《樱之诗》重要选段:直哉论当代艺术

俺は、再び、落書きされた壁画を見つめる。
我再一次凝视被涂鸦的壁画。
ぶちまけられた、絵の具は、何か禍々しいものが桜から立ちこめている様に見える。
被倾倒其上的颜料,看起来就像是某种不祥之物从樱花中弥漫而出。
(译者注:根据前文“絵の具を引き延ばすのはゲルハルト・リヒターの手法……”,这里所描述的大概是如下的效果(图为格哈德·里希特的《花瓶》):

そして、サイボーグの様に改造された桜幹。
以及,被改造成了赛博格(Cyborg)模样的樱花树干。
それによって、禍々しいものをまき散らしている桜の幹は、幹などでは無く、人工的なものに変えられてしまう。
藉由这一改造,散播着不祥之物的樱花树干被变成了人工物,根本不是什么树干。
元来、子供達の足跡で表現された桜の花びらは、今では禍々しい物質をまき散らしている。
原本用孩子们的足迹表现出的樱花瓣,如今正散播着不祥的物质。
サイボーグにされた桜。そして毒をはき出す桜の木。
被赛博格化了的樱花。以及喷吐毒素的樱花树。
奥に、うっすらだが、震災以後おなじみの建屋が描かれている。
深处,隐隐约约地,画着震灾之后的熟悉的建筑。
【直哉】「芸術は挑発か……」
「艺术就是挑衅吗……」
子供達の足跡が櫻の花弁になって散っていく作品は、その櫻から有害なものをまき散らされているものに変えられている。
孩子们的足迹化作櫻花瓣飘散开去的作品,被变成了被那櫻花【在它身上】散播着有害物的作品。
凡庸な挑発。
凡庸的挑衅。
幼児性としか言いようが無い、表現方法。
只能用“幼儿性”来形容的,表现方法。
だがこの幼児性的、攻撃的表現方法こそが、あるジャンルにおいては「正しい」事となる。
然而,在某些流派中,正是这种幼儿性的、攻击性的表现方法才是“正确”的。
【直哉】「現代アート……」
「当代艺术……」
芸術史とは、芸術家だけのものでは無い。
そこには芸術家を中心として、あらゆる人間が蠢いている。
所谓的艺术史,不只属于艺术家。
那里,以艺术家为中心,有各色人等在蠢动。
バイヤー、キュレーター、批評家。
买家,策展人,批评家。
もし仮に、現代において、芸術なんてものが死んだものだとしても、それを公然と死んだものとして扱う事は出来ない。
就算在当代,艺术这种东西是死掉了的东西,也无法把它公然当做死掉了的东西来对待。
美術業界の権威。
美术业界的权威。
現代の芸術とは、すでにそれが死に絶えたとしても、その表現の屍の上に群がらなければ成り立たない業界である。
所谓当代的艺术,就是一个就算那种东西早已死尽灭绝、也不得不聚集在那些表现的尸体之上才能维持下去的业界。
否、それは芸術に限らないだろう。文学だってそうであろうし、作曲だってそうだ。
不,这点应该不仅限于艺术吧。文学应该也是如此吧,还有作曲也是这样。
西洋絵画史というのは、特に印象派以後、<r サロン>権威</r>に対して挑発的な作品が数多い。
西方绘画史上,特别是印象派之后,有大量对<r 沙龙>权威</r>大加挑衅的作品。
実際、本国フランスでは、なかなか印象派は権威から認められずに、その多くの絵画がアメリカに渡ってしまっている。
实际上,在祖国法国,印象派非常不受权威认可,他们的很多绘画都漂洋过海去了美国。
アメリカ、メトロポリタン美術館やシカゴ美術館などが、本国フランスにまったく引けをとらないほどの印象派絵画を所有しているのはそういう理由である。
美国的大都会美术馆、芝加哥美术馆等地,之所以拥有完全不输祖国法国的印象派绘画,原因就在于此。
芸術は印象派以後、権威に対して挑発的であり、かつセンセーショナルであり続けた。
艺术在印象派之后,一直是挑衅权威的,一直是轰动性的。
だが、その前衛的な表現法はどんどん先細って行く。
但是,那些前卫的表现手法却越来越衰微。
天才達が表現しつくした大地に、残された果実は無い。
天才们所表现殆尽的大地上,没有留下果实。
誰しも、知っている事だ。
这是谁都知道的事情。
革命的な新しい芸術など、無いのである。
革命性的新艺术什么的,根本是没有的。
これが古典音楽であるクラシックの世界であるならば分かりやすい。
用古典音乐的世界来举例的话就容易理解了。
20世紀の作曲家シェーンベルクは「何故、不協和音ばかりの聞きづらい音楽を作るのか?」と友人に尋ねられた時にこう言ったと伝わっている。
相传,20世纪作曲家勋伯格在被朋友询问“为什么要创作净是不和谐音的难听音乐”之时曾这样说道。
「自分だってできるなら調性で音楽が書きたい。しかし三和音を書くことを、歴史が私に禁じているのだ」
“如果可以的话我也想写调性音乐,但是历史禁止我写三和弦。”
西洋音楽史の限界地点で、この天才は十二音技法という、音楽理論そのものを変更する方法で<r あらが>抗</r>おうとした。
在西方音乐史的临界点,这位天才试图用“十二音技法”,这一改写音乐理论其本身的方法来进行抗争。
彼はこの理論を確立した時にこう言った。
「これによってドイツ音楽の<r ヘゲモニー>覇権</r>はあと100年保証された」。
他在确立这个理论之时曾这样说道:
“它将保证德国音乐的霸权再持续一百年。”
もちろんこの技法がその後の歴史において、普遍的作曲技法になる事は無かった。
当然,这个技法在之后的历史中,并没有成为普遍的作曲技法。
当然、ドイツ音楽の覇権などまったく保証されず、それどころか、その後、黒人音楽を源流とするジャズ、アングロサクソン人が中心となるロックが世界を席巻する。
当然,德国音乐的霸权完全没有得到保证,不仅如此,在那之后,源自黑人音乐的爵士乐和以盎格鲁-撒克逊人为中心的摇滚乐席卷了世界。
我々表現者にとって「新奇なるもの」とは無縁。ほとんどが手垢にまみれた表現の屍にすぎない。
对我们表现者来说,它们跟“新奇的东西”并不沾边。大部分都只不过是沾满手垢的表现的尸体罢了。
だが、その様な状況で業界は生きてはいけない。
然而,在这样的状况下,业界是无法生存的。
どうでも良い低俗な業界であるなら問題ない、殊、美術という高尚な文化的業界である。
如果是怎样都行的低俗业界的话倒没问题,可那是名为“美术”的高雅的文化业界。
それが空虚であったとしても、文化的な使命を全うして生き残らなければならない。
就算它空虚无物,也必须存活下来完成它的文化使命。
ムーア展も、大筋ではこの様な思想を元に、多くの資産家によって運営されている。
摩尔展也是大体基于这样的思想,由许多资本家所运营的。
先鋭的、前衛的、そして挑発的。
激进的,前卫的,以及挑衅性的。
新しく見えるもの、新しいスタイルをしたもの、そういったものを美術界は追い求める。
看起来新的东西,有新风格的东西,美术界汲汲追求这样的东西。
その中で、美術はいつしか逆立した世界に立っていた。
在这个过程之中,美术不知不觉已立在了一个头足倒立的世界之上。
誰もやらない様な事をやれば、とりあえず“芸術”である。
只要做一件没人做的事情,就姑且是“艺术”。
新しいのでは無く、誰もやらなかった様な、挑発的な作品。
不是新东西,而是没人做过的、挑衅性的作品。
このスパイラルの中で、幼児性、幼稚性、はプラス材料に働く。
在这个螺旋之中,幼儿性、幼稚性发挥着积极的作用。
良く言えば、“子供”は破壊の象徴であり、新しい想像の象徴でもある。
说得好听一点,“孩子”是破坏的象征,也是新的想象的象征。
だが、大半の“子供”は、教育をされていない大人にすぎない。
単に不謹慎かつ非常識なだけな行動が芸術となる。
然而,大部分的“孩子”,只不过是没受过教育的大人罢了。
那些单纯只是不谨慎、非常识而已的行为,成为了艺术。
(译者注:对照03_andoe_02中的如下段落:
【直哉】「なんだ? その落書きがピカソやカンデンスキーみたいに前衛的で刺激的だったのか?」
【健一郎】「いいや、ガキの絵っていうのは結構前衛的なもんだよ。
だが、それは、だいたいつまらない結果で終わる」
【健一郎】「ガキの時に大人がはっとする様な前衛的な絵を描く人間は、大人になると結構つまらない絵を描くもんだ。つーかそのぐらいの事、お前だって知っているだろう?」)
芸術の最先端。現代アートというのは得てして、その様なものが肯定される。
艺术的最前沿。所谓的当代艺术,往往会肯定那样的东西。
ただセンセーショナル。思いつき、時事ネタ。
それらを売り込むバイヤー、そして、投機目的で、なんら信念も持たない市場。
徒有轰动性而已。拍脑袋,蹭热点。
兜售那些作品的买家,以及,以投机为目的、一点信念也没有的市场。
「これが御桜稟が主導でやられていたら、もっと価値があったのにねぇ」と言った、この教師は正しい。
“要是它由御樱禀主导完成的话,价值会高得多的”,这位教师说得很对。
(译者注:这是直哉的转述,原话为:
「草薙先生ではなく、御桜稟が主導で、この作品が完成していれば、今とまったく違った結果になっただろうに……」
「要是这部作品不是由草薙老师、而是由御樱禀主导完成的话,结果会跟现在完全不同的……」)
現代芸術とはその様なものでしかあり得ない。
所谓的当代艺术只可能是这样的东西。
故・草薙健一郎の設計を、世界的芸術家御桜稟が作り上げる。
已故的草薙健一郎的设计,由世界级艺术家御樱禀所完成。
その事実だけで、この作品の価値は何倍にも跳ね上がる。
仅仅因为这个事实,这部作品的价值就会暴涨好多倍。
その作品が同じであったとしても、その作品が生まれた背景が変われば、価格はまったく違ったものになる。
即使作品是同一部,只要它诞生的背景一变,价格就会完全不同。
芸術とはそういうものであるのだ。
所谓的艺术就是这样的东西。