占い師オリハシの嘘2 偽りの罪状

始
占い師オリハシ。「よく当たる」と巷(ちまた)で話題の女占い師で、一般人からはもちろんのこと、芸能人や政財界関係者からも日々依頼が舞い込んでくる。
メールや専用ウェブサイトを通じて依頼を受ける、最近珍しくもないオンライン特化型の占い師で、星の巡りやカードなど、彼女の扱えるいくつもの方法を用いて依頼者の運勢を診断する。彼女の占いは、依頼者の運勢だけではなく心すら見通すようだという人もおり、彼女を頼ればよりよい未来を教えてくれるとされる。
ゆえに人気は高く、サービスは好評で、リピーターも多い。しかし──
失踪癖(しっそうへき)があり、妹の折橋奏(おりはしかなで)がたびたび代役を務めていることは世に知られていない。
第一章 血まみれの友情
甲が乙に講義の代返を三回依頼するとき、甲は大学の学食で乙に一食分のランチセットを奢(おご)ること。
そんな契約書を正式に交(か)わしたわけではないが、折橋奏(おりはしかなで)とその学友である拝郷三矢子(はいごうみやこ)の間には、いつの頃からかそんな決まりができていた。法外な対価ではなく、かといって大学生の懐(ふところ)事情を踏まえれば多用できるほど安価とも言えない。怠け心に対する抑止力にもなり、ちょうどいい塩梅(あんばい)の契約だ──と、少なくとも奏の方は思っている。
曜日は月曜、現在時刻は午後一時五分。大学の時間割としては三限目が始まって間もなく、学食には授業を取っていない学生たちがやや遅めの昼食を取るため姿を見せる時間帯。奏もまた、拝郷を連れて学食にいた。
いま、奏の前には月見そばが、向かいの拝郷の前にはエビフライカレーセット(味噌汁(みそしる)・サラダつき)がある。夏場、汗をかきながら学食の辛口(からくち)カレーを食べる友人の姿に、よくこうも暑いのに辛いものなど食べられるなと感動したものだが、十月に入り秋めいてきた今日この頃ともなれば、奏の感覚にも一般的なランチに思える。
代返の前払いとして奏が拝郷へ奢った昼食。彼女は「いただきます」と手を合わせ、スプーンを手に取ると、
「つまり、奏は」
奏の置かれた現状を、一言で要約してくれた。
「また、占い師オリハシの『代役』を務めることになったわけだ」
「左様でございます」
理解が早い友人を持つと助かる。頷(うなず)きながら割(わ)り箸(ばし)を割ると、ぱき、といい音がした。
──占い師オリハシ。それは奏の姉、折橋紗枝(さえ)の芸名だ。
よく当たると評判の、若い女占い師。人並み外れた霊感を持つとされる彼女の素顔は謎(なぞ)に包まれていて、そのミステリアスさが余計に世の人々の注目を集めている。人が腹の底に隠した秘密すら見透かすその目と腕前は「神懸り」とすら称されて、ときに恐怖の、ときに畏怖(いふ)の対象となっている。とはいえ実際のところを言えば、姉は神でもなんでもない。ただ、神と見紛(みまが)うほどにひどく鋭い、直観、直感、ひらめき、第六感、勘……そういったものの持ち主で、依頼人の悩みの本質を見抜いてはその解決となるような言葉を告げているのだ。だから、彼女の占いはよく当たる。
ただし彼女は、その思考プロセスを他人に説明することができない。いわば「極端な説明下手」である。なぜそういう発想に至ったかという理屈づけ、頭の中で導き出した結論に至るまでの過程を他人に説明する能力が極端に低い。姉が占い師という職業を選んだのは、結論に至る過程の説明が「そう星の巡りが申しております」などと伝えるだけで誤魔化せるというメリットを見出(みいだ)したからだった。
さてその姉だが、妹である奏に占い師オリハシとしての仕事を任せてふらりと旅立つときがある。そういうとき、奏は占い師オリハシの代理、あるいは代役として占いをし依頼人を導いている──ただし、残念なことに、奏には姉のような力はない。だから能力や依頼人の依頼を聞き、ときに素性を調べ、悩みの根源を推測して、占いを告げるのである。
奏の姉こそが本物の占い師オリハシであり、奏はときどきその代役を務めている。──拝郷は、そのことを知る数少ない一人だ。
「それで」
奏が蕎麦(そば)を啜(すす)るとき、拝郷はカレーをスプーンで掬(すく)う。奏が月見の黄身を潰(つぶ)したとき、拝郷はフォークをエビフライに突き刺しながらこう尋(たず)ねた。
「今度はお姉さん、どこに行ったの?」
「さあ」
「さあって」
他人事(ひとごと)のような返事になった自覚はあった。
案の定あきれ混じりの答えがあり、慌てて補足する。
「あ、でも大丈夫。今回は連絡取れるようにしてるし、時間空いたときにちゃんと返事するって約束もしてるし。あのときみたいなことにはならないよ。大丈夫。本当に」
「折橋姉妹の信用できないレベル、ヤバいよね」
拝郷が心配しているのは、先の六月頃、小さな誤算から、奏がほんの少しだけ危ない目に遭ってしまったときのことだ。姉と連絡が取れず、奏が勝手に動いた結果、ちょっと──そう、ほんのちょっと。オリハシの依頼人の家に行って家探ししたり刃物を持った女と対峙(たいじ)したり、宗教施設にカチコミかけたりすることになったときのこと。
そもそもあれはすべて、諸々(もろもろ)の誤算や、奏と姉の不注意が重なった結果起きてしまった、つまらないアクシデントに過ぎない。奏は謝罪会見よろしく深々と頭を下げ、
「弊オリハシ業は、トラブルには再発防止策を講じ、以後徹底した対応をしております」
「オリハシ業って何」
お客様の安心こそナントカカントカ。
事実、今回は不測の事態に備え、姉には「いくら多忙であっても連絡の取れる状況だけは作っておくように」と伝えているし、同時に奏の居場所も随時、姉に伝わるようにしている。
しかし誤算だろうが何だろうが、過去に確かに奏の身に起きたことだ。そんな前科で失ってしまった信用は、いまなお回復していないらしい。拝郷からは、信じがたいと雄弁に語る視線が──いや、
「本当かなぁ」
視線だけでなく口でも言った。
「奏が危ない目に遭ったら、わたしも……わたしだけじゃない。奏の大好きな『修二(しゅうじ)さん』だって、心配するんだからね」
自分だけでは抑止力として不足していると思ったか、拝郷は奏の想(おも)い人(びと)の名も口にした。
森重(もりしげ)修二。姉の学生時代からの友人で、奏の保護者を気取っている、オカルトオタクの雑誌記者。奏の求愛を何年にもわたってはぐらかし続けてはいるが、彼なりに大事に思ってくれてはいるようだ。
「奏だって、好きな人に不安そうな顔なんてしてほしくないでしょ?」
「心配する修二さん、ねぇ……」
思い浮かべてみる。奏の身を案じ、青ざめる想い人の姿。言葉少なに、沈鬱(ちんうつ)な眼差(まなざ)しで、食事もまったく喉(のど)を通らず、ただひたすらに奏の無事だけを祈っている──
奏は音を立てて蕎麦を啜った。
「想像だけで白米五合食べられそう」
「とにかく、危ないことはしないでよね」
無視することにしたようだった。
やれやれ、と拝郷はカレーを口に運び、
「それに、最近──」
恐らく小言を続けようとしたのだろうが、なぜだかそれが途切れた。
押し黙り、いくら待てども続く言葉がないので、先を促(うなが)すことにする。
「最近、何?」
拝郷の眉間(みけん)に、きゅうと皺(しわ)が寄る。失言だったとでも言いたそうな顔。
「ごめん、たいしたことじゃない」
「ええっ、気になる。言って」
「奏が聞いて気分のいい話じゃないから、やめたの」
「言いかけてやめられる方が気になるよ」
「でも……」
「まぁとにかく、食べて食べて。今日はわたしの奢りだから。よっ大統領」
空腹は人の心を閉ざしやすくする。奏が囃(はや)し立(た)て、拝郷がしぶしぶながら新たな一口を運んだと同時、
「それでハイゴー、どういうこと?」
「まったく奏は、こういうときばっかり調子がいいんだから」
テーブルに身を乗り出して先を急(せ)かすと、拝郷はゆるゆると首を振った。根負けした様子でとげのある言葉を吐(は)きながら、隣の椅子(いす)に置いたバッグからスマートフォンを取り出す。
テーブルの上に置き、空いた左手で操作。何かのアプリを立ち上げると、
「もしかしたら、もう知ってるかもしれないけど」
スマートフォンを奏に向けて差し出した。画面に映っていたのはあるSNSのアカウント。正確には、SNSに誰かが投稿した文章だ。
その文章の冒頭には、ひときわ大きい太文字でこう記されていた。
宗教団体「希望のともしび」寄付金横領事件の黒幕は占い師オリハシだった?
* * *
「あのでたらめ記事、いったいどういうことなのよ!」
同日夕刻、折橋家にて。
リビングのローテーブルを力いっぱい殴りつけ、そう叫んだのは家主──ではなく、客人の左々川(ささがわ)だった。
左々川千夏(ちか)。折橋紗枝を「オリハシ先生」と呼び、まさしく力のある占い師として慕(した)う警察官。修二とは相性が合わず頻繁に口喧嘩(くちげんか)をしているが、基本的にはいつも冷静で、奏にも優しく接してくれる、大人びた雰囲気の落ち着いた女性である──が、残念ながら本日に限っては、周りを気にする余裕はないようだ。
左々川のこめかみにはファンデーションの上からでもわかるほど青筋がはっきりと浮き、目は血走り、頰(ほお)は引きつって震えている。握り締めたこぶしも固く、彼女が激怒していることがよくわかった。
奏は左々川の前に、砂糖とミルク多めのコーヒーを差し出した。
「まぁまぁ、左々川さん……これでも飲んで、落ち着いて」
「ありがとう奏ちゃん。でも、奏ちゃんには悪いけど、この状況で落ち着いていられるわけがないのよう」
「落ち着けよバカ川。お前が騒いでもどうにもならないだろうがバカ川」
「馬鹿(ばか)馬鹿馬鹿馬鹿うるっさいのよ森重修二!」
「修二さんも火に油を注ぐようなことを言わないでください……」
「にゃあ」
テーブルの下で寝ていた折橋家の愛猫・ダイズが、「うるさいよ、お前ら」と抗議するように短く鳴いて、のそのそと廊下へと去っていった。
奏が本日、昼食を拝郷に奢ったのは、「代役」の依頼が入っており午後の授業を欠席するためだ。キャンパスで拝郷と別れて帰路につき、いつものように依頼の手伝いに来てくれる修二を自宅で待っていると、インターホンが鳴った。約束の時間には早いなと思いつつ、画面で来客の姿を確認すると、そこに立っていたのは修二ではなく──
それに遅れること二十分。
折橋家を訪れ、左々川と顔を合わせた修二の表情は、筆舌に尽くしがたいものがあった。
「何が『黒幕』よ、何が『真の悪』よ! 先生があのときどれだけご苦労なさったか、知らないくせに!」
憎らしい、憎らしいと怨嗟(えんさ)のように呟(つぶや)きながら親指の爪(つめ)をがりがりと齧(かじ)る左々川を見ながら、奏はテーブルに置かれたコピー用紙を一枚手に取る。カラー印刷されたA4サイズの冒頭に目を落とすと、それにはこんなことが書かれていた。
宗教団体「希望のともしび」寄付金横領事件の黒幕は占い師オリハシだった?
今年二月に起きた、新興宗教団体「希望のともしび」幹部の謎の一斉解任。信者からの寄付金を多額に横領していたという痛ましい事件がその裏にあったことは報じられたとおりであるが、あの有名占い師オリハシがその片棒を担いでいたという噂(うわさ)をご存じだろうか。わたしは現在、次回作のための取材を行っているが、その中で新興宗教団体「希望のともしび」の騒動に関し、当時、教団の本部施設に出入りする見覚えのない女性がいたという証言を聞いた。また、その「見知らぬ女性」がかの占い師オリハシであったのではないかという疑惑がある。彼女は自身の持つ能力を使い、団体幹部を洗脳し、操作して私腹を肥やしていたのではないだろうか。現在、元幹部らに対し警察の調査が行われているが、真の黒幕はまだ野に放たれたままの状態となっている可能性がある……
筆者の名前は「カンジョウ」と書かれていた。本業が文筆家かそれに近い仕事をしているのだろうか、証拠などないただの疑惑、妄想をさも事実と思わせるかのような書き方をしている。
「あまりに腹が立ったからコメント欄を荒らしたらブロックされたわ」
「それでいいのか警察官」
修二があきれたように呟くが、左々川は無視した。
「奏は記事のこと、驚かないんだな。もしかして、知ってたか?」
「たまたま、今日。友達……ハイゴーから聞きまして」
修二は奏の友人である拝郷のことを知っている。だからそう伝えると、「拝郷さんが」と険(けわ)しい表情で呟いた。
発言を許されたような気がして、せっかくなので続ける。
「修二さん、このカンジョウさんっていう人のことは知ってますか」
「いいや。この記事で初めて見た名前だ」
尋ねると、修二はそう言って首を振った。同業ではないということか。奏と修二の会話に漂う落ち着いた雰囲気が不満だったか、左々川が「そのペテン師がどんな物語を書いていようと、いまはどうでもいいわ」と割り込んだ。
「問題は、そのどこの馬の骨ともわからないやつが書いたブログを信じつつある人がいるってことよ。オリハシ先生の同業者の間にも、それを支持する人が出始めているようだしね」
「同業者?」
奏が繰り返すと、左々川は深く頷いた。オリハシの同業と言えば、占い師ということか。それはあまり歓迎されたことではなさそうだ。
「だいたい、森重修二。あなたもあなたよ。三流記者とはいえ、仮にもオリハシ先生を追いかけて記事を書いている者として、彼女をこんなふうに言われて何とも思わないっていうの?」
「……友人を虚仮(こけ)にされて、何も思わないほど落ちぶれちゃいないけど」
修二の声色に、ほんの一瞬、静電気のようなものが走る。怒りに支配された左々川はそれに気づかず、奏は気づいているものの気づかないふりをした。
修二は動揺のかけらも見せない手でマグカップを取り、コーヒーを飲んだ。
「それでも、占い師オリハシほど世に知られた人間なら悪評を書き立てられるのは珍しいことじゃない。知名度なんていうのは振り子のようなもので──」ちらりと左々川を見、「その中にオリハシ『先生』と敬(うやま)い持ち上げる熱狂的なファンがいれば、その分、どうにかして貶(おとし)めてやろうと思うアンチもいる。世の中、『みんな仲良くしましょう』なんてきれいごとが通用するわけないことくらい、お前だってよくわかってるだろうが」
「……腹立たしいわ」
それは記事に対するものか、わかったような顔で説教をする修二に対するものか。ささやくようだったが、低い唸(うな)り声にも似ていた。
「ま、この三流ライターの思惑を、三流記者の俺が推測するなら。有名占い師であるオリハシに喧嘩を吹っ掛けることで話題性のある存在になろうとしてる、それだけの話に見えるがね」
それだけの話。真の意味で支持者を得ている占い師オリハシとは異なり、話題に飽きられれば消えてしまうような何者かだ、と暗に言った。
「そしてそれに乗っかって騒いでいる馬鹿、もとい『同業者』も同じことさ。つまりこれは奏が気にすることじゃないし、折橋姉にとっても以下同文だ。ましてや左々川、お前が首を突っ込むことでもない。この記事の作成者が極めて危険な思想の持ち主で公安がマークしているとかいうのならまだしも、世間で少し名が知られてる程度のやつをお前が構う理由はないだろう」
「あるわよ」
「『私怨(しえん)』以外で」
黙った。
「というわけで、この話はここで終わり。余計な心配している暇があったら、さっさと仕事に戻れよ左々川。ナントカの考え休むに似たり、って言うからな」
「馬鹿に馬鹿って言われたくないわ。言われなくたって帰るわよ、馬鹿」
「馬鹿に馬鹿っていう方が馬鹿なんだぞバーカ」
「キィッ腹立つっ」
テーブルを挟んで行われる二人のやりとりは相変わらず騒がしく、相変わらず和解の道は遠そうだ。二人の気を逸(そ)らすために、「ねえ、左々川さん」と名を呼んだ。
「最近のお仕事は順調?」
「おかげさまで。そうそう、オリハシ先生には『希望のともしび』の件でお世話になったし、改めてお礼をさせていただきたいなと思っているの。奏ちゃんにも尽力していただいたから、もしよかったら今度お食事でもどうかしら」
「やったぁ」
「わたしとオリハシ先生と、三人で」
「例の件には俺も同行したが?」
「あらそうだったかしら」
「左々川さん。あのときの信者さんたちは元気?」
また睨(にら)み合(あ)いを始めそうな二人へ、続けて話題を振る。左々川は修二から顔を逸らし、奏を見るとにこりと笑った。
「ええ。しばらく気落ちしていた人もいたようだったけれど、オリハシ先生に救ってもらったというのが心の拠(よ)り所(どころ)になったみたいで、みんな前を向けているって聞いたわ。それから……そう、満倉(みつくら)さんや鏑木(かぶらぎ)さんも。元気にしているみたいよ」
満倉行信(ゆきのぶ)と、鏑木奈々(なな)。それは「希望のともしび」の騒動とはまた別の、とある事件の関係者であり、占い師オリハシが助けた人たちの名前。
「うん……そうよ、オリハシ先生はそのお力で、たくさんの人を助けてるのにね。それがどうして、こんな書かれ方をしなきゃいけないのかしら」
悲しげに項垂(うなだ)れたが、それもほんの一時のことだ。左々川は顔を上げると、「奏ちゃん」と呼んだ。そっと、奏の両肩に手を添える。
「気をつけてほしいのは、先生もそうだけど……奏ちゃんも。危ない考えの人や、悪意を持った人はあちこちにいるから、もし身の回りに不審なこととか不安なこととか、何かあったらすぐに連絡してね。力になるわ」
「うん。ありがとう、左々川さん」
「あなたたちの周りには、ただでさえ怪しい雑誌記者もうろついているわけだしね」
「折橋直々に留守を託されている人間に対して、なんていう言い草だ」
左々川は奏から手を離すと、勢いよく修二を振り返った。肘(ひじ)を伸ばし、人さし指を真(ま)っ直(す)ぐに彼へ向ける。
「いまに見ていなさいよ、森重修二! いつかオリハシ先生から、あなたよりはるかに大きな信頼を勝ち取って、吠(ほ)え面(づら)かかせてやるんだから!」
「そうか頑張れ。ところで左々川、一つ言わせてもらってもいいか」
「何よ」
「玄関はあっちだ。さっさと帰れ」
「覚えてなさいよ!」
絵に描いたような捨(す)て台詞(ぜりふ)を残し、左々川は折橋家を後にした。
玄関で左々川を見送った奏がリビングへ戻ると、修二が晴れ晴れとした笑顔でクッキーの小袋を開けたところだった。「まったく左々川め、粘(ねば)りやがって。ようやく帰ったか」と弾んだ声を上げる彼に、相変わらず仲良くする気はないんですねと言いかけたとき、
「これでお前も落ち着いて、オリハシ代役の仕事ができそうだな」
「えっ?」
さらりと彼が呟いた一言に、奏はつい驚きの声を上げた。
「もしかして修二さん、左々川さんに冷たく当たったのは、わたしが仕事に集中できるようにするためだったんですか」
左々川にとって占い師オリハシとは折橋紗枝のことで、奏が稀(まれ)に代役を務めているなどとは夢にも思っていない。オリハシの仕事部屋と来客を迎える部屋を分けているとはいえ、近くにいると集中できないだろうと慮(おもんぱか)り、敢(あ)えて自分が悪者になることで左々川を追い払ってくれたのか──と推測したのだが。
きょとん、と一拍、間があって、
「あ、じゃあ、そういうことで」
そういうこと、とは。
「本音は?」
「あいつを視界に入れることすら不快だったので」
通常営業だった。
修二はソファに置いていた自分のスマートフォンを取り上げた。「あいつの話はともかく」と切り上げ、
「そろそろ約束の時間だろう。準備しなくていいのか」
「あ、本当だ」
修二が奏に向けたスマートフォンのロック画面は、約束の十五分前を表示していた。
急いで仕事の準備をしなければ。小道具と衣装の準備、パソコンの起動、それから──「んにゃあ」うるさいのがいなくなったな遊べ、とばかりに猫じゃらしを咥(くわ)えてリビングに戻ってきたダイズのことは、取り敢えず修二に押しつける。
「だけど修二さん、わたしの代役業のこと、よく認めてくださいましたね」
「認めた?」
「ええ。この間、『これ以上、奏にこの仕事をさせるな』って、お姉に抗議していたじゃないですか」
修二はあの事件のあと、姉に対し、奏がどれだけ姉のことを心配していたか、そのせいで奏をどんなに危険な目に遭わせたかということを懇々と説教していた。また同じような危険があるのなら、自分はオリハシの代役業には二度と協力しないとまで言っていた時期もあった。
しかし、修二は姉との何度かの話し合いののち、奏の代役業を認めたようだった。二人の間でどのような交渉、説得、もしくは買収が行われたのか、奏は気になって仕方がないが、修二は頑として教えようとはせず、姉も「そのうち奏ちゃんも気づくと思うから大丈夫」とにっこり笑うだけだった。
「あ、ああ。そのことか」
「いつでもちゃんと連絡を取れるようにする、って約束は確かにお姉としましたけど。修二さんが納得したのって、本当にそれだけが理由ですか?」
昼の拝郷との会話を思い出す。あの彼女ですら、安全面においてさんざん疑っていたのだ、彼女以上に折橋姉妹をよく知る修二が、それだけで納得したとは考えにくかった。他(ほか)に何か条件があったのではないか……奏に話せない何かが。
しかし修二は相変わらず、何を語ろうともしない。
「お前が気にすることじゃあ、ない。折橋から納得のいく回答を得られたから、引き続き協力することを約束したまでだ」
「じゃあ何かあったのは確かなんですね? お姉に何を言われたんですか?」
「……ほら、いいから行ってこい」
しっしっと追い払うように手を振られる。
答えが得られず奏としてはたいそう不満だけれど、約束の時間まで余裕がないのもまた、事実である。
修二がこうも口を割らないのは怪しいと言えば怪しいが、修二も姉も、奏が心から嫌がるようなことはまずしない。そして姉が「いずれわかる」と言うのなら、その「いずれ」を待つしかないのだろう。半(なか)ば無理やりそう納得して、奏は頭を切り替えることにした。
「じゃあちょっと、行ってきます」
「ああ」
ひらひらと手を振る修二は、奏の追及を逃れられて、明らかにほっとした表情をしている。だけどそれには気づかないふりをして、奏はリビングを出た。その顔がどことなく満足そうでもあったのは不思議だが、いずれにせよ、オリハシ代役の件で、姉と何かの交渉が行われたのは事実だろう。あれで隠しているつもりなのだから、まったくお笑い草である。
まったく彼は、相変わらず隠しごとのできない人だ。そう思って、奏は少しだけ笑う。彼の吐くどんな誤魔化しや偽りも、すぐに奏は気づいてしまう。そう、修二のどんな噓(うそ)も、隠しごとも──
彼が秘めたつもりでいる、折橋紗枝への恋心すら。