たったひとつばかりの恋の殺し方
「閻魔様、今より他に、地獄などありまして?」
作者:海沢海綿 封面:遊閒地
たったひとつばかりの恋の殺し方
海沢海綿 其の花は野には咲かない 「莫迦だよ、あんた。大莫迦だ 其の花は山では実らない 「ねぇお姉さん、教えてよ 其の花は浜には咲かない 「愛されない花など無い 其の花は 「閻魔様、今より他に、地獄などありまして?」 人の恋心に咲くと云う。 Aglaé、Ophelia アグラエ、オフェリアの妹 あの静かな様子で あれで気が狂って 海へ身投げをしに行きます Jean Cocteau 『Tombeau d’un fleuve』 【はなのはらむ】 其の花の別を告げるには、些か境が少な過ぎた。 水の揺蕩う音の名残は届けども、猫の瞳に映るのは仔細の持てぬ墨ばかりだった。森の奥、山の袂、人の歩みを亡くした木々の合間に一輪の花が孕んでいた。例えるならば、其の花は、夕の翳りに埋もれた菖蒲の姿。其の花は、障子越しの月青に照らされた杜若が見せる魍魎。何れとも語ろうにも、些か言葉が足りずに、自身を覆う毛皮と同じ一色で綴られた花を、小首を傾げて見上げていた。 其の花が咲くには、籐の籠では狭過ぎて、河源の石では根が行かず、さやと風が薙いで花弁が揺れた。恐らくは花弁揺れていた。茎も葉も花を支える何もかも。くらりと揺れる度に、一片が欠いて地面へと落ちていく。死ぬ時に、皆は桑染に移ろうと云うのに、其ればかりは一切も欠けずに、椿が砕けていく様に落ちていく。焼き焦げた紙の炭が舞っていく。猫の瞳の其の前を。猫と、醜く朽ちた人の躯の合間を。 其の花が咲くには、園の土からは何も飲まず、森の枯葉では寝床に足らず。花は。 くつらと猫は、花よりも尚夜色の猫は笑った。 ——ああ、莫迦だな。大莫迦だよ、あんた。 「あら、珍しい。実を結ぶなんて」 猫の後ろから声が聞こえた。首だけで振り向けば、其処には一人の少女らしき何かが立ち尽くす。陶磁器の様に青白い肌にうすらと貼り付けただけの笑顔を作って。こめかみからは濃紅に染まった肉の糸が、胸元に円く蹲る肉珠へと繋がって。琥珀の虹彩、蘇芳の真芯、大きな瞳がじいと猫と花を見つめていた。 「此の花が実を結ぶなんて、そんな事あるとは思わなかったのに」 彼女は猫の横に立ち、そっと花へと手を伸ばす。色彩を欠いた木通の実、ある種の甲虫が孕む卵、夜の淵で頭を垂れた錆びた向日葵。そんな房が朽ち落ち続ける花弁の合間で首を傾げていた。手に取り、一つばかりの実をもいで。 「此の花は、野には咲けない」 歌う様に。笑う様に。 「此の花は、山では実らない」 哂う様に、詠う様に。 「此の花は、浜には咲けない」 其の花は。 猫が嗤う。 ——ああ、本当に莫迦だよ、あんたは。 * ああ、本当に碌でもない婆様だったよ。 手元の物は爪の垢でも手放さぬ程に吝嗇で、口を開けば妬みか嫌味か、そんな物しか言いやしない。そいでも慈悲の心が棗の実程もありゃ良いが、そんな物はどうにも道端に棄てて来たらしい。其の上、面が曲って心が歪んだか、心が曲って面が歪んだか、まぁ着ている服とは分相応に小汚い面をした婆様だったんだよ。 そんな婆様だ、幼い頃から嫌われ通し。 あたいが初めて面を拝んだ時には、舌打ち交じりに石をば三つぶつけて来る始末だ。 ああ、あたいはね、こいつは面白いとそう思ったのさ。こんな婆様引きずり込んで、地獄の底でかんかんのうでも躍らせてやれと、そう思ってね。嫌われ者の其の咎は、地獄の底で輪廻も忘れ、転生の夢も見ず、一生踊り続けるままと気付いても尚踊り続け、そんな地獄に落ちるが全て。閻魔様だって許して下さる。最近は、どうにも地獄が狭い狭いとおっしゃって、何やらお悩みの様だがね。あたいみたいな一介の下賎な妖怪身分にはお上の事など分かりもしないが。ただ、楽しかったら其れで良い。嫌われ者がもがいても足搔いても、一生あたいと一緒にならぬと、其の時の歪んだ顔が楽しかったらね。 婆様、其の時の年は幾つばかりかね、最初に逢った時は。 もう両の手で数えるには、月日の経ってるとは思ったよ。そんな形だ、男の一つ咥えた事もなかろうが、まぁ、花も盛りと云う頃だったかね。始終しかめっ面で畳の隅に転がした鬼灯の鉢ばかり眺めていたから、当の昔にあがっちまったのかと思っていたんだがね、あたいは。人の事など分かる気も無いから、あたいは婆様の横で一緒になって鉢を見ていたよ、其の頃はね。 そういや婆様、姉が居てね。 まぁ、其の姉様云うのがちっとも似ない。本当に同じ管から産まれてきたのかと思うばかりの御人でね。器量が良いのは無論だが、顔が真っ直ぐなら心も澄むのか、顔が澄めば心も直るか知らないけれど、野良同然で転がり込んだあたいみたいな猫に迄、夕餉の鮎を一匹寄越して来る様なそんな人だったよ。婆様何が気に食わないか、あたいが食っていると汚い顔を更に歪めて、姉様に向かって喚き散らすわ、あたいを口汚く罵るわ。姉様、苦く笑って其ればかりで、其れでも次からはこっそりくれる、そんな人だったよ。 婆様とは違って、幼いみぎりから随分と愛されたのだろうね。そりゃそうさ。人間なんてのはそんなものさ。何時だって、誰だって、汚い駱駝はお嫌いで、綺麗な玻璃ばかりを愛でるもの。 そうそう婆様、何時からか影では駱駝と呼ばれてたのさ。のそのそと態度ばかりがでかいだけで、何の取り得もありゃしない。瘤の二つも背負った様な、松の木におじやぶつけたみたいな面構えだもの、そんな風に云うたのだろうよ。しかしね、人の陰口なんざ、聞こえていない訳が無いのさ。捩れた心を更に捻って、余計に口汚くなったもんさ。 そうそう、ばあ様の家と云うのは大層な金持ちでね、まぁ嫌われようと疎まれようと口に糊するのは、困りもしない。綺麗な花も、素敵な唄も、好きなだけ。 だからかね、婆様は余りで歩かない人でね。まぁそうさ、出たら出たで陰口聞こえるのじゃ、部屋に篭っているのが良いさ。あたいかい。あたいは婆様の傍に居たさ。何時ぽっくり死ぬか分かりはしないからね。 だから、傍でずっと見上げていたよ。 何が気に食わないのだが、しょっちゅう、あたいに汚い言葉を掛け続けていたがね。 どれぐらい経った頃だろうかね。 片手で数えるには、少しばかり時間が経ち過ぎていたかね。 姉様に縁谈が決まったのさ。 まぁ其れが姉様に良く似て器量の良い人でね。希われて産まれて、愛されて生きた人って言うのは、ああも綺麗な目をするものなのかね。婆様の様な、腐った泥水みたいな目とは随分と違っていたよ。好かれた者は好かれた者と惹かれ合うのが相場と云うものかね。皆から祝福されていたのだけは覚えているよ。婆様かい。さぁてね、人の心が読めるのなれば、何を思うかは分かるのだろうけど。あたいはしがない化け猫だからね。何も云わずに鬼灯ばかり見つめている後姿しかわかりゃしなかったけど。 さてはて、とんとんと。 しかし、世の中は侭ならぬものだね。いやぁ、本当に、侭ならぬものだよ。 姉様ある日死んでしまったのさ。原因までは覚えちゃいないがね。病だったか、不運だったのか。死んでしまえば皆不運か。理由が何であれ、経緯がどれであれ。ぽっくりと、綺麗なまんまで死んでしまったのさ。魂かい。ああ、そりゃ欲しかったがね。けれど、あいつの魂まで持っていっちまったら、死神様に怒られちまう。閻魔様にも叱られちまう。世の中は侭ならぬものだね。ああ、本当に侭ならぬよ。ああいう魂が一番楽しいんだけれどね、本当は。赦して貰えんのなれば、仕方が無いさ。昔はもっと楽しかったんだがね。 ああ、楽しかったよ。そりゃそうさ。愛されて産まれて、好かれて生きたそんな人間がさ、何の因果か三途の川にも渡れずに、あたいと一生地獄の底で踊り続けなきゃならないと気づいた時の其の面は、本当に愉快で愉快で仕方が無い。あんまりやり過ぎて、閻魔様に目をつけられちまったから、こんな嫌われ者の婆様ぐらいの魂しか貰っていっちゃあならぬと言われてしまったけどね。こんな昔は如何でも良いか。 そいで姉様の葬式の時さ。 皆がさめざめ泣き伏して、無常の悲しみ嘆いちゃ居たが。流石だね、婆様顔色一つ変えやしない。流石に血を分けて、管に通した我が子なれど、如何してそんなに捻くれて産まれついちまったのかと、親御さんまで口にすれど。けれども、婆様、やっぱり顔色一つ変えしない。只、あたいを膝に乗せて、ごわついた指で背中を撫でるばかり。まぁ、葬式の念仏なんざ、狸の祭囃子よりも退屈でしかないから、欠伸の一つ掻きながら、線香の辛気臭い香りを枕にうつらと舟の一つも漕ぐ出しかないが。念仏続いて、啜り泣きばかりが耳を塞ぐのも、退屈極まりないしね。 ああ、そう、そん時だよ、婆様ぼつりと云った。 私が死ねば、皆笑ったのにね。 傑作だろう? 思わず、にゃあと一つ笑っちまった。 見上げれば、婆様も笑ってたよ。 皆、そう思っているさ。 ああ、世の中、本当に侭ならないね。良い人ばかりが先に死に。嫌われ者のこんな黒猫ばかりが無駄に生き残る。お陰で尾っぽも先が別れちまった。 さてはて、葬儀も行き過ぎて、四十七も通り過ぎ。そんな折かね。まぁ、立消えになった縁談の話。親御さんらが話し合ったのらしいよ。まぁ考えてみれば、当たり前の事なのかも知れないが、姉様の代わりに婆様の婿に入れるのだと。女ばかりの家族で、唯一の頼みの姉様死んでしまえば、まぁ後に残るは駱駝だけ。駱駝の婿などいやしない。皆が通夜の席から口にした言葉、人の親とて人は人、同じ事を思ったらしい。どんなに疎ましかろうが、自分の子供は自分の子供。独り寂しく死んでいくのも、不憫だろうと思ったのだろかね。相手の婿さんも、まぁ致し方あるまいよと、渋々頷いたのだそうで。 一日ひがな、何をするでもなくぼんやりと過した婆様の事だ、何の障りがあるじゃなし。とんとん拍子に事が進み、さぁて結納も済ませてね。 さぁて明日は祝いの席だ。 そんな時でさえ、婆様何をするでもなく、ぼんやりと障子越しに月明かりで黒ずんだ鬼灯ばかりを見ていたよ。あたいの背中を撫でながら。 独りで死ぬ方が、幾らかはましだろうに。 そんな呟き零しながらさ。あたいは只、にゃあと見上げて鳴いてやったよ。 お前も長いね、化け猫よ。そんなに私の死ぬのが見たいかい。 そいつはそうさ、当たり前。あたいはあんたに、かんかんのうを躍らせてやりたいのさ。今直ぐにでも。きっと楽しいさ。あたいがきっと、楽しいさ。そういや、あん時、婆様だけは気づいていたのだね。尾っぽの先は一つに纏めて、誤魔化してたんだが。 火車に引かれるが、相応か。気の毒な話だ、そんな女の婿だなんてね。 膝元にあたいをそっと乗せると、背中の毛を琥珀の櫛で漉きだしてね。 聞けば、妾の子なんだとよ。全く、孕ませるなら、もっと美人を抱きゃ良いのに。 心が曲って顔が歪んだんだか、顔が曲って心が歪んだんだか。疎まれたから、忌まれるのだか。忌まれたから、疎まれているのだか。何が最初か、何が所以か。そんな物は、こうなれば、如何でも良い話だったかね。 本当に、独りで死ぬ方が、幾らかはましだろうに。皆、そんなに家恋しいかね。 櫛の触りが気持ち良くてね、にゃあとしか鳴けなかったが。そいつも、如何でも良い話だね、全く。 さりとて、婚礼行き過ぎて。形ばかりの初夜も迎えた幾年か。其の間に、交わる事など一日だってありゃしなかったね。世継ぎが欲しいと思えども、好かぬ女など抱けぬか、偏に醜い駱駝と寝る趣味持つには、如何に気高く生きたとて人は人でしかないと云う事か。けれど、金だけはあるのさ。そう、金だけはね。如何に気高く生きたとて、人は人でしかないものさ。家に帰れば醜い駱駝。そうなりゃ妾の一つや二つ、出来たとして、誰が咎める訳でもなしに。そんなある日の事だがね。婿様、子供を一人連れて来た。随分と器量の良い娘さんだったよ。本当に、姉様の生き写しかと思う程に。まぁ、其処まで幼い娘の頃の事は、婆様の記憶にしかありゃしないけれど。 何でも聞けば身寄りがないと。 世継は別に産めば良かろうから、この娘を養子にしたい。 婿様、そう言った。 誰もが口にしたさ、そんな何処の物ともつかぬ子を、血は繋がらぬとは言えど。けれど、婆様だけはこう言った。貴方のお好きになさったらと。子供の一人養えぬ程、金子に困るでもないし。猫の一匹飼うよりは、余程お家の為にはなるでしょうよ。足元に纏わりつく、あたいを見下げて言うのだから、皆何も言わぬのさ。 しかしね、世の中、分からぬものさ。 其の娘が家に着てからどれ程だろうかね。不思議なものさ、世の理は。 仏様の悪戯なのかね。 だとすれば、随分、心が曲った物だ。仏様と云う奴は。 娘の腹が、厭に膨らんできたのさ。着物の帯も合やしない。そうさい、娘が孕んじまったのさ。家の中はわぁわぁと騒ぎ始めて仕方が無いが、娘は種の居場所を語らず、婿様もだんまり決め込んでね。 婆様かい? いつも通りのしかめっ面さ。 そんな月夜さ、娘が部屋を訪れた。 貴女、知っているのでしょう? そんな事を聴いて来た。 貴女、本当は分かっているんでしょう、憎らしい。 婆様何も言わず、あたいの毛並みを指で梳くばかり。 この子の親が、あの人だって。 笑えるだろう。婿様、如何にも愛情の注ぎ方をすっかり間違えてしまったらしい。まぁ、其の娘、随分と死んだ姉様そっくりだったから、ついつい手を出したのだろうね。娘として入れたと思えば、誰も妾を家に囲おうだなんて思いもしないと踏んだのだろうか。婿様も、そうそう考えれば、気高い人も歪めば歪む。駱駝の居る家ではね 私、産むよ。 そう。元気な子を産みなよ。 いいの? 構いやしないよ、そんな事。 貴女、此処に居られなくなるよ。 そうかい。 子供の浅知恵か、幼いけれど女は女か。鼻で一つ笑いながら、娘は部屋を出て行った。婆様ぼんやり鬼灯を、もう枯れてしまった鬼灯を眺めながら、あたいの毛ばかり繕っていた。にゃあの一つもあたいにゃ鳴けない。 さぁて、困ったは婿様だ。自縄自縛とはこの事かね。事の本当口にすれば、居場所がないのは婿様さ。けれど、言わぬ侭でも済みはしない。あんまりに困って困って、しまいにゃ首括ってしまったさ。遺言一つ残してね。この家、全部、娘に譲ると、そう言って。 さぁて、困ったのは誰だったかね。 ばたばたと葬儀が進みながら、婆様の居る場所なんざ何処にもなくなちまってた。気がつきゃ部屋を追われて、遠い山の麓の小さな小屋で、がらんどうになった鉢を見つめてた。あたいかい。あたいは、当然、婆様の傍に居たさ。 いつだかね。 婆様ぽつりと呟いた。 あの人が言ったのさ。お前は如何して、そんなにしかめっ面なんだと。だから、答えてやったさ。産まれてこの方、笑った試がないからと。そうしたらね、如何してお前はそんなにもケチなのかと。だから、答えてやったのさ。この家には私の物など一つもないからと。そう、全部他人の物。姉様の物ばかりさ。何も、かもが。だから、私の物は爪の垢だってくれてやらぬと。 襤褸同然の着物、屑同然の粥、あばら屋同然の小屋。そいつが今の婆様の全て。今でもないか。昔から、婆様には其れしかなかった。多少なりは綺麗だった筈の指先も、枯れた樺の木同然で、しわがれて余計に小汚くなった面には変わらず濁った眸だけ。整えるのも止めた白髪が隙間風でばらばら揺れる其の様は、まるで薄の葉。 そうしたら、あの人、言ったのさ。如何してそんなに、嫌われる様な事をすると。だからね、答えてやったよ。最初に嫌ったのは、そっちじゃないか。なぁ、あんた。花が綺麗だね。あんなに白い。 あたいは、ただにゃあとだけ。 窓の外に、一輪の白い彼岸花が咲いていたのさ。 綺麗な、花だったよ。 なぁ、あんた。一つ、あんたに謝らなきゃな。 見上げると、婆様が、笑ってた。泣きながら、笑った。 あの時、鮎を取り上げて、済まなかったね。 其れだけ言うと、婆様は死んじまった。 本当に汚い死体だったよ。 こんなあばら屋じゃ、餅の一つもやれやしない。線香一つもあげれやしない。 だからさ、あたいは躍らせてやったのさ。 昔、そんな話があったろう。嫌われ者の駱駝、そいつが死んでも誰も弔いしてやらないから、たまたま見つけちまった奴らが、駱駝の死体を躍らせて。 かんかんのう、かんかんのう。 あたいは後ろ足だけで立って、前足で音頭を取りゃ、襤褸の婆様が踊り出す。関節が馬鹿になっているのだか、如何にも上手く踊れない。けれども、こいつで十分さ。後ろ足だけで歩きながら、あたいは音頭を取り続け。 はい、かんかんのう、かんかんのう。 月の明かりが随分綺麗だ。彼岸の花も美しい。そんな山の夜に、婆様とあたいは踊り続けて、練り歩く。向かう先は知れている。餅を出すのも、桶を出すのも、相手は決まっているじゃないか。 かんかんのう、はい、かんかんのう。 見慣れた道、月ばかりの道。向かう先は、あの家さ。 けれどもね、行けども行けども家が見えない。そんなに近い訳じゃあないが、歩いて行けぬ場所でも無しに。人の記憶は知らないけれど、あたいは此れでも物覚えは悪くない。其の道は、合っている筈だよ。けれどね、行けども行けども道が終わらない。 かんかんのう、かんかんのう。 ぐるぐる廻る婆様に、蝿の二匹も集り出す。 けれど。 そう、其処であたいは気づいたのさ。もう、其の家は無いんだって。そんなにも、時間が経っちまってたのさ。そんな時間、ずっと婆様は。いいや、婆様は、産まれてからずっと何だと。其処で気づいた。 かんかんのう、はい、かんかんのう。 そしたら、あたい、楽しくなってきた。だって、笑いばっかり口につくのだもの。楽しくなってきてるのだろう。そうなんだろう。踊れ踊れ、嫌われ者め。足がもげても大丈夫、腕が折れても大丈夫。踊れ踊り続けてしまえ、この駱駝の娘が。こいつが、あたいの葬礼さ。踊れ踊れ。輪廻の夢も忘れて、転生の理も知らずに。踊れ踊れ、踊ってしまえ。 かんかんのう、かんかんのう。 そうして気がつきゃ、森の奥。川の傍まで来ていてね。 がたりと其処で、婆様の動きが止まっちまった。 横倒しの侭で、幾ら手を打てど、ぴくりともしない。かんかんのうを唄い続けても、かたりともしやしない。 其の時さ、びきと婆様割れちまった。落とした茶碗みたいに、ばらばらになちまって。 * 「其れで、咲いたのですか、この花が」 猫の頭を撫でながら、少女は座り込む。 「この花は、人の心に咲くのですよ」 見上げる双眸に、彼女は笑い。 「恋焦がれる、其の思いにだけ根を張って、花が咲く」 かかと、猫は笑った。 だとすりゃ、莫迦だよ、あんた。何に焦がれていたのだか。 「其れは、貴女が一番良く知っているのではないですか?」 さぁてね、あたいは嫌われ者を躍らせたかっただけさ。其ればかり。こんな駱駝の婆様が、何に恋焦がれていようと知った事じゃないよ。 「そうでしょうか?」 あんた、覚かい。 「ええ」 厭な物だね、心を覘かれるのは。 「私もそう思いますよ。でも、今は少し良かった」 へぇ? 「貴女が、心の底から泣いているのが分かったから」 猫は、初めて自分がぼろぼろと涙を零しているのに気づいた。 ——莫迦だよ、あんた。本当に、大莫迦だ。 なんで死んじまうんだよ。 【はなのかれる】 少女は只、見つめている事さえ出来なかった。 障子越しの声、談笑する温かい声を、縁側に座り、聞いているしか出来なかった。 そうは狭くない屋敷の一角、少し離れた一つの里の、一等離れた其の場所に立つ屋敷の一角の。少女は座っているばかり。空には抜ける様な青、雲一つ無い快晴。名も知らない鳥の鳴き声、蝉の声。そう云えば、少女は思う、昔に聞いた覚えがある。地獄に落ちた魂は、最初に蝉に変わるのらしい。何の咎を負ったか知らぬが、今啼く声は罪を償った後のまっさらな声であるのだろうか。ならば、今は余り、聞いて居たくない。 不意に目の前が暗く、落ちる。 見上げると日傘を差した、一人の少女が微笑んでいた。茶色の格子が彩られたスカートが行き過ぎる風に僅かに踊る。 「貴女、恋をしているのね」 そう、告げるのに、少女は俯くばかりで。 「そうね、ええ、貴女が良いわ」 すいと細い指が少女の顎を掴むと上を向かせると、浅く開いた唇へともう一つの指を伸ばした。人差し指と中指で摘まれた物。小さな、紡錘状の黒い何か。ふと少女の視界、其の端で、白練色の髪が揺れている様な気がした。 * 他人の記憶は理不尽だ。何時だって好き勝手な事ばかりを喚き散らす。 目の前には紡錘状に広がった部屋が広がる。 自分の身体はどうにも一脚の椅子に縛り付けられているのらしい。指先の一つ動かせば、纏わりついた茨がちくと指の腹を刺す。痛みは無く、只肌に穴が穿たれたと言う錯覚だけが残るだけ。血がぬると肌の上を伝っていく。 雫が落ちる。生ぬるく、粘ついた感覚だけが取り残される。 痛みは、無い。 何時だって、他人の記憶の中には痛覚と言う感覚だけが欠如している。身体が破壊される事を知る為だけに存在する、其れだけが。故に、此れは破壊ではない。では、何なのか。其の回答は未だ知らない。左の指先には五百三十二個の穴が開いている。茨に穿たれた傷。右の指先には三百四十二個の穴が開いている。八百七十四個の穴が両の手には開いている。茨が突き刺した回数と同じに。其れは千を越える事は無い。何故ならば、茨の棘は九百八十八個しか存在していない。そうとだけは知っている。 目の前には、窓が一つ。小麦色の空には雲一つ浮いてはいない。風の不在は分からない。音が聞こえない。否、一つの音だけが不規則に耳の奥へと響くばかり。其れ以外には何も聞こえない。其ればかりしか聞かれないのならば、何も聞こえないのに同じ。其ればかりしか手に出来ないのならば、何も持っていないのと同じで。 耳鳴り。否、羽音。 如何にも羽虫が一匹だけ耳穴の奥に、にしりと詰まっているらしい。 暗がりばかりの頭の影から逃れるが為に、懸命に懸命に其の翅を震わせていた。みぎぃつみぎぃる琥珀の翅が揺れる度、耳介の底を掻き毟り、塞ぎ様の無い音が脳へと直接響いてくる。みぎぃるみぎぃると不規則に、忙しなく、緩急も無く、首が震える程に鳴り響く。身体が発狂する。感覚を亡くした指先が夏の終わりに住む蝉と同じに痙攣し続ける。そうして、傷が右手に二つ、左手に四つ、穴を重ねていく。既に穿たれた穴と穴の間に、芯を半分ばかりをずらした場所に、血で埋まって綺麗な侭か如何なのかも分からない肌の上に、指先に刻み続けている。大丈夫、千にはどうせ届かない。 目の前には部屋がある。 高い、高い塔の一番上なのだと云う事は知っている。 他人の記憶は何時だって唐突だ。誰何も所以も教えてはくれない。残骸になった事実だけを突きつける。形骸になった結果ばかりで物語を始める。 目の前には部屋があり、女が独りで地面に座り込んでいた。 瑪瑙色の煉瓦が積み重なって造り上げられた世界、窓の傍で、ぼんやりと窓の外を眺めていた。顔は見えない。のっぺりとした青白い肌だけしか面長の顔にはない。 いいや、穴がある。穴だけがある。 赤子の握り拳程の大きさの穴。向こう側は空と同じ小麦色。其の周りを髪が檻の様にばらばらと纏わりついていた。 長い髪。女の髪は長かった。 余りにも長過ぎて、部屋の四分の三を埋め尽くす程に。 服を着ているのかいないのか、顔以外があるのかないのか。髪の毛が余りにも長過ぎて、部屋が余りに暗過ぎて、如何にも見る事が出来ないが、多分あるのだろう。きっと無いのかもしれない。どちらなのか、どちらでもないのか。其の事象だけは教えてくれない。 羽音がする。 みぎぃるみぎぃると音が鳴る。 其の度に、首が震える。指先が震える。 茨が突き刺さり、穴が六つ増えていく。 ぽつりぽつりと滴る血は、煉瓦に飲まれて彼女の髪まで届かない。 女は外を眺めていた。眺められるのだろうか。 其の内に、女は下を覗き込む。覗けるのだろうか。 何かを言っている。様な気がする。言葉を紡げるのだろうか。 聞こえない。 羽音が其れを許してくれない。みぎぃるみぎぃる。みぎぃるみぎぃる。 指先が何かを指し示していた。 心の声が、羽音に混じる。何故なら栗鼠が自分の餌を。みぎぃるみぎ。何処に隠したのか忘れて。ぃるみぎぃるみ。途方に暮れているのが悲しくて。ぎぃるみぎぃ。いいえ。るみぎぃるみぎ。此処からは出られません。ぃるみぎぃる。悪い魔女に怒られてしまいます。みぎぃるみぎぃ。ありがとう。るみぎぃるみぎぃるみ。其れならば私の髪を伝って御登りください。ぎぃるぎぃぎぃぎ。みぎぃるみぎぎ。 彼女は髪を結い、窓の外へと垂らしていく。ぎぃと不規則に髪が下に引かれる様で、首が縦に揺れている。どれ程だろう。穴が六十四個増えた時だった。大丈夫、千には届いていない。未だ九百七十三個。千まではいかない。 みしりと大きく首が揺れて、何かが窓の枠に手を掛けて、下から伸し上がって来ていた。空を背後にしているからか。仔細が影になって良くは見えないが、ああ、恐らくは一匹の大きな鴉。嘴の先には砕けて半分ばかりになってしまった栗鼠の屍骸が振り子の様に揺れている。栗鼠を押し頂くとつると顔の穴へと放り込む。はさりと鴉は夜色の羽根を広げると大きく一つ啼いた。 其の声は、「二度と無い」と言っているのに良く似ていて。 刹那、虫の羽音が強く鳴り響く。みぎぃぃぃりぃぃぃぃぃぃぃと強く深く。 其処で、古明地さとりは目が覚めた。 ぜいぜぇと荒い吐息が肺を抜けて、外へと抜け出していた。喉の奥に乾いた茨が絡まっている様な気がする。えづいて、掻き出そうとすれど一層に其の棘を食い込ませていく。けれど、自身の記憶は正当で、引き裂く様な雑な痛みを覚えさせていく。痛む度、更にえづけとも棘はより深く。其れを何度か繰り返す。 毎度の事だ。毎夜の事だ。いつも通りの悪夢でしかない。人の心が染み付いている。夢が過去の自分の記憶を整理する事であれば、他人の記憶が染み付いた自分には、其の全てが綯い交ぜになった物しか手に出来ない。人の心は身勝手だ。甘いと知るには、甘い味を知り、其れが『甘い』であると認識し、其れを良しとする時に初めて『甘い味』を認識する。快か不快かの仕分けが出来る。けれど、其れは記憶によって構築される。知らない事は判別出来ない。けれども。そんな物が泥の様に累積し続けるのは。 だから、不快な味ばかりを取り残して、さとりの頭には染み付いて。 其れが、夢に変わるから。だから、他人の記憶は何時だって理不尽だ。 胸に手を当てて、身体を丸め、枕へと額を埋めながらも、何度も何度も。淡い吐き気。がらんどうの臓腑から、唾液が這い登ってくるのが分かる。舌の上を行き過ぎる鉄錆を舐めた味。ぽつと雫がシーツに染みを刻んでは、白い色を滲ませて。 「お姉ちゃん」 気がつけば目の前には、古明地こいしが笑っていた。いつもの帽子は無く、服は青朽葉色のキャミソールとショーツだけ。横に広がった白練色の髪が、綿毛の様に咲いていた。ぽつと唾液の雫がまた一つ、こいしの頬に落ちて、つうと丸みを帯びた肌の上を流れて、薄桃色の唇へと。名を呼ぼうと、其の名を呼ぼうとする度に、えづきが其れを許さない。 背中が痙攣している。 視界は見えている筈なのに、焦点がずれて良く見えない。 不意に背中の上を柔い肌が行き過ぎた。こいしは、馬乗りになってしまっている姉の身体を抱き止めると背中を両手で撫でながら、耳元へと唇を寄せた。ちゅると水音が、耳殻の骨を舐め取られる感覚と一緒に頭の奥へと直接響く。唇からすゅと流れた吐息は熱を帯びて、しとと耳の穴を濡らしていく。柔らかい肌の温度、こいしの唇が耳を這いながら撫で回し、舌先が穴の奥へと割り行っていく。ちぃると尚も水音が聞こえども。 茨の棘がいつの間にか抜けてしまっていた。 代わりにひぅぃと力の抜けた喉笛が唄っていた。 背中を撫でていた手が首へとそろと回されて。頬を擦り合わせ、鼻先を猫が足に纏わりつく様に擦りつけて、妹は姉と向かい合う。 笑っていた。 こいしの瞳。 じっと見つめていれども、如何にも焦点が定まっていない。 浅く開いたままの唇から零れた息が頬の産毛を擽り、肌を湿らせる。くいと首が引き寄せられて、唇が重なった。噛み付く様に唇同士が交差する口付け。口角に甘く歯を立てながら、舌の先だけが絡み合っていく。つちゅちと水が滴る音。息が上手く吸えないからか、肺が抜け殻になっていく。つぁらと頭へと血が上って、視界が尚もぶれていく錯覚。飲み込めない唾液が一つ唇の合間から流れ落ちた。顎を伝い、頬に移り、シーツの海へと沈んでいく。んくと唾液を互いに飲ませ合いながら、幾度も顔の角度を変えながら、唇を貪る。貪り合うと云うには如何にも、一方的にさとりは唇を吸われている気分だった。 回された腕が姉の頭を抱き止め、髪の合間に指を掻き入れる。呼吸が遠くなっていく。けれど、離してくれそうに無い。胸が締め付けられる感覚。唇が水気を含み過ぎて、もう何の感覚も感じ取れなくなっていた。舌先が絡み過ぎて、何処からが自分の物なのか、もう判らない。 不意に、顔が離れた。 唇と唇の間に、粘ついた糸が橋を架けた。 頭に回されていた腕が背中に帰り、身体を引き寄せられる。強く抱きながら、身体を返されて、今度はこいしが上になる。 はさりと乱れた髪、耳へと掛かる一束をかき上げながら、首筋に口付けを。 ただ、さとりは為される侭に、両の手を頭の上に投出した侭で。 竜胆色のキャミソール、其処に隠された薄い胸を、右の掌を押し付けながら撫で回す。左の掌は、さとりの頬に。胸から腹に、腹から腋に、手が這いずり回る。そるとキャミソールの中に手が入った。冷たい掌が寝起きに熱る腹には、氷を塗り込められている気分だった。逆をなぞり、胸の先で既に淡く堅くなり始めていた乳首を親指の先で齧る様に弄ぶ。くつと背中に走る刺激につられて、喉から込み上げる言葉にならぬ声を、さとりは唇で噛み殺す。尚も執拗に乳首をこねながら、こいしは唇だけでキャミソールの肩紐を外す。露になったもう片方の胸を舌が形を確かめながら、舐め回す。 くつと更に重なる刺激。唇だけでは物足らず、さとりは右手の人差し指の背を噛んで、こらえていた。淡く歯で噛みながら、乳首をしごかれて。人差し指と中指で挟まれながら甘く潰しながらも捻られて。喉が塞がる。目蓋を開けていられない。ちりちりと小さな歯車が廻る様な甘い棘が頭を始終締め付けていた。 乳首から口を離すと、今度は這いずりながらも、身体を返した。さとりの目の前には、細いこいしの臀部が揺れている。白く丸い肌へと指を浅く這わせながら、ただ見つめていた。ショーツの下に収まった陰部。産毛の様な陰毛、肉に食い込んだ薄い布は、暗がりの中、微塵の湿り気も帯びていないのが見て取れる。何も感じていない。何も思ってなどいない。全ては無意識の中でしか行われていない。其の意図は、其の意思は、只二匹の鳥に置き去りにされた石に同じ。 刹那、ひくと今迄よりも強い刺激が背筋に走る。くちゅつと水が口の中で弾ける音。下腹部にじんわりと染みる熱い肉の感覚。ずらされたショーツの下、陰唇を指先で広げながら、剥き出しになった肉の芽を、こいしは飴をしゃぶる様に舐っていた。敏感な肌へと繰り返し執拗に与えられる舌の刺激が、じりきりと背中が跳ねそうになるのを、奥歯を強く噛み堪え続ける。其れでも舌の動きは止まらずに、胎の底から粘ついた液が溢れていくのを感じながらも。 ふと反射で、さとりの指先がこいしの隠された性器に触れてしまった。 瞬間、舌の動きがぴくと止まる。 「うっぷ...」 こいしの背中が震えていた。びくりひくりと発狂し続ける。 「うっく...うっつ...」 顔がショーツへと埋まっていく。 そして。 「うぇぼぉぐおぉぉぉぇえぇぇぇぇぇ!」 吐いた。 未だに名残が染みた身体を無理に起こし、妹の隣へと這い寄る。背中を優しく撫でながらも、ショーツに投出された掌を握る。 「ぐげぇええごばぅがあああぁぁぇぇ!」 饐えた匂いが部屋に満ちる。ショーツの上には何も無い。只、唾液とくすんだ黴色の胃液が水溜りを作るばかりで。其れでも嘔吐が止まらない。けれど、其の顔は、変わらずに笑った侭で。目を見開き、笑ったままの顔で、こいしは胎の底を吐き散らす。握った掌も変える事無く、まるで其処に誰も居ないかの様に。全ては無意識によって行われる。何も無い。何一つ無い。空白の意識、空白の欲望、空白の苦痛、空白の。 漸く吐き終えて、身体を起こすと、こいしは姉へと抱きついた。 背中を撫でながら、其れでも何も云わずに、二人は抱き締め合う。 其の時に、扉を叩く音がする。 「さとり様」 木に挟まれてくぐもった声。 「お客様です」 「そう、仕度するから客間に通しておいて頂戴」 「分かりました」 気配が行き過ぎる。 「こんな所に珍しい人も来るのね」 背中を撫でながら、さとりはくつと笑った。 「花が欲しい、ですか」 地霊殿。其の客間は、茶色の調度品で統一されていた。二畳程の大きさがある桐で出来た机、ビロードが張られたソファーが二脚、机を境に左右に置かれていた。格子窓、外に映るのは湿った岩肌と遠い鬼の街の灯りばかり。机を挟んで向かい合うのは一匹と二匹。主はソファーに浅く座り、手にしたティーカップを同じく中空に持ったソーサーへと置きながら、客人へと尋ねた。其の隣で、こいしは机の上に置かれた青磁で出来た瓶の中身を覗き込む。中には粘性の強そうな琥珀色の液体が詰まっていた。 「ねぇ、此れ何?」 「蜂蜜よ。桜の花でしか蜜を取らない蜜蜂の物だから、香りは良い筈よ」 「へぇー」 「お土産ですか」 「噂通り、人の心が読めるのね。会話が楽で良いわ」 客人は、向かいのソファーで足を組みながら出された紅茶を一つ舐める。 「いっそ、喋らない方が会話が進むかしら?」 「駄目ですよ、言葉は口にしないと」 「へぇ、如何して?」 「そうでないと腐ります」 「言葉が?」 「心が」 なるほどと、くつと笑うと客人はカップを机の上へと置き直す。 「何かをして欲しいのに、こちらが手ぶらじゃ失礼かと思ってね」 「正直、有り難いですよ。どうにも、此処は上と違って甘味には欠けますし」 「また如何して?」 「甘草も芋も麦も果実も手に入りづらいですから。だって、花が咲かないのですもの」 「咲かない?」 ひくと片側の眉が僅かに上がる。 「先ず日が当たらない。土壌は岩ばかり。一年中、温度が低い。蜜を運ぶ蜂がいない。色々と理由はございますが、まぁ一番は、此処に花は似合いませんし」 「其の心は?」 「花は、愛される為に咲く物でしょう?」 そう言って、さとりは紅茶を幽かに舐めた。 「ですので、折角御足労頂いた訳ですが、地獄の花を差し上げるのは難しいのですよ、風見幽香さん」 客人、風見幽香は一つ溜息を吐く。 「そう、徒労だったかしら」 「あ、お姉ちゃん、此れ美味しいよ!」 こいしは匙で掬った蜂蜜を流し入れた紅茶を飲みながら、目を輝かせていた。ふぅと一つ、さとりは溜息を吐き。 「さりとて、お土産を頂いてしまった手前、手ぶらでお帰しするのも申し訳ないですね」 「あら、何を下さるの?」 「花、はないのですが」 さり気無く、さとりはスカートの中から小さな紙片を取り出した。八つに折って封筒上にした其れを、幽香の前へと差し出した。 「種はあるのです。只、地獄特有の、と云うのではありませんが」 「あら、何の種?」 紙片を受け取り、折り畳まれた一つを開くと中には一粒だけ、細長い黒い種子が納まっていた。 「名前は、ありません。元々は上にも幾らかは咲いていたのですが、今は其の種位しかいないのですよ」 「弱いのかしら?」 「少し変わっているのですよ、其の花は」 カップを机の上に戻すとソファーの肘掛に頬杖をついた。薄く、笑いながら。 「故に、嫌われた」 其の言葉に、幽香の顔色が変わる。先迄は、優雅に笑っていた筈なのに。今はもう、能面の様に表情が凍りついていた。一切の感情を失した色彩。 「嫌われた?」 「そう、嫌われた花。そう云う意味では似合いの花なのでしょうけど、肝心の肥料が無い。土壌も無い。日の光も月の灯りも必要は無いけれど」 「何故?」 「此処が昔の地獄ですので」 「そっちじゃないわ」 紙片を再び畳み直し、胸のポケットへと差し込んだ。 「何故、花が嫌われた?」 「お優しいのですね、貴女は」 「答えろ」 声のトーンが一つ落ち。 「簡単な話ですよ。其の花は、野には咲かない」 其の花は、山では実らない。其の花は。 「其の花は、人の心、恋心に咲くからですよ」 只、沈黙だけが鳴り響く。紅茶は既に冷め切って、自分の湯気も置き忘れ。悠然と幽香は次の言葉を待つ。其れでは不服と云わぬばかりに、足を組んだきりで。さとりは其れ以上は何も無いと、緩やかに笑うばかりで。 「其の思いが醜ければ醜いだけ、大きく美しく咲く。其の思いが強ければ強いだけ長く咲く。其の思いがより多くを望んでいるのであれば、種を孕む。そんな心など、こんな昔の地獄にはそうはありませんし、種ばかりなのは致し方が無いと云った所でしょうか」 「其処じゃない」 「本当に、お優しいのですね」 「私は尋ねた。其の回答を求めている」 「むしろ、私の方がお聞きしたいぐらいですよ。其れ以上に何をお求めなのか」 「嫌われた、理由よ。云わずとも分かるでしょう?」 「口にしないと、腐りますよ?」 くつらと笑う。 「なれば、そちらも口にしろ。腐るぞ」 「何がでしょう?」 「お前の首がだ」 なるほどなるほどと、愉快そうに地霊殿の主は笑っていた。 「嫌われ者には相応しい末路ですわね。まぁ、戯言は置いておいて、理由は先にお話した通り。其の花は、恋心に咲くから、嫌われたのですよ」 「其れが分からない」 「きっと、咲かせれば理解して頂けると思いますよ」 「其の心は?」 「人の恋心が咲くと云う事が、如何云う事か」 そうと小さく呟くと、幽香は悠然と立ち上がる。 「お燐、お客様のお帰りよ」 「はい、此処に」 いつの間にか、傍らには髪を三つに編んだ化け猫が傅いていた。横目だけで、視線をくれると其の脇を客人の妖怪は行き過ぎる。扉に手を掛けた時に、不意に違和感を感じた。きぃと視界が縮む。まるでばらばらになった本を無理に掻き集めた所為で、シーンの境目を失ったかの様に。幽香と扉、其の間に、いつの間にか覚の妹が笑っている。 「何の用?」 「ねぇ、花のお姉さん。其の花、咲かせるの?」 「そうよ」 「ねぇ、なら私も連れてってよ」 沈黙。 「お姉ちゃん、良いでしょ?」 覚の姉は只黙して語らず、冷め切った紅茶を飲み下す。 「止めても、勝手に行くのでしょ?」 「えへへ」 柔く無邪気に笑う少女の姿を、只冷たく一瞥するばかりで。 「何の為に?」 「ねぇ、お姉さん。もうね、私、人の心が分からないの。昔は分かったけど、今はもう出来ないの。でもね、最近、其れが知りたいの。人の恋心だなんて、どんな容なのかなって。紅いのかな、青いのかな、丸いのかな、角ばってるのかな、大きいのかな、小さいのかな、ひょろ長いのかな、短くて太いのかな、甘い香りがするのかな、苦い味がするのかな。ねぇ、花のお姉さんは知ってる?」 「興味が無いわ」 「私はあるの。ねぇ、お願い、一緒に連れてって?」 「邪魔になったら磨り潰すわよ」 「大丈夫だよ、誰にも気づかれないのは得意だもの」 「好きにしたら」 こいしの姿に関しない仕草で扉を開ける。すると横にすり抜けながら、少女は姉に笑いかけた。まるで、笑顔の侭で固定されてしまった様な、そんな色の。 「お姉ちゃんも行く?」 「止めておくわ。あんな醜い物、わざわざ見る気にはならないわ」 「醜いの?」 「ええ」 カップを机の上に置くと火焔猫燐がすっと片付け始める。 「本当に、醜いわ」 * 「こんな所で何をしている?」 里の茶屋。其処で煎茶で羊羹を飲み下している彼女に向けて、上白沢慧音は僅かに眉を潜めていた。昼下がりの里の景色は、昼食が終わり皆各々に為すべき事を淡々とこなし始めている。何処か忙しなく、人々が行き過ぎて。其の流れの中で、其処だけは時間が止まっている様だった。 「いやー、そんな怖い顔するなよ、ハクタク。これでも、あたいは仕事してるのさ」 奥の給仕にみたらし団子を三本追加で頼みながら、けらけらと幻想郷の死神︱小野塚小町は笑っていた。だらしなく足を組みながら、まるで酒でも呑むかの様に煎茶を啜りながら、残った羊羹の欠片を口に放り込む。 「お前の職場は川の上だろうが」 「今回は里の中なのさ。映姫様直々のお達しでね」 「お前は何時だって閻魔様直々の仕事しかしていないだろうが」 「やれやれ、随分とあたいも嫌われたもんだね」 「そう云う訳じゃないが、死神がわざわざ来るなんて、厭な予感しかしないだろうが」 「そいつもそうだ、流石はハクタク」 置かれた団子を一串持ち上げると、くるりと先端で円を描く様に回す。 「正直、映姫様にも『若しかしたら』レベルの話だから、そう警戒する事でも無いとは思うんだけどね。念の為って所さ」 「何の話だ?」 「実は、あたいにも良くは分からんのだがね」 其れだけ云うと団子で口に栓をして、其れきり語る事はなかった。溜息を一つ吐くと、慧音は小町の横に腰掛けた。 「おや、そっちは休憩かい?」 「そうだ。今日は歩き詰めで足が痛いんだ。あ、すまない、私にも煎茶とヨモギ団子を一皿頼む」 「歩き詰め」 「ああ、近い内に結婚する者が居てね。寺小屋を始めるのに色々と便宜を図ってくれた人の娘さんでな。是非にも手伝いがしたいと思ってね」 「義理堅いねぇ、きっと天国に行けるよ」 「興味が湧かないな」 「そうかい?」 奥から出された鶯色の団子を一口含むと、四度程噛んだ後に煎茶を僅かに啜った。 「死んだ後より気にする事が山の様にあるしな」 「そうかい、そうさね」 残りの団子を手に取ると小町は立ち上がった。 「其れが一等大事さ」 * 白昼夢と云う物は、解離によって説明される。其れは実際の夢とは異なり、別の現実を挟み込む事で現行に発生している事象を覆い隠す事であり、其れは追憶の整理ではなく記憶の改竄であると想定される。では、少女は何を見たと云うのだろうか。 里の一角、其の奥に屋敷はあった。他の家よりは幾らかは広い其の家は、反物を売る事で財を成したのだと聞いている。けれど其れ以上の仔細は誰にも分からず、そして語る事に何かを得るとも思えないからか、只屋敷に住む人は里の中では名士の類である事だけを、皆知っていた。 里へと向いた縁側、其処に少女は座っていた。ぼうと呆けた顔をした侭、唇を指で押さえたきりで。何かをされたと思えども、薄い白絹が目の前にかけられた様で、何も思い出せない。けれど、何か、怖い様な、痛い様な、そんな感覚だけが取り残されていた。ふらと躍らせたきりの足を、床につけて留めても、如何にも立ち上がる気分になれない。 「どうかしたの?」 後ろから声がして、初めて実感が指先に戻って来た。 振り返ると、臙脂色の着物を着た一人の娘が怪訝そうな顔をして立ち尽くしていた。 「何でも、ないよ、姉様」 そう返すと縁側から立ち上がる。屋敷の中には既に声は欠けていた。先迄はあんなにも、喧騒と笑いに満ちていたのに、今は夜の湖の様だった。横目に映る空は青から茜に染まっていた。どれ程に、自分は。思い返すと、きちと鈍い痛みが羽音を立てて、頭蓋の奥を削り出すから。ふらと眩暈が足を取る。 「あら、大丈夫?」 「大丈夫...ちょっと、ぼうっとしちゃってただけ」 そうと心配そうに後ろから肩を支えて、二人は連れ立って屋敷の奥へと歩いていく。 「貴女も、随分と手伝ってくれたものね。きっと、疲れたのね」 そうだねと、少女は小さく呟いた。障子の向こうには冷め切った茶が各々に残る茶碗が数個並び食べ終わった漆塗の皿が隅に重ねられていた。 「もう、帰ったの」 「ええ、夕飯も一緒にどうかとは訊いたのだけれど、如何にも夜に外せない御用事があるそうなのよ」 「そうなんだ」 其の後、二、三言交わした気もするのだけれど、少女の頭には今も霞が白く掛かってしまっていて、自分が何を喋っているのか、姉が何を語りかけてきているのか、漠として何も入ってこない。けれど、気がつけば、自分が自室に着いて、縁側の時と同じに文机の前で、ぼうっと座っているのだけは分かった。 手元には白紙の束と墨、硯と筆が一式揃っていた。墨を硯に擦りつけながら、近くに置いてあった土瓶から水を僅かに満たしていく。澄んだ水に削れた墨が舞っていく。さぱと水が震えながら、黒に染まっていく。どれ程まで擦り続ければ、望む色が得られるのだろうか。どれ程までに其の身を細らせれば、其の色が。機械的に、墨を磨る。磨って、磨って、磨り続けて。また。みぎぃると頭蓋が震える錯覚。目の前の、紙の質感、墨の色、筆の仔細、指の肌理。其ればかりが明瞭に、他の全ては曖昧になっていく。其れでも。 ひたりと指を止めると、筆先を墨汁に浸した。 筆先に凝り固まった墨を押し付けながら潰していく。ばらはらと崩れていく毛先、すいと抜くと鴉羽色の雫がぽつりと落ちる。滴る雫が絶える迄、筆を握った手を宙に浮かせて。 十分と、そう思った。 紙の上に筆を走らせる。四文字だけの言葉を延々と書き連ねる。右の端から下に向かい、紙の端迄綴った後、先に書いた字の直ぐ横に更に四文字を書き連ねる。一分の狂いも無い様に、微塵の乱れも無い様に、紙よりはみ出てしまわぬ様に。つらりつらと書き続ける。何回も、幾度も繰り返した作業。何時からなのか、何処からなのか、もう境が分からない。 「ねぇ、何しているの?」 唐突に。ふさりと首筋に何かが纏わりついてきて。余りに唐突だったから、心を震わせる間も少女には無かった。耳元に水飴を蒸気にした様な声が、すると耳介を這い廻る。 「ねぇ、お姉さん、何しているの?」 振り向けない。何かが背中にひたりと貼り付いている。多分、自分と同じ位の背格好なのだとは思う。けれど。違う。其れは。 「へぇ。お姉さん、此れがお姉さんの恋心なの?」 すいと陶磁器の様な色をした幼い指先が紙の上に刻まれた言葉をすいとなぞり上げる。 「ねぇ、お姉さん。何で書いてるの? 何を書いてるの? 教えてよ。此れがお姉さんの恋心なんでしょう? ねぇ、教えてよ。私、知りたいの。其の為に着たんだから。ねぇ、お姉さん」 かつかつと顎が痙攣している。何故なのか。恐怖とは違う。みぎぃると脳髄が震えている。茨がきちと突き刺さる。けれど、手が止まらない。文字を綴る。墨で綴る。尚も声は聞こえてこれど、震えは一向に止まらないけれど。字だけが乱れない。列が線を引いた様にみっしりと綴られる。 「ねぇ、お姉さん。教えてよ、私に教えてよ。書いて如何するの? 書いた後、如何するの?読むの?捨てるの? 取っておくの? 読んで貰うの? ねぇねぇ」 発狂し続ける身体。仔細は少し、後は曖昧。何も見えない。其れしか見えないのだから。喉が渇く。痛みは更に増していく。字が増えていく。増えて、既に紙の終りに迄来ているのに。手は自分勝手に動いていく。紙を捲る訳じゃない。最初に書いて、未だ生乾きの字の上に、筆が字をなぞり始めていた。一分の狂いも無い様に、既にある墨の軌跡から外れぬ様に。書き続ける。書いて綴り、なぞり上げ。同じ文字ばかりを書き続ける。何も考えられない。言葉が浮かんでこない。白昼夢は逃避によって説明される。実際の事象に対しての補完手順として、捏造された状景を真の事象と置き換える。 「凄いね、お姉さん。其れが恋なの? ねぇ、お姉さん」 なぞり続けて、紙の最後迄来ていた。手は同じ動作を繰り返す。紙の右上、最初に戻り、未だ乾き切れていない文字の上に更に筆を落として。最初の一画、綴った時に。 紙がじると横に裂けていた。余りに水を吸い過ぎて。 「ああああああああああああああああああああああああああああああ!」 其処で、理性を自律する糸が切れた。 筆を放り投げ、両の手で紙を握り締める。手の中に収まる程にぐしゃぐしゃにしては、丸めて千切り、叫び続け。もう聞こえない。先の気配も感じない。あるのは只、込み上げてくる無名の慟哭だけ。 「どうしたの!」 障子が慌てて開け広げられて。声に今度は驚き振り向くと、同じく驚いた顔をした少女の母親が立っていた。 「うん、大丈夫」 呆けた顔で、少女は答えた。 「ただ虫が居ただけ」 其の晩、少女が夢を見た。 目の前には紡錘状に広がった部屋が広がる。 自分の身体はどうにも一脚の椅子に縛り付けられているのらしい。指先の一つ動かせば、纏わりついた茨がちくと指の腹を刺す。痛みは無く、只肌に穴が穿たれたと言う錯覚だけが残るだけ。血がぬると肌の上を伝っていく。 雫が落ちる。生ぬるく、粘ついた感覚だけが取り残される。 痛みは、無い。 何時だって、他人の記憶の中には痛覚と言う感覚だけが欠如している。身体が破壊される事を知る為だけに存在する、其れだけが。故に、此れは破壊ではない。では、何なのか。其の回答は未だ知らない。左の指先には三百十二個の穴が開いている。茨に穿たれた傷。右の指先には百四個の穴が開いている。四百十六個の穴が両の手には開いている。茨が突き刺した回数と同じに。 其れは千を越える事は無い。何故ならば、茨の棘は九百八十八個しか存在していない。そうとだけは知っている。 目の前には、窓が一つ。小麦色の空には雲一つ浮いてはいない。風の不在は分からない。音が聞こえない。否、一つの音だけが不規則に耳の奥へと響くばかり。其れ以外には何も聞こえない。其ればかりしか聞かれないのならば、何も聞こえないのに同じ。其ればかりしか手に出来ないのならば、何も持っていないのと同じで。 耳鳴り。 如何にも蜘蛛が一匹だけ耳穴の奥に、にしりと詰まっているらしい。 暗がりばかりの頭の影から逃れるが為に、懸命に懸命に其の肢を振り回していた。ぎきちるぎきち。鉄色の肢が動く度、耳介の底を削り上げ、塞ぎ様の無い触覚が脳へと直接響いてくる。ぎきちるぎきちと不規則に、忙しなく、緩急も無く、首が震える程に暴れ回る。首筋が発狂する。感覚を亡くした指先が箱に閉じ込められた兎と同じに痙攣し続ける。そうして、傷が右手に二つ、左手に四つ、穴を重ねていく。既に穿たれた穴と穴の間に、芯を半分ばかりをずらした場所に、血で埋まって綺麗な侭か如何なのかも分からない肌の上に、指先に刻み続けている。大丈夫、千にはどうせ届かない。 目の前には部屋がある。 高い、高い塔の一番上なのだと云う事は知っている。 目の前には部屋があり、女が独りで地面に座り込んでいた。 瑪瑙色の煉瓦が積み重なって造り上げられた世界、窓の傍で、ぼんやりと窓の外を眺めていた。顔は見えない。のっぺりとした青白い肌だけしか面長の顔にはない。 いいや、穴がある。穴だけがある。 赤子の握り拳程の大きさの穴。向こう側は空と同じ小麦色。其の周りを髪が檻の様にばらばらと纏わりついていた。 長い髪。女の髪は長かった。 余りにも長過ぎて、部屋の四分の三を埋め尽くす程に。 服を着ているのかいないのか、顔以外があるのかないのか。髪の毛が余りにも長過ぎて、部屋が余りに暗過ぎて、如何にも見る事が出来ないが、多分あるのだろう。きっと無いのかもしれない。どちらなのか、どちらでもないのか。其の事象だけは教えてくれない。 女は髪を結い、窓の外へと投出した侭、窓の外を眺めていた。多分、眺めていた。不意に、きぃと女の首が揺れる。縦に何かが引いている様に。ぎぃぎと不規則に揺れていた。 肢の暴れる感覚がする。 ぎきちるぎきちと耳を掻く。 其の度に、首が震える。指先が震える。 茨が突き刺さり、穴が六つ増えていく。 ぽつりぽつりと滴る血は、煉瓦に飲まれて彼女の髪まで届かない。 女は外を眺めていた。眺められるのだろうか。 其の内に、女は下を覗き込む。覗けるのだろうか。 何かを言っている。様な気がする。言葉を紡げるのだろうか。 聞こえない。蜘蛛の肢が其れを許してくれない。ぎきちるぎきち。ぎきちるぎきち。 暫くすると、窓の外が真っ黒に染まっていた。其処に居るのは一羽の鴉。大きく羽根を広げ、何かを啼き喚いている。けれど、蜘蛛の肢が煩くて、何を叫んでいるのか分からない。鴉は叫びながら、窓に爪をかけた侭、大きな嘴を女へと向ける。女は何も動かずに、鴉を見上げて止まるだけ。鴉は徐に嘴を顔に穿たれた穴へと突き刺した。にぃると竹が曲るのに似た音が響く。ずると嘴が顔に呑まれていく。穴の底へと飲まれていく。大きさは、明らかに女の顔を当に超えている筈なのに。穴がずぶと粘土に開けられた穴が押し広げられる様に、顔中を覆っていく。輪郭と同じ程に広がっていく。広がり過ぎて、其れ以上に穴が崩れたら、女の顔が毀れる迄に広がった後で、ゆっくりと今度は嘴を引き抜いた。穴が窄まって行く。引かれていく外の骨へと纏わりつきながら。ずぅると嘴が完全に抜かれて、今度はまた押し入れていく。何度も何度も挿入と引抜を繰り返す。かたがたと女の首が震えども。もう此れで八十四回繰り返している。 八十五回目の挿入、其処で、鴉は嘴を開いた。 水飴の様に嘴の動きにつられて、女の顔が裂けていく。完全に嘴が開き切った其の時に、女の身体が後ろに倒れ。記憶は何時だって理不尽だ。何の経緯も過程も教えてはくれないのだから。女の首には、先の顔の代わりに、大きな紡錘状の繭に変わっていた。鴉は今度、其の繭を突き始める。ばらばらと絹の糸が解けて行く。既にばらけてしまった、女の繭。 其処には、一輪の花が咲いていた。 鴉は高らかに啼いた。 初めて聞こえた其の声は、二度と無いと聞こえていた。 其処で、少女は目が覚めた。 * 「もう直ぐだな、式」 其の日、慧音は屋敷に訪れていた。屋敷の客間、畳張りの部屋で、一人の娘と机越しに対峙していた。漆で塗られ、金の蝶が舞う三段の重箱。其れが、慧音と彼女の間には置かれ、慧音の前には赤い漆で塗られた皿、求肥で包まれた丸い菓子が二つ、底の深い湯呑みが置かれていた。 「ええ、本当に上白沢様にはお忙しい中、お手伝い頂きまして」 「いやいや、私も君のお父様にはお世話になっている。其れに祝い事は皆でやるのが一番良いものだ」 「そうですね」 そう言って笑う姿は、向日葵が咲いている様で。慧音も穏やかに笑いながら、湯飲みに満たされた茶を啜る。けれど、如何にも咲いた花の色彩に僅かな翳りがあるのを。 「何か、気がかりな事でもあるのか?」 えっと僅かな驚愕と戸惑いを浮かべ、そして、少し目を伏せる。 「いえ、大した事ではないのですが…」 自らの前に置いた湯飲みを持ち上げ、少し躊躇ってから口もつけずに机に置き直す。 「如何にも、妹が…」 「妹さん?」 「ええ。妹が、余り私の結婚を快く思っていないみたいで...」 ふぅむと一つ言葉には為り切れない唸りが口をつく。 「君達は、姉妹の仲は良かった様に思っていたのだがね」 「自分で言うのも何ですが、妹との仲は良かったと思っていたのですが」 「なら、あれだな」 くすと柔く微笑んだ。 「自分の大事な姉が、盗られてしまった様な気分なのだろう」 「そう云う、物なのでしょうか」 「歳は幾つになっていたかな」 「確か、今年で十五になります」 「成る程、なら余計にそうであろう。何、時が解決してくれる問題だ」 「そう、だと良いのですが」 「何か、他にも?」 「いえ、最近、様子が、其の。夢見心地と云いますが、ぼうっとしている事が多くて…」 「ふむ。まぁ、許容される範囲内だとは思うがね...余り、気になる様なら私の方からも話をしておこう」 「そんな、家庭内の問題ですし」 「いやいや、こう云うのは他人に話した方がすっきりする物だ。妹さんは居るかな?」 「はい、部屋に居るとは」 「では、早速会いに行こう」 そう云うと、慧音は立ち上がる。 客間の障子を抜けると其処には細い廊下が長く続いていた。先までは陽の明かりが届かないのか、先が漠として良く見えない。影に向かって、慧音は足を進めた。きぃと板張りの廊下が鳴いている。造りが古い所為か、妙に足音が響く気がした。聞いた話では、其の廊下の奥から三番目の障子。其処に少女の部屋がある。 恐らくは、其処だと云う障子戸に指を掛けた其の時に、すいと背中に何かが通り過ぎる感覚がする。違和感を感じ、振り返れど、其処は無人の廊下だけ。僅かに首を傾げた後で、再び障子を開けようとした其の時に。 「あああああああああああああああああああああああああああああああああ!」 戸の奥から叫ぶ声が聞こえた。 弾かれた様に扉を開ける。 其処には六畳の部屋。其の端には小さな文机と、少女はすぅと座っている。目の前には、まっさらな紙と磨り立ての墨、きちんと硯に置かれた筆。先の悲鳴があったとは、到底思えない景色だった。 「お、おい」 緩慢に首を回し、少女は曖昧な表情の侭で、怪訝そうに首を傾げていた。 「此れは、上白沢様。如何されました、そんな青い顔をして」 「いや、今、悲鳴が...」 「悲鳴? ああ」 くつと、笑っていた。へばりついた様な、顔で。 「虫が居ましたの」 「む、虫?」 「ええ、余り得意ではないので」 「そ、そうか。入っても構わないか?」 「ええ、どうぞ」 すいと少女は立ち上がると、部屋の隅に積んであった座布団を部屋の真ん中に置く。文机の前に置いてあった自らの座布団を少し新しく置いた場所へと寄せ、互いに向き合う様に座る。 「其れで、何の御用でしょう?」 「あ、うん。そうだな、君はお姉さんの事が好きかい?」 きょとんとした顔をした後、小首を傾げて。 「ええ、大好きですよ」 「そうか。なら、お姉さんの結婚相手はどうだい?」 「そう、ですね。素敵な御方だと思います。姉様にぴったりな御人です」 「そうかい。羨ましい話だ」 「如何してです?」 「そんな素敵な人がお兄さんになるんだ。兄も姉も居ない私には羨ましい限りだ」 ああと、ぽんと少女は手を叩き、くすくすと笑っていた。 「上白沢様は、私が姉様の結婚に妬いているとお思いですか?」 「え、あ、うん。すまん、そうなのかなと」 くすと可笑しそうに。けれど、其の笑顔は。 「厭ですわ、私は姉様の事が大好きですけど、盗られたとか思ってはいませんよ」 「そ、そうか。なら、良いんだ。すまないな」 「いいえ、上白沢様にも祝福して頂けるなんて、本当に姉様は幸せですね」 柔くそう云うのを聞き、なら邪魔をしたなと慧音は立ち上がった。 「そう云えば、君のお姉さんが言っていたのだが」 「はい?」 「何か他に悩み事でもあるのかね?」 「如何してです?」 「何か、最近こう、ぼうっとしていると言っていたのを覚えていてね」 「ああ、悩み事ではありませんよ」 「そうなのか?」 ええと、少女は、笑った。 「悩みなどではありません」 手元には白紙の束と墨、硯と筆が一式揃っていた。墨を硯に擦りつけながら、近くに置いてあった土瓶から水を僅かに満たしていく。澄んだ水に削れた墨が舞っていく。さぱと水が震えながら、黒に染まっていく。どれ程まで擦り続ければ、望む色が得られるのだろうか。どれ程までに其の身を細らせれば、其の色が。機械的に、墨を磨る。磨って、磨って、磨り続けて。また。みぎぃると頭蓋が震える錯覚。目の前の、紙の質感、墨の色、筆の仔細、指の肌理。其ればかりが明瞭に、他の全ては曖昧になっていく。其れでも。 ひたりと指を止めると、筆先を墨汁に浸した。 筆先に凝り固まった墨を押し付けながら潰していく。ばらはらと崩れていく毛先、すいと抜くと鴉羽色の雫がぽつりと落ちる。滴る雫が絶える迄、筆を握った手を宙に浮かせて。 十分と、そう思った。 紙の上に筆を走らせる。四文字だけの言葉を延々と書き連ねる。右の端から下に向かい、紙の端迄綴った後、先に書いた字の直ぐ横に更に四文字を書き連ねる。一分の狂いも無い様に、微塵の乱れも無い様に、紙よりはみ出てしまわぬ様に。つらりつらと書き続ける。何回も、幾度も繰り返した作業。何時からなのか、何処からなのか、もう境が分からない。 「ねぇ、何しているの?」 唐突に。ふさりと首筋に何かが纏わりついてきて。余りに唐突だったから、心を震わせる間も少女には無かった。耳元に水飴を蒸気にした様な声が、すると耳介を這い廻る。 「ねぇ、お姉さん、何しているの?」 振り向けない。何かが背中にひたりと貼り付いている。多分、自分と同じ位の背格好なのだとは思う。けれど。違う。其れは。 「へぇ。お姉さん、此れがお姉さんの恋心なの?」 すいと陶磁器の様な色をした幼い指先が紙の上に刻まれた言葉をすいとなぞり上げる 「ねぇ、お姉さん。何で書いてるの? 何を書いてるの? 教えてよ。此れがお姉さんの恋心なんでしょう? ねぇ、教えてよ。私、知りたいの。其の為に着たんだから。ねぇ、お姉さん」 かつかつと顎が痙攣している。何故なのか。恐怖とは違う。みぎぃると脳髄が震えている。茨がきちと突き刺さる。けれど、手が止まらない。文字を綴る。墨で綴る。尚も声は聞こえてこれど、震えは一向に止まらないけれど。字だけが乱れない。列が線を引いた様にみっしりと綴られる。 「ねぇ、お姉さん。教えてよ、私に教えてよ。書いて如何するの? 書いた後、如何するの?読むの?捨てるの? 取っておくの? 読んで貰うの? ねぇねぇ」 発狂し続ける身体。仔細は少し、後は曖昧。何も見えない。其れしか見えないのだから。喉が渇く。痛みは更に増していく。字が増えていく。増えて、既に紙の終りに迄来ているのに。手は自分勝手に動いていく。紙を捲る訳じゃない。最初に書いて、未だ生乾きの字の上に、筆が字をなぞり始めていた。一分の狂いも無い様に、既にある墨の軌跡から外れぬ様に。書き続ける。書いて綴り、なぞり上げ。同じ文字ばかりを書き続ける。何も考えられない。言葉が浮かんでこない。白昼夢は逃避によって説明される。実際の事象に対しての補完手順として、捏造された状景を真の事象と置き換える。喉が渇く。痛みは更に増していく。字が増えていく。増えて、既に紙の終りに迄来ているのに。手は自分勝手に動いていく。紙を捲る訳じゃない。最初に書いて、未だ生乾きの字の上に、筆が字をなぞり始めていた。一分の狂いも無い様に、既にある墨の軌跡から外れぬ様に。書き続ける。書いて綴り、なぞり上げ。同じ文字ばかりを書き続ける。何も考えられない。言葉が浮かんでこない。綴る。綴り続ける。三度は四度に、四度は五度に。深く深く紙の中に吸い込まれていく。 十八度なぞった後で、少女は紙を持ち上げた。 墨痕が染み込み過ぎて、重力の腕に囚われた墨の水が落ちていく。下の字を全て飲み込みながら。自分自身も飲み込みながら。黒く黒く染まっていく。 姉様すき、とだけ、綴られた紙が。 * 「大変です、上白沢様!」 其の日は寺子屋の授業は無かったから、自宅で次に使う資料を纏めている時に、血相を変えた里の男が駆け込んできていた。 「如何したんだ、そんなに慌てて」 「あの、あの!」 「まぁ、落ち着け」 土間に座らせると、慧音は奥の甕から汲んだ水を手渡すと、男は勢い良く飲み干して、ぜぃぜぇと息を荒く吐く。 「大変なんです、先生。あの、里の外れの、反物屋の里見さんちが」 「何、あそこが如何した? 今日は、確か」 「へぃ...今日式の筈だったんで、家に行ってみたら...」 「たら?」 すると、何かを思い出したのか、男が土間の上に蹲るとげいげぇと吐き出した。 「お、おい、如何した?」 はぁっと息を四度程、荒く吐き「すいやせん」と謝る男の背を撫でる。 「里見さんちが...皆...」 「皆?」 「死んでやして」 其れだけを聞くと、慧音は走り出した。 駆け足で走りながら道すがら聞いた話。皆がこぞって祝いの席に参加する為に、家についたら、先ず玄関先で家主の男が頭を割られて死んでいたと。其処で気のある男が一人で中に入ると、今度は家主の妻と、結婚相手の家族、自身も含めて全員が同じ様に死んでいたのらしい。只、皆がこぞって口にする。姉妹だけがいないのだと。 「如何云う事だ?」 「何処に行くの、ハクタクのお姉さん」 不意に、耳の奥へと声が響く。 立ち止まり、振り返れども其処には里の景色しかない。 「ねぇ、何処に行くの、そんなに急いで」 慧音の背後、其処には。 「お前は...覚の」 古明地こいしが首を傾げて、笑っていた。其の顔は、そうだ。この笑顔は、あの時に少女が見せたものと同じで。へばりついた様な笑顔だった。 「ねぇ、そんなに急いで何処に行きたいの、ハクタクのお姉さん」 「...お前には」 「ねぇ、あのお姉さん達ならお家には居ないよ」 「な、貴様...!」 こいしの胸元を掴み上げる。 「貴様の、仕業か?」 「ううん、違うよ。全部見てたけど私じゃないよ」 「全部、見てた?」 「うん。あのお姉さんが、お姉さんのお姉さんの事大好きだって所も、あのお姉さんが何をして、何処に連れて行ったかも」 「何を、言っている?」 「あのね、私、恋心が見たいの。だから、見に来たの」 「何を言っていると!」 「花のお姉さんが見せてくれるんだって。人の恋心。お花を咲かせれば分かるからって」 「恋心、花?」 「うん、そう。お姉ちゃんが言ってた。其のお花はね、人の恋心に咲くんだって」 「...なんだと?」 変わらずに笑ったままで。 不意に思い出す。そうだ。居たじゃないか、死神が。『何かがあるのかもしれない』と言って。あの時に。 「何故、未だあるんだ...全部、昔の地獄へ追いやったんじゃ」 「うん、最後の一個。花のお姉さんが咲かせるんだって」 「...花の、お姉さん?」 「うん、幽香お姉さん」 花と一緒に居るよ、向日葵一杯の所で。そう笑いながら、紙芝居の途切れた様に、こいしの姿は消えていた。 「何を、考えている...風見幽香。あの花は」 「地獄送りの花、だな」 今度は、知った声が横に。 「死神、何故止めなかった」 「悪かった。何処にあるのかさっぱり分からなかったが、あの覚の妹、無意識で全部隠していやがったんだ。何処に居るか、検討つくか?」 「ああ、恐らくは...太陽の畑だ」 姉様。ねぇ、姉様。私ね、姉様が好きなの。ずっとずっと好きなの。結ばれないのは分かっているの。でもね、あのね、教えてくれたの。今思い出したの。教えてくれたの。花が咲けば一緒になれるって。一緒のお花になればね、ずっとずっと一緒に居られるんだって。ねぇ、姉様。姉様。嬉しいね。楽しいね。だって全部姉様が教えてくれたんじゃない。閨の作法も口づけの仕方も女の子が気持ち良くなる何もかも姉様が教えてくれたじゃない姉様が愛し方を全部教えてくれたじゃないだからね一緒になろうあんな人とじゃなくて一緒になろうねなろうね。 少女は服を全部脱ぎ、姉の服も全て剥ぎ。 姉の胸には深々と傷が穿たれていた。傍らには血だらけで肉のついた一振りの鉈が無造作に転がっていた。何度も何度も叩き付けた所為なのか、肌はぐずぐずに崩れて、青蝿三匹程飛び回っては、傷口に止まり、手を合わせる。少女は既に息を止めた唇を啜りながら、寝そべった遺骸を抱き寄せる。周りには向日葵が、まるで二人の少女を覗き込んでいる様に咲いていた。そんな錯覚がある。向日葵の畑の真ん中に立つと、陽の下に立つと、向日葵の全てが自分を見つめている。そんな錯覚がある。二人の少女の上には、皓と光る太陽が一つ。そして、其れを遠巻きに見つめる二匹の妖怪。 「もう直ぐなのかな、花のお姉さん」 「恐らくは、もう直ぐね」 姉様。ねぇ、姉様。愛してるの本当に姉様だけを愛しているの姉様しか私には見えないの。私莫迦だから他の方法が思いつかなかったけど。ねぇ、姉様。ごめんね、痛くしちゃって。でもね、大丈夫だよ。これからはずっと一緒だからね。 抱き寄せて、何度も何度も唇を重ねる。ごぽと噴出した赤黒い血が少女の白い腹を染めていく。下腹部を伝い、太腿に線を刻み。もう何も反応しない姉の屍骸。硬直し始めた太腿に自らの性器を擦りつけながら、何度も幾度も唇を。息が荒くなっていく。頬が赤く染まっている。姉様。ねえ、姉様。 「風見幽香!」 遠くで声がする。 「あら、貴女、教えたの?」 「ううん。場所までは言ってないよ」 「そう、なら勘の良い奴らだったて事ね。ハクタクも、死神も」 土を強く踏む音がする。二対の音が。 「何を、考えているんだい、あんた?」 鎌を肩で担ぎながら、小町がすいと目を細めて。 「花は、何の為に咲くのだと思う?」 「何?」 「花はね、愛される為だけに咲くのよ。故に、愛されぬ花などあってはならない。もしも、世界の全てが此の花を憎むと云うならば」 表情が変わらない。無色の侭で。 「此の私だけは愛する」 「其の花が、如何云うもんだか、分かった上でか?」 「私には如何でも良い事よ。たかが人の一人や二人、怨霊になろうが成仏しようが」 「こっちは、そう云う訳にも行かないんでね?」 「でも、もう手遅れね。こいし」 「うん?」 「咲くわよ」 姉様ねぇ姉様愛してるのずっと一緒にいるのずっとずっと愛して 刹那、少女の首が爆ぜた。 骨の砕ける軽い音と共に。けれど血は噴出さず、代わりに黒い蔦が少女の首と肩と体を這いずり回る。一緒に抱いた姉の遺骸にも蔦が這い、穿たれた傷口の中へと割り入る。びくりばたりと死体が揺れる。肌が波打って、根が張られていく様が見て取れた。ずりると耳の穴から、尻の穴から、膣の穴から。体中の穴と云う穴から黒い蔦が這い出て。 花が咲く。少女の首の代わりに、身体から一輪の黒い花が咲いている。 其の花の別を告げるには、些か境が少な過ぎた。 例えるならば、其の花は、夕の翳りに埋もれた菖蒲の姿。其の花は、障子越しの月青に照らされた杜若が見せる魍魎。何れとも語ろうにも、些か言葉が足りずに、夜と同じ一色で綴られた花が。 「ほら、あれが人の恋心」 幽香はゆっくりと花を指差した。 其れを見て、こいしは。 「え...あああ...ああああああ...!」 膝から崩れ落ち、自身の肩を自身で抱きながら、吐いた。 「うげぇぐべぇええええええええええええええ!」 唾液と胃液ばかりが、向日葵の畑へと流れ落ちる。 「ぐぶべぅげぇううえうううううううえええ!」 「本当に、吐き気がする程に、醜い花ね。けれど、愛さない理由にはならない」 「風見幽香、貴様ぁ!」 慧音が動くよりも前に、小町が先に走り出した。 胸倉を掴み、顔を引き寄せる。 「お前...本当に自分が何をしたか分かってるのか! 貴様、二度と極楽には!」 「興味が無いわ、死んだ後の事なんて。今何を為すかに比べれば」 「たかが、花だぞ!」 「同じ事を言ってあげる。たかが、人よ?」 すいと慧音は吐き続けるこいしの元へと歩み寄る。 「何故、吐くんだ」 ぜぇと息を荒く吐く其の肩を強く握った。 「此れは、お前が見たかったものなんだろ? ちゃんと、見ろ!」 俯いた顔を掴み、首を真っ直ぐに花へと向ける。 「ちゃんと見ろ! お前の見たかった、人の幸せを踏み躙って迄見たかった、花だ!」 「うぷっ...うぐ」 だらだらと唾液が半開きの唇から流れ落ち、其れが閉じた侭の第三の眸へと落ちる。びくと閉じている目蓋が痙攣を起こしていた。 「そうか...そうなんだ...もう捨てたのに...もう捨てたのに...」 うわ言だけを繰り返す。 其の刹那、花は、まるで焼き爛れた紙の様に、崩れ落ちていた。 「やはりあの程度の恋心では、そうは長くは咲かないか」 「お前...分かってるんだろうな?」 「そうね、殴りたければそうしたら良いわ。私は、もう満足よ」 気がつくと、其処には既に、古明地こいしの姿は、無かった。 【はなのめぶく】 「もう此処は出ようかと思っているんだ」 妖怪の山の其の麓。鬱蒼と茂る森の中に、其の瑣末な小屋はあった。ぼんやりと格子窓の外を眺める古明地さとりに向かって、小屋の真ん中で胡坐を掻いた星熊勇儀は朱杯に注がれた酒を呷りながら、そう言っていた。 「そう」 「鬼は、矢張り鬼でしかないみたいだ。疎まれ忌まれて憎まれ追われ。そいつが如何にもお似合いらしくてな。此処にはもう居られない」 「今度は何処にお隠れになるおつもりで?」 「地獄さ。鬼には似合いだろ?」 「金棒用意しないといけませんね、其れは」 「かか。全くだな」 くいと再び注いだ酒を一気に呷る。 「閻魔様が許すかしら?」 「ああ、地獄の乗せ換えをするんだとよ。老朽化が進んでいるからな、今の地獄は。そうすりゃ、あそこはもう無用と。そいつを譲って貰えるのさ」 「へぇ」 「...なぁ、さとり」 すいと、さとりは手元の湯呑みに満ちた冷めた煎茶を舐める。 「行きませんよ、私達は」 「そうかい。お前らも、やっていき辛いんじゃんねぇかと思ってたよ」 「何処へ行っても同じ事よ。貴女達とは違ってね」 「そうかい」 ぱんと膝を叩くと勇儀はすいと立ち上がる。 「気が向いたら何時でも言いな。他にも蜘蛛やらにも話はしてる。あいつらは存外乗り気みたいだから、以外に早いとこ引越しするかもな」 「そう」 「後からでも構わんよ。お前さんの好きな時でな」 「そうね、有難う」 じゃあなと背中を向けた侭で手を振ると、鬼は鼻歌交じりに小屋を出て行った。 がらんとした狭い小屋。さとりは茶を注ぎ直す。すいと湯気が上がり、苦いばかり香りが鼻を擽った。溜息を一つ。別段何をするでもなく、何を考えるでもなく。只、時折こめかみへと親指を押し付けるばかりで。 「お姉ちゃん」 からと扉が引かれる音がする。 「あら、お帰りなさい、こいし」 とてとてと古い畳の上を行き過ぎる幼い足音に振り返ると、古明地こいしが笑っていた。顔は笑っている。無邪気に。けれど、其の服には泥がつき、剥き出しの手足には擦り傷が無数についていた。 「貴女、また里へ行ったの?」 慌てて、駆け寄ると服についた泥を手で払いながら、そっと抱き寄せる。 「行っては駄目と言ったでしょう?」 「ごめんね、お姉ちゃん。でも、如何しても、友達が欲しかったから」 もうと云うと、そそくさとこいしの服を脱がせ、鬼の座っていた座布団の上に座らせた。部屋の隅に置かれた小さな戸棚から、一巻きの布と小瓶を取り出して。瓶の中に詰まっているのは、山に咲く薬草を磨り潰したもの。其れを丁寧にこいしの傷へと塗りこむと、布で周りを軽く縛る。 「ん...ちょっと痛い」 「我慢なさい」 互いの心を読み合えば、会話などはせずとも通じるけれど。けれど、如何してか、口に出して会話がしたかった。其れがさとりの望みだった。皆人は心に嘘を吐く。優しかろうが、苦かろうが、嘘を吐く。だから、せめて自分達は嘘の無い言葉を交わしたかった。 「はい、出来た」 「うん、ありがとう、お姉ちゃん」 そう言って笑う顔は、何処までも無垢で。さとりは思わず妹の身体を抱き締めていた。 「余り心配かけないで頂戴」 「分かったよ。ね、今日のお夕飯何?」 「今日は鮎よ。川で釣れたから」 「ほんと? 久しぶりのお魚だね」 「そうね。最近は、釣りも上手くなったのよ、これでも」 「昔は全然だったもんね」 くすくすとお互いに笑い合って。そう、此れだけで良いと思っていた。例え誰に疎まれようと、誰に憎まれようとも、妹が笑ってさえくれるなら、其れだけで。 未だ古明地こいしの第三の眸が閉じる前、昔の地獄に行く前の、彼女達はそんな風に過していた。 夕餉の後で、直ぐに寝入ってしまった妹の頬を撫でながら、隣で寝そべる姉は只穏やかに笑っていた。寝ている彼女の心には、見たくも無い状景ばかりが聞こえてくる。只、人の心が読めるだけ。只其れだけなのに。口汚い罵声、嘲笑、恐怖から来る癇癪、手にした石を投げつけて、何もしてこないのを良い事に、好き勝手に。ふぅと溜息が自然と零れていた。こんなにも、こんなにも辛い思いをするのに。其れでも、こいしは里に行くのを止めなかった。 「おね...ちゃん」 寝言で名を呼ばれる。 二人きりだった。ずっと、ずっと。物心ついた時から。 「私には、貴女が分からないわ」 疎まれ憎まれ、忌まれて追われ。そんな物ばかりを、ずっと聞いてきた。心を読む力を悪用しようと近づけど、其の意図さえも見て取れると分かった時には既に石を投げる。そんな物しか知らなかったから、そう言う物だと思っていた。けれど。 心は読めるのに、理解する事が出来ない。 本当は、そうである方が普通なのかもしれない。 心が知れぬから言葉を口にして、言葉を聴いて、理解して。誤解して。そんな当たり前の事をする中で、人は人を信用していくのかもしれない。例え一割も通じないとしても。例え五分も理解されずとも。 さやと撫でながら、さとりはそんな風に思いながら、眠りについた。 他人の記憶は理不尽だ。何時だって好き勝手な事ばかりを喚き散らす。 目の前には紡錘状に広がった部屋が広がる。 自分の身体はどうにも一脚の椅子に縛り付けられているのらしい。指先の一つ動かせば、纏わりついた茨がちくと指の腹を刺す。痛みは無く、只肌に穴が穿たれたと言う錯覚だけが残るだけ。血がぬると肌の上を伝っていく。 雫が落ちる。生ぬるく、粘ついた感覚だけが取り残される。 痛みは、無い。 何時だって、他人の記憶の中には痛覚と言う感覚だけが欠如している。身体が破壊される事を知る為だけに存在する、其れだけが。故に、此れは破壊ではない。では、何なのか。其の回答は未だ知らない。左の指先には五百三十二個の穴が開いている。茨に穿たれた傷。右の指先には三百四十二個の穴が開いている。八百七十四個の穴が両の手には開いている。茨が突き刺した回数と同じに。其れは千を越える事は無い。何故ならば、茨の棘は九百八十八個しか存在していない。そうとだけは知っている。 目の前には、窓が一つ。小麦色の空には雲一つ浮いてはいない。風の不在は分からない。音が聞こえない。否、一つの音だけが不規則に耳の奥へと響くばかり。其れ以外には何も聞こえない。其ればかりしか聞かれないのならば、何も聞こえないのに同じ。其ればかりしか手に出来ないのならば、何も持っていないのと同じで。 耳鳴り。否、羽音。 如何にも羽虫が一匹だけ耳穴の奥に、にしりと詰まっているらしい。 暗がりばかりの頭の影から逃れるが為に、懸命に懸命に其の翅を震わせていた。みぎぃつみぎぃる琥珀の翅が揺れる度、耳介の底を掻き毟り、塞ぎ様の無い音が脳へと直接響いてくる。みぎぃるみぎぃると不規則に、忙しなく、緩急も無く、首が震える程に鳴り響く。身体が発狂する。感覚を亡くした指先が夏の終わりに住む蝉と同じに痙攣し続ける。そうして、傷が右手に二つ、左手に四つ、穴を重ねていく。既に穿たれた穴と穴の間に、芯を半分ばかりをずらした場所に、血で埋まって綺麗な侭か如何なのかも分からない肌の上に、指先に刻み続けている。大丈夫、千にはどうせ届かない。 目の前には部屋がある。 高い、高い塔の一番上なのだと云う事は知っている。 他人の記憶は何時だって唐突だ。誰何も所以も教えてはくれない。残骸になった事実だけを突きつける。形骸になった結果ばかりで物語を始める。 目の前には部屋があり、女が独りで地面に座り込んでいた。 瑪瑙色の煉瓦が積み重なって造り上げられた世界、窓の傍で、ぼんやりと窓の外を眺めていた。顔は見えない。のっぺりとした青白い肌だけしか面長の顔にはない。 いいや、穴がある。穴だけがある。 赤子の握り拳程の大きさの穴。向こう側は空と同じ小麦色。其の周りを髪が檻の様にばらばらと纏わりついていた。 長い髪。女の髪は長かった。 余りにも長過ぎて、部屋の四分の三を埋め尽くす程に。 服を着ているのかいないのか、顔以外があるのかないのか。髪の毛が余りにも長過ぎて、部屋が余りに暗過ぎて、如何にも見る事が出来ないが、多分あるのだろう。きっと無いのかもしれない。どちらなのか、どちらでもないのか。其の事象だけは教えてくれない。 羽音がする。 みぎぃるみぎぃると音が鳴る。 其の度に、首が震える。指先が震える。 茨が突き刺さり、穴が六つ増えていく。 ぽつりぽつりと滴る血は、煉瓦に飲まれて彼女の髪まで届かない。 女は外を眺めていた。眺められるのだろうか。 其の内に、女は下を覗き込む。覗けるのだろうか。 何かを言っている。様な気がする。言葉を紡げるのだろうか。 聞こえない。羽音が其れを許してくれない。みぎぃるみぎぃる。みぎぃるみぎぃる。 女は其の長い髪を手にした鋏で切り落としていた。ぞりそりと繊維の分かたれる音。長かった髪は全て、部屋の地面へとばら撒かれた。そして、其れを三つに編んで、女は窓の脇に先端を括りつけると、其の侭、塔の外へと抜けていく。きぃぎぃと不規則に髪の綱が揺れている。どれ程経った位だろうか。さやと揺れる髪は止まり。 ばさと、窓が黒く染まる。 其処には何時かの大鴉。 ぎゃあと一つ鳴いた。 もう此処には女は居ない事に気づいていた。其れなのに。ぎゃあぎゃあと二つ啼く。 そして、鴉は自らの羽根に括りつけてあった一枚の紙片を目の前に差し出した。其処には何かが刻まれている。青黒いインクで記されている。 『おうじさまは、かなしいおもいをしながら、おしろへとかえりました。 そのとちゅう、きれいなおはなばたけで、おんなのこのこえをききました。 すこしぎもんにおもいながら、それでもうれしくて、そちらへとかけよると、どうやらあかんぼうのこえがきこえるではないですか。でも、おうじさまは、めがみえないので、そのこどものこえを、おそろしいまじょのものとかんちがいしてしまいました。わぁわぁいいながら、おうじさまはおしろへとにげていきました。 そのあかんぼうが、おうじさまと、おんなのこのこどもともしらずに』 そして、鴉はぎゃあと啼いた。 其の声は、二度と無いと聞こえて。 其処で古明地さとりは目を覚ました。 ぜいぜぇと荒い吐息が肺を抜けて、外へと抜け出していた。喉の奥に乾いた茨が絡まっている様な気がする。えづいて、掻き出そうとすれど一層に其の棘を食い込ませていく。 「お姉ちゃん!」 窓の外には黒い夜。鴉の羽根よりも深い黒。 こいしはえづき続けるの背中を撫でながら、心配そうに顔を覗き込む。 「またなの?」 手には湯飲みに水が満ちていて。其れを荒い息が不規則に途絶える時にくいと水を喉へと押し込む。震える肺が少しだけ収まった気がした。すいとこいしは姉の身体を抱き寄せる。背中を撫でながら、心の声をじっと聞く。 「大丈夫だよ、お姉ちゃん。其れはお姉ちゃんの記憶じゃないよ」 「ええ...分かってるわ...分かっているから」 毎夜、毎晩。繰り返す。 例え、何処へ逃げようとも、其ればかりは何も変わらない。 これより他に、何が居るのだろうと。 其れが、彼女らの日常であったのに。 「あのね、お姉ちゃん、友達が出来たの!」 そんなある日、珍しく汚れぬ侭に帰って来たこいしは、そう言って嬉しそうに笑っていた。其れを聞き、思わず手にしていた湯飲みを取り落としそうになり、慌てて両手で支える。そんな姉の姿を見て、くすくすと笑った。 「ほ、本当なの、よね」 「うん。あのね、すっごく綺麗な心してた」 「綺麗な、心?」 「うん!」 そっと妹の額へと自分の額を寄せて、彼女が見た景色を覗いた。里の奥、木々が疎らに生えた林、其処に立てられた小さな小さな小屋に、其れは居た。何処か視線が空ろで、まともな言葉は何も無く、呻き声だけを唇から零しながら。其の男は小屋に居た。 白痴。 見てそうだと思えども、こいしを通して見えた心は真っ白な紙の様で。染みの一つも何も無く。悪意の欠片も何処にも無い。 「そう...仲良くなれたの」 「うん。他の人みたいに嘘も無いし、怖い事も思わないの。あのね、其れでお花を持っていったら凄く喜んでくれたの。言葉はあんまり喋れないけど、でも、私達にはあんまり関係ないものね」 「そうね」 少しばかり、さとりは苦く笑ってしまった。悪意は無いのだろう。何故なら、悪意など持てもしないのだから。 「何、お姉ちゃん。私の友達、悪く思ってるの?」 「そうじゃないのよ、こいし」 「嘘、聞こえたもの」 「そうじゃないの。只、皮肉なものと思っただけ」 「ふぅん?」 良く分からないと少し拗ねた様に頬を膨らませると、こいしはまたふらりと玄関を出て行った。恐らくは、其の友達の所へ。 「今度は木通を持って行ってあげるの。すっごく美味しい木知ってるから」 「夕飯までには帰るのよ」 「分かったー」 本当に、皮肉な物だと。そう思った。 頭の足らぬ者の方が、よっぽど無垢だ何てと。 けれど、こいしは其の日は夕飯までには帰らなかった。 次の日も、また次の日も。 さとりは、懸命に小屋を探した。何時かに読んだ彼女の心。其処に見えた状景を必死に探していた。里の人間には見つからぬ様に、建屋と建屋、其の合間を縫う様に走り続けて。そして、其の小屋を漸く見つけた時には、こいしが出て行ってから、五日が経っていた。からと、小屋の扉を開けると、其処からは饐えた様な酸味の強い香りがすいと鼻をつく。喉奥から吐き気を催す様な。空気が歪んでいる。湿気と垢の匂いで。 奥からは何かが、物音がする。 獣が唸る様な声、絹を裂く様な声。 扉の無い六畳だけの部屋。明り取り用の格子窓だけしかない部屋。其の真ん中で。 「あっうっあああ...あ...」 もう、呻いているばかりの声。言葉にさえならない荒い息。其処には全裸の男が、こいしを組しいて、一心不乱に犯しているばかり。どれ程風呂に入っていないのか、垢と汗が入り混じった匂いが喉をつき、古い畳に精液の生臭い匂いと共に染み付いて。抱かかえ、既に何をするでもなく、只貫かれるだけの肉に変わった自分の妹。服は乱雑に引き裂かれて、薄い胸には無数の葉型が刻まれていた。 聞こえる。声が聞こえる。 純粋な性欲と云う物は、生存本能のみによって綴られる。其処には明確な言葉など無く、あるのは只、子を孕ませると云う衝動によってしか他律されていない。故に、其の声は、只の罵声に等しい。意味を成さない無数の声。快楽を貪るでも、恋慕を希うでも、征服による悦楽に浸るでもなく、只異性の形をした物へと自らの子種を埋めて、其れが枯れる迄続ける。機械的な、作業でしかない。性衝動等と云う物は最終的に痒みを掻き毟るのと同じで、只の不快の排除と開放感を貪欲に求めるだけの事で。其れは、どの悪意よりも純粋過ぎるが故に、さとりの心を握り潰すには足り過ぎた。 只、其の場にへたり込み、妹が蹂躙されるのを見るばかりで。 聞こえない。 こいしの声が聞こえない。 もう、何も。 裸同然になった其の胸、其処にある第三の眸は閉じていた。 何も聞かない。何も聞きたくない。だから、何も語らない。 五日だ。五日の間、人は何も食べなくても生きていかれる筈が無い。傍らには食い散らかされた握り飯。竹の皮が雑に転がって。そう。誰かは来ているのだ。何度も。何度も。でも、其の侭だった。誰も、彼女を、こいしを。 只、友人が欲しかっただけの、幼い。 気がつくと、男は疲れたのか高鼾を掻きながら、仰向けになって眠っていた。 すくと立ち上がり、さとりはこいしの身体を抱き上げて、ゆっくりと小屋を出た。 「あら、珍しい。実を結ぶなんて」 さとり達が住まう小屋の近くで、其の花は咲いていた。 「此の花が実を結ぶなんて、そんな事あるとは思わなかったのに」 彼女は猫の横に立ち、そっと花へと手を伸ばす。色彩を欠いた木通の実、ある種の甲虫が孕む卵、夜の淵で頭を垂れた錆びた向日葵。そんな房が朽ち落ち続ける花弁の合間で首を傾げていた。手に取り、一つばかりの実をもいで。 「此の花は、野には咲けない」 歌う様に。笑う様に。 「此の花は、山では実らない」 哂う様に、詠う様に。 「此の花は、浜には咲けない」 其の花は。 「人の恋心に咲くのよ」 もいだ実を縦に裂くと、其処には無数の黒い種がみつしりと詰まっていた。 「聞こえるわ、此の人の恋心」 そうねと、さとりは薄く笑い、猫に話しかける。 「ねぇ、貴女、此の人の弔いをしてあげましょう」 日が僅かに傾いだ時分。もうじき夕餉の仕度が始まる頃で。少年は地面を這う蟻を見つめながら、そろそろ帰る頃だと思っていた。手にした細い木の棒で蟻の行列を掻き乱す。其の度に、わぁわぁと慌てながら、また戻っていくのをまた乱し。 「ねぇ、貴方。楽しいかしら?」 不意に後ろから声がする。 振り返ると其処には、無数の目。人食い虎、首吊り狢、黒い樋熊に大鴉。里中からは疎まれて、追われて続けた獣と獣。そして、足元には黒い猫がにゃあと笑っている様に鳴いていた。其の真ん中には、覚の妖が薄く笑う。第三の眸が、じいと全てを見透かしながら、子供を見下ろしていた。 「蟻さん苛めて楽しいかしら?」 少年は、知っていた。前までは里に来ていたのとは違う、もう一匹の覚。滅多に来ない事だけは。そして、其れ以上に。じぃと見つめている。子供の瞳を捉えて。 「あら、貴方。こいしに石を投げた事があったのね。そう、本当はしたくなくて。其れを悔やんでいるのね。ありがとう、優しいのね、貴方。もうちょっと、早く、優しくしてくれれば良かったのだけど」 声が出てこない。 「貴方、とても優しい心をしているのね。なら、もっと人の心が分かる様に、貴方に贈り物をしてあげる」 足が震えて、立ち上がれない。動けないでいた。 そっと、少年の顎を覚の指が捕まえて、僅かに上に向けると、もう一つの空いた手を唇へと近づけた。其処には種が一つ。長細い、黒い種子。其れを唇の隙間に捻じ込むと、にぃと覚は笑っていた。まるで、へばりついた様な笑顔で。 「そうね、貴方にも教えてあげる。此の里に居る全ての人の」 にたぁと。 「罪悪感を」 刹那、瞳が痙攣しているのが分かった。身体が震える。分からない。ごめんなさいお母さん昨日の夕飯残してごめんなさいごめんなさい遂足を引っ掛けてしまってごめんなさいごめんなさい約束守れなくてごめんなさいごめんなさい本当は病気だからだったのに気づけないで酷い事言ってごめんなさいごめんなさいうっかり踏み潰してしまってごめんなさいごめんなさい見て見ぬ振りしてごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい本当は愛してあげたかったんだけど貴女の事をでも そして、少年の首が粉々に砕けた。 血の一滴も溢れずに、代わりに、真っ黒い花が咲いていた。 すくと立ち上がる。里の人間がざわと騒ぎを聞きつけて、皆家の外から出てきては、悲鳴と罵声を口々に。けれど。 猫がすくと後ろ足だけで立つと、前足でたんと拍手を打つ。 かんかんのう、かんかんのう。 覚はゆると両腕を水平に上げると、大きく笑った。 其の両手には無数の種。黒い種が握られていた。其れを里の空へと高く投げ放つ。一粒一粒が、里の人間の唇に、瞳の中に、耳の底に、手の中に、髪の中に入り込む。まるで狙いをつけた様に。いいや、恋しがって、寄り添う様に。 かんかんのう、はい、かんかんのう。 覚も合わせて拍手を打った。 虎も鳴き、狢が踊り、鴉が喚く。 かんかんのう、かんかんのう。 ぞろぞろと、覚は忌み嫌われた獣を引き連れて、里の道を練り歩く。獣の行列が行き過ぎた後、里の者は皆、老いも若きも、男も女も。皆、皆、悶え苦しみ、挙句には皆、皆、花に代わって其れっきり。 かんかんのう、はい、かんかんのう。 覚が笑う。へばりついた様な笑顔で。 「さぁ、踊れ。此れが駱駝の葬礼だ。さぁ、踊れ。さもなくば、花に変われ」 かんかんのう、かんかんのう。 其の葬礼の行き着く先は、里の奥の小さな小屋。 がらと開けると、其処にはぐぅぐぅと寝息を立てた男が一人。気配に気づいたのか、むくりと目蓋を擦りながら、起き上がると。おあああおああと喚きながら、部屋の隅へと逃げ惑う。 「ねぇ、貴方。貴方に一つ贈り物をしてあげます。何も感情が持てない様だから、一つばかりの感情を。里の人間から集めに集めた、罪悪感を」 怯える男の顎を掴み、其の唇へと種を六粒捻じ込んで。 其の種が、こくりと嚥下されると同時に。 「あああああああああああああああああああああああああああああああああ!」 男は目を剥いて頭を抱え、のた打ち回る。人は、未知だある事を恐れる。其れは、本質的に脳は怠惰なのだから。故に新しい事を受け入れるのを拒む。何故ならば、既存の事象が全て打ち崩れる可能性を孕むから。そして、理解出来ない時に、恐怖を感じる。其れは痛みと同じである。身体が物理的に破壊を感じる時に、痛みによって感覚を得る。其れと同じで、精神的に破壊を感じる時に、恐怖を覚える。 「あああああああああああああああああああああああああああああああああ!」 ごろごろと。まるで芋虫の様に。 そして、体中がばらばらに砕けて、後には大輪の黒い墨染めの花が、咲いた。 「貴方は、何をしているのか分かっているのですか?」 小屋を出た時に、其処に居たのは四季映姫だった。 「おや、此れは閻魔様。わざわざ何の御用でしょう?」 「あの花が、何の花だと思っているのか分かっているのかと聞いているんです!」 「無論ですとも」 優雅に、笑う。 「人の恋に咲き、実らぬ恋を葬る花。そして、花に変わった魂は」 にゃあと、黒猫が笑った。 「全て怨霊に変わる。足がもげても大丈夫、手が折れても大丈夫。転生の夢も忘れ、輪廻の輪から外れ、地獄の底で何にもなれず、永遠に全てを憎みながら生きるしかない」 「貴方...地獄に落ちる気ですか! こんな、大罪を犯してまで!」 「あら、おかしい」 くつらと。 「閻魔様、今より他に、地獄なんてありまして?」 「貴方は、少し、幼稚過ぎる!」 「構いませんわ、元より嫌われ者が幸福に死ねるだなんて思ってませんもの」 「わざわざ更に疎まれて!」 「最初に嫌ったのは、そちらですよ。嫌われ者が、嫌われる事をして、何が悪い?」 笑顔が、消えた。其処にあるのは無数の瞳。最初に弓引かれたばかりに追われたモノ。 「ねぇ、閻魔様。昔の地獄、私に下さいな。鬼と一緒に、閉じ込めてしまいましょうよ。私達を。」 ——だって其れが,私の恋の殺し方ですものと。 【はなのしまい】 「お姉ちゃん」 地霊殿。其の主の寝室は、調度品が黒で全てが統一されている。 「恋心は見えたかしら、こいし」 「うん、見えたよ。あれは」 すいと寝そべったきりの姉の所へ、這い寄った。互いに、下着姿の侭で。 「昔に捨てたのだった」 「そうね」 「ねぇ、お姉ちゃん」 「何?」 「大好きだよ、お姉ちゃん」 「私もよ」 すいと、こいしはさとりの唇を吸った。其の舌の上には、細長い黒い種。 「ずっと、一緒だよ」 どちらが飲み込んだのか。其れは既に瑣末な事だ。 姉妹の首が、がりと砕け、大きな一輪の花に変わっていた。 きぃと、扉が開く。 花を一瞥すると、火焔猫燐は薄く笑った。 「莫迦だよ、あんた。本当に、大莫」 最後は、涙で濡れて、言葉にはならなかった。