【熟肉渣翻】「山根綺のほんとのところ。」#3 わたしのことが嫌いな私へ

【前言】大家好,这次带来的是第三篇的熟肉。这一篇讲述了ややさん关于自我肯定与否定的思考,对于中学时代有过相似经历的我来说还是感触颇深的,尽管最终解决问题的方式与其中的思考方法不尽相同,在读完此文之后还是让人感叹的确是颇具ややさん风格的一篇随笔。或许所谓的自我肯定不是追求完美的自己而是学会接纳不完美的自己;与其对应的,自我否定也不一定是消极的而可以是支撑自己走下去的原动力之一。

我并不很喜欢我自己。
所谓的“不喜欢”,
和“对自身缺乏自信”有些许不同。
我虽然有着能够让我喊出“我能行!我绝不认输!”
等一类话语的基于自身能力的自尊心,
但我几乎没有如“不管什么样的我都最棒最可爱!我有着被爱的价值!”一般,
无条件地能爱上本我的自我肯定感。
这一理由可以追溯到我的童年时期。
不知是幸运还是不幸,我是作为一个“什么都能做一点”的
“THE半桶水小姐”降临在这世上的。
虽然没有什么完全做不到的事,但也没有什么很擅长的事。
我曾经是这么一个小孩。
在学校没有什么放松身心的空间的我,
自然而然地开始把视线投向了学业。
只要做一个好孩子,只要德智体美全面发展,
妈妈、学校的老师和我最喜欢的补习班的老师就会夸奖我。
我要是取得好成绩的话他们就会很高兴,会为我感到喜悦。
我逐渐开始对这一系列的来自大人们的评价产生了一种执拗的追求。
为了不被骂,为了能被夸奖。
上初中之后我的这一执念肆意生长,
只要能拿出好的结果,
我就会有我的容身之处。会有我的存在价值。
依赖于大人们的评价并沿着他们为我铺设好的轨道埋头跑着的我,
一直都在为了某个人而活着。
从高中的开学典礼起,这一现状出现了改变。
仅仅通过综合评价分和面试而得以升入重点高中的我,
在穿过校门的那一瞬间,
内心中生出了一种朦胧的不协调感。
这是一种和日常生活中的每一天都明显不一样的感觉。
我莫名察觉到自己的栖身之处不是这里。
这里的风景和人,无一不给我一种人造感。
我明明醒着却如同仍在梦中一般喃喃道:
“我现在在干些什么呢……”
我开始怀有一种另一个我在看着别人的人生一样的感觉。
高中的第一节课是从水平测验开始的。
考试结果十分差强人意。
不论是哪一科目我连一半都没写出来,
与之相对应的是结束后周围的同学都在笑谈道:“总感觉很简单啊~”。
人外有人啊。
在人生第15年的春天,未曾尝过“做不到”的滋味的我第一次遭遇了挫折。
这之后,我开始习惯性地逃课、晚归,
过着手上拿着吉他向音乐寻求慰藉而逃避的日子。
这时的我就算是想要学习也完全学不进去,
就算花好几个小时将自己按在桌前学习,第二天也全部忘光。
我心中的不协调感不断地增加,
我开始感觉不到些许的寒冷与暑气,乃至痛觉也变得迟钝,
那是我所望见的世界不断褪去其应有的色彩的每一天。
早晨的到来意味着我的人生又将开始。
“我是为了想做什么才活着的呢?”
“我是为了什么才不得不学习的呢?”
“我是为了谁才活着的呢?”
在高三的暑假,
这一不协调感
在苟活着的小小山根的心中不断膨胀。
与之伴随的是我终于卧床不起。
我一直都想成为某个他人。
要是像那个孩子一样学习好的话;
要是像那个孩子一样好看的话;
要是像那个孩子一样有才能的话,
我是否就有价值了呢?
我是否就有活着的意义了呢?
我到底是谁呢?
在这单调重复着自问自答的每一天中,
我为了找出真我,
而在纸上写出了我想要做的事和将来的梦想。
这一来首先出来的是“声优”。
我鼓起勇气走向室外并第一次体验了演戏,
在这不必做自己也无妨的这一刻诞生之时
我感受到了前所未有的放松。
“啊啊…要是一直做这个做下去的话或许就不会痛苦了。”
我的人生终于开始了。
最近被越来越多周围的人说成是努力家或者是禁欲主义者。
虽然这让我与有荣焉,
但我完全不认为我自己是禁欲主义者。
人外有人,才能上的欠缺必须用努力来补足。
不这样做的话梦想就无法实现。
想要的东西也无法得到。
我所做的只不过是让自己意识到这一现实罢了。
演戏、音乐和自我表现中蕴含着无限的可能性。
我认为喜欢某物、某人的这一感情是十分特别的。
所以YAYA担的各位,
为了自己也好,请让自己幸福吧。
因为你的一切都是独属于你的啊。
致曾经讨厌我自己的我:
我的人生是属于我自己的。
我自己的幸福也有我自己决定。

私は、自分ことがあまり好きではありません。
この“自分のことが好きじゃない”は、
“自分に自信が無い”とは少し違っています。
私なら出来る、絶対に負けない、といったような
能力に依存した自尊心、自身は持つことができるのですが、
どんな私でも最高!可愛い!愛される価値がある~!といったような
ありのままの自分を無条件に好きになれる自己肯定感は、
ほとんどありません。
理由は、私の幼少期にあると思います。
私は幸か不幸か“何でもそれなりに出来てしまう”
「THE器用貧乏タイプ」としてこの世に召喚されました。
できないこともそんなにないけれど
とりわけできることも特に無い。そんな子供でした。
学校に居心地の良い場所があまり無かった私は
自然と学業へ意識を向け始めました。
良い子にしていれば、勉強や運動ができれば、
母や、学校の先生や、大好きな塾の先生が褒めてくれる。
良い成績を取ったら嬉しそうにしてくれる。喜んでくれる。
そんな大人からの評価に、
少しずつ執着していくようになりました。
怒られないように、褒めてもらえるように。
中学校に上がるとその思いはどんどん加速していき、
良い結果を出すことができれば、
自分の居場所がある。存在価値がある。
大人からの評価に縋り、
敷いてもらっていたレールを無心で走っていた私は
ずっと、誰かのために生きていました。
変化があったのは高校の入学式
内申点と面接だけで進学校に進んだ私は、
校門をくぐった瞬間、
心に微かな違和感を覚えました。
いつもの日常、毎日とは明らかに違う感覚。
なんとなく自分の居場所はここじゃないような気がする。
景色や人、全部が作り物みたいに感じる。
起きているのに夢の中にいるみたいで
「今、私は何をしているんだろう…」
まるで誰かの人生を、もう1人の自分が見ているような
そんな感覚を持ち始めました。
最初の授業は、まず学力テストから始まりました。
結果は散々。酷いものでした。
どの教科も半分以上解くことができず、
終わった後、周りの子は「なんか簡単だったね~」と
笑顔で話していました。
上には、上があるんだ。
「出来ない」を知らなかった15年目の春、
私は初めて挫折をしました。
授業にもほとんど出ず、家に帰るのも遅く
ギターを片手に音楽に逃げ続ける毎日。
勉強しようとしても何も頭に入らず、
何時間机に向かっても、次の日には全部忘れてしまう。
心の違和感はどんどん増していき、
少しずつ寒さや暑さ、痛みを感じられなくなり
見えている世界がどんどん色褪せていく日々。
朝が来たら、また私の人生が始まってしまう。
私は、何がしたくて生きているんだっけ。
何のために勉強しなきゃいけないんだっけ。
誰のために、生きているんだっけ。
どんどん膨らんでいく心の違和感と共に
ただ息をしていたリトル山根は
高3の夏休み、
ついにベッドから起き上がれなくなりました。
ずっと、誰かになりたかった。
あの子みたいに勉強が出来て、
あの子みたいに見た目が良くて、
あの子みたいに才能があったら
わたしには価値があるのかな。
生きている意味があるのかな。
わたしって、誰だったっけ。
自問自答を繰り返す日々の中で
私は本当の自分を探すために
やりたかったこと、将来の夢を紙に書き出してみました。
そうして一番最初に出てきたものが「声優」でした。
勇気を出して外に出て、初めてお芝居をして、
自分でいなくてもいい時間が生まれた瞬間に
心がすごくすごく楽になりました。
「あぁ、これをずっと続けていたら苦しくないかもしれない」
やっと、私の人生が始まりました。
最近周りの方に、努力家だね、ストイックだねと
言っていただくことが増えました。
とても有り難く光栄なことなのですが、
私自身は、自分がストイックだとは全く思いません。
上には上がいて、足りない才能は努力で補わなければならない。
そうしないと夢は叶わない。
欲しいものは手に入らない。
その現実を自分で思い知っただけなのです。
お芝居や音楽、自己表現には、無限の可能性があります。
何かを、誰かを好きな気持ちは本当に特別なものだと思います。
だからやや担さん、
自分のために、自分を幸せにしてあげてください。
あなたの全ては、あなたのものだから。
わたしのことが嫌いだった私へ
たとえ何者にもなれなくても
自分のことが好きじゃなくても
生きてさえいれば、ちゃんといいことがあるよ。
私の人生は、私のものだから。
わたしの幸せは、わたしが決めるのだから。