徒然草 第1段 いでや、この世に生れては、・吉田兼好 日文念书

いでや、この世に生れては、願はしかるべき事こそ多かンめれ :さてさて、この世に生を受けたからには、 誰しもかくありたいものだという願いは多いものだ。
御門の御位は、いともかしこし:とはいえ、天皇の位などは、言うも恐れ多い。 「かしこし」は、畏怖の念を覚える、尊い、の意
竹の園生の末葉まで、人間の種ならぬぞ、やんごとなき:<たけのそのうのすえば まで・・>。天皇の御子、末葉はその子孫をいう。そして、その血筋は人間のDNAでは無いのだから、いよいよ尊いことである、の意。
一の人の御有様はさらなり:「一の人」とは、摂政や関白など公家の最高の地位の人を指す。彼らについては言うまでも無いが、・・。
たゞ人も、舎人など賜はるきはは、ゆゝしと見ゆ:摂政や関白とは言わないまでも、舎人などを与えられるような身分の者は大したものだ。「舎人」は、律令制下で、皇族や貴族に仕え、護衛・雑用に従事した下級官吏。
その子・孫までは、はふれにたれど、なほなまめかし :「は ふれにたれど」は「没落したりとはいえ」の意。また、「なまめかし」は優雅である、気品がある、の意。舎人などを持つことが許されたような階級の一族なら、たとえ没落しても気品が残っているものだ、という。 つまり、作者はこういう風にありたいというのである。
それより下つかたは、ほどにつけつゝ、時にあひ、したり顔なるも、みづからはいみじと思ふらめど、いとくちをし:下っ端の者で、程度もそこそこなのが(ほどにつけつゝ)、運よく用いられて(時にあひ)、そのために本人はいい気になっているものの(したり顔なるも)、気品というものが備わらないのはいかにも見苦しい(いとくちをし)。 つまり、兼好は、こういうものにはなりたくないのである。
法師ばかりうらやましからぬものはあらじ:僧侶ほど、人がなりたいと思はないものはない。
「人には木の端のやうに思はるゝよ」:『枕草子』 第4段「思はん子を法師になしたらむこそ」に「いと心苦しけれ。ただ木の端などのやうに思ひたるこそ、いといとほしけれ」とある。
げにさることぞかし:げにもっともなことだ。
勢まうに、のゝしりたるにつけて 、いみじとはみえず:<いきおいもうに>と読む。勢いが猛烈で、つまり権勢が盛んで、羽振りがよいといっても 、僧侶では、すばらしいとは見えないものだ。というのは、後述するように僧侶は、世捨て人だと言いながら名聞にこだわる本当の世捨て人でないからだというのである。 僧侶一般を「木の端」のようだと言っているのではない。
増賀聖:<ぞうがひじり>。増賀上人のこと。平安中期の天台宗の僧。橘恒平の子。比叡山で良源に顕密を学んで諸国を遊行。のち多武峰(とうのみね)に入って修行。著『玄義鈔』。(『大字林』より)。
名聞ぐるしく:<みょうもんぐるしく>と読む。世間的な名利ばかりに心をくだくこと。
ひたふるの世捨人:正真正銘の世捨て人。こういう人は、なかなか捨て難いものだ、という。
かたち・ありさまのすぐれたらんこそ:容貌や様子の優雅なこと。
飽かず向はまほしけれ:(物言いも上品で、聴いていて気持ちがよく、温和で言葉数も多すぎないような人なら、)いつまでも会っていたい人だ。
しなかたちこそ生れつきたらめ、心は、などか、賢きより賢きにも、移さば移らざらん:人品や骨柄は生まれつきのものだが、それに比して、どうしてどうして心の方はというと、賢い方へ賢い方へと移っていくこともできるのだ。
かけずけおさるゝこそ、本意なきわざなれ:(人品もよく、心も優れていた人が、その才能が無くなって、品の悪い人たちにたち交じり)いとも簡単に品悪く貶められていくのは、なんとも情けない姿である。
まことしき文の道:本格的な学問。
作文・和歌・管絃の道:「作文<さくもん>」は漢詩をつくること、「和歌<わか>」は日本の歌、「管弦<かんげん>」笛などの管楽器と、琴・琵琶などの弦楽器の総称。
有職に公事の方:「有職<ゆうそく>」は、朝廷や公家の儀式・行事・官職などに関する知識。公事<くじ>は朝廷の政務・儀式をいう。
手など拙からず走り書き:書などが上手で、さらさらと簡単に文章が書けること。
声をかしくて拍子とり:声がよくて座に居るみなをリードできること。
いたましうするものから:うれしくなさそうな顔をする。
下戸ならぬこそ:<げこ>は酒の飲めない人のこと。 男は酒が飲めた方がよいと兼好は思っている。