《樱之诗》重要选段:直哉与明石姐妹论相信
小牧は、屋上の縁を歩いて行く。
小牧沿着屋顶的边缘向前走去。
【小牧】「満開の季節だと、弓張の丘の桜が一望出来るのですよ……」
「到了盛开的季节,就能够一眼望尽弓张山的樱花哟……」
【直哉】「そうだろうな。というか、この病院の旧棟はほぼ弓張の丘の中に立っているといってもいいぐらいだ」
「应该是吧。话说,这家医院的老楼简直可以说几乎就矗立在弓张山的中央」
さぞかし、ここから見える桜は綺麗だろう。
想必,从这里看见的樱花一定很漂亮吧。
【小牧】「真夏の弓張の丘には桜は見えませんけどね……」
「虽说盛夏的弓张山上是看不见樱花的呢……」
【直哉】「真夏に桜が咲いてたら異常事態だろ……」
「要是樱花在盛夏开放的话就是异常事态了吧……」
【小牧】「<r ジュウガツザクラ>十月桜</r>、<r フユザクラ>冬桜</r>、<r シキザクラ>四季桜</r>、<r コブクザクラ>子福桜</r>……狂い咲きじゃなくても咲く桜はあります」
「十月樱、冬樱、四季樱、子福樱……即使不反季也会【在春季以外的季节】开放的樱花是有的」
(译者注:这些都是花期有春秋两季的樱花品种。)
【直哉】「弓張の丘に春以外に咲く桜があるなんて聞いた事ないぞ?」
「没听说过弓张山上有会在春季以外的季节开放的樱花哦?」
【小牧】「そうですね。十月桜、冬桜、四季桜、子福桜……そんな種類の桜が植えられてるなんて聞いた事ありません。自生だって聞いた事ありません……」
「是呢。十月樱、冬樱、四季樱、子福樱……那种品种的樱花,没听说过这里有种植。也没听说过有野生的……」
【直哉】「だったら、真夏に咲く桜は完全な狂い咲きだな……」
「这样的话,在盛夏开放的樱花就是完完全全的反季花了呢……」
【小牧】「そうですね……真夏に咲く桜なんて無いですよね……」
「是呢……在盛夏开放的樱花什么的,根本就没有吧……」
【小牧】「千年桜を見たなんて、草薙さんだって信じませんよね……」
「看见过千年樱什么的,草薙同学也不会相信吧……」
【直哉】「お前は見た事があるのか?」
「你看见过吗?」
【小牧】「はい……私は夏の桜を見た事ありますよ」
「对……我看见过夏樱哟」
【直哉】「なるほど、千年桜をお前は見た事があるのか……」
「原来如此,你看见过千年樱吗……」
【小牧】「信じませんよね……普通……」
「不会相信吧……一般来说……」
【直哉】「どうかな……」
「是怎么样呢……」
【直哉】「信じたく無くても、見てしまう事だってあるしな……」
「就算不愿相信,可毕竟你也看见了呢……」
【小牧】「どういう事ですか?」
「什么意思?」
【直哉】「お前は太陽が東から昇るのを見た事がないのか?」
「你没看见过太阳从东方升起吗?」
【小牧】「ありますよ。それがどうしたんですか?」
「见过啊。怎么了吗?」
【直哉】「太陽は空をのぼり、西の空に沈んでいく……
この大地を回っている」
「太阳升上天空,然后在西方落下……
绕着这片大地旋转」
【直哉】「いつでもそんな光景を俺たちは見ているが、
それを見て、誰も太陽が地球の周りを回っているなんて考えないだろ?
俺たちは地球が太陽の周りを回っている事を知っている」
「我们总是看着这样的光景,
但看见它,谁也不会认为太阳绕着地球转吧?
我们都知道地球绕着太阳转」
【小牧】「意味分からないわ。どういう事よ」
「听不明白耶。什么意思啊」
【直哉】「見たものがそのままなわけでは無い。目にしたものがそのまま事実であるというわけでもない」
「并不是所看见的就是原本那样。也并不是说眼睛所见的就照原样是事实」
【直哉】「だから、お前が見た事実を否定する理由はない。それが弓張伝承の千年桜かどうかは知らんが、お前は不思議な桜を見たのだろう」
「所以,没有理由否定你所看见的事实。虽然不知道那是不是弓张传说中的千年樱,但你应该是看见了不可思议的樱花吧」
【小牧】「くす……、神父さまとまったく逆な事をおっしゃるのですね」
「噗嗤……你说的和神父大人完全相反呢」
【直哉】「神父はなんと言ったんだ?」
「神父是怎么说的?」
【小牧】「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」
「因为你看见了我,才相信吗?那些没有看见而相信的,才是有福的!」
(译者注:译文引自天主教《思高圣经》,选用此译本是因为弓张学园在传统上是天主教学校。)
【直哉】「良く分からんが、聖書か?」
「虽然不是很明白,这是圣经吗?」
【小牧】「よく分かりましたね。はい“ヨハネによる福音書20章29節”キリストの復活に際しての一節です」
「你很明白呢。没错,这是“若望福音20章29节”,基督复活之际的一节」
【直哉】「よく分かったも何も神父が言いそうな事といったら聖書しかないだろ……、
すまんが、聖書に対して素養が無いので何の事だかさっぱり分からん」
「什么“很明白”,说到像是神父所说的话,就只有圣经了吧……
抱歉,我没有圣经方面的素养,所以一点也不明白说的是什么」
【小牧】「トマスという人が十字架にかけられた刻印がある姿を見るまでは、キリストの復活を信じないと言い張った時のお話ですよ」
「一个名叫多默的人坚持说,除非看见耶稣身上带有被钉十字架的印记,否则决不相信耶稣复活,就是那个时候发生的故事哟」
(译者注:参见若20:24-25:“十二人中的一个,号称狄狄摩的多默,当耶稣来时,却没有和他们在一起。别的门徒向他说:「我们看见了主。」但他对他们说:「我除非看见他手上的钉孔,用我的指头,探入钉孔;用我的手,探入他的肋膀,我决不信。」”)
【直哉】「なるほど、その目で見るまで、その真実を確認するまで“信じない”者と、信仰からイエスの復活を信じる者の差という事か……」
「原来如此,也就是说,除非亲眼看见、除非确认真相否则“决不相信”的人,和因为信仰而相信耶稣复活的人,这两者的差别吗……」
【小牧】「良く分かりましたね」
「你很明白呢」
【直哉】「お前が千年桜を見た時……神父はその話をしたのか?」
「你看见千年樱的时候……神父说了这话是吗?」
【小沙智】「誰も信じてくれなかったからね。
それどころか、小牧をみんなで嘘つき呼ばわりした」
「因为谁也不相信呢。
相反,大家都把小牧称作骗子」
【小牧】「あはは、私も私で、見た物を見たって言い張ったからね。
みんなが違うって言うのなら、見てないと言えばいいのにね……」
「啊哈哈,因为我也坚持说看见了所看见的东西呢。
既然大家都说我弄错了,明明说没看见就好了呢……」
【小沙智】「でも、小牧は見たと言った。
夏の夜に咲く桜を見たと言った……」
「但是,小牧还是说她看见了。
说她看见了在夏夜开放的樱花……」
【直哉】「なんだ? それでいじめられたりしたのか?」
「怎么了? 所以被欺凌了吗?」
【小牧】「いじめられたりはしなかったけど……」
「被欺凌倒是没有……」
【小沙智】「嘘つきよばわりされた……」
「但被称作骗子了……」
【小沙智】「その時に神父様が言ってくださったのが……」
「那个时候神父大人对我们说的是……」
【小沙智】「奇蹟を信じるとは、目で見る事でも、耳で聞く事でも、その場にいる事でも、確証でも無く、ただ信じる事」
「所谓的相信奇蹟,不是眼睛看见,不是耳朵听见,不是身在现场,也不是证实,就只是相信而已」
【直哉】「何でも信じてたらバカだけどな……」
「虽说什么都相信的话就太蠢了呢……」
【小沙智】「何よそれ」
「什么意思啊你」
【小牧】「いいえ、小沙智ちゃん。その通りだよ」
「不,小沙智酱。正是如此哟」
【小沙智】「小牧」
「小牧」
【小牧】「信じるという事は、目で見る事でも、耳で聞く事でも、その場にいる事でも、確証する事でもない……ただ信じる事」
「所谓的相信,不是眼睛看见,不是耳朵听见,不是身在现场,也不是证实……就只是相信而已」
【小牧】「でもそれは何でも信じる事ではない。
ただ単に、むやみに、考える事をやめるために信じる事ではない。
考えるのをやめるために信じるのは怠惰」
「但是那并不是什么都相信。
并不是单纯地,轻率地,为了停止思考而相信。
为了停止思考而相信乃是怠惰」
【直哉】「言葉の先、語る事すら出来ないその先にある何か、そんなものを信じるのが信心という感じか?」
「在话语的前方、连说都不可说的那个前方存在着的什么,相信那种东西才是信神之心,是这种感觉吗?」
【小牧】「だいたいそんな感じですね」
「大致就是那种感觉呢」
【直哉】「でも、神父は神を信じる心と同じで、お前の言葉を信じたわけではないだろ? だったら“ヨハネによる福音書20章29節”は少し的外れだな」
「但是,神父并不是以和相信神的心相同的心,相信你的话的吧? 既然如此“若望福音20章29节”就有点离题了呢」
【小牧】「そうでしょうか?」
「是这样吗?」
【直哉】「違うのか?」
「不是吗?」
【小牧】「さぁ、難しい事は分かりません。
たしかに神の奇蹟を信じる事と、子供の私の言ってる事を信じるのは違います。それが間違いなく違う事ぐらいは私でも分かります」
「谁知道呢,难懂的事情我不明白。
的确,相信神的奇蹟和相信我这个孩子说的话是不一样的。就连我也明白它们无疑是不一样的」
【小牧】「だけど……
だけど……それでも神父さまはこの言葉を私達にくれました」
「但是……
但是……尽管如此神父大人还是将这句话送给了我们」
【直哉】「そうだな……」
「是呢……」
【直哉】「難しい話は良く分からん。
ただ言える事は、人が何かを信じるという事は、最終的に“演繹”でも“帰納”でも“確証”でも“反証”でもないのだろう」
「难懂的事情我不是很明白。
我能说的只是,所谓的相信什么,最终说来不是“演绎”、不是“归纳”、不是“证实(verification)”、也不是“证伪(falsification)”吧」
【直哉】「人は生まれた瞬間から“疑う”事を知ってるわけではない。疑いを知らない者が“信じる”事など知るはずもない……。
人は“信じる”を知る事によって“疑う”事をはじめて知る事が出来る」
「人并不是一生下来就知道“怀疑”的。不知道“相信”的人根本不可能知道“怀疑”……
人由于知道“相信”,才第一次能够知道“怀疑”」
(译者注:参见维特根斯坦《论确定性》第160节:“孩子通过相信成年人来进行学习。怀疑出现在相信之后。”)
【直哉】「信じるというのは、いつだって何の確証もないもんなんだろうな」
「所谓的相信,总是什么确定的证据也没有吧」
【小牧】「あはは……草薙さんの言う事の方がよっぽど難しいですよ」
「啊哈哈……草薙同学说的话要难懂得多啊」
【直哉】「そうだな……
うまいことまとめようとしてまったく全然だ……」
「是呢……
要把想法巧妙地概括出来根本完全办不到……」
【直哉】「神を信じる事と、お前の言う事を信じる事には大きな隔たりがあるが……、
でもたぶん同じなのだろう。
違っていながら、同じ事なのだろうな……」
「相信神和相信你说的话之间有很大的差距……
不过大概是相同的吧。
虽然不一样,但却是相同的吧……」
【小牧】「はい」
「没错」

