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【樱学资料】永井均《“我”的同一性与<我>的同一性》选译

2023-04-14 14:33 作者:真紅様  | 我要投稿

(本文选译自日本当代哲学家、维特根斯坦专家永井均的论文《「私」の同一性と<私>の同一性》,希望能为理解《樱之刻》中的自我理论提供帮助。)


    さてスウィンバーンによれば,身体と個人的記憶の両方を同時に喪失しても,なお人格の同一性は保持されうる.多くの宗教の基礎にある霊魂の不滅という想定はこの可能性を前提しており,それを信じない人でもこの前提を矛盾なく理解することはできるのである.彼は次のように書いている.

    根据斯温伯恩,即使同时丧失身体和个人记忆两者,人格同一性仍然能被保持。处于许多宗教的基础的灵魂不灭这一设想以这个可能性为前提,即使是不相信它的人也能够无矛盾地理解这个前提。他如下写道

    私の主張したいことは,自然法則はどの生きた身体があなたのものであり,どれが私のものであるかを決して決定できない,ということである.まったく同じ物質の配列とまったく同じ法則が,今あなたのものである身体(したがってまた直明な記憶)を私に与え,今は私のものである身体(したがってまた直明な記憶)をあなたに与えることもできたであろう.人格に身体〔したがってまた直明な記憶〕を割り当てるには,神か偶然かが必要であるの.

    我要主张的是,自然法则决不能决定哪个活着的身体属于你,哪个属于我。完全相同的物质排列和完全相同的法则,应该也能把现在属于你的身体(因而直明的记忆)给我、把现在属于我的身体(因而直明的记忆)给你吧。对于给人格分配身体【因而直明的记忆】来说,上帝或偶然是必要的。

    この引用文の最初の二つのセンテンスに,私は重大な真理への鋭い直観的洞察を認める.しかし重要なことは,そこにあらわれる「あなた」と「私」を「彼」と「彼女」で置き換えてしまえば,すぐにその真理は消滅してしまう,ということである.今あなた(彼,彼女)のものである身体や記憶(やその他すべての物理的・心理的諸属性)が私のものであり,現に私のものである身体や記憶(やその他すべての物理的・心理的諸属性)があなた(彼・彼女)のものであることも可能だった.数十億の生きた人間(ほとんど無量大数のかつて生きた人間とこれから生きるであろう人間)のうち,ある一つが<私>という特殊なあり方をしていた(別の人間がそのあり方をしていることも可能だったし,そのあり方をしている者は存在しないことも可能だったのに)という事実を,その人間の外的・内的(物理的・心理的)諸属性から説明することはできない,その人間が<私>であったのは,その人間のもついかなる性質とも関係のない,<偶然>なのである.ということはつまり,<私>であるという事実は,その人間のもつ身体やら記憶やら性格やらの諸事実とは,まったく独立に成立しているということである.だからこそ,世界についての客観的事実(記憶等の心理的諸事実を含めて)を何も変えることなく,今あなたのものである諸属性が<私>のものであり,現に<私>のものである諸属性があなたのものである反事実的状況を,思い描くことができたのである.他者に関しては,しかし,この種の想像は成り立ちえない.世界についての客観的事実を何も変えることなしに,今P氏のものである諸属性がすべてQ氏のものとなり,現にQ氏のものである諸属性がすべてP氏のものとなる状況を,思い描くことなどはできない.P氏のものである諸属性をすべてもつ人物は,すなわちP氏なのであり,Q氏のものである諸属性をすべてもつ人物は,すなわちQ氏なのである.P氏が<私>であることは想像可能だが,P氏がQ氏であることは想像不可能である.それゆえ,引用文の第三のセンテンスは誤っている.「神か偶然か」が必要なのは,ただく私>に身体や精神を割り当てるときだけであり,他の諸人格は身体や精神そのものでしかありえないからである.

    在这段引文的前两个句子中,我看出了对重大真理的敏锐的直观洞察。但重要的是,如果把出现在那里的“你”和“我”用“他”和“她”置换的话,那个真理就会立刻消失。现在属于你(他、她)的身体和记忆(和其他一切的物理、心理的诸属性)属于我,现在属于我的身体和记忆(和其他一切的物理、心理的诸属性)属于你(他、她),也是可能的。在数十亿的活着的人(几乎无量大数个曾经活着的人和今后应该会活着的人)中,有一个人以<我>这一特殊的存在方式存在(别的人以那个存在方式存在也是可能的,不存在以那个存在方式存在的人也是可能的)这一事实,不能从那个人的外在、内在的(物理、心理的)诸属性来说明,那个人是<我>,与那个人拥有的任何性质都没有关系,是<偶然>的。这也就是说,是<我>这一事实,与那个人拥有的身体、记忆、性格等诸事实,完全独立地成立。正因如此,不改变任何关于世界的客观事实(包括记忆等诸心理事实),现在属于你的诸属性属于<我>,现在属于<我>的诸属性属于你的反事实状况,是能够想象的。但是,关于他人,这种想象不能成立。不改变任何关于世界的客观事实,现在属于P先生的诸属性全部变为属于Q先生,现在属于Q先生的诸属性全部变为属于P先生的状况,根本不能想象。拥有全部的属于P先生的诸属性的人物,即是P先生,拥有全部的属于Q先生的诸属性的人物,即是Q先生。P先生是<我>是可想象的,但P先生是Q先生是不可想象的。故而,引文的第三个句子是错误的。“上帝或偶然”是必要的,只有给<我>分配身体和精神的时候,因为其他的诸人格只可能是身体和精神本身。

    それゆえ,人格の同一性が成り立っためには,身体の時空的連続性か,記憶を中心とする心理的連続性か,少なくともどちらか一方が維持されていなければならない,という条件は絶対的である.しかし,<私>の同一性が成り立っためには,その条件は絶対的とは言えないのである.スウィンバーンは,人は身体を失い,レーテ河を越えて現世の記憶のすべてを失っても,霊魂の持続のゆえに,来世においてなお同一の人格にとどまることができると考えていた.しかし,それが言えるのは<私>についてだけである.人物Pが,物理的連続性も心理的連続性もなしに,なお同じPであり続けるということには,いかなる意味も与えられない(そういう想像をしようとしても,何を想像すればよいのかさえわからない).これに反して<私>は,物理的連続性も心理的連続性もなしに,なお<私>にとどまることができる.そのような想像をしたいならば,現に私のものであるのとはまったく別の身体(あるいは無身体)と現に私のものであるのとはまったく別の心が,そこから世界が開けている唯一の原点であるような状態を想像すればよい.そこから世界が開けている唯一の原点こそが,すなわち<私>だからである.ある人格を他の諸人格から分つものは身体や記憶をはじめとするその諸属性の差異でしかありえないが,<私>を他の諸人格から分つものは属性上の差異ではない.多様な属性をもった多数の人物のうちのどれが<私>であるかは,それのもついかなる属性上の特徴からも決定されえない(永井均のもつ諸性質をすべて数えあげても,そのどこからもこの人物が他の人物と異なる特別なあり方をしているつまり<私>であるという事実は説明されない)のである.

    故而,为了人格同一性成立,身体的时空连续性或以记忆为中心的心理连续性,必须至少有某一者被维持,这一条件是绝对的。但是,为了<我>的同一性成立,那个条件不能说是绝对的。斯温伯恩认为,即使人失去身体,越过Lethe河失去现世的全部记忆,由于灵魂的持续,在来世仍能逗留于同一个人格。但是,只有关于<我>才能那样说。人物P,没有物理连续性也没有心理连续性,仍然继续是相同的P,这不能被赋予任何意义(即使想要做那样的想象,也连想象什么好都不知道)。与此相反,<我>没有物理连续性也没有心理连续性,仍然能逗留于<我>。如果想要做那样的想象的话,那么想象像这样的状态就好:跟现在属于我的身体完全相别的身体(或者无身体)和跟现在属于我的心灵完全相别的心灵是世界由之展开的唯一的原点。因为世界由之展开的唯一的原点,正就是<我>。把某个人格从其他的诸人格中分出来的,只可能是以身体和记忆为首的诸属性的差异,但把<我>从其他的诸人格中分出来的,并不是属性上的差异。拥有多种多样的属性的众多人物之中的哪一个是<我>,不能被其拥有的任何属性上的特征决定(即使将永井均拥有的诸性质全部列举出来,这个人物以和其他人物不同的特别的存在方式存在、亦即是<我>这一事实,也不能由其中的哪个说明)。

    そうだとすれば,今たまたま<私>である人物は,身体の時空的連続性も精神の意味的連続性も断ち切ることなしに,<私>でなくなることができる(永井均という人物にいかなる異変も起こすことなしに,彼は<私>でなくなることができる)ことになる.少なくとも私自身にとって,この想像はまったく容易である.一分後,永井均は生き続けており,今と同じようにこの論文の続きを書き続けている.しかし,彼はもはや<私>ではなくなっている.この論文に書かれたような思想を持ち,今と同じ身体,今と同じ記憶を持った,永井均という名の一人物が存在している,という<客観的>事実だけが残る.世界は開けの原点を持たなくなって,それゆえ無いも同じものとなる,と考えてもよい.あるいはまた,<私>は永井均の身体と精神から離脱し,始めのうち残存していた彼の卑俗な精神の影響(記憶)も次第に消え去り,ついにはまったく超越的な視点から,永井均を含む世界をまったく客観的に眺められるようになる,と考えてもよい.いずれにせよ,私自身にとつて,この想像は有意味である.しかし,この想像が有意味なのは,私自身にとってだけなのである.他の人々は,永井均に起こったこの<異変>に,何の意義も認めることができない.彼は——外面はもちろん内面も——以前と同じように存続しており,彼に起こった<異変>は,彼らにとっては——そしておそらく彼自身(永井均という人物)にとっても——何ら異変ではありえないからである.

    倘若如此,那就是说,现在碰巧是<我>的人物,能够不切断身体的时空连续性和精神意义上的连续性,而变得不是<我>(永井均这一人物能够不引发任何异变,而变得不是<我>)。至少对我自己来说,这个想象完全是容易的。一分钟后,永井均继续活着,像现在一样继续写着这篇论文的后续。但是,他已经变得不是<我>了。拥有这篇论文所写的思想、拥有和现在相同的身体与记忆的名为永井均的一个人物存在着,只有这一<客观>事实存留。可以考虑,世界变得不具有展开的原点,故而变成没有也一样的东西。或者也可以考虑,<我>从永井均的身体和精神脱离,最初残存的他的卑俗的精神的影响(记忆)也逐渐消失,终于变得能够从完全超越的视点,完全客观地注视含有永井均的世界。不管怎样,对我自己来说,这个想象是有意义的。但是,只有对我自己来说,这个想象才是有意义的。其他的人们,在永井均发生的这个<异变>中,不能看出任何意义。因为他——外在自不必说,内在也——像以前一样存续着,他发生的<异变>,对他们来说——并且恐怕对他自己(永井均这一人物)来说也——不可能是什么异变。

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