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【试译】現代とは?/何为现代?-坂口安吾

2023-02-17 09:37 作者:許露白  | 我要投稿

本日(2.17)は安吾忌です。


坂口安吾


尽管人们笼统地说否定传统,却并不意味着不得不将传统全部否定,而只是反省和否定在传统的实质已渐渐消亡之时,作为信仰的存在保持其虚妄的空想这一事实。有实质内容的东西并不需要否定,又及,不限于传统,凡是那些失去实质却保有虚妄的权威的东西,都必须被反省和否定。

所谓时代风尚,往往大概倾向于是与传统同等般空洞的东西。这是由于支持它们流行的大多数人从未将真诚的反思作为日常良友。更糟的是,那些占据时代领军地位的人物,记者、教授和作家,也不一定是真诚的思考者和反省者。

以我身边为例,大多数人好像使用了魔法,在评论连读都没读过的小说。“X这样的作家好无聊啊。”“你读过么?”“没有,大家都这么说,我也这么觉得。”“《肉体之门》是一部荒诞的黄色电影。”“你看过吗?”“没有,因为是色情片的所以没看。”我这样写,大家或许不免嗤嗤发笑,但确信正在笑的人们中实际上应该多少会有使用这一奇怪论证法的朋友。

这样的人不仅有普通读者。批评家也是如此。就连文人中也不乏这样的人。他们读都不读便堂而皇之地发表自己的一知半解。

当我们谈论巴尔扎克、莫泊桑等人时,我们经常从历史的角度进行批评,通读全部的作品,然后才能看到时代价值。然而,同样的批评家对现代的作品却只是读过一两篇短篇,就敢于给作者的全部作品下断言。

虽然现代文学的贫困云云言论最近甚嚣尘上,但这是因为说这样的话的人自己已经愚不可及了。

老人只要一开口,便会说过去是好的,过去的艺人真正有技艺,这是现在的艺人所看不到的。从数千年前,老人们挂在嘴边的话便一定如此。这是因为他们被时代抛弃,他们的人生已经走向终点。

所谓艺术,其实际的运转并不是魔法,而是生活。艺术的生命在于劳作中将满心融入现实的喜怒哀乐,所以它的存在方式与其说是艺术不如说更像生活。

原本拉莫、巴赫、莫扎特的乐曲曾与日常生活中的舞蹈为伴。最初是生活化的,如今却与生活脱离而成为典雅的仪式,人们常常把这份典雅认作艺术的本质,但换言之,这与老人的唠叨无异。

现代的年轻人乘着狂躁的爵士旋律在糙酒的氤氲中癫狂,像是沸腾着翻滚着、即将要爆炸般,以自叙传的形式感受那些并非艺术而是现实的色情,谈着并不远大的恋爱。

这种饱含着现代的躁狂的爵士乐的糟糕旋律,最终应该会成为古典的一种。现代性本身并不总是完全典雅的。这是因为现代不是历史,而是生活本身。生活本身有不能从对历史的观察整理中获得的性质,只有不知会走向哪个地狱的荒原的周游经历,以及不知道自己是谁的愚者,换言之,生活是仅此一人的生活。

任何把历史和现实混为一谈,大谈现代贫困的人,都不过是故纸堆里的古董老人,被时代抛弃的人,即所谓不知生活为何的愚者。

历史的观察法在现代并不通用。这是因为,虽然我们笼统地称之为人类,即所谓的一般人,但和自己这个只能活五十年的人毕竟不同。人类永远存在,但自己只存在于当下。正因生活与历史的视角不同,有只依据现实的命运支撑的切实性,这里便具备了现代的特性。

若知道这一点,也就知道其实不存在所谓现代的贫困之语。现代性既不是贫乏也不是丰富。现代性始终是一种真实的生活,一种处于边缘的东西。

  ★

正如日本的传统中以对偶像崇拜的虚假的信仰为主一样,外国文学的本土转化也伴随着类似的偶像崇拜的信仰行为。

现如今的日本文坛上,提起司汤达,尽管无论如何总被认为是绝对好的,但我不禁觉得奇怪且无可奈何。例如,织田作之助称自己是二流作家,而奉司汤达为一流作家,而显然我也被列入二流作家之列,这很荒唐。

尽管我没有想过自己是几流作家,但我不觉得自己屈居司汤达之下。司汤达的作品中,人类是刻板的、陈词滥调的、无聊的,我觉得很荒谬。相比之下,司汤达先前的《危险关系》则更有人情味,更简洁,更新鲜。

我认为,对于生活着的人们来说,不愿读司汤达的著作是很正常的。那些远离生活的古董老人,如学者和隐士,都喜欢读司汤达的著作,并把它们作为现代人的灵感来源,他们难道不也是古董的一部分吗。

現代とは?


坂口安吾


 伝統の否定と一口に言うけれども、伝統は全て否定しなければならぬというものではなくて、すでに実質を失いながら虚妄の空位を保って信仰的な存在をつゞけていることが反省され否定されなければならぬというだけだ。実質あるものは否定の要なく、又、伝統に限らず、全て、実質を失いながら虚妄の権威を保つものは、反省され、否定される必要があるだけだ。
 時代の流行というものは、常に多分に、伝統と同じぐらい空虚なものであり易い。それというのが流行を支える大多数の個人が決して誠実な省察を日常の友とはしていないからで、尚いけないことは、時代の指導的地位にある人々、ジャーナリスト、教授、執筆者、必ずしも誠意ある思索家、内省家ではない。
 例を私の身辺にとっても、大多数の人々は読みもせぬ小説を批評しているから、魔法使いのようなものだ。×なんて作家つまらんですな。君よんだのかい。いゝえ、みんなそう言ってますよ、とくる。肉体の門て怪けしからんエロ芝居ですね。君見たのかい。いゝえ、エロだから見ないんです。私がこう書くと皆さんアハハと笑いだすかも知れないが、そういう方々の何割かが実は日常かゝる奇怪な論証法を友としておられる筈だ。
 これが一般読者ばかりではないのである。批評家が、そうだ。文士にも、そういう方がある。そして読みもせぬ半可通を堂々と発表する。
 バルザックとかモウパッサンとかいうと、常に歴史的に批評する。その全作品を読んで、時代的な意味を見る。ところが、同じ批評家が、現代に就ては、一ツ二ツの短篇を読んだだけで、作者全部のものをキメつけてかゝってくるから勇ましい。
 現代文学の貧困、などゝ近頃のハヤリ言葉であるが、こういうことを言う人は、すでに御当人が阿呆なのである。
 老人というものは、口を開けば、昔はよかった、昔の芸人は芸がたしかであった、今の芸人は見られないと言う。何千年前から、老人は常にそう言うキマリのものなのだ。それは彼らが時代というものに取り残されているからで、彼らの生活が、すでに終っているからだ。
 芸術というものは、その実際のハタラキは芸という魔法的なものではなくて、生活でなければならぬ。それが現実の喜怒哀楽にまことのイノチをこめてはたらくところに芸術の生命があるのであり、だから、その在り方は芸術というよりも生活的なものだ。
 昔はラモオだのバッハだのモオツァルトが日常生活の舞踏の友であった。元来は生活的なものだ。それが今日は生活を離れた典雅なものとなって、時に人々は、その典雅が芸術の本質だと思いがちだが、これが、つまり、老人のクリゴトと同じ性質のものだ。
 現代の若者たちは狂躁なジャズのリズムにのってカストリの濛気をフットウさせカンシャク玉がアバレルようなアンバイ式に一向に芸術的ならぬ現実的エロを味い、甚だもって高遠ならざる恋をさゝやく。
 この現代の狂躁のみをこめたようなジャズの悪音響も、やがては典雅となる筈である。現代そのものは常にまったく典雅ではない。現代は歴史ではなく、生活それ自体だからだ。生活自身は歴史的に観察整理され得ざるところに本領があり、どこの地獄へ流れつくのか見当のつかない曠野の遍歴と自らの何者たるかを知らないバカ者、つまり生活しつゝある人間一匹がいるのみなのである。
 歴史と現実をゴッチャにして、現代の貧困などゝ言う奴は、つまり研究室の骨董的老人で、時代に取り残された人、即ち自ら生活せざる愚人であるにすぎない。
 歴史的な観察法は現代には通用しないものだ。なぜなら、人間と一口に言うが、いわゆる人間一般と、自分という五十年しか生きられない人間とは違う。人間は永遠に在るが、自分は今だけしかない。そこに現代というものゝ特性があり、生活というものが歴史的な観方と別に現実だけのイノチによって支えられているヌキサシならぬ切実性があるのである。
 これを知れば、現代の貧困などゝいう言葉は在り得ない。現代は貧困でも豊富でもない。現代は常にたゞ現実の生活であり、ギリギリの物なのである。

          ★

 日本の伝統が、主として偶像的虚妄の信仰であることゝ同様に、外国文学の公式的な移入にも、同様な偶像信仰がつきまとっているものだ。
 近ごろの日本文壇では、スタンダールと云えば、何かもう、絶対のように考えられているが、私はおかしくて仕方がない。織田作之助など、自分を二流と云い、スタンダールを一流と云い、二流の中には僕も含まれているらしいが、バカバカしい話である。
 私は自分を何流とも考えないが、スタンダールよりも下の作家だとは思っていない。スタンダールの作品は、人間が紋切型で、分りきっていて、退屈で、私はバカらしいと思う。スタンダール以前の「危険な関係」の方が、はるかに人間通であり、簡潔であり、新鮮である。
 生活する人間にとっては、スタンダールの文章など、読めないのが当然だと私は思う。学究とか隠者とか、生活から距てられた骨董的老人が、愛読し、そして現代をのゝしるヨスガとする性質の、それも亦骨董品の一つではないかと私は考えているのである。




底本:「坂口安吾全集 06」筑摩書房
   1998(平成10)年7月20日初版第1刷発行
底本の親本:「新小説 第三巻第一号」
   1948(昭和23)年1月1日発行
初出:「新小説 第三巻第一号」
   1948(昭和23)年1月1日発行



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