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「ゆれる」TK 第一章 第四节 支配の失敗

2023-06-25 22:29 作者:12センチ  | 我要投稿



支配の失敗

支配的失败

    凛として時雨乐队最终固定为现在的组员是在2004年,那时我在读大学四年级。

    那时周围的大多数人都把目光投向了就业、考取资格证等具体的未来目标上,而我却把大部分时间都花在了乐队活动和打工上。一二年级我已经尽可能修完了所有学分,所以在三四年级的时候,除去必要的课程,我就几乎不去大学了。因此在大三改了校舍之后,我对它的印象大不如一二年级。我奔向未来的速度渐渐地与朋友们大相径庭,有人甚至开始羡慕我不去找工作的选择。

    大三结束的时候,母亲开始频繁地联络我关于就业的事情。现在回想起来,她一定很清楚我根本就没有在找工作,毕竟我一直在含糊其辞地逃避这个问题。她不断地跟我说:“玩音乐毕竟不能养活自己,还是再认真考虑考虑吧!”母亲从以前开始就非常严厉,估计对当时让我学钢琴,还有父亲在家里放了把原声吉他的事情,还是有些怨言的吧。

    上大学后,我独自一人住在埼玉县。那是一座新建成的房子,我对它的全部印象就是在摇晃着、不停地摇晃着。墙壁也很薄,隔壁还会定期来一位借全身镜的学生,说着要办什么时装秀。

    离开家搬到新公寓后,就很少跟父母说关于大学生活和音乐活动的话题了。如果一起生活的话,也许母亲能从氛围中读懂我的态度,但和个性张扬的姐姐不同,我之前很少对父母说过“不”;若是我亲自开口,或许母亲会大吃一惊吧。

    “我想把音乐活动继续下去,而不是就业。”

    果不其然,母亲表示了反对。对于想让我有稳定的工作、成为公务员的母亲来说,这是理所应当的回答。虽然冷静下来思考的话,能够理解“想要孩子稳定就业、选择一条踏实的道路”这样父母对孩子的关心,但是“把音乐当作兴趣来玩一玩不就够了吗?”这样武断的看法让我难以接受。当时我内心燃烧的热情究竟来源于何处呢?

    而在另一方,我的父亲则持宽容的态度。他年轻时曾迷恋民间音乐,可能在某个时刻也有成为一名歌手的抱负吧。我父亲的立场是,“总会有出路的,没有的话到时再考虑也不迟嘛。”这让我备感宽慰。

    “那你要如何谋生呢?未来又想成为什么样呢?”

    母亲这样向我问道。但要说当时的我对音乐活动有着怎样的目标或者梦想的话,可能还真的没有(虽然直到现在也依旧没变),只是半吊子似的烦恼着“把喜欢的音乐活动变成职业到底是怎样的呢?”。

    “把喜欢的事或者兴趣作为工作的话可不是很好哦。”

    母亲这样说道。可能大家都被这样说过吧。我也曾听说过,有些深知其中辛苦的艺人表示不希望自己的孩子以演艺业为目标。

    但即使这样,对于我自己,把喜欢的事情作为工作会如何可是尚未可知。即使除去把音乐作为工作的艰难,我依然很容易就能想象到爱好变成职业的辛苦。

    然而我唯一能意识到的是,无论我如何努力地想象,我都无法看到自己把人生倾注在音乐以外的事情上。无论我选择何种职业,我都会遭遇困境,都会面临精神上的疲劳。但如果有什么东西能将自己逼入绝境,那么我或许就能全力以赴了。除了把握现今鸣奏的音乐未来,除了去探寻自身也未能理解的意识深层,我别无选择。一直以来过着风平浪静生活的我能对自己创作出的作品赌上全部,是因为看到了什么,还是正因为什么也看不到呢?总之,那时我就下定决心,全身心地投入到音乐当中。

    “我只想投身于音乐当中。”母亲听了我的天真言论后,想着或许姐姐说的话能让我回心转意吧,就把姐姐派来劝我。

    被派来的姐姐像冷漠的间谍一般,说着“因为被拜托了所以我来传达一下”在无视意图的前提下说出了母亲的愿望,尽管如此,姐姐或许对我的未来根本提不起兴趣吧。要说为什么的话,从不惜放弃附属学校[1]的大学中途退学,明明连英语都不会说就突然来到英国留学这般天赋不凡的人(我觉得她后来学会了英语并考上当地大学真的很厉害)是我这边,不如说她自己才是更需要关心未来的那个。

    意识神游的间谍话语并没有撼动我的态度。尽管没有把握,“我不会失败的!”似乎说了这么一句不自量力的话。在对弟弟的言行早已残缺的记忆中,这句话似乎印象深刻,这大概也是因为给姐姐留下了“我的存在与她是如此不同”的思考吧。也并非是什么叛逆期;若是角度对立,即使是纯粹的思考也总会被贴上“反抗”的标签吧。

    在姐姐面前发表惊人言论的我,听到街上传来的音乐时,总会想着“如果是我,或许能让这段旋律变得更加美妙”。也许是当时神明为了加速我的决心,送给了我名为“过度自信”的礼物。那是将尚且未能成为“0”进度的我的人生彻底改变的、十分恐怖的礼物。

    神明啊,偶尔也可以,能不能再把当时的过度自信借给我呢?

    那时的自己啊,我直到如今也没有成功或是失败呢。

    在意识的角落里,我仍旧寻求着那“旋律的归处”。

 

[1] :多数情况下,以大学(包括短期大学)为顶点,其以下的教育机关为附属学校,但也有以高等学校为顶点的例子。


以下为日文原文:

支配の失敗

    凛として時雨が現在の編成になったのは2004年、僕が大学4年のときだった。

 

    その頃、まわりの多くは就職や資格取得など、具体的な将来の目標に目を向けていたはずだけど、僕はバンド活動とバイトにほとんどの時間を費やしていた。1、2年で可能な限りの単位をすべて取り終えていた僕は、3、4年は最低限必要な講義を除き、あまり大学に行っていなかった。3年から変わる校舎での思い出も、1、2年生のそれと比べてかなり薄い。だんだんと僕の中の未来に対するスピードと、友達の中のそれは噛み合わなくなっていき、就職を選択しないことを羨ましがられてすらいた。

 

    大学3年を終える頃には、頻繁に母から就職に関する連絡が来るようになった。今思えばはぐらかしているつもりの僕の返答も、きっと一切の余白なく就職活動をしないことは明白だったんだろう。何度も何度も「音楽なんかで食べていけるわけないんだから、考え直しなさい」という連絡が来た。母は昔から厳しく、そのときばかりはピアノを習わせたことと、家にアコースティックギターを置いていた父のことを恨んだだろう。

 

    大学入学と共に、僕は埼玉で一人暮らしをしていた。新築ということで決めたその物件は、とにかく揺れて、揺れる。壁は薄く、定期的に隣の部屋から、「ファッションショーがしたい」と全身鏡を借りに学生が現れる謎の物件だった。

 

    実家を離れてそこに住むようになってからは、大学生活や音楽活動について、両親にそれほど話したことはなかった。一緒に暮らしていれば、雰囲気で悟ることもできたかもしれないけど、破天荒だった姉と違い、それまであまり親に「NO」を言ってこなかった僕が告げた言葉は、母にとっては寝耳に水だったと思う。

 

    「音楽だけを続ける。就職活動はしない」

 

    無論、母は反対した。僕には安泰な職業に就くか、公務員になってほしいと願っているのは知っていたから、当然の答えだった。「子どもには、きちんと就職して堅実な道を歩んでほしい」という親心だということは、冷静に考えれば理解できるが、「音楽は趣味で続ければいいじゃない」と、頭ごなしに否定されるのは釈然としなかった。あのとき、僕の中で燃えていたエネルギーの源はなんだったのだろうか。

 

    一方で、父は寛容だった。自身も若かりし頃にフォークをかじり、おそらく歌い手を目指していた時期があったんだと思う。そんな父が、「きっとどうにかなるだろうし、どうにかならなければそのとき考えればいいじゃないか」というスタンスだったことが、僕にとっては救いだった。

 

    「どうやって食べていくのか? 将来どうなりたいのか?」

 

    母からそう問われても、このときの僕が、音楽活動に対して何か目標や夢を持っていたかと言えばそんなことはなく(今だってそれほど変わっていないのだけど)、まだまったく地に足がついてない状態のまま、好きな音楽を職業としてやっていくことはどういうことなのかを悩んでいた。

 

    「好きなことや趣味を仕事にするのは良くない」

 

    母はそうも言った。誰もが耳にする話だろう。大変さが身に染みている芸能人の方が、「子どもに芸能界を目指してほしくない」と言っているのも聞いたことがある。

 

    そうは言っても、僕自身、好きなことを職業にしたらどうなるのかは未知だった。音楽を職にする難しさは置いておくとしても、自分にも好きなものを職業にする危うさは容易に想像できた。

 

    ただ、どれだけのイメージをし尽くしても、音楽以外の何かを目指す自分の人生は見えなかったのを覚えている。どんな職にたどり着いても僕は、何かの壁に直面し、打ちのめされる瞬間に出会うだろう。だとすれば、自分自身を極限まで追い込むものがあったとしたら、それは自分がすべてを捧げられるものにしたいと強く願った。ここから鳴り続けるであろう音楽の未来を、まだ触れたことのない自らの鮮やかさを、つかみ取りにいかないという選択肢はなかった。何からも打ちのめされないさざ波のような人生を送ってきた僕が、自分自身が創り出すものにすべてを賭けることができたのは、何かが見えていたからか、見えていなかったからか。あのとき、僕は全脳内を音楽に懸ける覚悟を決めた。

 

    「音楽だけに没頭したい」と夢みたいな夢を聞かされた母は、姉の言うことなら聞くかもしれないと、姉を僕のもとに差し向けた。

 

    ドライな雇われスパイの姉は、「一応伝えてと言われたから言うけど」という、依頼人の意図を無視した前置きを経て母の願いを語りだしたが、姉自身、僕の将来に興味があるはずがない。なんだったら付属の大学を蹴ってまで行った大学を中退して、英語も喋れないのに突然イギリスに留学しに行ったファンキーな素質の持ち主(その後、英語を習得して現地の大学に入ったのは本当にすごいと思っている)は、むしろ〝僕側〞じゃないか。

 

    思いの乗らないスパイの言葉が僕の心を揺さぶることはなく、そんな姉に対して僕は、たいした確証も持たないまま、「失敗する気がしないんだ」と生意気な一言を口走っていたらしい。ほとんど記憶に残らない弟の言動の中で、唯一覚えているのがこれだったらしいから、僕という存在からは相当かけ離れた思考が宿っていたのかもしれない。反抗期でもなんでもない、反対側から見たら純粋な思考はいつだって「反抗」のレッテルを貼られてしまうんだろう。

 

    姉の前でとんでもない宣言をした頃の僕は、街中でふと流れる音楽を聴いて、「自分だったら、このメロディーの先をもっといいものにできるかもしれない」と、妙なことを考えていた。神様はあの頃の僕にアクセルを踏ませるため、「過信」というものをプレゼントしてくれていたのかもしれない。まだ「0」にもなっていない僕の人生を変えてしまう、とても怖ろしい贈り物を。

 

    神様、ときどきでいいので、あのときの過信をまた貸してくれないでしょうか。

 

    あの頃の自分よ、僕はまだ成功にも失敗にもたどり着いていない。

 

    頭の片隅では、まだあの〝メロディーの続き〞を探し続けている。


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