读卖新闻夕刊'こころ'采访:与鼻咽癌斗争的动画歌手和田光司(2014.7.10)
上咽頭がんと闘う歌手和田光司
(注:带--的是记者问)
アニメ「デジモンアドベンチャー「の主題歌で知られるアニメソング歌手の和田光司さん(40)が、上咽頭がんとの2度の闘いを経て、2013年秋から活動を再開した。転移したがんに放射線治療を施しながらステージに立つ。和田さんの「余命40年を目指す「生き方とは?(メディア局編集委員 鈴木美潮)

(1)「5年生存率は40%」
--がんと诊断されたのは?
「2003年、デジモンシリーズに関わったアニソン歌手と声優が総出演する大きなライブを4月に控えていた時でした。耳が詰まって、右耳に水がたまった。近所の病院でみてもらったところ中耳炎と诊断され、水を抜かれた」
「水を抜いても抜いても何度もたまるので、大きな病院に行きました。そこでも中耳炎と言われたんですが、その時、首にしこりが二つあったんです。ついでにと思い、医者に話しました。医者が「大丈夫だと思うけれど、一応調べてみよう」と言うので、検査入院をした。ところが、2週間後、思いも寄らない検査結果が出ました。悪性で、首の後ろのしこりはリンパ腺に転移したもので、原発は鼻の後ろにありました。病名は上咽頭がん。手術をすれば顔半分がなくなるとのことで、取り除くことはできませんでした」
-- その「宣告」をどう受け止めましたか。
「言われた瞬間、"死"を思いました。歌を続けるかどうか、考える余裕はなかった」
-- 医師からはなんと?
「"5年生存率は40%"と言われました。5割もなかったんです。それが死の恐怖に拍車をかけました。"その40%になってください"と言われたことは今でも鮮明に覚えています。すぐに入院を勧められましたが、ライブが終わるまで先延ばしして、4月のステージ上で活動休止を宣言し、闘病生活に入りました」
-- なぜ自分が、という思いはありましたか。
「なぜ、というより、"じゃ、どうしようか"と思っていました。死ぬことは恐怖ですが、どんなに拒否しても誰にでも訪れる。それなら、闇の中でふさぎ込んで生きていくのはもったいない」
「闘病中に思ったことをつづり、絵本を作ったのですが、その本の最初に記した言葉が僕の病気に対する思いの軸であり、支えであり、伝えたい思いです。"泣いて治るなら泣いていましょう。落ち込んで治るなら落ち込んでいましょう。それで治るならそうするでしょう。そうでないのなら、できるだけ笑い、楽しく生きてみましょう"と」


退屈だった入院中に書いた絵本「見えない明日と向き合った113の思い」
「闘病生活は退屈なので、気を紛らわそうと、絵本だけでなく、地区大会から全国大会までを体験できるオリジナル高校野球盤ゲームを作りました。データがノートにまとめてあってサイコロを振ってゲームをする本格的なものです。このゲームに登場する投手を主人公にした小説まで執筆したんですよ。看護師さんには勉強熱心な患者と思われていたらしいです」

(2)再発続き、気力失った
-- 3年間の闘病生活でしたね。
「手術をして、抗がん剤や放射線治療をして、4か月間入院しました。その後は自宅から通院を続けた。抗がん剤では気持ち悪くなるし、放射線で喉が焼けて一時は声が出なくなった。それどころか、1か月半の治療期間中、喉が痛くて水も飲めなくなりました。唾液も出なくなった」
--喉に影響が出たのですね。
「2006年に復帰してからは、喉ががらがらするし、唾液が出ないから歌いづらい。音もキーをかなり下げないと声が出ず、そこまで下げると歌の印象ががらっと変わってしまう。CDを出さないか、と会社に言われたが、断りました」
--当時、声が変わったという指摘もありました。
「でも、僕は今の声の方が好きなんですよ。治療で痛めたあとの、ちょっとがらっとした声の方が、自分が好きな声に近づいている。もちろん初期の僕の歌を聴いて好きになってくれた人からは、"あの時の声じゃない"と言われる。でも、災い転じて、じゃないですけれど、僕としては、自分にとって理想の声を得られたという思いがある」

--復帰後は、海外でも積極的にライブを行うなど、活動の幅も広がりました。
「07年にブラジルに初めて行ってから、10回近く行っているかな。中南米が多いです。アニソンが人気とには聞いていたけれど、正直、ちょっと大な話ではないかと思っていた。そうしたら地球の反対側のブラジルに、本当に万単位のお客さんがいて、驚いた。日本でこんなこと、ないじゃないですか。そしてそのお客さんが日本語で僕の歌を一緒に歌ってくれる。感動しました」

-- ところが、11年に再発します。
「03年に手術を終えて退院してから、もう8年たっているわけです。3か月に1回検査に行っていましたが、5年生存率の5年を超えて、医者にも"もう大丈夫、完治だよ"と言われた3日後に再発が見つかった。ショックでした」
「再発したがんは、胸の奥の縦隔という場所にありました。手術は出来ない状態で、放射線と抗がん剤治療を2週間受けて2週間休んでの闘病生活が続きました。12年にいったん治療が終了しましたが、その3か月後に肺に再発。しつこく出ますね。ようやく退院したのが13年2月です」
--歌手復帰は考えましたか。
「興味すらもっていませんでした。このまま引退してもいいくらいに思っていた。今思えば、歌う気力を失っていたんでしょうね」
(3)目指せ「余命40年」
--その気持ちを変えたのは?
「薬による副作用でだるさもあるし、髪の毛も抜け落ちていた。何より、また再発して休むことになったらどうしよう、ちゃんと完治させないといけないという思いがあった。でも、その時、知り合いに"使命感で歌い続けるのではなく、歌える時に歌って、歌えなくなったらまた休めばいいじゃない"と言われたんですよ。この言葉でだいぶ楽になって、"それでいいんだ"と思うことが出来た。"じゃ、いこうか"って」
「日本だけでなく、海外からも応援メッセージが送られてきた。ブラジルでは僕の誕生日にイベントをやってくれて、応援の横断幕も作ってくれた。こんな自分でも、待っていてくれる人がいるのか。じゃあ、戻ってみようかな、と思いました」
--病気に対する気持ちに変化はありましたか。
「変わりましたね。約10年前、がんの宣告を受けた時はとにかく治したい、治さなくては、と、それしかなかった。完治を目指していた。でも、再発した時からは完治を目指していません」
「僕はね、"余命40年"を目指しているんですよ。今が40歳で、あと40年生きれば80歳。そこまでいけば自分としては十分じゃないか、と。余命40年というと、軽いでしょ。治そう治そうという思いは、僕は重いと思った。重く受け止め過ぎると疲れてしまうし、かといって軽く見過ぎるとそこから足をすくわれる。心の持ちようとしてその中間がいいな、と思った。うまく共存して、歌える時には歌いに出てきて、がっつり治療する時にはちょっと休む。がん細胞に対しても、あんまり悪さしすぎたらお前だって死ぬんだからなって。余命は宣告されるものだけれど、それが40年と言われたら、そうですか、ありがとうございます、と思えるじゃないですか」
「手術から8年たっても再発したわけです。っても仕方ないな、と考え方が変わってきた部分はある。死生観も変わりました。死は受け入れようと受け入れまいと、誰にでも訪れる。でも、どうとらえるかでその後の人生が変わる。人生は出来る限り楽しく過ごそうと。最後に、幸せだったな、と振り返って思えるのがいいなと思うんです。命尽きるまで目いっぱい楽しみましょう、と」

(4)デジモンの歌の「カ」
--13年11月には復帰ライブを行いました。
「自分では緊張しているつもりはなかったのですが、お客さんの顔を見る余裕すらありませんでした。同時に、明確に感じたことがあった。それは、自分の居場所はやはりステージだ、ということです」
「入院中、どうして自分は歌を始めたんだろうってずっと考えていた。すると、最初は必ずしも歌が好きだったわけではなく"もてたい"とか"スターになりたい"と考えていたことを思い出した。でも、そんなことから始めた歌に、今、自分自身が生かされ、支えられている。自分が自分らしくいられる場所=ステージで、自分に出来ることをしてお客さんを喜ばせていく。それが今の自分の役割だと思うようになりました」
--アニソンに対する考えも変わりましたか。
「正直、デビューした15年前はアニソンシンガーと言われるのがあまり好きではなかった。当時アニソンは子ども向きの歌、と思われていましたし。でも、世界中に行って歌ってみて、皆が一番喜んでくれるのは、やはりデジモンの歌だった。それに気付くことができた。意識は180度変わった」
「今は、アニソンシンガーだからこそ出来ることがあると思っている。アニソンを通じて、言葉も文化も飛び越えて、一つの国境のない世界が作れるんじゃないか。はるか遠い場所で待ってくれている人に、どう歌ったらそうした思いを伝えられるだろう。それを大切に考えながら歌うようになりました」

--現在の体調はいかがですか。
「がんが骨に転移しているため、その治療を月1回行っています。体重的には、むしろ太りました。今がベストだと思います。ただねえ、髪の毛が戻ってないんですよ。先生や看護師さんには"(退院から)半年から1年で戻る"と言われたんですけれどね。だけど、ある時、"おや?"と思った。もしかしたらこれは、抗がん剤のせいではないんじゃないかって。思えば、父も、祖父も…(笑)。でも、このまま戻らなかったとしても皆が薬のせいだと思ってくれるから、別にいいかなと、思っています」

--ありがとうございました。