日语《我是猫》第三章(1)

三 三毛子は死ぬ。黒は相手にならず、いささか寂寞せきばくの感はあるが、幸い人間に知己ちきが出来たのでさほど退屈とも思わぬ。せんだっては主人の許もとへ吾輩の写真を送ってくれと手紙で依頼した男がある。この間は岡山の名産吉備団子きびだんごをわざわざ吾輩の名宛で届けてくれた人がある。だんだん人間から同情を寄せらるるに従って、己おのれが猫である事はようやく忘却してくる。猫よりはいつの間まにか人間の方へ接近して来たような心持になって、同族を糾合きゅうごうして二本足の先生と雌雄しゆうを決しようなどと云いう量見は昨今のところ毛頭もうとうない。それのみか折々は吾輩もまた人間世界の一人だと思う折さえあるくらいに進化したのはたのもしい。あえて同族を軽蔑けいべつする次第ではない。ただ性情の近きところに向って一身の安きを置くは勢いきおいのしからしむるところで、これを変心とか、軽薄とか、裏切りとか評せられてはちと迷惑する。かような言語を弄ろうして人を罵詈ばりするものに限って融通の利きかぬ貧乏性の男が多いようだ。こう猫の習癖を脱化して見ると三毛子や黒の事ばかり荷厄介にしている訳には行かん。やはり人間同等の気位きぐらいで彼等の思想、言行を評隲ひょうしつしたくなる。これも無理はあるまい。ただそのくらいな見識を有している吾輩をやはり一般猫児びょうじの毛の生はえたものくらいに思って、主人が吾輩に一言いちごんの挨拶もなく、吉備団子きびだんごをわが物顔に喰い尽したのは残念の次第である。写真もまだ撮とって送らぬ容子ようすだ。これも不平と云えば不平だが、主人は主人、吾輩は吾輩で、相互の見解が自然異ことなるのは致し方もあるまい。吾輩はどこまでも人間になりすましているのだから、交際をせぬ猫の動作は、どうしてもちょいと筆に上のぼりにくい。迷亭、寒月諸先生の評判だけで御免蒙こうむる事に致そう。 今日は上天気の日曜なので、主人はのそのそ書斎から出て来て、吾輩の傍そばへ筆硯ふですずりと原稿用紙を並べて腹這はらばいになって、しきりに何か唸うなっている。大方草稿を書き卸おろす序開じょびらきとして妙な声を発するのだろうと注目していると、ややしばらくして筆太ふでぶとに「香一炷こういっしゅ」とかいた。はてな詩になるか、俳句になるか、香一炷とは、主人にしては少し洒落しゃれ過ぎているがと思う間もなく、彼は香一炷を書き放しにして、新たに行ぎょうを改めて「さっきから天然居士てんねんこじの事をかこうと考えている」と筆を走らせた。筆はそれだけではたと留ったぎり動かない。主人は筆を持って首を捻ひねったが別段名案もないものと見えて筆の穂を甞なめだした。唇が真黒になったと見ていると、今度はその下へちょいと丸をかいた。丸の中へ点を二つうって眼をつける。真中へ小鼻の開いた鼻をかいて、真一文字に口を横へ引張った、これでは文章でも俳句でもない。主人も自分で愛想あいそが尽きたと見えて、そこそこに顔を塗り消してしまった。主人はまた行ぎょうを改める。彼の考によると行さえ改めれば詩か賛か語か録か何なんかになるだろうとただ宛あてもなく考えているらしい。やがて「天然居士は空間を研究し、論語を読み、焼芋やきいもを食い、鼻汁はなを垂らす人である」と言文一致体で一気呵成いっきかせいに書き流した、何となくごたごたした文章である。それから主人はこれを遠慮なく朗読して、いつになく「ハハハハ面白い」と笑ったが「鼻汁はなを垂らすのは、ちと酷こくだから消そう」とその句だけへ棒を引く。一本ですむところを二本引き三本引き、奇麗な併行線へいこうせんを描かく、線がほかの行ぎょうまで食はみ出しても構わず引いている。線が八本並んでもあとの句が出来ないと見えて、今度は筆を捨てて髭ひげを捻ひねって見る。文章を髭から捻り出して御覧に入れますと云う見幕けんまくで猛烈に捻ってはねじ上げ、ねじ下ろしているところへ、茶の間から妻君さいくんが出て来てぴたりと主人の鼻の先へ坐すわる。「あなたちょっと」と呼ぶ。「なんだ」と主人は水中で銅鑼どらを叩たたくような声を出す。返事が気に入らないと見えて妻君はまた「あなたちょっと」と出直す。「なんだよ」と今度は鼻の穴へ親指と人さし指を入れて鼻毛をぐっと抜く。「今月はちっと足りませんが……」「足りんはずはない、医者へも薬礼はすましたし、本屋へも先月払ったじゃないか。今月は余らなければならん」とすまして抜き取った鼻毛を天下の奇観のごとく眺ながめている。「それでもあなたが御飯を召し上らんで麺麭パンを御食おたべになったり、ジャムを御舐おなめになるものですから」「元来ジャムは幾缶いくかん舐めたのかい」「今月は八つ入いりましたよ」「八つ? そんなに舐めた覚えはない」「あなたばかりじゃありません、子供も舐めます」「いくら舐めたって五六円くらいなものだ」と主人は平気な顔で鼻毛を一本一本丁寧に原稿紙の上へ植付ける。肉が付いているのでぴんと針を立てたごとくに立つ。主人は思わぬ発見をして感じ入った体ていで、ふっと吹いて見る。粘着力ねんちゃくりょくが強いので決して飛ばない。「いやに頑固がんこだな」と主人は一生懸命に吹く。「ジャムばかりじゃないんです、ほかに買わなけりゃ、ならない物もあります」と妻君は大おおいに不平な気色けしきを両頬に漲みなぎらす。「あるかも知れないさ」と主人はまた指を突っ込んでぐいと鼻毛を抜く。赤いのや、黒いのや、種々の色が交まじる中に一本真白なのがある。大に驚いた様子で穴の開あくほど眺めていた主人は指の股へ挟んだまま、その鼻毛を妻君の顔の前へ出す。「あら、いやだ」と妻君は顔をしかめて、主人の手を突き戻す。「ちょっと見ろ、鼻毛の白髪しらがだ」と主人は大に感動した様子である。さすがの妻君も笑いながら茶の間へ這入はいる。経済問題は断念したらしい。主人はまた天然居士てんねんこじに取り懸かかる。 鼻毛で妻君を追払った主人は、まずこれで安心と云わぬばかりに鼻毛を抜いては原稿をかこうと焦あせる体ていであるがなかなか筆は動かない。「焼芋を食うも蛇足だそくだ、割愛かつあいしよう」とついにこの句も抹殺まっさつする。「香一炷もあまり唐突とうとつだから已やめろ」と惜気もなく筆誅ひっちゅうする。余す所は「天然居士は空間を研究し論語を読む人である」と云う一句になってしまった。主人はこれでは何だか簡単過ぎるようだなと考えていたが、ええ面倒臭い、文章は御廃おはいしにして、銘だけにしろと、筆を十文字に揮ふるって原稿紙の上へ下手な文人画の蘭を勢よくかく。せっかくの苦心も一字残らず落第となった。それから裏を返して「空間に生れ、空間を究きわめ、空間に死す。空たり間たり天然居士てんねんこじ噫ああ」と意味不明な語を連つらねているところへ例のごとく迷亭が這入はいって来る。迷亭は人の家うちも自分の家も同じものと心得ているのか案内も乞わず、ずかずか上ってくる、のみならず時には勝手口から飄然ひょうぜんと舞い込む事もある、心配、遠慮、気兼きがね、苦労、を生れる時どこかへ振り落した男である。 「また巨人引力かね」と立ったまま主人に聞く。「そう、いつでも巨人引力ばかり書いてはおらんさ。天然居士の墓銘を撰せんしているところなんだ」と大袈裟おおげさな事を云う。「天然居士と云うなあやはり偶然童子のような戒名かね」と迷亭は不相変あいかわらず出鱈目でたらめを云う。「偶然童子と云うのもあるのかい」「なに有りゃしないがまずその見当けんとうだろうと思っていらあね」「偶然童子と云うのは僕の知ったものじゃないようだが天然居士と云うのは、君の知ってる男だぜ」「一体だれが天然居士なんて名を付けてすましているんだい」「例の曾呂崎そろさきの事だ。卒業して大学院へ這入って空間論と云う題目で研究していたが、あまり勉強し過ぎて腹膜炎で死んでしまった。曾呂崎はあれでも僕の親友なんだからな」「親友でもいいさ、決して悪いと云やしない。しかしその曾呂崎を天然居士に変化させたのは一体誰の所作しょさだい」「僕さ、僕がつけてやったんだ。元来坊主のつける戒名ほど俗なものは無いからな」と天然居士はよほど雅がな名のように自慢する。迷亭は笑いながら「まあその墓碑銘ぼひめいと云う奴を見せ給え」と原稿を取り上げて「何だ……空間に生れ、空間を究きわめ、空間に死す。空たり間たり天然居士噫ああ」と大きな声で読み上あげる。「なるほどこりゃあ善いい、天然居士相当のところだ」主人は嬉しそうに「善いだろう」と云う。「この墓銘ぼめいを沢庵石たくあんいしへ彫ほり付けて本堂の裏手へ力石ちからいしのように抛ほうり出して置くんだね。雅がでいいや、天然居士も浮かばれる訳だ」「僕もそうしようと思っているのさ」と主人は至極しごく真面目に答えたが「僕あちょっと失敬するよ、じき帰るから猫にでもからかっていてくれ給え」と迷亭の返事も待たず風然ふうぜんと出て行く。 計らずも迷亭先生の接待掛りを命ぜられて無愛想ぶあいそな顔もしていられないから、ニャーニャーと愛嬌あいきょうを振り蒔まいて膝ひざの上へ這はい上あがって見た。すると迷亭は「イヨー大分だいぶ肥ふとったな、どれ」と無作法ぶさほうにも吾輩の襟髪えりがみを攫つかんで宙へ釣るす。「あと足をこうぶら下げては、鼠ねずみは取れそうもない、……どうです奥さんこの猫は鼠を捕りますかね」と吾輩ばかりでは不足だと見えて、隣りの室へやの妻君に話しかける。「鼠どころじゃございません。御雑煮おぞうにを食べて踊りをおどるんですもの」と妻君は飛んだところで旧悪を暴あばく。吾輩は宙乗ちゅうのりをしながらも少々極りが悪かった。迷亭はまだ吾輩を卸おろしてくれない。「なるほど踊りでもおどりそうな顔だ。奥さんこの猫は油断のならない相好そうごうですぜ。昔むかしの草双紙くさぞうしにある猫又ねこまたに似ていますよ」と勝手な事を言いながら、しきりに細君さいくんに話しかける。細君は迷惑そうに針仕事の手をやめて座敷へ出てくる。 「どうも御退屈様、もう帰りましょう」と茶を注つぎ易かえて迷亭の前へ出す。「どこへ行ったんですかね」「どこへ参るにも断わって行った事の無い男ですから分りかねますが、大方御医者へでも行ったんでしょう」「甘木さんですか、甘木さんもあんな病人に捕つらまっちゃ災難ですな」「へえ」と細君は挨拶のしようもないと見えて簡単な答えをする。迷亭は一向いっこう頓着しない。「近頃はどうです、少しは胃の加減が能いいんですか」「能いいか悪いか頓とんと分りません、いくら甘木さんにかかったって、あんなにジャムばかり甞なめては胃病の直る訳がないと思います」と細君は先刻せんこくの不平を暗あんに迷亭に洩もらす。「そんなにジャムを甞めるんですかまるで小供のようですね」「ジャムばかりじゃないんで、この頃は胃病の薬だとか云って大根卸だいこおろしを無暗むやみに甞めますので……」「驚ろいたな」と迷亭は感嘆する。「何でも大根卸だいこおろしの中にはジヤスターゼが有るとか云う話しを新聞で読んでからです」「なるほどそれでジャムの損害を償つぐなおうと云う趣向ですな。なかなか考えていらあハハハハ」と迷亭は細君の訴うったえを聞いて大おおいに愉快な気色けしきである。「この間などは赤ん坊にまで甞めさせまして……」「ジャムをですか」「いいえ大根卸だいこおろしを……あなた。坊や御父様がうまいものをやるからおいでてって、――たまに小供を可愛がってくれるかと思うとそんな馬鹿な事ばかりするんです。二三日前にさんちまえには中の娘を抱いて箪笥たんすの上へあげましてね……」「どう云う趣向がありました」と迷亭は何を聞いても趣向ずくめに解釈する。「なに趣向も何も有りゃしません、ただその上から飛び下りて見ろと云うんですわ、三つや四つの女の子ですもの、そんな御転婆おてんばな事が出来るはずがないです」「なるほどこりゃ趣向が無さ過ぎましたね。しかしあれで腹の中は毒のない善人ですよ」「あの上腹の中に毒があっちゃ、辛防しんぼうは出来ませんわ」と細君は大おおいに気焔きえんを揚げる。「まあそんなに不平を云わんでも善いでさあ。こうやって不足なくその日その日が暮らして行かれれば上じょうの分ぶんですよ。苦沙弥君くしゃみくんなどは道楽はせず、服装にも構わず、地味に世帯向しょたいむきに出来上った人でさあ」と迷亭は柄がらにない説教を陽気な調子でやっている。「ところがあなた大違いで……」「何か内々でやりますかね。油断のならない世の中だからね」と飄然ひょうぜんとふわふわした返事をする。「ほかの道楽はないですが、無暗むやみに読みもしない本ばかり買いましてね。それも善い加減に見計みはからって買ってくれると善いんですけれど、勝手に丸善へ行っちゃ何冊でも取って来て、月末になると知らん顔をしているんですもの、去年の暮なんか、月々のが溜たまって大変困りました」「なあに書物なんか取って来るだけ取って来て構わんですよ。払いをとりに来たら今にやる今にやると云っていりゃ帰ってしまいまさあ」「それでも、そういつまでも引張る訳にも参りませんから」と妻君は憮然ぶぜんとしている。「それじゃ、訳を話して書籍費しょじゃくひを削減させるさ」「どうして、そんな言ことを云ったって、なかなか聞くものですか、この間などは貴様は学者の妻さいにも似合わん、毫ごうも書籍しょじゃくの価値を解しておらん、昔むかし羅馬ローマにこう云う話しがある。後学のため聞いておけと云うんです」「そりゃ面白い、どんな話しですか」迷亭は乗気になる。細君に同情を表しているというよりむしろ好奇心に駆かられている。「何んでも昔し羅馬ローマに樽金たるきんとか云う王様があって……」「樽金たるきん? 樽金はちと妙ですぜ」「私は唐人とうじんの名なんかむずかしくて覚えられませんわ。何でも七代目なんだそうです」「なるほど七代目樽金は妙ですな。ふんその七代目樽金がどうかしましたかい」「あら、あなたまで冷かしては立つ瀬がありませんわ。知っていらっしゃるなら教えて下さればいいじゃありませんか、人の悪い」と、細君は迷亭へ食って掛る。「何冷かすなんて、そんな人の悪い事をする僕じゃない。ただ七代目樽金は振ふるってると思ってね……ええお待ちなさいよ羅馬ローマの七代目の王様ですね、こうっとたしかには覚えていないがタークイン・ゼ・プラウドの事でしょう。まあ誰でもいい、その王様がどうしました」「その王様の所へ一人の女が本を九冊持って来て買ってくれないかと云ったんだそうです」「なるほど」「王様がいくらなら売るといって聞いたら大変な高い事を云うんですって、あまり高いもんだから少し負けないかと云うとその女がいきなり九冊の内の三冊を火にくべて焚やいてしまったそうです」「惜しい事をしましたな」「その本の内には予言か何かほかで見られない事が書いてあるんですって」「へえー」「王様は九冊が六冊になったから少しは価ねも減ったろうと思って六冊でいくらだと聞くと、やはり元の通り一文も引かないそうです、それは乱暴だと云うと、その女はまた三冊をとって火にくべたそうです。王様はまだ未練があったと見えて、余った三冊をいくらで売ると聞くと、やはり九冊分のねだんをくれと云うそうです。九冊が六冊になり、六冊が三冊になっても代価は、元の通り一厘も引かない、それを引かせようとすると、残ってる三冊も火にくべるかも知れないので、王様はとうとう高い御金を出して焚やけ余あまりの三冊を買ったんですって……どうだこの話しで少しは書物のありがた味みが分ったろう、どうだと力味りきむのですけれど、私にゃ何がありがたいんだか、まあ分りませんね」と細君は一家の見識を立てて迷亭の返答を促うながす。さすがの迷亭も少々窮したと見えて、袂たもとからハンケチを出して吾輩をじゃらしていたが「しかし奥さん」と急に何か考えついたように大きな声を出す。「あんなに本を買って矢鱈やたらに詰め込むものだから人から少しは学者だとか何とか云われるんですよ。この間ある文学雑誌を見たら苦沙弥君くしゃみくんの評が出ていましたよ」「ほんとに?」と細君は向き直る。主人の評判が気にかかるのは、やはり夫婦と見える。「何とかいてあったんです」「なあに二三行ばかりですがね。苦沙弥君の文は行雲流水こううんりゅうすいのごとしとありましたよ」細君は少しにこにこして「それぎりですか」「その次にね――出ずるかと思えば忽たちまち消え、逝ゆいては長とこしなえに帰るを忘るとありましたよ」細君は妙な顔をして「賞ほめたんでしょうか」と心元ない調子である。「まあ賞めた方でしょうな」と迷亭は済ましてハンケチを吾輩の眼の前にぶら下げる。「書物は商買道具で仕方もござんすまいが、よっぽど偏屈へんくつでしてねえ」迷亭はまた別途の方面から来たなと思って「偏屈は少々偏屈ですね、学問をするものはどうせあんなですよ」と調子を合わせるような弁護をするような不即不離の妙答をする。「せんだってなどは学校から帰ってすぐわきへ出るのに着物を着換えるのが面倒だものですから、あなた外套がいとうも脱がないで、机へ腰を掛けて御飯を食べるのです。御膳おぜんを火燵櫓こたつやぐらの上へ乗せまして――私は御櫃おはちを抱かかえて坐っておりましたがおかしくって……」「何だかハイカラの首実検のようですな。しかしそんなところが苦沙弥君の苦沙弥君たるところで――とにかく月並つきなみでない」と切せつない褒ほめ方をする。「月並か月並でないか女には分りませんが、なんぼ何でも、あまり乱暴ですわ」「しかし月並より好いですよ」と無暗に加勢すると細君は不満な様子で「一体、月並月並と皆さんが、よくおっしゃいますが、どんなのが月並なんです」と開き直って月並の定義を質問する、「月並ですか、月並と云うと――さようちと説明しにくいのですが……」「そんな曖昧あいまいなものなら月並だって好さそうなものじゃありませんか」と細君は女人にょにん一流の論理法で詰め寄せる。「曖昧じゃありませんよ、ちゃんと分っています、ただ説明しにくいだけの事でさあ」「何でも自分の嫌いな事を月並と云うんでしょう」と細君は我われ知らず穿うがった事を云う。迷亭もこうなると何とか月並の処置を付けなければならぬ仕儀となる。「奥さん、月並と云うのはね、まず年は二八か二九からぬと言わず語らず物思いの間あいだに寝転んでいて、この日や天気晴朗とくると必ず一瓢を携えて墨堤に遊ぶ連中れんじゅうを云うんです」「そんな連中があるでしょうか」と細君は分らんものだから好いい加減な挨拶をする。「何だかごたごたして私には分りませんわ」とついに我がを折る。「それじゃ馬琴ばきんの胴へメジョオ・ペンデニスの首をつけて一二年欧州の空気で包んでおくんですね」「そうすると月並が出来るでしょうか」迷亭は返事をしないで笑っている。「何そんな手数てすうのかかる事をしないでも出来ます。中学校の生徒に白木屋の番頭を加えて二で割ると立派な月並が出来上ります」「そうでしょうか」と細君は首を捻ひねったまま納得なっとくし兼ねたと云う風情ふぜいに見える。 「君まだいるのか」と主人はいつの間まにやら帰って来て迷亭の傍そばへ坐すわる。「まだいるのかはちと酷こくだな、すぐ帰るから待ってい給えと言ったじゃないか」「万事あれなんですもの」と細君は迷亭を顧かえりみる。「今君の留守中に君の逸話を残らず聞いてしまったぜ」「女はとかく多弁でいかん、人間もこの猫くらい沈黙を守るといいがな」と主人は吾輩の頭を撫なでてくれる。「君は赤ん坊に大根卸だいこおろしを甞なめさしたそうだな」「ふむ」と主人は笑ったが「赤ん坊でも近頃の赤ん坊はなかなか利口だぜ。それ以来、坊や辛からいのはどこと聞くときっと舌を出すから妙だ」「まるで犬に芸を仕込む気でいるから残酷だ。時に寒月かんげつはもう来そうなものだな」「寒月が来るのかい」と主人は不審な顔をする。「来るんだ。午後一時までに苦沙弥くしゃみの家うちへ来いと端書はがきを出しておいたから」「人の都合も聞かんで勝手な事をする男だ。寒月を呼んで何をするんだい」「なあに今日のはこっちの趣向じゃない寒月先生自身の要求さ。先生何でも理学協会で演説をするとか云うのでね。その稽古をやるから僕に聴いてくれと云うから、そりゃちょうどいい苦沙弥にも聞かしてやろうと云うのでね。そこで君の家うちへ呼ぶ事にしておいたのさ――なあに君はひま人だからちょうどいいやね――差支さしつかえなんぞある男じゃない、聞くがいいさ」と迷亭は独ひとりで呑み込んでいる。「物理学の演説なんか僕にゃ分らん」と主人は少々迷亭の専断せんだんを憤いきどおったもののごとくに云う。「ところがその問題がマグネ付けられたノッズルについてなどと云う乾燥無味なものじゃないんだ。首縊りの力学と云う脱俗超凡だつぞくちょうぼんな演題なのだから傾聴する価値があるさ」「君は首を縊くくり損そくなった男だから傾聴するが好いが僕なんざあ……」「歌舞伎座で悪寒おかんがするくらいの人間だから聞かれないと云う結論は出そうもないぜ」と例のごとく軽口を叩く。妻君はホホと笑って主人を顧かえりみながら次の間へ退く。主人は無言のまま吾輩の頭を撫なでる。この時のみは非常に丁寧な撫で方であった。 それから約七分くらいすると注文通り寒月君が来る。今日は晩に演舌えんぜつをするというので例になく立派なフロックを着て、洗濯し立ての白襟カラーを聳そびやかして、男振りを二割方上げて、「少し後おくれまして」と落ちつき払って、挨拶をする。「さっきから二人で大待ちに待ったところなんだ。早速願おう、なあ君」と主人を見る。主人もやむを得ず「うむ」と生返事なまへんじをする。寒月君はいそがない。「コップへ水を一杯頂戴しましょう」と云う。「いよー本式にやるのか次には拍手の請求とおいでなさるだろう」と迷亭は独りで騒ぎ立てる。寒月君は内隠うちがくしから草稿を取り出して徐おもむろに「稽古ですから、御遠慮なく御批評を願います」と前置をして、いよいよ演舌の御浚おさらいを始める。 「罪人を絞罪こうざいの刑に処すると云う事は重おもにアングロサクソン民族間に行われた方法でありまして、それより古代に溯さかのぼって考えますと首縊くびくくりは重に自殺の方法として行われた者であります。猶太人中ユダヤじんちゅうに在あっては罪人を石を抛なげつけて殺す習慣であったそうでございます。旧約全書を研究して見ますといわゆるハンギングなる語は罪人の死体を釣るして野獣または肉食鳥の餌食えじきとする意義と認められます。ヘロドタスの説に従って見ますと猶太人ユダヤじんはエジプトを去る以前から夜中やちゅう死骸を曝さらされることを痛く忌いみ嫌ったように思われます。エジプト人は罪人の首を斬って胴だけを十字架に釘付くぎづけにして夜中曝し物にしたそうで御座います。波斯人ペルシャじんは……」「寒月君首縊りと縁がだんだん遠くなるようだが大丈夫かい」と迷亭が口を入れる。「これから本論に這入はいるところですから、少々御辛防ごしんぼうを願います。……さて波斯人はどうかと申しますとこれもやはり処刑には磔はりつけを用いたようでございます。但し生きているうちに張付はりつけに致したものか、死んでから釘を打ったものかその辺へんはちと分りかねます……」「そんな事は分らんでもいいさ」と主人は退屈そうに欠伸あくびをする。「まだいろいろ御話し致したい事もございますが、御迷惑であらっしゃいましょうから……」「あらっしゃいましょうより、いらっしゃいましょうの方が聞きいいよ、ねえ苦沙弥君くしゃみくん」とまた迷亭が咎とがめ立だてをすると主人は「どっちでも同じ事だ」と気のない返事をする。「さていよいよ本題に入りまして弁じます」「弁じますなんか講釈師の云い草だ。演舌家はもっと上品な詞ことばを使って貰いたいね」と迷亭先生また交まぜ返す。「弁じますが下品なら何と云ったらいいでしょう」と寒月君は少々むっとした調子で問いかける。「迷亭のは聴いているのか、交まぜ返しているのか判然しない。寒月君そんな弥次馬やじうまに構わず、さっさとやるが好い」と主人はなるべく早く難関を切り抜けようとする。「むっとして弁じましたる柳かな、かね」と迷亭はあいかわらず飄然ひょうぜんたる事を云う。寒月は思わず吹き出す。「真に処刑として絞殺を用いましたのは、私の調べました結果によりますると、オディセーの二十二巻目に出ております。即すなわち彼かのテレマカスがペネロピーの十二人の侍女を絞殺するという条くだりでございます。希臘語ギリシャごで本文を朗読しても宜よろしゅうございますが、ちと衒てらうような気味にもなりますからやめに致します。四百六十五行から、四百七十三行を御覧になると分ります」「希臘語云々うんぬんはよした方がいい、さも希臘語が出来ますと云わんばかりだ、ねえ苦沙弥君」「それは僕も賛成だ、そんな物欲しそうな事は言わん方が奥床おくゆかしくて好い」と主人はいつになく直ちに迷亭に加担する。両人りょうにんは毫ごうも希臘語が読めないのである。「それではこの両三句は今晩抜く事に致しまして次を弁じ――ええ申し上げます。 この絞殺を今から想像して見ますと、これを執行するに二つの方法があります。第一は、彼かのテレマカスがユーミアス及びフヒリーシャスの援たすけを藉かりて縄の一端を柱へ括くくりつけます。そしてその縄の所々へ結び目を穴に開けてこの穴へ女の頭を一つずつ入れておいて、片方の端はじをぐいと引張って釣し上げたものと見るのです」「つまり西洋洗濯屋のシャツのように女がぶら下ったと見れば好いんだろう」「その通りで、それから第二は縄の一端を前のごとく柱へ括くくり付けて他の一端も始めから天井へ高く釣るのです。そしてその高い縄から何本か別の縄を下げて、それに結び目の輪になったのを付けて女の頸くびを入れておいて、いざと云う時に女の足台を取りはずすと云う趣向なのです」「たとえて云うと縄暖簾なわのれんの先へ提灯玉ちょうちんだまを釣したような景色けしきと思えば間違はあるまい」「提灯玉と云う玉は見た事がないから何とも申されませんが、もしあるとすればその辺へんのところかと思います。――それでこれから力学的に第一の場合は到底成立すべきものでないと云う事を証拠立てて御覧に入れます」「面白いな」と迷亭が云うと「うん面白い」と主人も一致する。 「まず女が同距離に釣られると仮定します。また一番地面に近い二人の女の首と首を繋つないでいる縄はホリゾンタルと仮定します。そこでα1α2……α6を縄が地平線と形づくる角度とし、T1T2……T6を縄の各部が受ける力と見做みなし、T7=Xは縄のもっとも低い部分の受ける力とします。Wは勿論もちろん女の体重と御承知下さい。どうです御分りになりましたか」 迷亭と主人は顔を見合せて「大抵分った」と云う。但しこの大抵と云う度合は両人りょうにんが勝手に作ったのだから他人の場合には応用が出来ないかも知れない。「さて多角形に関する御存じの平均性理論によりますと、下しものごとく十二の方程式が立ちます。T1cosα1=T2cosα2…… (1) T2cosα2=T3cosα3…… (2) ……」「方程式はそのくらいで沢山だろう」と主人は乱暴な事を云う。「実はこの式が演説の首脳なんですが」と寒月君ははなはだ残り惜し気に見える。「それじゃ首脳だけは逐おって伺う事にしようじゃないか」と迷亭も少々恐縮の体ていに見受けられる。「この式を略してしまうとせっかくの力学的研究がまるで駄目になるのですが……」「何そんな遠慮はいらんから、ずんずん略すさ……」と主人は平気で云う。「それでは仰せに従って、無理ですが略しましょう」「それがよかろう」と迷亭が妙なところで手をぱちぱちと叩く。