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电子游戏诞生的秘密(自译,原文转载)

2023-06-07 18:55 作者:enix0588  | 我要投稿

大家好,记得在十年前,我在某日文网站上看到关于电子游戏历史的一篇文章。对于70、80、90年代出生且喜欢玩游戏的人来说,想必对“小霸王”一定不陌生,说白了,就是山寨的任天堂FC。因为80年代的我从小就接触了游戏,也喜欢玩日本游戏。于是我就随手分享下这篇文章,因为文章原文是日语的,同时大学学的是日语专业,为了能够让全部人都能看得懂,所以就自己翻译了,如果有些地方译得看不太明白,就大概看下就好了。



译文:近来,任天堂DS、Wii等主机,直观的硬件设计,受到年轻人、老年人的青睐。在国际游戏市场中也享誉最高地评价。无疑地,与漫画及动漫并驾齐驱、以世界为豪的日本文化之一。初露头角的日本游戏,并不像现在的画质那么好。那么,世界上最早的游戏到底是什么样的呢? 

     “电子游戏文化考察” 解密世界上最早的电子游戏,会有意想不到的历史真相吗?



世界首个电子游戏,会是什么样的呢?


   在1983年发售的家用游戏机的25年以来。对于当时的游戏来说,制作方面,只是一些低廉价的点状绘图和三种和音的电子音乐器材,与现在相比,极为简单。那么,世界上最早的电子游戏是什么样的呢?为此,我们采访了对熟悉游戏发展史的周刊Fami通杂志编集部的小山太辅先生。

  小山太辅:(电脑运行程序,就会出现其它画面,在这层意义上。1949年,我们曾经使用过实时处理描绘系统来记录“跳跳球”小球掉落下的情况。当时称不上是游戏,只能算得上实时处理模拟器而已。)

(1975年新时代公司发售的家用游戏《电子网

球》单纯地在黑白游戏画面上互相击打着飞来的

小球)

1949年!那是60多年前的事了!

   小山太辅:(作为具有某种游戏性的东西。在1952年,我们使用了剑桥大学一台名为EDSAC的电脑,制作了一款“TIC TAC TOE“游戏。不是我们现在使用的显示器,而是像体育馆里用的点状绘图器来记分。所呈现的画面,就是现在所说的最早游戏。游戏规则是其中一方先把3个O排好,即胜利。这就是所谓的排列式OX游戏。)

据了解,早期游戏是使用电脑的工作人员,通常为了消遣而制作的。时过境迁,(实际上)有了新的发现。当时的电脑能称得上“庞然大物”。实在佩服他们用这样的机器来玩游戏。 

   打现电子游戏产业基础的这个含义上。1972年发售的PONG(乒乓球),是一款非家用游戏,即在外面的游戏厅里玩的游戏(街机游戏),它的出现取得了非常大的成果以及在商业上获得了成功。世界第一款游戏开发者,诺兰·布什内尔先生,(发售PONG)在这之后,创办了一家名为雅达利公司,成为了全美国最有名气的游戏公司。   

之后,1973年,日本国内开始研发游戏。当时由世嘉(SEGA)以及太东(TAITO)两家游戏公司,从国外引进自动投币机,并发售了“pong Toron” 电子乒乓球两款街机游戏。1975年,在新时代公司发售“电子网球”之际,游戏也随之进入日本各个家庭。尽管画面是黑白的,对于当时而言,可以称得上是相当火爆。

  还有1977年,任天堂开发了适用于多平台的游戏机,并发售"电子游戏6"“电子游戏15”等,渐渐地电视游戏就家喻户晓了。1978年,太东发售的“太空入侵者”,在日本掀起了一股热潮。慢慢地也有了我们现在能够耳熟能详的游戏公司。照这样看来,一句话囊括了电子游戏这一概念,但至少有4~5年伟大的游戏史了。



轰动制硬币厂的“太空入侵者”游戏


  距今30年前的高度经济发展全盛时代的1978年里,日本全国卷起一股风潮,出现了几乎被称为一种颇有人气的社会现象传说的射击游戏——名字叫做“太空入侵者”。它是一款在游戏厅和咖啡店里的街机游戏。当时,人气暴涨,在游戏厅及设有“太空”的咖啡馆里都挤满了,100日元硬币像堆积如山似地摆放在游戏机上,尽情地享受的年轻一族。


  在日本内涌起一股游戏狂潮的“太空”,它的魅力究竟有多大呢?我们采访了太东宣传部的弓削和美小姐。

  弓削和美(“太空”这款游戏,在全球(包括日本)一共销售了26万台。像这种台桌式游戏机,现在几乎看不到它的踪迹了。我还记得当时人气可以用“火爆”二字来形容,回收店老板因硬币过于沉重,都把腰给扭伤了(笑))

(台式“太空入侵者”其实是可以搬动的。

能放置在游戏厅及咖啡馆里,这或许是受欢

迎的原因之一吧)

日本大量回收100日元硬币。这时,“太东”因为存放地方不足而感到苦恼,于是,就借来了仓库,并小心翼翼地保管着硬币箱子。

  还有,1979年5月13日,某大企业的经济报纸上刊登了这样的一段标题,“日本银行紧急采取,因入侵者游戏而导致100日元硬币的流通量减少的措施。”其内容——日本银行紧急增加100日元硬币的发行量,来应对“入侵者潮流”所导致硬币流通量减少的措施。


  为什么一款游戏,能使社会产生这种现象呢?

(以上是“入侵者房间”里放置若干台“太空

入侵者”的情景。迄今对游戏不感趣的人们,

都能乐而忘返,一股游戏热潮席卷着日本全国)

原因在于它的最大特点像一台桌子,不仅游戏厅,连咖啡馆、旅馆都能放置,之前没有接触过游戏的人,都能够享受到游戏的乐趣。此外,某明星在电视及广播上称自己买了一台街机的机箱,不久,就成为了当时最尖端的流行产品了。

   还有一个主要的因素,被称之为“尽量地把敌人引过来,然后再把他干掉”的一种名古屋射击独特技术、能够依照游戏所得的分数进行排名次,且能够输入自己的名称等等之类的功能。当时报纸上登载着,在日本的美国总统卡特的女儿・艾美儿对“太空”也能乐在其中、若干台游戏机被盗、也有人1天把3万日元都花在游戏上的这样几则消息。 

  热潮所产生的缘由来自于刚开始接触游戏的人们,在当时受到巨大影响的是后来的“Fami热潮”

  那时,整个日本刮起一股“太空热”。也许是人们当上了一回“快活的侵略者”,才能体验到电子游戏的乐趣吧!?


原文最近のテレビゲームは、ニンテンドーDSやWiiなど直感的に操作できるハードが人気で、老いも若きもゲームを楽しんでいます。そんな日本のゲームは世界的に人気を博し、世界のゲーム市場でもトップレベルの評価を受けています。

 

これはもう、漫画やアニメと並んで、世界に誇る日本文化のひとつであることは間違いありません。でも、日本ゲームのクオリティが、最初からこんなに高かったわけじゃないですよね?というか、昔のゲーム、それも世界で一番古いテレビゲームって、いったいどんなゲームだったんでしょう?というわけで、『テレビゲーム文化考』は、“世界最古のテレビゲーム”について調べてきました!そこには意外な歴史が隠れていたり…?

 

ファミコンよりもずっと昔…世界初のテレビゲームってどんなものなの?

 

1983年の「ファミリーコンピュータ」発売から四半世紀(以上)。当時のゲームといえば、ドット絵のチープなグラフィックと、3和音しか出せない電子音の、今から思うとずいぶんシンプルなものでした。では、それよりもっと前、世界で初めて誕生したテレビゲームって、いったいどんなゲームだったんでしょ? ゲーム誕生の歴史に詳しい、『週刊ファミ通』編集部の小山太輔さんに聞きました。

 

  「コンピューターでプログラムを動かし、ほかの画面に何かを表示して動かすという意味では、1949年ごろに『バウンシングボール』という、ボールが落ちる様子をリアルタイムで描画するプログラムがあったという記録があります。しかしこれはゲームというよりリアルタイムシミュレータでした」

 

1949年! 実に60年前にまでさかのぼるんですね。


「ゲーム性のあるものとしては、1952年にケンブリッジ大学のEDSACというコンピューターを利用し、『TIC TAC TOE』(ティックタックトゥー)というゲームが作られました。これは現在あるようなモニターではなく、体育館の得点板のような、ドットの集まった表示機を使って遊んでいました。これが画面の記録が残っているなかで、現在知られている最古のゲームです。内容は○とを3つ並べた方が勝ちという、いわゆるマルバツゲームですね」


初期のゲームは、コンピューターを使っていた研究者が仕事の手慰みに、遊びで作ったようなものが多く、年月を経てから「実は」と新たに発見、発掘されることが多いそう。当時のコンピューターは壁面いっぱいもあるような巨大なもの。そんな大きなコンピューターを遊びで使ってみようという研究者の好奇心は、すごいものがありますね。


「現在のテレビゲーム産業の基礎を作ったという意味では、1972年に発売された、『PONG(ポン)』という、家庭でなく外の店で遊ぶアーケードゲームが大きな役割を果たしました。テレビゲームがビジネスとして成功した、世界で初めてのゲーム機で、開発者のノーラン・ブッシュネルはその前後にアタリという会社を作り、アタリは全米にその名を轟かすゲームメーカーになります」


その後、日本にテレビゲームが初めてやってきたのは1973年。当時ジュークボックスなどの輸入販売をしていたセガとタイトーから、『ポントロン』と『エレポン』という外で遊ぶアーケードゲームが販売されました。ゲームが日本の家庭に入りこんだのは、1975年にエポック社から発売された『テレビテニス』(内容は『PONG』と一緒)。黒と白しか表現できない原始的なテニスゲームでしたが、当時の人々は熱狂したのだといいます。


さらに1977年には任天堂から何種類ものゲームが遊べる家庭用ゲーム機器、『テレビゲーム6』、『テレビゲーム15』が発売されるなど、徐々にテレビゲームという遊びが世間に知られるようになっていき、1978年には日本中で大ブームを呼んだアーケードゲーム『スペースインベーダー』がタイトーから発売されます。ようやく僕らにもおなじみのゲーム会社の名前が出てきました。こうしてみると、一口にテレビゲームといっても半世紀以上の壮大な歴史があるものなんですねえ

 

造幣局を動かしたゲーム?『スペースインベーダー』伝説とは


 

  今から30年ほど前の1978年。高度経済成長華やかなりし時代に、日本中に大ブームを巻き起こし、社会現象と呼ばれるほどの人気を生んだ伝説のシューティングゲームがありました。

その名も『スペースインベーダー』。家でなくゲームセンターや喫茶店など、外で遊ぶアーケードゲームです。その人気はすさまじく、当時の若者はこぞってゲームセンターや、インベーダーが置いてある喫茶店につどい、ゲーム機の上に100円玉を塔のように積み上げる積みコインをしながら遊んだのだそう。

日本中を熱狂の渦に巻き込んだというこのゲーム、いったいどれほどのブームだったのでしょうか? タイトーの広報、弓削和美さんにお聞きしました。

「『スペースインベーダー』は日本のみならず世界にも輸出され、全部で26万台が販売されました。今ではあまり見かけなくなりましたが、テーブルのような形をしている機体が特徴でした。当時の人気はものすごく、100円玉の回収に行った営業マンが、あまりの重さにぎっくり腰になったというようなエピソードも残っています(笑)」
日本中から大量の100円玉が回収され、置き場所に困ったタイトーは急きょ(金庫ではなく)倉庫を借りて、100円玉を詰めた箱を保管しなければならなかったほどだそう。

 

さらに、1979年5月13日付の某大手経済新聞には、「インベーダーゲームで百円玉なくなる? 日銀が緊急対策」という内容の見出しで、インベーダーブームのせいで100円玉の流通量が減り、日銀が急きょ100円玉を増発したとの記事が掲載されています。

ひとつのゲームがこのような社会現象を生んだとは。なんでそんなにブームになったんでしょう?

「テーブル型をしていることで、ゲームセンターだけではなく喫茶店や旅館にも置くことができ、それまでゲームに触ったことがなかった人にも届けることができた、というのが大きいでしょうね。ほかにも芸能人の方が、個人でアーケード用の筺体を購入しているとテレビやラジオで発言したりと、当時の流行最先端になったんです」

敵をギリギリまで引き付けて撃つ名古屋撃ちと呼ばれる特別なテクニックや、得点でランキングが作られ、名前が入力できるなどの機能もブームの要因に。当時の新聞には、来日中のカーター米大統領(当時)の娘・エミーちゃんが『スペースインベーダー』を楽しんだという記事や、『スペースインベーダー』の機体が何台も盗まれたという記事、1日に3万円も『スペースインベーダー』につぎ込んだ人がいるという記事まで掲載されていました。

「それまでゲームを遊んだことがなかった人が初めてゲームに触れて起きたブームですから、当時のインパクトの大きさは、後のファミコンブームほどのものがあったと思います」

当時、日本中を熱狂に包んだ『スペースインベーダー』ブーム。人々が初めてテレビゲームの楽しさを知ったという意味では、うれしい侵略者だったのかも!?

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