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第一章 島を出た少年

2022-08-01 05:03 作者:阿曜ちゃん  | 我要投稿

       とりあえず、ネットで聞いてみるか。

       スマホで「Yahoo!知恵袋」を聞き、なんとなく周囲に目を配ってから、僕は質問を入力する。


       高校一年生男子です。東京都内で、割のいいバイトを探しています。学生証がなくても雇ってくれるようなところはありますか?


       うーん、これでいいのかな。殺伐としたネット空間では総叩 [そうたた] きに遭いそうな気がする。でも検索で得られる情報にも限度があるし、他に頼れる人もいないし――と「投稿」ボタンを押そうとしたところで、船內放送が流れ始めた。

『まもなく、海上にて非常に激しい雨が予想されます。甲板にいらっしゃる方は 、完全のため船內にお戻りください。繰り返します、まもなく海上にて……』

       やった、と僕は小さく声に出した。今なら甲板を独り占めできるかも。尻 [しり] の痛い二等船室にもいいかげん飽きてきたところだし、他の乘客が戻ってくる前に甲板に出て雨の降る瞬間を眺めよう。スマホをジーンズのポケットにしまい、僕は駆け足で階段に向かった。

       東京に向かうこのフェリーは五階建てで、僕の二等船室はチケット代が安い代わりに最下層にあり、エンジン音がものすごくうるさい上に畳敷きの雑魚寝 [ざこね] 部屋だ。居心地の好 [よ] さそうな一等船室を横目に室內階段を二層分登ると。船の外壁に沿った通路に出る。ちょうど甲板にいたらしい人たちが、どやどやと戻ってくるところだった。

「また雨だって」

「ようやく晴れたのになあ」

「最近の夏はヤバイよね、雨ばっかで」

「島でもずっと台風だったしねえ」

       皆口々に愚痴っている。僕は「すみません」と頭を下げながら、狭い通路を人の流れに逆らって歩く。

       最後の階段を登りデッキテラスに顔を出すと、強い風が顔を打った。既に誰もおらず、広々とした甲板は陽光に輝いている。その真ん中には、白く塗られたポールが空を指す矢印のように立っている。僕はわくわくした気分で、誰もいない甲板を歩く。空を見上げると、灰色の雲がみるみる青空を埋め尽くしていくところだった。――ぴちょん。雨粒が僕の額に落ちた。

「……来た!」

       思わず僕は叫んだ。空から一斉に落ちてくる無数の雨粒が目に入り、その直後、ドドッという轟音 [ごうおん] とともに大粒の雨が降りそそいだ。さっきまで陽に輝いていた世界が、あっという間に水墨画のモノトーンに塗りつぶされていく。

「すっげえー!」

       大声も雨の轟音にかき消されて、自分の耳にすら届かない。僕はますます嬉[うれ]しくなる。髮も服も重く濡 [ぬ] れていく。肺の中まで湿気で満たされていく。僕は思わず駆け出す。空をヘディングするように思いきりジャンプする。渦を作るように両手を広げてぐるぐると回転してみる。囗を大きく開けて雨を飲む。めちゃくちゃに走り回りながら、今ま心の中に閉じ込めていた言葉たちを全身全霊の大声で叫びまくる。それらの全部が雨に洗い流されて、誰にも見られず、誰にも聞かれない。胸に熱いかたまりが湧き上がる。密 [ひそ] かに島を出てから半日、僕はようやく心からの解放感に満たされていく。弾む息で雨を見上げる。

       ――その時僕の頭上にあったものは、雨というよりは大量の水だった。

       目を疑った。巨大なプールを逆さにしたようなものすごい量の水が、空から落ちてくる。それはとぐろを巻く――まるで龍 [りゆう] だ。そう思った直後、ドンッという激しい衝撃で僕は甲板に叩きつけられた。滝壺 [たきつぼ] の下にいるかのように、背中が重い水に叩かれ続ける。フェリーが軋 [きし] んだ音を立てながら大きく摇れる。やばい!  そう思った時には、僕の体は甲板を滑り落ちていた。フェリーの傾きが増していく。滑りながら僕は手を伸ばす。どこかを摑 [つか] もうとする。でもそんな場所はどこにもない。だめだ、落ちる――その瞬間、誰かに手首を摑まれた。がくん、と体が止まる。フェリーの傾きが、ゆっくりと元に戻っていく。

「あ……」僕は我に返る。

「ありがとうございます……」

       まるでアクション映画みたいなぎりぎりのタイミングだった。僕は手首の先に視線を上げた。無精髭 [ぶしようひげ] を生やしてひょろりと背の高い、中年の男性だった。男性は薄く笑いながら、僕の手を離す。太陽が再び顔を出し、男性の赤いワイシャツを眩 [まぶ] しく照らした。まあなんでもいいんだけどさ、というようなどこか投げやりな囗調で、

「すげえ雨だったなあ」

      と男は呟 [つぶや] いた。確かにものすごかった。あんなものすごい雨に、初めて遭った。雲間からは、光の筋が何本も射していた。


       この曲は聴いたことがある。クラシックで、たしか――なにかのレトロゲームのBGMだ。ペンギンを操作して氷を滑りながら魚をキャッチする、そんな内容だった。そうだ、氷には時々穴が空いていて、そこからアザラシだかオットセイだかが顔を出してペンギンを妨害してくるのだ。ジャンプのタイミングがずれるとペンギンはつまずいて――

「いやあ、なかなか美味 [うま] いよ、これ」

       僕は顏を上げる。テーブルの向かいに座った中年男が、嬉しそうにチキン南蛮定食を食べている。赤い派手なタイトフィットのワイシャツ。痩 [や] せた顔に、ゆるんだように垂れた一重の細に目。適当な無精髭と無造作にカールしたヘアスタイルがいかにも自由人風で、東京の  (ちょっと悪い)  大人って感じがする。男は大きな口でご飯を頰張り、ずずず、と豚汁を吸い、割り箸 [ばし] で鶏肉 [とりにく] を持ち上げる。たっぷりとタルタルソースのかかった分厚い肉

に、僕の目は吸い寄せられる。

「少年、マジでいらないの?」

「はい、お腹すいてませんから」

       笑顏を作ってそう答えたとたん、ぐう、と腹が鳴った。思わず赤くなるが、「ああそう、なんか悪いねえご馳走 [ちそう] になっちゃって」と、男は気にする様子もなく肉を頰張る。

       僕たちはフェリーのレストランに向かい合って座っていて、赤シャツ男だけが豪華な昼食を食べていて、僕は空腹を紛らわせようとレストランのBGMに意識を集中させていたところだったのだ。助けてもらったお礼として僕からご馳走させてくださいと申し出たのだけれど、それしても店で一番高いメニュー  (千二百円)  を選ばなくたっていいじゃないかと、さっきから僕は内心で思っている。大人ってこういう時に適切に遠慮するものじゃないのか。こっちは食費は一日マックス五百円までと決めてるのに初日から大赤字なんですけどそれは。……とかぐちぐちと思いつつも、僕は礼儀正しい対応を心がける。

「悪いだなんてそんなそんな!  こちらこそ危ないところを助けていただいて――」

「ほーんと」

       い気味に赤シャツが言う。割り箸を僕に向ける。

「君、さっきは危なかったよねえ。……あ」

       赤シャツは宙を睨 [にら] み、なにやら難しい顔をして考え込んでいる。そしてゆっくりと、満面の笑みになる。

「……俺さあ、誰かの命の恩人になったのって、そういえば初めて!」

「……はい」

       嫌な予感が。

「そういえばここ、ビールもあったっけ?」

「……買ってきましょうか?」

       なにもかも諦 [あきら] めて、僕は立ち上がる。


      ニャーニャーニャーと、ウミネコが一斉に鳴いている。

      手を伸ばせば届きそうな距離を気持ちよさそうに飛び回海大鳥の姿を、僕は夕食のカロリーメイトを大切にかじりながら、フェリーの通路デッキでぼんやりと眺めている。

「大人にたかられるなんて……」

       生ビールは、なんと九百八十円だった。いい加減にしてくれよと僕は思う。ちょっと非現実的に高すぎるんですけど。家出初日にして、僕は四日分の食費を知らないオッサンのために遣ってしまったことになる。東京って怖 [こえ] え――と、しみじみと呟く。食べ終えたカロリーメイトの袋と入れ替わりにポケットからスマホを取り出し、あらためて「Yahoo!知恵袋」を開き、先ほどの質問を投稿した。なんとしてもバイトが必要なのだ。求むベストアンサー。

       ぽた、と雨粒がスマホの画面を濡らし、顏を上げると、再びパラパラと雨が降ってきていた。そして雨の向こうには、灯 [とも] り始めた東京の夜景があった。カラフルにライトアップされたレインボーブリッジが、なんだかゲームのオープニングタイトルみたいにゆっくりと近づいてくる。その瞬間――知らないオッサンヘの苛 [いらだ] 立ちもお金への不安も、僕の心から綺麗 [きれい] に消えた。とうとう来た。ぞくりと武者震いが起きる。とうとう来たんだ。僕は今夜から、あの光の街で暮らすのだ。これからあの街で起きること全部が楽しみで楽しみで仕方がなくて、鼓動が勝手に高まっていく。

「――少年、ここにいたの」

       突然聞こえた能天気な声に、僕の昂揚 [こうよう] は空気が抜けたようにしぼんでいく。振り返ると、赤シャツが通路に出て来るところだった。だるそうに首をぐるぐる回しながら、「ようやく到着だんあ」と街灯 [まちあか] りを見て言う。

「君さあ、島の子でしょ?東京になにしに来たの?」

       僕の隣に立って訊 [き] く。ぎくりとしつつ、僕の用意しておいたセリフを口にする。

「ええと、親戚 [しんせき] の家に遊びに来たんです」

「平日に?  君、学校は?」

「あっ、えーとえーと、うちの学校、早めの夏休みで……」

「ふふーん」

       なんでニヤつくんだよ。赤シャツは珍しい昆虫でも見つけたかのように無遠慮に僕の顏を覗 [のぞ] き込み、僕は逃げるように目をそらす。

「ま、もし東京でなんか困ったことがあったらさ」そう言って、小さな紙を差し出してくる。名刺だ。僕は反射的に受け取ってしまう。

「いつでも連絡してよ。気楽にさ」

「(有)K&Aプランニング  CEO  須賀圭介 [す が けいすけ] 」という文字列を眺めながら、するわけねえだろ、と心の中で僕は答えた。


          *            *            *


       それからの数日間で、僕は何度「東京って怖え」と呟いただろうか。何度舌打ちをび、何度冷や汗をかき、何度恥ずかしさに赤くなっただろうか。

       街はひたすらに、巨大で複雑で難解で冷酷だった。駅で迷い、電車を間違え、どこを歩いても人にぶつかり、道を尋ねても答えてもらえず、話しかけてもいないのに謎の勧誘をされまくり、コンビニ以外の店には怖くて入れず、制服姿の小学生一人で電車を乗り樣子に愕然 [がくぜん] とし、そんな自分にその都度泣きたくたった。バイトを探すためにようやく辿 [たど] りついた新宿 [しんじゆく] では  (なんとなく東京の中心は新宿のような気がしていたのだ)、いきなりのゲリラ豪雨でびしょ濡 [ぬ] れになった。シャワーを浴びたくて勇気を振り絞って入った漫画喫茶では、床を濡らすなと店員に舌打ちされた。それでもまずはその漫画喫茶を拠点に生活することにし、なにやらすえた㚖いのする個室のPCでバイト険索をしてみたけれど、「身分証不要」の条件での求人はゼロだった。頼みの綱の「Yahoo!知恵袋」の回答は、ほとんどが「仕事を舐 [な] めるな」とか「もしかして家出wwww」とか「労基法違反です。タヒネ」とかだったけれど、そんな罵声 [ば せい] にまじって「風俗店のボーイなら身分証不要ですよ」とかう情報を見つけ、必死の思いで険索していくつかの風俗店に面接の予約を入れた。しかし実際に面接に出かれたら柄の悪そうな若い男に「身分証なしで雇えるわねえだろテメエうちの店舐めてんのか」と怒鳴りつけられ、泣きそうになりながら逃げ帰った。ていうか怖すぎて実際にちょっと涙が出た。

       そんなふうにして、気づけばあっという間に五日が経っていた。

       駄目だ。このままじゃ駄目だ。漫画喫茶の狭い個室で、僕は家計簿代わりのメモを見る。ここのナイトパックが一泊二千円、その他交通費やら食費やらで、島を出てから既に二万円以上遣ってしまっている。家出費用の五万円をほとんど無限の大金に思えていた一週間前の自分の浅はかさに、今になって腹が立ってくる。

       ――よし、決めた!と、口に出しながら僕はメモをぱたんと閉じた。背水の陣だ。個室に散らばった荷物を、僕はリュックに詰め始める。ここの漫画喫茶は引き払おう。節約せねば。バイトを決めるまで宿には泊まらない。今は夏だし、二、三日ならば外でだって眠れるはずだ。決意が薄まらないうちにと足早に店を出る僕の後ろで、『局地的豪雨の発生回数は』と、店の壁掛けテレビが人ごとみたいに告げていた。『観測史上最多だった昨年を既に大幅に上回っており、七月にかけて更に多発する見込みです。外出の際は、山や海だけではなく市街地においても十分な注意を――』


       雨宿りが出来て、一晩過ごせそうな場所。そういう公園の東屋 [あずまや] やガード下の軒先には、しかし必ず先客がいた。僕は全財產の入った重いリュックを雨合羽 [あまガツパ] の下に背負い、もう二時間以上も街をさまよっている。長時間を過ごせて居心地の好 [よ] いデパートや本屋やCDショップは、夜九時を過ぎて既に閉まってしまっている。駅の構内も家電量販店も、壁際に座り込んでいたりするとすぐに警備員が声をかけてくる。だから僕はもう路上に居場所を見つける他になく、しかしそんな場所は一向に見つからず、かといって駅から離れすぎるのもなんだか不安で結局は同じ場所をぐるぐる廻 [まわ] ってしまっていて、だから派手な電飾の歌舞伎町 [かぶきちよう] のこのゲートをくぐるのももう四度目だ。いいかげん歩き疲れて足が痺 [しび] れている。雨合羽の中が汗で蒸してものすごく不快だ。どうしようもなくお腹がすいている。

「君、ちょっといい?」

       突然に肩を叩 [たた] かれ、振り返ると警官が立っていた。

「さっきもこの辺歩いてたよね」

「え……」

「こんな時間にどうしたの?  高校生?」

       僕は青ざめる。

「ちょっと、待ちなさい!」

       怒鳴り声が背中で聞こえる。考えるより先に足が駆け出していた。振り返らずに、僕は人混みを全力で走る。誰かいぶつかるたびに罵声が飛ぶ。痛 [い] てえな!ふざけんなよ!  こら持てガキ!  巨大な映画館の脇を駆け抜け、ほとんど本能的に街灯りのすくない場所を目指す。しだいに人の声が遠のいていく。


       カラン。うずくまっていた僕は、空き缶の転がるかすかな物音に顔を上げた。

       薄い暗闇の中で、緑色の丸い目が光っている。痩 [や] せこけて毛並みすみすぼらしい、まだ仔猫 [こ ねこ] だ。そこは表通りからはすこし奥まった場所にある、軒の低い長屋風のビルだった。灯りの消えた飲食店がいくつも並んでいてそれぞれ入り口にドアはなく、僕はそのうちの一つの狭いエントランスに座り込んでいたのだ。いつの間にかうとうとと眠り込んでいた。

「猫、おいで」

       小さく囁 [ささや] くと、にゃーと掠 [かす] れた返事があった。なんだか久しぶりに誰かとまっとうな会話をしたみたいで、それだけで鼻の奥がつんとなった。僕はポケットから最後のカロリーメイトを取り出し、半分に割って仔猫に差し出した。仔猫は鼻先を突き出し、匂いを確かめてくる。床に置くと、まるでお礼を言うように僕を短く見つめてから、がつがつと食べ始めた。夜から切り出したみたいに真っ黒な猫だった。鼻の周りと足先だけが、マスクをして靴下を穿 [は] いているように白い。仔猫を眺めながら僕も残りのカロリーメイトを口の中に入れ、ゆっくりと噛 [か] む。

「……東京って怖えな」

       食事に夢中の仔猫からは返事はない。

「でもさ、帰りたくないんだ……絶対」

       そう言って、僕は再び両膝 [りようひざ] に顔をうずめた。仔猫が物を噛む小さな音と、アスファルトを叩く雨の音と、遠い救急車のサイレンとが混じりあって耳に届く。歩き続けた足の痛みが、ようやく甘く溶けていく。僕はまた、薄い眠りに落ちていった。

       ――きゃっ、誰かいる!  えマジ、うわほんとだ!  やだ、なあにこの子、寝てんじゃない?

       ……夢?  いや違う、誰かが目の前に――

「君さあ!」

       太い声が頭上からって、僕は弾 [はじ] かれたように目を覚ました。金髪ピアスのスーツ姿の男が、冷たい目で僕を見下ろしている。暗かったエントランスにはいつの間にか煌々 [こうこう] と灯りが点 [つ] いていて、肩と背を大きく出した服装の女の子が二人、男の横に立っている。仔猫はいなくなっている。

「うちになんか用?」

「す、すみません!」

       僕は慌てて立ち上がる。頭を下げて男の脇を通り過ぎようとしたところで、ぐらりとバランスを崩した。男が爪先  [つまさき] で僕の足首を蹴 [け] ったのだ。とっさに手をかけた自販機のゴミ箱ごと、僕は雨のアスファルトに倒れ込んだ。ゴミ箱の蓋 [ふた] が外れ、空き缶が派手な音を立てて道路を転がっていく。

「ちょっとお、大丈夫!?」と女の一人が言い、

「いいからさあ」と金髪ピアスはその子の肩を抱く。「さっきの話の続きだけどね、絶対ウチの店のほうが稼げるからさ。ちょっと中で説明させてくれる?」

       そう言って、金髪ピアスは僕をチラリとも見ずに、女子二人を押し込めるようにして建物の奥に消えていく。

「なんだよこりゃ、邪魔くせえな!」

       あからさまな舌打ちで、カップルが空き缶を蹴りながら道路に座り込んだ僕の横を通り過ぎる。

「すみません……!」

       僕は慌ててゴミ箱を元の場所に戻し、濡 [ぬ] れた地面に四つん這 [ば] いになってそこらじゅうに散らばった空き缶を必死に拾う。ゴミは缶だけではなく、弁当の空き箱や生ゴミも混じっている。通行人たちは迷惑そうな態度を隠さない。僕は一刻も早くこの場から去りたくて、でもそのためには早く片付けなければいけなくて、濡れてぐにゃりとするフライドチキンやおにぎりの食べ残しも素手で必死に摑 [つか] む。勝手に涙が滲 [にじ] み、雨と混じって頰を伝う。

       ずしり、という奇妙な重さの紙袋が、そのゴミの中にあった。それはハードカバーの単行本くらいの大きさで、ガムテープでぐるぐる巻きにされていた。


         ガチャッ。

       布製のガムテープを剥 [は] がしていくと、濡れた紙袋が破けて中身が床に落ちた。重い金属音が店内に響き、僕は慌てて足元に手を伸ばした。

「えっ!?」

       それは銃のように見えた。僕は慌ててそれを掴み、リュックに押し込んだ。ひんやりとした不吉な感触が手に残る。ぐるりと周囲を見渡す。

       そこは私鉄の駅とパチンコ屋に挟まれた、深夜のマクドナルドだ。僕が泊まっていた漫画喫茶からも近く、既に何度も来たことのある馴染 [なじ] みの場所だった。終電を過ぎた店内は人もまばらで、ほとんどの人は無言でスマホに目を落としており、話をしているのは女性の二人連れが一組だけだ。「私だけがどんどん好きになってっちゃってさ……あの人って基本既読スルーだしさ……」そんな女子の会話が、やけに深刻なトーンでひそひそと聞こえてくる。誰もこちらは見ていない。

       僕はポッと息をつく。

「さすがにオモチャだよな」と、自分に言い聞かせるように口に出す。

       空き缶を片付けた後で僕は公衆トイレで念入りに手を洗い、そういえば、と思い出してここに来たのだ。ポタージュスープ一杯では朝まで過ごさせてはくれないだろうけど、せめて外を步く気力が復活するまではどこか安心できる場所にいたかったのだ。

       気を取り直して、僕は浮かせた腰を椅子に下ろした。ジーンズのケットをまさぐり、くしゃくしゃになった小さな紙をテーブルに置いた。

       K&Aプランニング  CEO  須賀圭介

       フェリーで赤シャツからもらったその名刺には、小さな字で住所が書いてある。東京都新宿区山吹町 [やまぶきちよう] 。新宿区?  僕はグーグルマップにその住所を入れてみる。現在地からの経路は都バスで二十一分。意外に近かったのだ。

       僕は紙コップのポタージュスープを両手で包み、最後の一口を大切にすする。窓の外では大な街頭テレビが雨に滲んで光っている。歌舞伎町の喧騒 [けんそう] が、イヤフォンの音漏れのように窓の向こうからかすかに届く。この住所を訪ねたとして――僕は考える。なにがあり得るだろうか?  CEOって社長のことだよな。バイトの口を紹介してもらえたり?  でも高校生に食事をたかるような人の会社がまともだとは思えないし。いやしかし持てよ、それでも社長ならばそれなりにお金は持っているのではないだろうか。それなのにあの時の食事代二千百ハ十円!  今さらに腹が立ってくる。僕は社長に奢 [おご] ったのか。チキン南蛮定食はお礼として仕方がないとしても、ビール代九百八十円は不当だったのではなかったか。事情を話してそれだけでも返してもらうべきではないか。ちょっと格好悪いけれど、背に腹は代えられないのではないか。僕の窮状を知ったらあの人だって、案外簡単に返してくれるのではないか。

       でも――僕はテーブルにうつぶせになる。

       それはあまりに情けないんじゃないか。だいたい助けてもらったのは事実だし、ビールだって全部僕が自分から言い出して払ったのだ。僕はそんなさもしい行いをするために東京に来たのか。お金も居場所も目的もなく、痛いくらいの空腹を抱えて、僕はここでいったいなにをしているのか。東京になにを期待して来たのか。

       あの日、殴られた痛みを打ち消すように自転車のべダルをめちゃくちゃに漕 [こ] いでいた。あの日もたしか、島は雨だった。空を分厚い雨雲が流れ、でもその隙間から、幾つも光の筋が伸びていた。僕はあの光を追ったのだ。あの光に追いつきたくて、あの光に入りたくて、海岸沿いの道を自転車で必死に走ったのだ。追いついた!  と思った瞬間、でもそこは海岸の崖端 [がけばた] で、陽射しは海のずっと向こうまで流れて行ってしまった。

       ――いつかあの光の中に行こう。その時僕は、そう決めたのだ。

       どこからかかすかに風が吹き、ふわり、と髮を揺らした。

       クーラーの風じゃない。ずっと遠くの空から草の匂いを運んできたような、これは本物の風だ。でもこんな場所で――僕はテーブルから顏を上げた。

       目の前に、ビックマックの箱が置かれていた。

       僕は驚いて振り返った。

       少女が立っていた。マクドナルドの制服姿だ。濃いブルーのシャツに黒いエプロン、お下げの小さな頭にグレイのキャスケット帽。同い年くらいだろうか――黒目がちの大きな瞳 [ひとみ] が、なんだか怒ったように僕を見下ろしている。

「あの、これ……」頼んでませんけど、という意味で、僕は言う。

「あげる、内緒ね」小さな花の香りみたいにかすかな声で、そう言った。

「え?  でもなんで……」

「君、三日連続でそれが夕食じゃん」

       少女は僕のポタージュを見てから責めるようにそう言って、小走りで去って行く。

「え、ちょっと……」なにかを言おうとした僕の言葉に優しく蓋をするみたいに、彼女がいるりと振り向いた。きゅっと結ばれた口元がふいに緩み、ふふっと、少女は短く笑った。そのとたん、雲間から陽が射したみたいに景色に色がついた――ような気が、僕はした。少女はなにも言わず再び背を向けて、素早く階段を駆け下りていってしまった。

「……」

       たっぷり十秒くらい、たぶん僕は呆 [ほう] けていた。はっと我に返る。ビックマックの箱が、特別なプレゼントのようにちょこんとテーブルにある。箱を開けてみる。香ばしい肉の匂いとともに、分厚いバンズがふわっと膨らんだ。手に取ると、ずっしりと重い。ぴかぴかのチーズとレタスがビーフバティの間からはみでている。

       僕の十六年の人生でこれが間違いなくだんとつで――一番美味 [おい] しい夕食だった。


          *            *            *


「やだ、もうバス停に着いちゃうじゃん!  ねえねえ、次はいつ会えるかな?」

「そうだなあ、明後日 [あさつて] はどう?  練習があるけど、午後から空いてるからさ」

「やった!  食ベログで見つけたカフェでね、私行ってみたいところがあるんだ。予約しちゃおっかなー!」

       昼下がりの都バスに揺られている僕の耳に、さっきからい会話が聞こえてくる。それは後部座席からの声で、なんとなく振り返るのもはばかられて、僕は車窓を眺めている。複雑な模様を描いて後ろに流れていく水滴を見つめながら、カップルって本当にこんな会話をするんだなと僕は妙に感心してしまう。今までグルメアプリの需要がいまいちぴんとこなかったけど、都会の人って本当に食ベログとか見るんだな。カフェって予約とかまでして行くものなんだな。スマホに目を移す。現在位置を示す青いドットが、目的地に立った赤いフラッグアイコンにゆっくり近づいていく。到着まであと十分。なんだか緊張してきた。

       ぴんぽーんと電子音が鳴り、運転席の横のモニターに「停車します」と表示され、「じゃあまたね、凪 [なぎ] くん!」と弾んだ声がした。バスを降りていくショートカットの女の子の姿を見て、僕は驚く。「交通安全」と書かれたランドセルを背負 [しよ] った、まだ小学生だったのだ。え、マジ?  やっぱすげえな東京。小学生が食ベログ見るのか。

「あ、ラッキー!」

       入れ替わるようにして、今度はロングヘアの小学生女子がバスに乗り込んで来た。「凪くん、会えると思ったんだ!」と言いつつ嬉 [うれ] しそうに後部座席に駆け寄っていく姿を、僕は思わず目で追ってしまう。

「げ!」

       後部座席に半ズボンの脚を組んで座っていたのは、どう見ても十歳程度の小学生男子だった。「や、カナ」と

、駆け寄る女子に対して優雅に手を振る。彼女のランドセルを、エスコートするように笑顔で受け取る。 さらさらのショートボブと切れ長の瞳、幼いのにやけに整った顔立ちの、なんだか王子さまめいた男の子だ。この男の子、もしかしてバス停ごとに彼女がいるのか?   バスが発車し、僕は引き剥 [は] がすように視線を戻す。背中からイチャコラが聞こえてくる。

「あれ?  カス、髪卷いた?」

「え、分かる?  うん、ちょっとだけね。今日誰にも気づかれなかったのに、さすが凪くん!  ねえねえどう、似合うかな?」

「似合う似合う!  すっごく可愛いよ。大人っぽいね、中学生みたいだ」

       ふふふ、と、こっちがくすぐったくなるくらおいに嬉しそうな声で女子は笑い、僕はなんだかいたたまれなくなってくる。小学生にしてたぶん複数のガールフレンドがいて、しかも女子自らが食ベログカフェ予約。持ってるやつは最初から持っている、これが文化資本ってやつなのか。


       ――まじで東京ってすげえ。そう呟 [つぶや] きながら僕は目的の停留所でバスを降りて傘を開き、グーグルマップを睨 [にら] みながら下町めいた商店街を歩いた。グーグルの言うとおりに右に曲がると、ふいに街の雰囲気が変わった。坂道には小さな印刷会社がいくつか並び、雨に混じってうっすらとインクの匂いがする。

「……ここでいいんだよな?」

       名刺に書かれた住所にあったのは、古ぼけた店舗然とした小さな建物だった。いかにも昭和風のテント看板が張り出していて、消えかかった文字でスナックと書からている。僕はもう一度、名刺の住所とグーグルマップを見比べてみる。住所は合っている。テント看板をよく見ると、店名が所々ガムテープで隠されていた。テント地も文字もガムテープも同じくらいすり切れているからぱっと見で気づかなかったけれど、ではここは現在はスナックではないのだ。路肩の柵 [さく] に「(有)K&Aプランニング」という錆 [さび] の浮いたプレートがくくりつけてあり、社名の横には下向きの矢印が書かれている。足元を見るとそこは半地下になっていて、コンクリートの細い階段の先にドアがある。

       どうやらここが本当に会社らしい。でもどうしようかと僕は迷う。いかにも怪しげだし、お金の気配はゼロだ。なにがCEOだ。いやでも、他にあてもないのだ。覚悟を決めて傘を閉じ、僕は幅一メートルもない階段を降りめた。

       カチン。

       呼び䍅を押したはずなのに、なにも聞こえない。

       僕はドアに耳を押しあて、まう一度呼び䍅のボタンを押してみる。無音だ。壊れているのだろうか。ノックをしてみる。無反応。試みにドアノブに手をかけてみたら、あっさりと、ドアが開いた。

「すみませーん、電話した森嶋 [もりしま] です!」

       室内を覗 [のぞ] いてみる。数時間前に名刺の番号に電話した時には、持ってるから今からおいでと赤シャツ本人に言われたのだ。恐る恐る足を踏み入れる。入ってすぐに小さなバーカウンターがあり、しかしその周囲には本やら書類やら段ボール箱やらが雑然と積まれ、更には酒瓶やら店屋物のチラシやら洋服やらがあちこちに散らばっていて、店とも住居ともオフィスともつかない。部屋全体が「まあどーでもいいんだけど」  という空気に満ちている。

「須賀さん、いらっしゃいますか?」

       すこし足を進めると、ビーズカーテンで区切られた部屋の奥の、ソファーが目に留まった。ブランケットにくるまったふくらみがある。

「須賀さん?」

       まっ白な長い素足がソファーからはみでていた。近づくと、足の爪はぴかぴかの水色に塗られていて、ヒールの高いごついサンダルを履いている。顔を見ると、若い女性だった。長いさらさらした髪が顔を隠している。小さな寢息が聞こえる。

「スガ……さん……?」

       なわけないよなとは分かっていつつも、僕はなぜか女性から視線をそらすことができない。デニム地のショートパンツがものすごく短い。髪の隙間から見える睫毛 [まつげ] が、そういうマンガのキャラみたいにものすごく長い。紫色のキャミソールの胸元が、呼吸でゆったりと上下に揺れている。僕はおもむろにしゃがみ込む。すると、胸元が目の高さに来る。

「……いやダメだろう人として」

       我に返った僕が目をそらしたのと、

「あ、おはよ」

       よいう声が降ってきたのは同時だった。

「うわあああっ」

       思わず叫んで直立する。いつの間にか女性がぱっちりと目を開けている。

「あっ、あのっ、すみません俺!」

「あー圭ちゃんから聞いてるよ」上半身を起こしつつ、けろりとした様子で女性が言う。「新しいアシスタントが来るって」

「え?  いや俺まだ――」

「私は夏美 [なつみ] 、よろしくね。あー、やーっと雑用から解放されるなー!」

       そう言って気持ちよさそうに伸びをする女性は、あらためて見るとものすごい美女だった。白くてすらっとしていて滑らかでバチッとしていて整っていて眩 [まぶ] しくて、テレビや映画の中のヒみたいだ。


「ねーねー少年さー」夏美さんと名乗った女性が、背中を向けたまま言う。

       バーカウンターの奥に十畳ほどのリビングがあり、どうやらここがこの会社のオフィススペースらしい。僕は椅子に座って、小さなキッチンで飲みものを用意する夏美さんの肩甲骨をさっきから眺めている。

「はい?」

「あのさー」

「はい」

「さっき胸見たでしょ?」

「見てませんっ!」

       思わずうわずった声が出た。夏美さんは鼻歌なんかを楽しそうに歌いながら、僕の目の前にアイスコーヒーを置く。

「少年、名前は?」僕の向かいに腰掛けた夏美さんがころりとした声で言う。

「森嶋帆高です」

「ホダカ?」

「ええと、船の帆に、高いって書いて……」

「ふーん、素敵な名前じゃん」

      僕はすこしどきりとする。素敵って誰かに言われたのって、もしかして人生初かも。

「夏美さんって、ここの事務所のですか?」

「え、私と圭ちゃんの関係?」

      須賀さんの名前はたしか圭介だったはずだと僕は思い出す。

「え、はい」

「ウケるー!」

       え、なんかおかしなこと言った?   夏美さんはひとしきり笑ってから、ふいに目を細めた。睫毛が目元に影を作る。上目遣いで僕の目を覗き込む。

「君のぉ、想像どおりだよ」

「えっ!」

       小指をぴんと立ててやけに色っぽく言う夏美さんを、僕は呆然 [ぼうぜん] と見つめてしまう。

       ……まじかー。苦いアイスコーヒーが、口の端から思わず垂れた。俺、愛人って初めて見た……

       その時、ガチャリと唐突にドアの開く音がして、

「おっ、来てるなあ?」のんびりした声がした。振り返ると、赤シャツ――須賀さんがビニール袋をぶら下げてべったべったと歩いてくる。

「久しぶりだなあ少年。ん?   ちょっと痩 [や] せたか?」

       そう言って僕に向かって缶を放る。キャッチするとそれはビールで、どういう意図なのか僕は一瞬戸惑い、すると夏美さんが素早く僕の手からそれを取りあげた。

「ちょっとぉ、もしかしてパチンコ?」

       そう言って夏美さんはプシュッとプルタブを開け、ほとんど同時に須賀さんも缶ビールを開け、二人は当たり前のことのようにごくごくと飲み始めた。なんだなんだ、この人たち昼から飲むのかよ。

「で、少年、仕事探してんだろお?」

       テーブル脇の低イソファーにどっかりと腰を下ろした下ろした須賀さんが、やけに嬉 [うれ] しそうに僕を見る。ソファーの下に積まれた雑誌から一冊を引っぱりだし、僕に掲げる。

「我が社の目下の仕事はこれ。歴史と権威ある雑誌からの、執筆依頼!」

『ムー』とかれたその雑誌の表紙にはピラミッドと惑星とおどろおどろしい巨大な瞳 [ひとみ] が描かれている。促されるままに僕はページをめくってみる。「遂 [つい] にコンタクト成功!   二千六十二年からの未来人」「総力特集   ゲリラ豪雨は気象兵器だった!」「入手した国家機密   東京を守る大量の人柱」。ネットのジョーク記事を五十倍くらいの生真面目さで論考してみましたがなにか?   的な誌面が続く。

「次の仕事は都市伝説でさ」心なしか半笑いで須賀さんが言う。

「とにかく人に会って目擊談や体験談を聞いて、記事にすりゃいいんだ」

「はあ……」

「簡単だろ?」

「え……ええ?   もしかして俺が!?」

「ジャンルはなんでもいいからさあ。神隠しとか予言とか闇の組織の人身売買とか?お前らガキはそういうの好きだろ?」

       須賀さんはそう言ってスマホを取り出す。記事リストがずらりと並んでいる。「空から魚」「徳川 [とくがわ] 家と仮想通貨」「トランプはAI」「火星地表にCDが」「スマホでチャクラ活性」「裏世界へのエレベーター」等々……

「身近なとこで、これなんかどう?」と、リストの一つを指さす。

「ネットで噂の『100%の晴れ女』」

「は、晴れ女?」

「私、晴れ女だよっ!」

       はいっと夏美さんが元気に手を上げ、須賀さんはそれを無視する。

「このところずっと雨続きだからな。連続降水日数更新とかテレビで言ってたし。だからまあ需要あるだろ、な?」

「はあ……」どう返して良いのか迷っていると、

「なんだよお前、主体性ねえな」と須賀さんは呆 [あき] れた声を出す。

「ちょうど午後から取材アポ取ってあるからさ、ちょうどいいや、ちょっと行って話聞いてきてよ」

「え、俺が?   今からですか!?」

       夏美さんがぱんっと両手を叩 [たた] いて

「体験入店だね!」と弾んだ声で言い、

「インターンだろ」と須賀さんが訂正する。

「少年、面白そうじゃない!   私も一緒に行ったげるからさ!」

「いやちょっと持ってくださいよ、急にそんなこと言われても俺まじで無理ですから――」


          *            *            *


「もちろん、晴れ女は実在します」

       それ以外の可能性なんてあり得ないという明朗さで、その取材対象者は言った。

「やっぱり!」

       夏美さんがきらきらした声で身を乗りだす。目の前に座っているのは若いのか老いているのかよく分からないおかっぱ頭の小柄な女性で、そういう種類の動物のようにカラフルで大ぶりのアクセサリーを全身にまとっている。

「そして、雨女も実在します。晴れ女には稲荷 [いなり] 系の自然霊が憑 [つ] いてて、雨女には龍神 [りゆうじん] 系の自然霊が憑いてるのね」

「え……はい?」

       なんの話なのか僕はふいに混乱する。隣の夏美さんが更に興奮していく気配がする。取材対象者――というかここは雑居ビルにある占い館なので、この人が晴れ女というわけではなく、職業占い師なのだと思う――は、目に見えない紙を読み上げるように淀 [よど] みなく続ける。

「龍神系の人は、まず飲みものをたくさん飲むのが特徴。龍だけにやっぱり無意識に水を求めちゃうのね」

       飲みもの?   と僕は思う。

「龍神系は気が強くて勝負強いけど、大雑把で適当な性格」

       性格?   さすがに取材意図と違う気がして言葉を挟もうとすると、

「え、それって私かな……」

       と極めて真剣な声で夏美さんが言い、僕は思わず彼女の顏を見る。

「そして稲荷系の人は勤勉でビジネスでも成功しやすいけど、反面、気の弱いところもあるのでリーダーには不向き。なぜか美男美女が多いの」

「それって私だっ!」疑問が解けた子どもみたいな夏美さんの声

「今は天の気のバランスが崩れてるから、晴れ女や雨女が生まてやすいの。いわばガイアのホメオスタシスね」

「なるほど!」

「でも注意しないと……!」

       ふいに占い師は声をひそめ、すすすと乗りだして僕たちを交互に見る。

「自然を左右する行為には、必ず重い代償が伴います。お嬢さん、なにか分かる?」

       いいえ、と言って夏美さんが生唾 [なまつば] を飲む。占い師の声が一段低くなる。

「天候系の力はね、使いすぎると神隠しに遭ってしまうって言われてるの!  ガイアと一体になってしまうのね。だから晴れ女や雨女の借金率、自己破產者数、失踪 [しつそう] 者数は有意に高いのよ!」

「それって……」夏美さんが眉 [まゆ] を寄せる。

「私、気をつけますっ!」

       帰り際、夏美さんは占い師から『人生の金運が開ける開運グッズ』を買っていた。


「――で、どうだった?]

       僕はため息の代わりにイヤフォンを外し、MacBookの画面から顏を上げた。事務所の蛍光灯を逆光に、須賀さんが僕を見下ろしている。

「……ボーカロイドみたいな声の占い師に、ラノベの設定みたいな話をえんえん聞かされました。力を使いすぎると消えちゃうとかなんとか」

       僕はメモと録音を元に、占い師の話を原稿にしているところだったのだ。「やっぱそっち系だった?」ニヤニヤと須賀さんが言う。なんだよ分かってたのかよ、僕は腹が立ってくる。

「だいたい天気って、龍神系とか稲荷系とかガイアとか性格とか美男美女とか、そういうのぜんぜん関係ないですよね?  前線とか気圧変化とかの自然現象ですよね?  晴れ女とか雨女とかって、ぜんぶ『そんな気がする』っていう認知バイアスですよね?  いるわけないじゃないですか!」

       僕がネットでググった正論をぶつけると、

「あのなあ」須賀さんはふいに苛立 [いらだ] ったような声になる。

「こっちはそんなのぜんぶ分かっててエンタメを提供してんの。そんで読者もぜんぶ分かってて読んでんの。社会の娯楽を舐 [な] めんじゃねえよ」

       僕は言葉を飲み込む。須賀さんはMacBookの画面を覗 [のぞ] き込み、僕の書きかけの原稿を読んでいる。――そういうもんなのか。僕は実はうっすらと感動してしまっている。ぜんぶ分かってやっている。社会の娯楽を舐めんじゃねえよ。

「まだこれしか書けてねえのかよ遅 [おせ] えなあ」

       顏を上げた須賀さんに言われ、すみません、と反射的に頭を下げてしまう。

「……でもまあ、文章は悪くねえな」

       ぼそりと言われたその言葉に、あめ玉をもらった子どもみたいに嬉 [うれ] しくなった。僕は中学の頃から小説めいた文章を書くことが好きで(誰にも言ったことはなく、まだ完成した作品と呼べるものは一編もないけれど)、文章を書くことにはささやかな自信があったのだ。それにしても――この人といると気持ちがジェットコースターみたいに上下することに、僕は気づく。

「おっし、少年採用!」

「え……ええ!?  ちょっと持ってくださいよ、俺やるなんてひと言も――」

       まだ採用条件も給与内容もなにも聞いていないのだ。バイトを探しているのは確かだけど、こんな怪しい事務所で――。

「この事務所に住み込み可」

「え?」

「飯付き」

「……や、やりますっ!  やらせてくださいっ!」思わず前のめりに言っていた。欲しいものだけが詰まった福袋を見つけたように、他の誰にも渡したくない気持ちに僕は急になっている。須賀さんは嬉しそうに、「そうかそうか!」と僕の背中をばんばんと叩く。

「で、君、名前なんだっけ?」

「え?」気持ちがからんと冷める。ちょっと持てよおい、名前も覚えていない人間を雇おうとしてたの?

「ウケる!」

       キッチンの夏美さんが笑って僕たちを見、

「帆高くんでしょ」と言いながら料理を運んでくる。

「あ、俺手伝います!」

       大量の唐揚げに白髪葱 [しらがねぎ] と大根おろしがたっぷり添えられた大皿。トマトとアボカドと玉ねぎのサラダ。牛肉やセロリやマグロがはみでた手卷き寿司 [ずし] 。急に、強烈にお腹がすいてくる。ほら、と須賀さんから渡されたのはやはり缶ビールで、僕はもうなにも言わずにコーラの缶と取り替える。

「おーっし、帆高の入社を祝しまして!」

       須賀さんと夏美さんが揃ってプルタブをプシュッと開け、僕も慌ててコーラを開ける。

「かんぱーい!」

       がちんがちんがちんと三本の缶がぶつかる。

       すげえ強引な人たちだなあと呆 [あき] れながらも、誰かと一緒に夕食を食べることがずいぶん久しぶりであることに、僕は唐揚げを噛 [か] みながら気づく。その事実と唐揚げの美味 [おい] しさになんだかちょっと泣きそうになってしまう。須賀さんも夏美さんもものすごい勢いでお酒を飲み続けて当然すみやかに酔っ払っていき、編集者の愚痴やネットのゴシップで盛り上がり、僕の今までの身の上話も強引にさせられて、それはくすぐったくはない場所をずっとくすぐり続けられているような――たとえば頭の後ろを誰かの優しい手で搔 [か] き続けられているような、不思議な感覚を僕に残した。それはぜんぜん不快ではなかった。ずっと未来、自分が老いて孫を持つような歲になった時にも、僕はこの雨の夜のことをふいに思い出すのではないか。そんな不思議な予感があった。

       このようにして、僕の東京での新しい毎日が始まったのだ。


~完~

第一章 島を出た少年的评论 (共 条)

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