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空言舌語·关于さよなら

2023-06-01 21:35 作者:白临初  | 我要投稿

原文:さよなら考 2002.8.16

今年も終戦の日を迎えました。毎年この時節になると思い出すことがあります。それは、夕方のニュースを担当し始めた13年前に、ある女性から届いた手紙のことです。 『高井さんはニュースの最後に「さよなら」と言われますが、とても気になります。  昔、戦争に行く人を見送りました。その人は 別れ際に「さよなら」と言いました。そして帰ってきませんでした。  あなたの「さよなら」を聞くたびに、その人のことを思い出してしまいます』 それまでは、いろんな番組で何気なく「さよなら」と言っていましたが、考え込んでしまいました。 「左様ならば」から生まれた「さようなら」は、本来「それならばこれで…」というような意味でしょうか。「また会いましょう」から「もう会えませんがお元気で」まで、守備範囲の広い曖昧な言葉です。 子供は「さよなら」が別れの挨拶だと教えられるので、明日また会う友達にも、遠くへ引っ越す友達にも「さよなら」と言います。  しかし、大人の社会では「さよなら」は日常あまり使われません。「失礼します」「お疲れ様」「お気をつけて」「お元気で」などを使い分けます。これは、「さよなら」自体が明確な意味を持たないため、挨拶語である「さよなら」を使わず、状況にあった言葉や言いまわしを選択している、と言えます。 中国語の別れの言葉は「再見」が知られていますが、もう会えない別れのときには「離別」と言います。従って中国のニュースキャスターが番組の終わりに「離別」と挨拶することはあり得ず、冒頭のような視聴者からの手紙を受け取る事もないでしょう。   私は視聴者の女性の手紙を読み、思案の末にニュースの最後は「また、あした」「また、来週」と、締めくくることにしました。   手紙からはそうせざるを得ない痛みが伝わってきたのです。そして、意味の範囲が広く曖昧な言葉も、人によっては強烈な意味や印象を持つことも学びました。私は「さよなら」に永の別れを感じるようになってしまいました。   以来、終戦の日にはあの手紙を思いだし、「さよなら」 の使いかたに思いをめぐらせます。

今年也迎来了休战日。每年这个时候我都想起一件往事。那事发生在13年前,我开始担任晚间新闻的主持人,当时曾收到某位女士的来信。信上有这样一段话:“高井先生每次在新闻结尾都会说句‘さよなら’(再见/永别),对此我十分在意。以前送人上战场,临别之际那个人对我说的最后一句话是‘さよなら’,此后便再不曾相见。每次听到你说‘さよなら’,脑海中都会浮现那人的身影。” 这不禁令我陷入沉思:在这之前,我在许多节目上的结束语都说的是“さよなら”。这个词从“左様ならば”派生而来,原本的意思是“既然如此那就到这里……”,后来引申成表达“下次见”、“在此永别,保重”等宽泛、指代含糊的词语。小孩子学到这个词是分别时的寒暄语,所以不管是明天还能见到的朋友,还是搬家后再也见不到的朋友,都会用上“さよなら”。 然而,在成年人的世界里,“さよなら”不能算是一个日常用语。大家根据场合会用上“先走一步”“大家辛苦了”“注意身体”“保重”这类问候语。“さよなら”本身没有明确的意思,所以不会把它当做问候语来用,而选择用其他合适的表达。 我知道汉语里分别时会用“再见”,而再也不见则叫做“离别”。因此中国的新闻播音员在节目最后也不可能用“离别”作为结语,也应该不会收到像开头这样观众的来信吧。读完这位女性观众的来信,一番思量过后我决定以后把新闻结束语改称“明天见”、“下周见”。因为从这封信中,我感受到了那身不由己的痛苦。我也明白了,即便有的词多义、含糊,对于每个人而言都有属于自己的深刻含义、印象。我也逐渐在“さよなら”这个词上体会到了永别的含义。 自那以后,每逢休战日我都会想到那封信,反复思索起“さよなら”的用法。

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