务省发出两封电报是美国时间12月6日晚上8点和9点。友田和多曼说这么晚才提出会见,问他是不是确实是等不到明天的急事。根据多曼的印象,友田那种神态和反应,不像是知道战争就要爆发了的样子。

7日21時,駐米大使館は恐らく902号電信14部・904号電信を受領したと推定される

7日21时,据估计,日本驻美大使馆已收到902号电报14部和904号电报,

7日21時から21時30分頃,外交官補藤山楢一「午前七時から七時半の間に,大使館の当直からの電話で叩き起こされました.結城が君に出て来いと言っている,という内容で,自宅から車で五分ほどの大使館へ直ちに駆けつけた」

7日21时至21时30分左右,外交官补藤山楢一证词:“上午7点到7点半之间,大使馆值班的电话把我吵醒了。说是结城让我来大使馆,我从家里开车紧赶慢赶,5分钟左右后抵达大使馆。”

7日22時頃,駐米海軍武官横山一郎 「十二月七日は日曜であったが朝八時頃大使館へ出勤した」

7日22时左右,驻美海军武官横山一郎证词:“12月7日虽然是星期天,但早上8点左右就去大使馆上班了”

7日22時15分,東郷茂徳外務大臣 「十時十五分頃米國大使館から友田祕書官に緊急電報を解讀中であるから準備出來次第大使が自分に會ひに來たいとの電話があつたので,自分は即座に之を承諾した」

7日22时15分,东乡茂德外务大臣证词:“晚上10时15分左右,美国大使馆给友田祕书官发来了紧急电报,准备好后大使打来了想来见自己的电话,所以我马上答应了。”

7日22時30分,Grew大使が親電を受領 日本到着から10時間30分の事である

7日22时30分,Grew大使接到电报,这是晚上10小时30分。

7日22時30分から8日0時まで,開戦通告電報902号14部をアメリカは配布した. ハル国務長官 「日曜日だったが,私は朝から登庁した.私は一九三三年国務省に入って以来大てい日曜日もかかさず登庁していた.午前中私は長い傍受電報を受け取ったが,これは東郷外相から野村,来栖にあてた十四部からなる長文の電報だった.これは十一月二十六日のわれわれの提案に対する回答だった.このほかに両大使あての短い電報があり,それはその日の午後一時にこれを米国政府に,出来れば私に渡すように指示していた.これが行動開始の時刻だ.日本の回答は無礼極まるものであった.それは「米国の提案は支那事変四年の間に日本が払った犠牲を無視し,日本帝国の存立そのものを脅かし,名誉と威信を傷つけるものだ.米国は英国その他と共謀して,東亜新秩序の建設によって平和を確立しようとする日本の努力を妨害している」と述べ「米国政府の態度にかんがみて,日本政府はこれ以上交渉をつづけても意見の一致に到達することは不可能と考えざるを得ない」と結んでいた.この通告は宣戦の布告はしていなかった.また外交関係を断絶するともいっていなかった.日本はこういう予備行為なしに攻撃して来たのである」

7日22时30分至8日0时,美国截获了开战通告电报902号14部。
赫尔国务卿证词:“虽然是星期天,但我早上就来了。我从1933年进入国务院以来,几乎星期天没有缺席过。上午我接到了很长的监听截获电报,这是由东乡外相发给的野村、来栖的长长的共十四部构成的长文电报。这是对11月26日美国提案的答复件。除此之外,还有一封给两位大使的短电报,是让他俩在当天下午一点把布告发给美国政府的电报。这就是日本对美国开始行动的时刻,日本的回答极其无礼,他们说:‘美国的提案无视了支那事变四年期间日本所付出的牺牲,威胁到日本帝国的存在本身,损害名誉和威信。美国与英国及其他国家合谋,妨碍了日本通过东亚新秩序的建设来确立和平的努力。鉴于美国政府的态度,日本政府不得不认为,即使继续谈判,也不可能达成一致意见‘,这就是电报的内容。

7日22時30分頃,一晩にコカコーラを36本飲みつつ書類を焼却するため徹夜した大使館文書課の中島嘉寿雄は,「前の晩,故来栖三郎特派大使に随行してワシントンに来ておられた結城司郎次書記官から,今までの交渉のレジメを書いておきたいから,手伝つてくれるようにと言われていたので,午前八時半頃大使館に出掛けた」

7日22时30分左右,大使馆文书科的中岛嘉寿雄(也就是后来一夜喝了36瓶可口可乐,通宵焚烧文件的那位)根据他的证词:“前一天晚上,来栖三郎特派大使对来到华盛顿的结城司郎次书记官说,他想写下至今为止的美日所有的交涉记录,所以请他帮忙,让他上午8点半左右去大使馆。”

7日22時30分頃,駐米陸軍武官輔佐官の矢野連少佐は,磯田三郎武官と新庄健吉大佐の葬儀の打合せをするために,駐米日本大使館に出勤した.磯田武官は,「極秘電報が入っている.大使二人はあとでかけつけるといっている」と回答した.矢野少佐は,大使館受付のミス・ホワイトに声をかけてから,磯田武官と葬儀場に向かった. 三等書記官八木正男は,ニューヨーク駐在の新庄健吉主計中佐の葬儀に,同僚と出席することになっていたが,時間に余裕があったので,午前中にワシントン市内をドライブした

7日22时30分左右,驻美陆军武官辅佐官矢野连少佐为了与矶田三郎陆军武官到驻美日本大使馆上班后,商量参加新庄健吉主计大佐的葬礼。矶田武官回答说:“大使馆收到了绝密电报,两位大使稍后会赶到。”向大使馆接待处的怀特小姐打招呼后,与矶田武官前往殡仪馆。三等书记官八木正男本来要和同事一同出席驻纽约的新庄健吉主计大佐的葬礼,但由于时间充裕,上午在华盛顿市内兜风。

7日23時頃,奥村勝蔵一等書記官は「事務所ノ書記官室ニ行ッテ只一人『タイプライター』ニ向ッテ,前夜来,到着シテ居タ対米回答文ノ電信ヲ『タイプ』シテ居タ」,「一応『タイプ』シテ読ミ直シテ見ルコトニシタ」

7日23时左右,此时奥村一等书记官还在和打字机搏斗。

7日23時頃,駐米海軍武官輔佐官寺井義守が「大使館にきてみると,門は閉ざしたままであり,そこには「アージェント(緊急)」の指定がある電報が数通たまっているが,大使館には人気がない.私は門を乗り越えて事務室にはいると,まず三階にあった一台のラジオのスイッチを入れて,これに聞きいっていた

7日23时许,也就是华盛顿早上九点,驻美海军武官辅佐官寺井义守证词:“那时我来到大使馆一看,门是关着的,有几封指定为‘紧急’的电报信件,但大使馆里并没有人。我打开大门进入办公室,首先到三楼打开收音机的开关。”

7日23時過ぎ,大使館に出勤した海軍武官輔佐官実松譲が「大使館事務所の入口のステップを上がろうとするや,ふと目に飛び込んでくるものがある.時計の針はすでに九時過ぎを指しているのに,大使館と陸海軍両武官室の新聞が山のように積み上げられ,その傍らには数本の牛乳瓶が並んだまま置き去りにしてあるではないか.それだけではない.事務所入口のドアの郵便受には,前日の退庁後に届けられたのであろうか,フタもできないほどの電報が詰まっている」,「郵便受の電報は大使館分と陸海軍両武官室分に仕分けして届けた.しかし,まだだれも出勤しておらず,大使館の当直電信課員は,日曜日のミサにでかけているという.唖然として言葉なし---」 註:出勤の途中に教会に寄ったのは電信書記生近藤賢一郎 外交官補藤山楢一 「玄関には新聞が積まれ(アメリカでは日曜日の新聞は数十頁に及び,一冊の本のような厚さになるので玄関に置くのが普通である),牛乳ビンが並んでいた,と言うのは事実であろう.なぜなら当直者が館内に取り入れるいとまもなかったからである.しかしそれに続く,「郵便受けにはあふれ出そうな程の電報の束が突っ込まれていた(つまり十四本目の電信も放置されていた)」という証言は全く理解できない.当時アメリカ側の電信会社は,マケイ,RCA・ウェスタン,ユニオンの三社が受け持っていた.日本大使館は三社にとって大得意先であった.電報が到着するとまず先方から連絡が入り,配達夫がオートバイで大使館に持参してくる.そして玄関のベルを押す.受付係が扉を開け,電報配達であることを確認してから電信室に館内電話で連絡する.それを受けて電信室所属の誰かが玄関まで出て,受領証にサインし,電報を受け取って電信室に戻る.電報が大使館に届くには,以上のシステムになっていた.先に記したように私は,一時電信室に配属されたことがある.「郵便受けが蓋も締まらぬほどであった」などということは絶対にあり得ない事態である.いずこの国でも電報をそのまま郵便受けに突っ込んでおくことなどあり得ようか.海軍武官室の方が見た郵便受けの“電報の束”とは,普通の手紙や葉書等の郵便物であったとしか考えられないのである」

7日23时许,在大使馆上班的海军武官辅佐官实松让抵达大使馆,实松让证词:
1、“刚要上大使馆办公室门口的台阶,就有一个映入眼帘的东西。时钟的指针已经指向九点多了,门口信箱里大使馆和陆海军两武官室的报纸堆积如山,旁边还有几个牛奶瓶并排丢在那里,不仅如此,事务所门口的收信处,可能是因为信件是前一天下班后送来的原因吧,塞满了电报,连盖子都盖不上“
2、“收信电报分大使馆份和陆海军两武官室份送达。但是,还没有人上班,大使馆的值班电信员说,星期天要去弥撒。我无语了……”
注:上班途中顺便去了教会的是电信书记生近藤贤一郎
外交官补藤山楢一证词:“玄关堆满了报纸(在美国,星期天的报纸长达数十页,厚度像一本书,一般放在玄关),牛奶瓶排列着,这是事实吧。这是因为值班人员还没来得及进入馆内。同时,信箱里塞满了快要溢出的电报捆(也就是说,第十四封电报也被搁置了)”
这边藤山的证词有问题。当时美国方面的电信公司是麦凯,RCA·西部,联合的三家公司负责。日本大使馆对三家公司来说是大客户。电报一到,先接到对方的通知,送信员骑摩托车到大使馆来。然后按门铃,接待员打开门,确认是电报投递后,用馆内电话联系电信室。接到后,电信室的电信员走到门口,在收据上签字,接到电报后回到电信室。所以,“信箱盖不上”是绝对不可能的事情,哪怕是美国,也不可能把电报直接插进信箱里。海军武官室看到的信箱“电报捆”,只能认为是普通信件、明信片等邮件。”
(实际上是因为那天太晚了,堀内电信官在凌晨收到了902号第14部电报和第904号电报,但是想着第二天早上再来解译电报码。)

7日23時過ぎ,横山一郎海軍武官は駐米日本大使館に出勤した 「この朝私が海軍武官室に出勤すると輔佐官の実松中佐と寺井少佐から,今朝大使館事務所玄関の郵便受に電報文が沢山つまっていて,日曜日の部厚い新聞の山と数本の牛乳瓶を誰も取込まずにやり放しになっていたとの報告を受けた.大使館の電信課の当直員は早朝の教会のミサに出席して不在であった」

7日23时许,横山一郎海军武官来驻美日本大使馆上班,证词:“今天早上我去海军武官室上班,从辅佐官实松中佐和寺井少佐那里接到报告说,今天早上大使馆办公室门口的信箱里塞满了电报,星期天厚厚的报纸堆和几瓶牛奶瓶都没人拿,全堆在那儿了。这是因为大使馆电信课的值班员出席了清晨教堂的弥撒,不在大使馆。”
来栖三郎和他的家人

来栖三郎駐米大使 「日曜日であつたが,朝から來訪した横山海軍武官から,多數の電信が大使館事務所に配達されてる樣子だと聞いたので,直ちに井口參事官を電話に呼出して尋ねて見ると,總て手配濟だと囘答があつた.そこで頻りにその解讀の出來上るのを待つてゐると,結城書記官から,十一月廿八日の政府訓令にあつた「帝國政府見解」が到達したのだといふ報告を受けた」 7日23時30分頃,大使館電信課一同は全員出勤し,「この日の電報の暗号を翻訳し,タイプで浄書するという作業を始めましたが」,「本件対米覚書七日午後一時ヲ期シ米側ニ(成ル可ク国務長官ニ)貴大使ヨリ直接手交アリ度シ」という大至急・館長符号の第904号電を「まっ先に暗号機で解読しました」

驻美大使来栖三郎证言:“虽然是星期天,但从早上来访的横山海军武官那里听说有很多电报被送到大使馆事务所,所以马上叫井口参事官来电话询问,井口只是一个劲地回复我已经安排。于是,我在那里频繁地等待电报解译。结城书记官说,根据11月28日政府训令的“帝国政府见解”已经达成。大使馆电信课全体出勤,“开始了翻译这一天的电报码,并以打字方式进行誊写的工作。解译出来后发现,这个文件是对美开战布告,这个布告下午1点美方就已经将该文件递交给国务卿了,其中带有馆长编码的第904号电‘首先用密码机破译了’。”

7日23時30分頃,大使館文書課の中島嘉寿雄は,結城司郎次書記官の日米交渉レジュメについて「九時半頃からその口述を受けていた」

7日23时30分左右,也就是华盛顿时间早上九点半,大使馆文书科的中岛嘉寿雄就结城司郎次书记官的日美交涉报告,从华盛顿九点半左右开始接受了口述,解译完成。

8日0時頃,堀内正名電信官は宿直の呼び出しを受けて出勤し「直ニ至急電ヨリ解読ニ着手セル処先ヅ米局長ヨリノ挨拶次デ訂正電(二通位ト記憶ス)ガアリ,最後ノ至急電ハ,対米通告手交時間指示ノ訓令ニシテ,其ノ出来上リタルハ丁度正午頃ニシテ,電信課員一同間ニ合フベシト思ヒ喜色アリタリ」

8日0时左右,也就是华盛顿时间早上十点,堀内正名电信官接到值班电话后上班,根据他的证词:“我收到急电要求我回大使馆处理破译电报码。”(凌晨没有解译的902号第14部电报和第904号电报,也就是最重要的谈判破裂的“准战书”)

8日0時過ぎ,海軍武官横山一郎 「電信課員が出勤して電報解読に取りかかったのは午前十時過であった.タイピストを使うなという指令で奥村書記官がポツリポツリとタイプを打っていた」

8日0点过后,海军武官横山一郎说:“电信科员上班开始解读电报已经是上午10点多了。奥村书记官下达了机密件不要使用打字员的指令,自己一个人啪嗒啪嗒地打字。”

一等書記官奥村勝蔵 「電文は全部で十四通.その翻訳に手間どったのは事実だ.だがいま考えても不思議なのは,打ち切り通告にふれた最後の十四通だけが“普通電”だったことだ.この ためその文だけが,他の文書のなかに放置され,気付いたときには通告予定時刻が迫っていた」

一等书记官奥村胜藏:“902号电文一共有14封。在解译电文和翻译成英语上花费的时间是事实。但是现在想想也很不可思议的是,前13份是加急密电,只有最后的十四部是‘普通电’(可能是为了保密)。因此,只有那篇文章被放置在‘其他文件’中,等电信员注意到并解译完成英语翻译的时候,已经离要求通知美国国务院的1点的预定时间很临近了。”

8日0時15分,グルー大使 「大使館の運転手たちはずつと前に歸宅してしまつたので,ベニングホフが親切にも午前十二時十五分,私を外相官邸まで自動車ではこんでくれた.東郷は即刻私にあい,私は大統領のメッセイジを傅達するため天皇に引見を乞いたい旨を傅えてからメッセイジを読み上げ,写しを一通東郷に手渡した.國務省は傅達の適当な方法を私の思慮に一任したのだが,私は私自身が天皇に面会することによつて最大限の重みをつけると共に,このメッセイジが彼自身に到達することを確めようとしたのである.東郷は最初この文書を研究しようといつたが,私がそれは私が謁見を願うことを傅えるかどうか疑問を持つことを意味するのかと聞いたら,彼はこの件を上聞に達すると答えた.彼はワシントン会談について,さらに何か語つたが,私はまだ五日の会談に關する報告を受けていないので,もし彼のいうことを國務省に傅えようとすると,いたずらに事態を紛糾させるだけだといつたので,いや,その必要はないといつた.私は十二時半頃外相官邸を辭去した」

8日0时15分,美国驻日格鲁证词:“大使馆的司机们一个接一个地回了家,贝宁霍夫亲切地在0点15分开车把我送到了外交部长官邸。东乡马上就见我了,我为了传达总统的信息,向天皇请求引见的意思,然后宣读信息,把副本交给东乡一封。国务省让我来决定怎么把这个信息向上报告,我想通过和天皇当面报告,这样来给予最大的外交交涉分量,同时这样也能确认这个信息确确实实到达了天皇那边。东乡打算自己研究这个文件,我问他这样是否就不存在谒见的可能性了,他回答说这件事已成上证。他就华盛顿的美日会谈说了几句话,但我还没有接到有12月5日美日会谈的报告,我觉得白白争吵是没什么用的。于是,我0时半左右离开了外相官邸。“

8日0時16分,休暇中の一等書記官寺崎英成は,大使館の井口貞夫参事官と電 話で会話をしたが,その内容はアメリカ連邦捜査局によって盗聴されていた.

8日0时16分,休假中的一等书记官寺崎英成,与大使馆的井口贞夫参事官进行了电话对话,其内容被美国联邦调查局窃听。

8日0時30分頃,大使館電信課の吉田寿一は「本件対米覚書七日午後一時ヲ期シ米側ニ(成ル可ク国務長官ニ)貴大使ヨリ直接手交アリ度シ」という第904号電を解訳・タイプ終了し,館長符号902号電信開戦通告電報の14部目の解訳を開始した.この時点まで,奥村勝蔵一等書記官は13通のタイプを完了していない

8日0时30分左右,大使馆电信科的吉田寿一将第904号电翻译完成:“请将对美的告书于7日下午1点钱交给美国”,同时,902号电报第14部也就是开战通告电报开始解译,这个时间点,在打字机前奋斗的奥村胜藏一等书记官还没有完成902号电报前13部的机打誊写工作。

8日0時30分頃,外務大臣東郷茂徳は官邸でグルー大使を出迎えた. 「然るに大使が官邸に來たのは翌八日零時三十分頃であつたが,大統領の親電を受領したから拜謁を取計らつて貰ひたいとのことであつた.自分は深夜のことでもあるから拜謁の可能に付ては宮内省とも打合せを要する次第であることを述べて其内容を質した處,同大使は「メッセーヂ」の寫しを手交し重ねて拜謁を希望する旨を述べて辭去した」

8日0时30分左右,外交部长东乡茂德在官邸迎接格鲁大使。证言:“但是大使来官邸是在第二天8日零时30分左右,因为收到了总统的亲电,所以希望能得到拜谒天皇的机会。因为深夜拜访天皇,这需要与宫内省进行协商,并询问了其内容,格鲁大使亲自递交了罗斯福的信函,重申了希望谒见天皇的请求“

8日0時30分頃,来栖三郎大使 「最後の覺書手交時間を指定した電信が七日の午前十時半頃になつて始めて到達し,且つ覺書は機密保持上タイピストに叩かせてはならんといふ訓令があつたので,七日の朝からタイプライターは專門でない上級書記官が,長文の覺書を自身でタイプし始めたのだが,何文にも興奮してゐるので,消したり直したりして中々進まない,結城書記官は殆ど居催促の形で側についてゐたといふ話であつた」

8日0时30分左右,来栖三郎大使证词:“第一波13部的翻译完成的电报以手稿方式提交完成的,是华盛顿时间7日上午10点半左右递交的,由于有规定告书类需要保密的文件不能让打字员打,所以从7日早上开始,打字机不是打字员打,而是高级书记官开始自己亲自誊写长文告书,当时奥书记官追求完美对打字工作中错字很在意,又擦又改,结城书记官几乎都是以催促的形式跟着他。“

野村吉三郎大使 「朝十時半頃に『この回答を午后一時國務長官に交附せよ』といふ訓電が先に來た.それは全體を見ないうちながら,私は容易ならざることだと直感した.その日はアメリカ時間で七日,ちやうど日曜日で時間に間に合ふかどうかわからなかつた.それで私は急いで祕書の煙石屬に命じて,國務次官のウェルズの祕書のストーン君に電話で連絡させ,會見を申入れた.すると『けふは國務長官が午餐に招ぶといふがどうしますか』との返事なので,『私もウェルズさんに會ひたい』といつてアポイントメントをした.ところが,午餐がなくて私たちが服を着て大使館の入口のところに待つてをつたけれども,暗號解讀が遅れ,タイプライチングが間に合はずして,國務省に行つたのが午後二時を過ぎてゐた」

野村吉三郎大使证词:“早上十点半左右,来了一个电报训令——‘对罗斯福亲电的回复件下午一点交给国务卿’,虽然没有看到902号电报的全部内容,但我直觉到这是一件不简单的事情。那天是美国时间七号,星期天,不知道时间是否合适。所以我急忙命令烟石君,让国务次官威尔斯的秘书斯通先生打电话联系,申请于国务次官会见。他回答我说:‘国务卿邀请威尔斯先生今天吃午饭,我该怎么办?’,我立马回答说‘我也想见威尔斯先生。’然而,我们穿着衣服一直等在大使馆门口,急切地希望电报快点能完成解读和誊写,这样还带着电文去午餐和威尔斯说明,结果电报解译拖沓延迟的厉害,不知不觉间,去国务院将文件呈交已经是下午两点后的事情了。”

8日0時30分頃,大使館文書課の中島嘉寿雄 「多分十時半頃ではなかつたろうか,“十二月七日午後一時に日本政府の回答をハルに手交せよ”との訓電が電信課員の手で訳されたのは.その後は全く火事場のような騒ぎで,奥村さん,煙石君,岡庭君等が手分けをしてタイプを叩く」外交官補藤山楢一 当直から結城書記官の呼び出しで大使館に呼ばれ,朝食を抜いて出勤した.「そうしたら結城さんが待っておられて,かたわらで奥村さんが,自分の持っておられるポータブルのタイプでポチポチ一生懸命タイプを打っておられる.そして別室で,でき上がった分から私が奥村さんの打ったタイプを読み,結城さんがそれをチェックするという仕事を始めました.何しろ英語の達人でタイプも打てるという人は奥村さん一人ですが,しかし何といっても素人ですから,見ると誤字やら脱字がいっぱいある.文章の整理をよくしろという訓令はきているし,最後がどうかわからないけれども,とにかく大変に重要な外交文書で,これをアメリカに提出するのに鉛筆で消したり,ペンで書き入れたものでは悪かろうというので,ちょっとでも間違いがあると一枚目から奥村さんが打ち直すわけです」

8日0时30分左右,大使馆文书科的中岛嘉寿雄证词:“大概是十点半左右吧,电信课员翻译了‘12月7日下午一点把日本政府的答复件交给赫尔’的训电。解读出来后,大使馆炸开了锅,之后完全是救火现场一样的骚动,奥村先生、烟石君、冈庭君等人分头打字。”
那天正好是外交官补藤山楢一值班,接到结城书记官的传唤,被叫到大使馆,没吃早饭就来上班了。藤山证词:“结城先生在大使馆等着我,我进门后,看到奥村先生用自己的便携式打字机拼命地打字。然后在别的房间里,结城先生开始了帮奥村检查打字稿的工作。我想帮上奥村先生的忙,读了奥村先生打的文书的类型后发现爱莫能助。高级书记官中,英语打字机只有奥村一个人会用,但毕竟是外行不是专业打字员,有很多错字和漏字,奥村先生觉得把这个有错别字的正式文书交给美国不好,用铅笔划掉、再手写写进去的东西在正式文书中不好,所以稍微有点错误的话,奥村先生就会从第一张开始重新打。“
电影还原画面

海軍武官横山一郎 「午後一時手交せよとの電報を見たのは,野村大使と午食をすませた後だったと記憶する」休暇中の寺崎英成も大使館が気になって書記官室に来たが,タイプが打てなかったので,見守る他なかった

海军武官横山一郎证词:“下午1点,接到需要翻译一封电报,那是我记得是和野村大使吃完午饭后。”
休假中的寺崎英成也因为担心大使馆而来到了书记官室,但他不会用打字机,只能在旁边给奥村书记官加油鼓劲。

8日1時頃,奥村勝蔵一等書記官 「前夜来,到着シテ居タ対米回答文ノ電信ヲ『タイプ』シテ居タ」,「此ノ「タイプ」ガ大体出来上ッタ頃,ソレハ十一時過ト思フガ,電信課カラ一通ノ電信ヲ持ッテ来タガ,ソレハ対米回答文デ七日午後一時ニ提出スベシトノ訓令デアッタ.困ッタコトニハ前記別電ノ最後ノ一通ハマダ接到セズ,従テ回答文ハ出来テ居ナイ」,「私ハ煙石ト手分シテ,朝カラ「タイプ」シタ回答文ノ原稿ヲ大急ギデ清書ニカカッタ.私モ煙石モ『タイプ』ハ決シテ上手ナ方デハナイ.又日曜ノ朝ノココトテ他ニ館員ハ居ナカッタシ,居タトシテモ『タイプ』ノ点デハ大シテ役ニ立タナカッタデアラウ.一方,私ハ電信課ニ対シ最後ノ一通ハマダカマダカト矢ノ様ナ催促ヲシタ」

哈哈哈,上面这段一堆『タイプ』(type),还有1点要把文书交到美国国务院,此时已经1点了,我想我不用翻译你也能知道奥村的心情了——麻了。

8日1時30分頃,開戦通告電報902号電の14部目を大使館電信課の吉田寿一が解訳し終わり「最後の電信文を堀内さんに渡すとこれまで使っていた暗号機を取り壊しにかかったんです.これで東京との連絡は切れると思いました.でも覚え書きには,宣戦布告も国交断絶も書いていないから,戦争になるのかなと妙な気持でした」

8日1时30分左右,也就是华盛顿时间中午十一点半,大使馆电信课的吉田寿一解译了902号电的第14部,也就是开战通告电报,证词:“把最后的电文交给堀内先生后,我立马就把之前使用的密码机拆掉了。我认为这样就能和东京断绝联系了。但我很奇怪,在第14部文书中,既没有明确“宣战”,也没有明确“断交”,‘这会变成战争吗?’,我的心情变得很微妙。“

8日1時30分頃,朝日新聞ワシントン特派員の中村正吾 「帝国大使館事務所の扉を排した.しかるに日曜日だというのに事務所では朝から若杉公使はじめ井口参事官,奥村書記官等大使館のスタッフがほとんど出揃っている.野村,来栖両大使は国務長官と午後二時会見することが決定したところだという」

8日1时30分左右,朝日新闻华盛顿特派员中村正吾证词:“帝国大使馆事务所的大门打开着。虽说是星期天,但事务所从早上开始就有以若杉公使为首的井口参事官、奥村书记官等大使馆的工作人员在工作。野村、来栖两位大使还决定下午两点会见国务卿。”

8日2時少し前,放送協会アナウンサーの館野守男 「いまの国際放送……当時,海外放送といっていましたけど,外国向けの放送,そのなかへ,特別な放送を入れてほしい,という希望があったわけです.内容は,国際放送ですから,天気予報はないんですけれど,きょうは特別に「ここで天気予報を放送します.『西の風晴れ』」というのを午前二時ごろから数回繰り返し」た

8日2点前,广播协会播音员馆野守男证词:“现在的国际广播……当时说是海外广播,但是面向外国的广播没有天气预报,今天很特别,广播稿中出现了‘在这里播放天气预报。今天西风,天气晴。”这样的天气预报,从日本时间凌晨两点左右开始重复几次。”

8日2時,外務省顧問フレデリック・モアーが駐米日本大使館を訪問した. 「日本人の執事が迎え入れてくれて,またひとりで階段を登つて野村の書齊へ行くと,野村ひとりきりだつた.日本語の書類を読んでいたが,東京から来たものか東京へ打つものか,とにかく電報らしかつた.そういう電報は今までにもたくさん見ているので,書式で見当がついた----といつても日本語はいつまで経つてもおぼえないものだから読めはしなかつた.

8日2时,外交部顾问弗雷德里克·莫尔访问了日本驻美大使馆。根据他的证词:“当时有日本管家迎接,上楼梯到野村办公室,房间里只有野村一个人。虽然我会读了日语的文件,但是,是从东京来的还是发到东京的,我分不清。总之这是像电报一样的东西。这样的电报我至今也看得很多,所以在格式上有了头绪,不过日语永远是记不住的。

8日3時少し過ぎ,ハル国務長官は野村駐米大使から電話を受けた. 「一時少しすぎ,野村からまた電話があり,会見を一時四十五分にのばしてくれといって来た.私は承知した」

8日3时许,赫尔国务卿接到了驻美大使野村的电话,“过了一会儿,野村又打来电话,要我把会见推迟到下午一点四十五分,我答应了。”
(其实那会儿赫尔早就知道野村要来他这儿说什么东西了)

8日3時19分,真珠湾攻撃が開始された. ホノルル総領事代理奥田乙治郎 「あの日,わたしは総領事とゴルフに行くつもりだったんですよ,八時半ご ろから.だから七時五十三分には,まだ目がさめていなかった.すると,突然,寝室のガラス戸がビリビリッというすさまじい音がし,同時に家内が「こわいっ」と大きな声でどなったんですよ.わたしがガバッと起き上って,「どうした!」と思わず叫ぶと,またビリビリッときたんです.…でもそのときは,近くで大きな演習でもやってるんだろうぐらいしか思わないわけです,……それにしてもスゴい演習だと思ってね.(笑)それから窓をあけて外を見ると,庭のほうに煙硝の紙というんですかね,バラバラ落ちてきてるんですね」,「しばらくして寝室の電話がジリジリなりだしたんですよ.出てみるとある日本人ですが,「奥さん,たいへんです.日本軍がパールハーバーを空襲してます」というんですね.その人の家は高いところにありましたから,パールハーバーがひと目で見えるんですね….その電話が八時五,六分ごろでしたろう.“これはえらいことになった”と思いましたね.それからぼくは「わかった!早くこの電話をきりなさい」といったんです.というのは,かねがね,ぼくたちの電話は,アメリカ側に盗聴されてるということを知ってたからです」,「それがなにさま八時ごろで,日曜日でもあったので,電信係が出てきてなかったんです.電報はいくつかありましたけれども,それがまだ翻訳してありませんでしたからね.そのうち電信係が出てきたので,手もちの電報を翻訳せよといいましてね,空襲とはわかっても,本省からの電報をみなければハッキリしたことはわからないと思って,飜訳させてるうちに「東の風,雨」がありましたよ」

8日3时19分,珍珠港袭击开始了,檀香山总领事代理奥田乙治郎说:“那天,我打算和总领事去打高尔夫,从八点半开始。所以七点五十三分的时候,我还没有醒来。突然,卧室的玻璃门发出了啪嗒啪嗒的声音,同时妻子说:‘可怕。’我一下子就起来了,不由得喊了一声‘怎么了!’,然后又扑通一声来了……但是那个时候,我只想大概是在附近进行大的演习吧,(笑)然后打开窗户往外一看,院子里有一张烟硝纸,掉下来了。“
“过了一会儿,宿舍的电话突然响了起来。我出去一看,有个日本人打电话来说:‘奥先生,不好了。日军空袭了珍珠港。’那个日本人的家在夏威夷的高处,所以一眼就能看到珍珠港。那个电话是八点五,大概六分钟吧。我想‘这可不得了’。然后我说‘知道了!快把这个电话挂了。’这是因为我早就知道我们的电话被美国方面窃听了。”
“那是八点左右,又是星期天,所以电报员没有出来。虽然有几个电报,但还没有翻译。过几天电报员出来了,让我看看手里翻译完成的电报,虽然我已经知道空袭了,但还是看了本省的电报。我想如果不看本省的电报的话就不知道清楚的事情,在翻译的电文中出现有‘东风,雨’。”

8日3時50分,駐米日本大使館は対米通告のタイプを終了した

8日3时50分,奥村书记官完成了驻美日本大使馆对美发出通告的打印件誊写工作。

横山一郎駐米海軍武官 「在ニューヨーク陸軍監督官新庄健吉大佐の葬儀があるので,私も服を着換えに帰らねばならぬと思っていたところ,奥村書記官が一階の書記官室から二階の海軍武官室に息せき切って駆け上ってきて,真珠湾空襲が始まったというラジオ放送を伝えたので,私は彼と共に駆け降りてラジオ放送を聞いた.私が気になったのは,何も知らずに葬儀を執行している陸軍武官のことである.すぐに葬儀所になっていた教会へ電話して彼を呼出しニュースを伝え,葬儀が終了したらすぐに大使館に来るようにと話した.彼は少佐と大尉の米陸軍将校が参列しているがまだ何も知らない様子だから,何もなかったような顔をして葬儀を済ませてしまう積りだと答えた.次に気になるのは国務省へ行った野村,来栖両大使のことである.間もなく両大使が帰ってきたので飛んで行って真珠湾空襲のニュースを伝えた.それからすぐ武官室に帰り嘱託で英語に堪能な佐々木勲一君を呼んで,大使館の正門の鉄扉を閉鎖し米人の群衆や新聞記者を門内に入れないように指令した」

横山一郎驻美海军武官证词“因为有驻纽约陆军监督官新庄健吉大佐的葬礼,我正想着要回去换衣服去参加葬礼的时候,奥村书记官从一楼的书记官室气喘吁吁地跑到二楼的海军武官室,告诉我有珍珠港空袭开始的广播,所以我和他一起跑下来听广播。我立马想到,一无所知的驻美陆军武官现在已经去参加葬礼了。我马上给教堂殡仪馆打电话,把他叫出来,告诉他开战的消息,并且让他葬礼结束后马上来大使馆。他说美国那边不少少校和上尉军官都参加了,他要演出对于珍珠港的情况他什么都不知道的样子,他和我回答说,他打算结束葬礼后再回大使馆。接下来我在意的是去国务院的野村、来栖两位大使。没多久后,两位大使回来了,就飞速传达了珍珠港空袭的消息。然后我马上回到武官室,让精通英语的佐佐木勋一关闭大使馆正门的铁门,命令美国人的群众和新闻记者不要进入门内。“

海軍武官輔佐官寺井義守は大使館三階で聴取していたラジオから「突然,ハワイ空襲が報ぜられ,オクラホマが転覆したとか,ウイスコンシンが爆発したとか,つぎつぎと空襲の状況がはいってくる.そのうち報道管制があったとみえ,戦況の報道は中止された.私は二階の事務室にきてみると,横山武官がおられ,野村大使は国務省に出かけられたとの話であった」

海军武官辅佐官寺井义守正在大使馆三楼收听广播,根据他的证词:“突然,夏威夷空袭被报道,俄克拉荷马翻船,威斯康星爆炸等,空袭的情况接二连三地出现。其中似乎有报道管制,战况的报道被中止了。我来到二楼的办公室一看,横山武官在办公室,野村大使去了国务院。”

昼食から戻った海軍武官輔佐官実松譲は大使館の状況からゴルフに行く事を取止め,「書類と暗号書などは焼却カマに入れ,暗号機械は分解して,機密の部分は大使館構内の糸杉の木立の間に運ぶ.これらの処分は,一時間もたたな いうちに,いともスムーズに終わった」,「三十名ほどの報道関係者が,開戦時の日本大使館の様子を取材するため,無断でドヤドヤ構内に入ってきた.そのとき,ちょうど大使館の暗号機械を処分しているところだった.構内の糸杉の木立の間から,処分のときに出る白い煙が,もうもうと立ちのぼっている.この煙は,かれらに異様の感じをあたえた.「いったい,あの煙は何ですか?」たまたま,その場に居合わせた海軍武官室の佐々木勲一嘱託は,機転をきかして大使館のスポークスマンになりすました.彼は,大正の初め,鳥取県の倉吉農学校を中退して一家でアメリカに移住,カリフォルニア大学ロス分校に学んだので,アメリカ人との応対は堂に入ったものだった.「あの煙ですか,あれはラブレターを焼いているところです.グリーンの煙は恋文で,イエローは断交(日米交渉断絶の意)の悲恋の炎ですよ……」と,巧みな英語で,いとも鮮やかにやってのけた」

中午回来的海军武官辅佐官实松让,看到大使馆的情况后取消了去打高尔夫球的念头,“文件、密码书等都放在焚化炉里,密码机拆开,机密的部分在大使馆内的丝杉树丛间搬运,这些处理,不到一小时,就顺利结束了。”,“大约三十名新闻工作者为了采访开战时日本大使馆的情况,擅自进入了使馆境内。当时,使馆官员正在处理大使馆的密码机。燃烧产生的白烟从使馆内的杉树丛中滚滚而出,这烟对他们来说是异样的。”恰巧在场的海军武官室嘱托佐佐木勋一,机智地冒充大使馆发言人。大正初年,他从鸟取县的仓吉农学校退学,全家移居美国,后来进入到加利福尼亚大学洛杉矶分校学习,很擅长应付美国人。‘是那烟吗?那是在烧情书。绿色的烟是情书,黄色是断交的悲恋的火焰……’。”

8日4時5分,ハル国務長官は野村・来栖両駐米大使の訪問を受けた 「両大使は二時五分に国務省に現われ外交官応接室に通された.ちょうどその時大統領がホワイト・ハウスから私に電話をかけて来た.大統領の声は乱れてはいなかったが,早口だった.大統領はいった.「日本が真珠湾を攻撃したという報告が来た.」私はたずねた.「その報告は確認ずみですか.」 「まだだ」と大統領は答えた.われわれはおたがいに,恐らくこの報告は本当だろうと思う,という意見を述べたのち,私は日本大使とこれから会うことになっていることを考えて,この報告は確かめさせるように大統領に進言した」

8日4时5分,赫尔国务卿接受了野村、来栖两位驻美大使的访问,他说:“两位大使于2时5分出现在国务院,被派到外交官接待室。正好那时总统从白宫给我打电话。总统的声音没有乱,但语速很快。总统说。‘有报告说日本攻击了珍珠港。’我问,‘那个报告确认了吗?’‘还没有。’,我向总统建议,让他确认这份报告。“

8日4時20分,野村吉三郎・来栖三郎駐米大使は,ハル国務長官に覚書を手交した. 野村吉三郎大使 「余より「午後一時此の囘答を貴長官に手交すべく訓令を受けた」と申したところ,國務長官は「何故一時か」と訊ねたるも「何故なるを知らず」と答へた.我方の囘答を一讀したる上,非常に激怒したる面持にて「自分は過去九箇月常に信實を語つて居つた.斯の如く僞りと歪曲に滿ちた公文書を見たことがない」と述べた.余は長官の手を握つて別れを告げた」

ハル国務長官 「私は両大使を呼ばせた.野村と来栖は二時二十分に私の部屋に入って来た.私はひややかな態度で彼らを迎え,イスをすすめることもしなかった.野村はおずおずした様子で,政府からは午後一時に文書を手渡すように訓令されていたのだが,解読に手間どっておそくなった,といい,日本政府の通告を私に手渡した」

8日4时20分,驻美大使野村吉三郎向赫尔国务卿递交了开战布告,并说:“我下午接到了命令,要将此答复件在下午一点前交给贵长官。”赫尔问“为什么是下午一点”,野村回答“不知道”。读了日本递交的答复件后,赫尔非常愤怒地说:“我过去九个月经常说信用,但我从未见过像这样充满虚伪和歪曲的公文。”
赫尔国务卿证词:“我请了两位大使野村和来栖两点二十分进入我的房间。我以温和的态度迎接他们,没有给他们安排座位。野村一副胆怯的样子,和我说日本政府训令他下午一点把文件交给他们,但解读起来慢了,所以送来得太晚了。”

8日4時30分頃,駐米武官輔佐官矢野連は,新庄健吉大佐の葬儀場にいた.在留邦人2,30人と,アメリカ陸軍省の少佐と大尉が出席していたが,野村大使・来栖大使や横山一郎海軍少将は到着していなかった.ここで,磯田三郎武官に電話があり,戻って来た磯田は「開戦だ」と矢野に囁いた.葬儀は30分程度で終わり,磯田は「いよいよ日米関係は最後の事態に達したと思います.名誉或る挙措で終始したい」と挨拶した.矢野駐米武官輔佐官は,石川秀江駐米武官輔佐官と宿舎のバレービスタ・アパートに帰った.

8日4时30分左右,驻美武官辅佐官矢野连在新庄健吉大佐的葬礼上。有2、30名在留日本人和美国陆军的少校和上尉出席,野村大使、来栖大使和横山一郎海军少将并没有参加。在这里,矶田三郎武官接到电话出去了(横山打的电话),回来的矶田对矢野低声私语:“开战了。”葬礼在30分钟左右后结束,其余两位先要返回,矶田对他说:“日美关系终于到了最后的事态了,我想自始至终保持光荣和光明正大举止。”于是,矢野驻美武官辅佐官与石川秀江驻美武官辅佐官先回到了巴列维斯塔公寓的宿舍中。矶田三郎在葬礼后返回。

8日5時頃,野村吉三郎・来栖三郎駐米大使が大使館事務所に帰り,本省に対する短い報告電を出した.

8日5时许,驻美大使野村吉三郎回到大使馆办公室,向本省发出了简短的告电。

一等書記官奥村勝蔵の語る野村大使 「最後の日,真珠湾攻撃のニュースを私から聞いて,「そうか」とひとこと,うなるようにいったまま,じっと頭を下げたその姿は,忘れることができない」

一等书记官奥村胜藏证词中的野村大使:“最后一天,野村大使从我这里听到袭击珍珠港的消息,就轻语一声“是吗”,保持一动不动低头的样子,这个场景我无法忘记。”

野村吉三郎大使 「開戰の日の事で,今でも記憶に殘つているのは,磯田陸軍中將の事だ.丁度その日の一時に,亡くなつた新庄大佐の告別式をやつていたが,開戰の報に接して磯田中將は,大使館へ駆けつけ,「大使--,非常な御努力にも拘らず,事ここに至りました.残念です.運命ですな」と兩目に涙を浮べていた」,「余も感動を受けた」

野村吉三郎大使证词:“开战那天的事,至今仍留在记忆中的是矶田陆军中将的事。正好在那一天的一段时间,举行了去世的新庄大佐的告别仪式,接到开战的消息后,矶田中将回到大使馆,和我说:‘大使,尽管您非常努力,但事情还是到了这一地步。很遗憾,真是造化弄人啊。’,我被感动了。”

8 日5 時頃,毎日新聞ワシントン特派員の高田市太郎は,ワシントンでUP の記者から開戦の報を受け,本社に電報を打電して駐米大使館に向かった 「私は大使館の横門の自動車車庫から地下室の電信室を通って館内へもぐり込んだ.なかに入ると,入口に海軍武官室の実松譲中佐がワイシャツの腕をまくりあげ,悲壮な顔つきで外を見張っていた.記者が,「とうとうやりましたね,真珠湾はメチャメチャにやられているようですね」というと,実松中佐は, 「そりゃ,やりますよ,帝国海軍ですもの」と,意気けんこうたるものがあった.地下室の大きなストーブの前には,これも海軍武官室の体の大きな寺井義守少佐(前海上自衛隊幹部学校長)が立っていて,しきりに何かを放り込んでいた.重要書類を焼いていたのである.そういえば,館内は,ほかのストーブもみんな書類を焼いているので,煙と,きな臭いにおいが立ちこめ,なんとなく悲壮な気分がみなぎっていた.私は地下室から大使館事務所に上がり,官邸二階の居室に野村,来栖両大使をたずねた.野村大使は立って書棚の書類などを整理していた.さすが千軍の提督だけあった,いつもとすこしも変わった様子はなかった.私が,「とうとう,やってしまいましたね」というと,大使はそばのソファーにゆっくりと腰をおとし,「どうせやるならね……しかし最後まで誠心誠意使命の達成につとめたが,事ここに至っては,やむを得ない.人事をつくして天命を待つ気持だ……」と,そんなふうな感想を語った.私は野村大使にさよならをいって,来栖大使の室に行った.来栖さんは机に向かって,何か書きものをしていたが,かなり興奮した様子だった.私があいさつすると,「諸君もご苦労さん,お大事に」と言葉少なく語った」

8日5时左右,每日新闻华盛顿特派员高田市太郎在华盛顿接到UP记者的开战消息,给总公司发了电报,向驻美大使馆说:“我从大使馆汽车车库通过地下室的电信室钻进馆内。一进去,入口处海军武官室的实松让中佐卷起手臂衬衫,以悲壮复杂的表情看着外面。记者对他说:“你们终于做到了,珍珠港好像被搞得乱七八糟。”实松让中佐这么回复“那是当然的,压力马斯哟,这可是帝国海军。”我继续往前走,海军武官室身材高大的寺井义守少佐(前海上自卫队干部学校校长)站着,不停地往里扔东西,烧着重要的文件。整个大使馆内,所有的火炉都在烧文件,烟雾弥漫,臭气弥漫,我从地下室走上大使馆办公室,在官邸二楼的居室里拜访了野村、来栖两位大使。野村大使站着整理书架上的文件。野村不愧是千军提督,神情和往常一样一点也没有变化,“终于结束了”,大使慢慢地坐在旁边的沙发上,说:“反正要做的话……但是我一直全心全意地努力完成使命,事到如今,也没办法了。我是尽人事待天命的心态……”。随后,我和野村大使说了再见,去了来栖大使的房间,来栖先生坐在桌子上,写着什么东西,看起来很兴奋的样子,我和他打招呼的时候,他就说了一句话:“各位也辛苦了,请多保重。”


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