武士道のレトロスペクティブ・コンストラクト
1970年11月25日、三島由紀夫は遺稿を発表した後、自衛隊の総監を拉致した。 そして、総監室で自衛官800人を前に演説し、戦後アメリカが作った日本を縛る憲法を倒し、アメリカを追い出し、天皇と日本の伝統を守り、真のサムライになることを呼びかけた。 しかし、彼の訴えに応じる者はなく、将校や部下たちからは "正気か?"と笑われた。 そして、三島は武士の伝統である「切腹」を実践し、その生涯を閉じた。三島は「日本最後の切腹した武士」として歴史に刻まれ、そのイメージは彼のすべてを覆い隠している。 なぜなら、日本の武士の伝統である「切腹」は、戦後、跡形もなく消えてしまったからである。幕府時代以降、切腹は武士にとって一番大事な儀式だった。 武士は、人間の魂は腹部に宿ると考え、腹部を切り開いて魂を解放し、忠誠を示せば、どんなことをしても他人の許しを得て、自分も解放されると考えた。 中国にも「死者は尊い」ような言葉がある。 しかし、この倫理観は、現代人の私たちには正しく不条理である。 第二次世界大戦という象徴的な出来事の後、武士道伝統は、国内外を問わず広く反省され、あるいは疑問視されるようになりました。 罪を犯して自殺することで本当に世の中の理解を得ることができるのだろうか。 罪を犯した人が、ただ自殺するという行為によって、本当に名誉ある勇者になれるのだろうか? 日本が悠久なる武士道文化の高貴な例である切腹は、果たして何を意味し、その意味するところとどのような関係にあるのだろうか? 小林正樹監督は、映画切腹で、三島が知っている武士道とは異なる側面を出しています。 映画切腹は、老武士である津雲半四郎が、復讐のために地元の名門井伊家へ赴く姿を描いた作品である。 江戸時代初期、日本が平和になるにつれ、豪族が雇う侍は少なくなり、多くの侍が浪人となり、生活のために雑役をこなさなければならなくなりました。ある日、一つ浪人がある大家の玄関先にやってきて、切腹を願い出ました。大家主はその誠意に感動し、自分の家に引き取りました。 しかし、その後、そういう行為を真似る浪人たちがどんどん増えていました。 一家はそんなに多くの浪人を受け入れることができないので、いくらかのお金を持って浪人たちを送り出した。 ところがある日、井伊家の沢潟彦九郎が、このままではいけないと思い、同じ日に井伊家の門前に千々岩求女という侍がやってきて、切腹を申し込みました。 その直後、求女は井伊家が本当に切腹させるつもりであることを知り、家臣たちの前に「やり残したことを処理するために2日間だけ時間をください」「その後必ずここに戻って切腹する」と承諾しました。彦九郎は、マジ武士は約束を守るべきで、守らない限り必ず詐欺師であると思い、求女の要求を拒みました。求女は手詰まり、切腹するしかない。しかし、彼の刀は竹刀でした。 途中で求女は彦九郎に介错を頼んだが、彦九郎はどうしても最後までやり遂げたいけど、ついに我慢の限界に至り、舌を噛むことで自殺しました。 夜中、彦九郎は求女の遺体を自宅へ持ち帰りました。 求女の舅である津雲半四郎は、家計が困窮だから、心ならずも求女を借金をさせたことは知っていたが、求女が殺させることが受け入らないでした。 数日後、娘と孫の二人も絶望と病気で亡くなりました。 半四郎は一人で井伊家を訪れ、切腹して人生を終わりたいと願い出ました。当主は最近江戸の状況を話したが、半四郎がなお切腹してやり続けているのを見て、彼も了承しました。 半四郎は彦九郎に介錯人を指名したが、そして当主は彦九郎を家に呼び寄せ、待つ間、半四郎は井伊家の家臣たちに自分のことを話しました。彼は、井伊家の行動があまりにも独断的で、事前に求女が苦しむ理由を聞いていれば無駄死にしなかったと思いました。 家臣たちは腑に落ちないが、しかも、あくまで求女と同じような武士の身分を侮辱している詐欺師だと半四郎を誹りました。 半四郎は求女がマジ武士であり、家族の重荷を背負い、妻を癒し、子供を育てるために、いわゆる威厳を捨てて、侍の命である刀まで売って金にしたのだと家臣たちに反論しました。 ところで、早く着くはずだった彦九郎がなかなかこないというのは、彼は半四郎が井伊家に来る前にの武士決闘で半四郎に負かさせれ、そして武士の象徴である髻も切られったからだ。 半四郎はそういうことを言いつつ、彦九郎の髻を井伊家の家臣たちの前に投げ掛けました。怒りに燃えることになる家臣たちは刀を振り上げ、恥を隠すために半四郎を殺そうとしたが、半四郎は反撃して多くの家臣を倒したが、それでも身動きがとれず、袋小路に追い込みました。 求女の汚名を晴らす希望がないと見た半四郎は刀を取り、切腹を覚悟するが、その瞬間、到着したばかりの,武士が最も軽蔑する武器であるマスケット銃を持った家臣が、半四郎を撃ち殺しました。 この悲劇的な物語は、「切腹」の裏にある武士道文化の偽善を強烈に示しました。 监督小林正樹は、半四郎父子と井伊家をそれぞれ武士道精神と武士道文化の象徴とし、その溝を悲劇で表現していました。 忠義、勇気、献身といった武士道精神から生まれた切腹という行為は、次第にその良さを表現するものとなっていき、それなのに、この表象はレトロスペクティブ・コンストラクトの結果である。 過去、切腹するの文化を作り上げた武士たちは、歴史に積極的な人間像を残していました。 ですが、武士たちは完璧な人間ではありませんでした。 彼らが選んだ切腹することは、まさにみっともない武士の末路に、最後の体面を守りたいでした。 本能寺の変で、清水宗治は豊臣秀吉に高松城で包囲されました。 秀吉は、城を惨殺されない代わりに自分で切腹するか、秀吉が城を攻めて宗治の体をばらした後に惨殺するか、そういった二つの選択肢を宗治に与えました。 宗治はやむを得なくて切腹しました。そのうえで秀吉は政治的な理由を考え、宗治の切腹行為を「武士の模範」と褒め称えました。 そのことから知り得ることは、武士の美質は敗者である宗治に属するものではなく、勝者である秀吉が彼に加えたものです。 この美質は、宗治の敗北が取り返しの全然つかないものであるから、即ち構造的に他者と距離を置くことによって、他者が宗治を武士の模範に思わりました。つまり、前の人が武士として失敗したからこそ、武士の模範を形作ることだと感じられることができます。 切腹の物語に戻ると、井伊家が江戸の名門や武士階級の代表であったが、それはマジ武士である半四郎父子を陰で迫害していたからである。家臣たちは、半四郎父子に起きた事件の真相が公になれば、井伊家が歴史から受け継いできた武士の代表としての社会的正統性が失われることを知っていたからである。結局、井伊家は真実を隠し、家書に嘘を記し、忠実で勇敢な武士の半四郎父子は、武士道文化の犠牲者になりました。 このシーンは衝撃的であると同時に、永遠のパラドックスを投げかけていました。マジ武士は武士の姿で紅塵に現われることはできない、武士の死でこそ武士を高台の上にそびえ立つことができる。 映画の最後、井伊家に引き抜かれたマスケット銃を前にして、半四郎が切腹することは、マジ武士になり、井伊家よりもはるかに大きな朽ち果てた武士道文化に挑戦する決意だ。その瞬間、彼は風車に向けて突撃するドン・キホーテになり、不敗の武士道文化を根底から揺さぶりました。 小林正樹は、武士道文化の構築という逆説的な輪廻に対する考えに促すために、半四郎の物語を利用しました。 彼が半四郎を作り、半四郎も彼をお互いに及ぼしました。 切腹の映画を構想する際、彼は同じような文化に突き動かされ、第二次世界大戦で海上で消えていった若者たちのことを思い浮かべたはずだ。 あの若者たちは、まるで千々岩求女のように、次から次へと出てくれました。 三島は日本最後の切腹した武士として知られているが、恐らく「最後」ということはもともとありません。 参考文献 1 小林正树.《切腹》 2 高桥昌明.《日本武士史》 3 斯拉沃热齐泽克.《意识形态的崇高客体》《视差之见》《幻想的瘟疫》 4 雅克拉康.《拉康选集》