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【个人翻译】森鸥外《Vita・Sexualis》(「ヰタ・セクスアリス」第一部分)

2023-02-05 13:49 作者:文字祸  | 我要投稿


ヰタ・セクスアリス[1]

森鷗外[2]


作者介绍

 

森鸥外


森鸥外(MoriOugai,1862-1922),文学巨匠,翻译家、记者、军医。早年留学德国,以此为背景写下代表作“留德三部曲”(《舞姬》、《水沫记》、《信使》)及《雁》等小说,作品风格异常多样。 其一生成就卓然,身为陆军部医疗局局长及记者,思想政治主张对国家负责,同时倾心于医学事务和文学的启迪、批判和报道工作,并翻译传播欧洲文学作品,晚年则致力于历史研究。这种多面性在日本现代文学学者中无与伦比,也使他在文学史上与夏目漱石齐名。


注意:本译文保留原文所有的舶来词汇,所有注释均为本人注。因个人能力等因素,如有疏漏译错,还望海涵。

 

 

Vita・Sexualis


    今井湛从事哲学工作。


    说到哲学者这个概念,印象中通常都是会写些书啊什么的。今井君虽说从事着哲学工作,却有一个怪癖,那就是什么书不写。他在文科大学毕业的时候,由于研究课题是旁道哲学与Sokrates[1]前的希腊哲学之间的对比研究,倒是写了些比较奇怪的东西。但在这之后,就什么都没写过了。


    不过,出于职业的缘故他还是要教书。讲座主要以哲学史之中的近代哲学史为内容。根据学生们的评价,相比于那些著书尤多的教书先生,今井老师的课显得更加有趣。他的课,就像投射于某物上的光线般直观。这样一来,就给学生们留下了难以磨灭的印象。他能通过关系疏远的、或者是没有任何联系的东西来对某样事物加以说明,很多时候都让听者恍然大悟。据说Schopenhauer[2]会把报纸杂志之类的闲谈放在记录本里,作为自己的哲学参考材料来备用,今井君则是把一切东西都当作哲学史的材料使用了。在严肃的课堂上,他有时会把在年轻人里时兴的像小说一类的东西加以引用,常把学生们惊得目瞪口呆。


    今井君读过不少小说。在看报纸杂志的时候,他不爱看上面的议论,只看小说。但要是给作者知道他为什么读小说,怕是要被气得不轻了。他并不是把小说作为艺术品看待的。他对艺术品有着极高的要求,而杂志报纸上登的小说并不能满足。今井君呢,他更在意作者是以什么样的心理状态来写东西的。这样一来,作者以悲伤或是悲壮的心情写的东西,在他看来是极度的滑稽;作者以滑稽的态度写的东西,在他看来又变得悲伤起来。


    今井君偶尔也会生起写些什么东西的想法。虽然从事哲学工作,但他本就没有建设自己学说的打算,也就不写哲学相关的东西了。他更想试着写写小说或者剧本。但就像之前提到的那样他对艺术品抱有的极高要求,所以进行得并不是那么顺利。


    那时候[3],夏目金之助[4]君写了一篇小说。今井君抱着极高的兴致拜读一番。读完后跃跃欲试。于是他对应着夏目君的那篇《我是猫》,写了篇《我也是猫》出来。甚至还写了篇《我是狗》。最后今井君看着自己写的东西越看越嫌弃,就什么都不想写了。


    这时,有种叫自然主义[5]的东西开始兴起。今井君在看了这个流派的小说之后,又觉得手痒起来。这些小说要说有趣的话那确实挺有意思。但觉得有趣的同时,今井君也升起了奇怪的想法。


    每次今井君读了自然派的小说之后,他发现作品中的人物,无论衣食住行人生起落,总要伴随着性欲相关的描写呈现,并看到大家对此的评价都一致认为,这是对人生的一种活灵活现之后,他开始思索人生究竟是否果真如此,会不会只是自己有别于一般人的心理状态对性欲极其冷淡,天生就带着异常到要专门给它取个像frigiditas[6]这样的名字的性癖呢。这样的想法,在看zola[7]的小说时也常常浮现。但那可以说是比较Germinal的,就像是是劳动者群落里的人,在写到所经历的极度困厄时,非要去偷窥某对男女的密会一样吧,他是这么想的,但同时还有这样的疑惑:为什么偏偏是这种片段,作者像是有意为之般进行描写呢,这怎么想也不像是无心之举。就算确实如此,那么又令人疑惑的是,作者为什么要写这部分呢。简单来说,就是思考作者本人对性欲的描写到底是否反常。毕竟小说家啦诗人啦,保不准有性欲上的异常。这种问题跟Lombroso[8]等人所说的天才问题之间存在一定关系。Möbius一派的人,片面地将有名的诗人和哲学者们总括起来,将他们和精神病人混为一谈,也是基于这个论调。但是,日本最近兴起的自然派与其截然不同。大批作者一时写起了同样的东西。对此,有评价的声音认为这是对人生的展现。而用精神病学者的话来说,这种所谓人生的描写里面,可以说是一一带着性欲的色调,由此今井君的疑惑和以前相比不降反增。


    这时,发生了一起名为出齿龟事件的案子。有个叫出齿龟的职人有多次偷窥女澡堂的癖好,好几次甚至还跟踪自澡堂回家的女人并施以暴行。这是每个国家都会有的已经见怪不怪的事了。要是在西方,报纸上的报道怕是只有寥寥几行。但这起案子却名噪一时。还被人们和所谓的自然主义联系在一起。由此自然主义得到了个叫出齿龟的别名。甚至还流行起了一个叫“出齿”的新动词。这样一来,金井君开始怀疑这世上的所有人都是色情狂,或许自己只是超脱出人类关系的例外了。


森鸥外


    那段时间里的某天,金井君在教室里见到一个学生拿着一本小小的名为Jerusalem哲学入门的书。课下,他拿过看了看,问那个学生这是本什么样的书。学生说:“之前去了趟南江堂[9],想着这本可以做参考书就买了下来,我自己还没看,要是先生想看的话就请拿去吧。”于是金井君就把这本书借回了家,当晚趁着有空就试者读了读。等读到讲审美论的地方,他大吃一惊。书上写着这么一件事:所有的艺术都是Liebeswerbung[10],都是谗言佞语。说是面对着公众张扬自身的性欲也不为过。如果这么看,那么就像月经之血不知为何从鼻子里涌出来了一样,可以说性欲化作了绘画,化作了雕塑,化作了音乐,化作了小说脚本等等等等。金井君在惊讶的同时,这么想着:这话可真是出人意料。赞叹其出人意料之余,不知为何还把这个说法拓展了一些,那就是人生中的所有事情是不是都能理解为性欲的张扬呢。用宗教来讲解性欲是最为通俗易懂的。譬如招基督徒为婿之事可谓不足为奇。如圣者般受人崇敬的尼姑们,实际上其中不少人只是将性欲推向perverse的角落罢了。走向献身之路的人之中,既有Sadist也有Masochist。要是从性欲的价值上看,人类做所有事情的动机,除了性欲之外并不存在其他的因素。Cherchez la femme[11]是可以应用到一切人类关系和世相之中的。要是站在这样的立场上看,金井君恐怕会认为自己终究还是没能逃脱出人际关系的桎梏之中吧。


    由此,金井君那试着写点什么的,好事多磨的想法,朝着奇怪的方向前进了。金井君这么想:性欲这样东西在人生之中到底是以什么样的顺序来实现的,又和人生有着多深的关系呢,关于这方面的调查文献可谓少之又少。就像是艺术之中也有龌龊不堪的画作一般,无论哪个国家都有pornographie。包括淫书。然而那都不是正经八百的东西。在所有诗里都有描写恋爱的内容。但是恋爱,即便和性欲有着密不可分的关系,和性欲也是两码事。不过这方面的材料多少还是有的,比如审判的记录啦,医生写的东西等等。只是这里面记录的多数是变态的性欲。这其中Rousseau[12]的忏悔录可谓是毫无顾忌地畅所欲言。说是在牧师的女儿还小的时候,如果学过的东西忘了,他就会把她抓起来打屁股。他从这事上感到了无可言说的愉悦,后来女孩懂的地方他也当作是不懂,故意说是错了什么的,然后又打了她的屁股。不过书上写道,后面女孩知道了实情后自己就不再打她了。这就是性欲最初的悸动,而绝不是初恋之类的东西。除此之外,青年时代写的记事也能窥出性欲之事的端倪。不过由于这并不是主写性欲的东西所以并不够用。可以说Casanova其实就是牺牲自己的生涯供养性欲的男人。那人所写的回忆录作为一大著作,里面所写的大部分内容,是彻头彻尾的性欲,完全没有恋爱之说。然而就像是由于拿破仑的名誉心极度超越常人,他的自传反倒没法作为名誉心的研究材料一样,性欲界的豪杰之Casanova所写的东西,也没法作为性欲的研究材料。就像Rhodos的kolossos[13]或是奈良的大佛[14]并不适合用作人体形态的研究一样。虽然想要写些什么东西,但我并不想走前人走过的路。现在好了,我可以写写自己性欲的历史嘛。其实对于自己和自己的性欲,到底是怎么萌芽又怎么发展的,我一直没有好好地思考过。干脆就好好想想试着写写好了。白纸黑字地,好好地写清楚的话,我就会更了解自己了吧。这样一来,或许还能知道自己的性之生活是normal还是anomalous吧。当然,要是不写下来看看的话,是不知道它究竟是什么样子的。而且写的东西是为人所阅还是公之于世,也是不得而知。总之我是这么想的,有空的时候慢慢写写看好了。

    而且,这时候从德国来了包裹。是那家经常送书过来的书店发来的。包裹里装了某个工会对于性欲教育中存在问题的研究报告。这里说“性欲”其实不太恰当。Sexual意思应该是“性的”。而不是“性欲”。主要是“性”这个字有着太多含义,一不小心就在后面加上了“欲”这个字了。那么,在教育的范围内,是不是必须要做性欲的教育呢,如果确实必须要做,那么到底能不能把它付诸实践呢。于是,某个由一位教育家、一位宗教家、一位医学家的联合工会,各自选择了其工作方向上的authority人物征求了意见,最后完成了这份报告。然而三个人的论点大不相同,性欲教育真的必要吗,就算必要,性欲教育能付诸实践吗,最终这些问题都归于肯定的回答。对于性欲教育有说在家里做比较好,有说在学校做比较好。总之有做就是好的,也肯定是能付诸实践的。而教育的时间自不用说在孩子们记事起就得开始。我们国家还有婚礼前让新人看春画的说法,这种事提前一些比较好。之所以说提前些,是因为等到婚礼才做性教育,一定会差三错四的。都说,经过低等生物不断繁殖,之后才有了人。初谈的虽是低等生物,如果唯谈植物的雄蕋雌蕋,动物、人类亦如复是,那么只是在做无用功。必须详细说明人的性欲生活才行。

    金井君读了这些,抱着胳膊想了好一会。家中长子今年要高中毕业了。如果要对做性教育的话,自己应该怎么跟儿子交流比较好呢。他觉得这真是难过登天。只要考虑具体之处就会明显词穷。于是,金井君想到了之前想写的东西,也就是自己性欲生活的历史,这下问题似乎迎刃而解了。把它写下来看看,看看究竟将会如何。写的东西是为人所阅还是公之于世都好,在这之前还是先让儿子看看检查下吧。这样想着,金井君拿起了笔。


明治三十二年六月于日大桥乙羽氏观潮楼茶室前庭摄


日文原文:

金井湛君は哲学が職業である。

哲学者という概念には、何か書物を書いているということが伴う。金井君は哲学が職業である癖に、なんにも書物を書いていない。文科大学を卒業するときには、外道哲学と Sokrates 前の希臘哲学との比較的研究とかいう題で、余程へんなものを書いたそうだ。それからというものは、なんにも書かない。

しかし職業であるから講義はする。講座は哲学史を受け持っていて、近世哲学史の講義をしている。学生の評判では、本を沢山書いている先生方の講義よりは、金井先生の講義の方が面白いということである。講義は直観的で、或物の上に強い光線を投げることがある。そういうときに、学生はいつまでも消えない印象を得るのである。殊に縁の遠い物、何の関係もないような物を藉りて来て或物を説明して、聴く人がはっと思って会得するというような事が多い。Schopenhauerは新聞の雑報のような世間話を材料帳に留めて置いて、自己の哲学の材料にしたそうだが、金井君は何をでも哲学史の材料にする。真面目な講義の中で、その頃青年の読んでいる小説なんぞを引いて説明するので、学生がびっくりすることがある。

小説は沢山読む。新聞や雑誌を見るときは、議論なんぞは見ないで、小説を読む。しかし若し何と思って読むかということを作者が知ったら、作者は憤慨するだろう。芸術品として見るのではない。金井君は芸術品には非常に高い要求をしているから、そこいら中にある小説はこの要求を充たすに足りない。金井君には、作者がどういう心理的状態で書いているかということが面白いのである。それだから金井君の為めには、作者が悲しいとか悲壮なとかいう積で書いているものが、極て滑稽に感ぜられたり、作者が滑稽の積で書いているものが、却て悲しかったりする。

金井君も何か書いて見たいという考はおりおり起る。哲学は職業ではあるが、自己の哲学を建設しようなどとは思わないから、哲学を書く気はない。それよりは小説か脚本かを書いて見たいと思う。しかし例の芸術品に対する要求が高い為めに、容易に取り附けないのである。

そのうちに夏目金之助君が小説を書き出した。金井君は非常な興味を以て読んだ。そして技癢を感じた。そうすると夏目君の「我輩は猫である」に対して、「我輩も猫である」というようなものが出る。「我輩は犬である」というようなものが出る。金井君はそれを見て、ついつい嫌になってなんにも書かずにしまった。

そのうち自然主義ということが始まった。金井君はこの流義の作品を見たときは、格別技癢をば感じなかった。その癖面白がることは非常に面白がった。面白がると同時に、金井君は妙な事を考えた。

金井君は自然派の小説を読む度に、その作中の人物が、行住坐臥造次顛沛、何に就けても性欲的写象を伴うのを見て、そして批評が、それを人生を写し得たものとして認めているのを見て、人生は果してそんなものであろうかと思うと同時に、或は自分が人間一般の心理的状態を外れて性欲に冷澹であるのではないか、特に frigiditasとでも名づくべき異常な性癖を持って生れたのではあるまいかと思った。そういう想像は、zola の小説などを読んだ時にも起らぬではなかった。しかしそれは Germinal やなんぞで、労働者の部落の人間が、困厄の極度に達した処を書いてあるとき、或る男女の逢引をしているのを覗きに行く段などを見て、そう思ったのであるが、その時の疑は、なんで作者がそういう処を、わざとらしく書いているだろうというのであって、それが有りそうでない事と思ったのでは無い。そんな事もあるだろうが、それを何故作者が書いたのだろうと疑うに過ぎない。即ち作者一人の性欲的写象が異常ではないかと思うに過ぎない。小説家とか詩人とかいう人間には、性欲の上には異常があるかも知れない。この問題は Lombroso なんぞの説いている天才問題とも関係を有している。Möbius 一派の人が、名のある詩人や哲学者を片端から掴まえて、精神病者として論じているも、そこに根柢を有している。しかし近頃日本で起った自然派というものはそれとは違う。大勢の作者が一時に起って同じような事を書く。批評がそれを人生だと認めている。その人生というものが、精神病学者に言わせると、一々の写象に性欲的色調を帯びているとでも云いそうな風なのだから、金井君の疑惑は前より余程深くなって来たのである。

そのうちに出歯亀事件というのが現われた。出歯亀という職人が不断女湯を覗く癖があって、あるとき湯から帰る女の跡を附けて行って、暴行を加えたのである。どこの国にも沢山ある、極て普通な出来事である。西洋の新聞ならば、紙面の隅の方の二三行の記事になる位の事である。それが一時世間の大問題に膨脹する。所謂自然主義と聯絡を附けられる。出歯亀主義という自然主義の別名が出来る。出歯るという動が出来て流行する。金井君は、世間の人が皆色情狂になったのでない限は、自分だけが人間の仲間はずれをしているかと疑わざることを得ないことになった。

その頃或日金井君は、教場で学生の一人が Jerusalem の哲学入門という小さい本を持っているのを見た。講義の済んだとき、それを手に取って見て、どんな本だと問うた。学生は、「南江堂に来ていたから、参考書になるかと思って買って来ました、まだ読んで見ませんが、先生が御覧になるならお持下さい」と云った。金井君はそれを借りて帰って、その晩丁度暇があったので読んで見た。読んで行くうちに、審美論の処になって、金井君は大いに驚いた。そこにこういう事が書いてある。あらゆる芸術は Liebeswerbung である。口説くのである。性欲を公衆に向って発揮するのであると論じている。そうして見ると、月経の血が戸惑をして鼻から出ることもあるように、性欲が絵画になったり、彫刻になったり、音楽になったり、小説脚本になったりするということになる。金井君は驚くと同時に、こう思った。こいつはなかなか奇警だ。しかし奇警ついでに、何故この説をも少し押し広めて、人生のあらゆる出来事は皆性欲の発揮であると立てないのだろうと思った。こんな論をする事なら、同じ論法で何もかも性欲の発揮にしてしまうことが出来よう。宗教などは性欲として説明することが最も容易である。基督を壻だというのは普通である。聖者と崇められた尼なんぞには、実際性欲を perverse の方角に発揮したに過ぎないのがいくらもある。献身だなんぞという行をした人の中には、Sadist もいれば Masochist もいる。性欲の目金を掛けて見れば、人間のあらゆる出来事の発動機は、一として性欲ならざるはなしである。Cherchez la femme はあらゆる人事世相に応用することが出来る。金井君は、若しこんな立場から見たら、自分は到底人間の仲間はずれたることを免れないかも知れないと思った。

そこで金井君の何か書いて見ようという、兼ての希望が、妙な方角に向いて動き出した。金井君はこんな事を思った。一体性欲というものが人の生涯にどんな順序で発現して来て、人の生涯にどれだけ関係しているかということを徴すべき文献は甚だ少いようだ。芸術に猥褻な絵などがあるように、pornographie はどこの国にもある。婬書はある。しかしそれは真面目なものでない。総ての詩の領分に恋愛を書いたものはある。しかし恋愛は、よしや性欲と密接な関繋を有しているとしても、性欲と同一ではない。裁判の記録や、医者の書いたものに、多少の材料はある。しかしそれは多く性欲の変態ばかりである。Rousseau の懺悔記は随分思い切って無遠慮に何でも書いたものだ。子供の時教えられた事を忘れると、牧師のお嬢さんが掴まえてお尻を打つ。それが何とも云えない好い心持がするので、知ったことをわざと知らない振をして、間違った事を言ったり何かして、お嬢さんに打って貰った。ところが、いつかお嬢さんが情を知って打たなくなったなどということが書いてある。これは性欲の最初の発動であって、決して初恋ではない。その外、青年時代の記事には性欲の事もちょいちょい見えている。しかし性欲を主にして書いたものではないから飽き足らない。Casanova は生涯を性欲の犠牲に供したと云っても好い男だ。あの男の書いた回想記は一の大著述であって、あの大部な書物の内容は、徹頭徹尾性欲で、恋愛などにまぎらわしい処はない。しかし拿破崙の名聞心が甚だしく常人に超越している為めに、その自伝が名聞心を研究する材料になりにくいと同じ事で、性欲界の豪傑 Casanova の書いたものも、性欲を研究する材料にはなりにくい。譬えば Rhodos の kolossos や奈良の大仏が人体の形の研究には適せないようなものである。おれは何か書いて見ようと思っているのだが、前人の足跡を踏むような事はしたくない。丁度好いから、一つおれの性欲の歴史を書いて見ようかしらん。実はおれもまだ自分の性欲が、どう萌芽してどう発展したか、つくづく考えて見たことがない。一つ考えて書いて見ようかしらん。白い上に黒く、はっきり書いて見たら、自分が自分でわかるだろう。そうしたら或は自分の性欲的生活が normal だか anomalous だか分かるかも知れない。勿論書いて見ない内は、どんなものになるやら分らない。随て人に見せられるようなものになるやら、世に公にせられるようなものになるやら分らない。とにかく暇なときにぽつぽつ書いて見ようと、こんな風な事を思った。

そこへ独逸から郵便物が届いた。いつも書籍を送ってくれる書肆から届いたのである。その中に性欲的教育の問題を或会で研究した報告があった。性欲的というのは妥でない。Sexual は性的である。性欲的ではない。しかし性という字があまり多義だから、不本意ながら欲の字を添えて置く。さて教育の範囲内で、性欲的教育をせねばならないものだろうか、せねばならないとしたところで、果してそれが出来るだろうかというのが問題である。或会で教育家を一人、宗教家を一人、医学者を一人と云う工合に、おのおのその向のauthority とすべき人物を選んで、意見を叩いたのが、この報告になって出たのである。然るに三人の議論の道筋はそれそれ別であるが、

性欲的教育は必要であるか、然り、做し得らるるであろうか、然りという答に帰着している。家庭でするが好いという意見もある。学校でするが好いという意見もある。とにかく為るが好い、出来ると決している。教える時期は固より物心が附いてからである。婚礼の前に絵を見せるという話は我国にもあるが、それを少し早めるのである。早めるのは、婚礼の直前まで待っては、その内に間違があるというのである。話は下級生物の繁殖から始めて、次第に人類に及ぶというのである。初に下級生物を話すとはいうが、唯植物の雄蕋雌蕋の話をして、動物もまた復是の如し、人類もまた復是の如しでは何の役にも立たない。人の性欲的生活をも詳しく説かねばならぬというのである。

金井君はこれを読んで、暫く腕組をして考えていた。金井君の長男は今年高等学校を卒業する。仮に自分が息子に教えねばならないとなったら、どう云ったら好かろうと考えた。そして非常にむつかしい事だと思った。具体的に考えて見れば見る程詞を措くに窮する。そこで前に書こうと思っていた、自分の性欲的生活の歴史の事を考えて、金井君は問題の解決を得たように思った。あれを書いて見て、どんなものになるか見よう。書いたものが人に見せられるか、世に公にせられるかより先に、息子に見せられるかということを検して見よう。金井君はこう思って筆を取った。


森鸥外


注释:

[1] 苏格拉底。

[2] 叔本华(1788—1860),德国哲学家,唯意志论的创始人和主要代表之一。

[3] 《我是猫》的首次连载日期为1905-1906年。

[4] 即夏目漱石(1867~1916),日本近代作家,代表作有《梦十夜》、《我是猫》等。鲁迅曾翻译并高度赞扬其文章。

[5] 自然主义是文学艺术创作中的一种倾向。追求绝对的客观性,崇尚单纯地描摹自然,着重对现实生活的表面现象作记录式的写照。

[6] 弗里吉狄塔斯,一个德国姓氏。

[7] 左拉(1840-1902)法国自然主义小说家和理论家,自然主义文学流派创始人与领袖,代表作有《小酒馆》,《萌芽》等。

[8] 龙博罗梭,(1835—1909),意大利犯罪学家、精神病学家,刑事人类学派的创始人。

[9] 南江堂,书籍出版社,于1878年成立,

[10] 甜言蜜语。

[11] 意为“找女人”。

[12] 卢梭(1712—1778),法国启蒙思想家、哲学家、浪漫主义文学流派的开创者,启蒙运动代表人物之一。主要著作有《社会契约论》、《忏悔录》等。

[13] 罗德岛太阳神巨像,高约33米,是古代世界七大奇迹之一。

[14] 奈良大佛,指日本奈良东大寺金堂之庐舍那大佛像。又称东大寺大佛。系现今日本最大之铜像。



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