【日本小6道德】7#众生平等~黑柳彻子
皆一緒だよ~黒柳徹子(众生平等)
黒柳徹子さんを知っていますか。テレビ放送が始まったばかりの頃に俳優となりました。日本で初めてのトーク番組「徹子の部屋」は四十年以上続いています。著作「窓際のトットちゃん」はベストセラーの日本記録を達成。一九八四年(昭和五十九年)からはユニセフ親善大使となりました。トットちゃんと呼ばれていた小さい頃からパンダが大好きです。
(各位知道黑柳彻子吗?电视广播刚开始的时候,成了演员。日本首个访谈节目《彻子的房间》持续了四十年以上。著作《窗边的小豆豆》达成了日本畅销记录。1984年(昭和59年)起,她成了联合国儿童基金会亲善大使。从被称作小豆豆的幼时起就最喜欢熊猫。)
私は、ユニセフ親善大使として三十年以上、毎年アフリカやアジアなどの開発途上国を訪れて、子供達のために働いてきました。
(我成为联合国儿童基金会亲善大使已有三十多年,每年都访问非亚等发展中国家,为了孩子们而忙碌。)
この地球上には、食べ物や薬がなかったり戦争をしていたりして、家族や自分の命のことを心配しながら暮らしている子供の方が、平和に暮らしている子供より遥かに多いんですね。私が訪れるのは、そうした子供達が暮らす地域がほとんどですから危険もあって、人から「なぜ、そんな大変なことを?」と言わることがあります。そんな時私の耳に聞こえてくるのは、私が通った小学校「トモエ学園」の小林宗作校長先生の言葉です。
(在这个地球上,没有食物、药物或是因战争,需一边担心家人和自己的性命,一边生活的孩子比和平地生活着的孩子们更多。我所访问的地区的孩子们基本都过着这样的生活,非常危险,人们会问我“为何要做如此危险的事?”这时我耳畔响起的是曾经的“巴学园”小学小林宗作校长的话语。)
「一緒だよ、皆一緒にやるんだよ。」
(“大家都一样,大家一起做。”)
トモエ学園には、体の不自由な子供もいましたけれど、校長先生は「手を貸してあげなさい。」とか「助けてあげなさい。」ではなく、「一緒だよ。」「皆一緒にやるんだよ。」としかおっしゃいませんでした。だから、私は、いつも一緒にやるんだなと思い、どうやったら一緒に楽しくやれるのかと、自分が出来ることを考えるようになりました。その教えの通りに、どんな遊びも、どんな所へ行くのも一緒でしたし、いじめなんかなかったんです。
(巴学园也有一些身体不便的孩子,但是校长从不说“帮帮他们。”,而只是说“大家都一样。”“大家一起做。”因此,我总是思考着要一起做,怎样才能一起享乐,自己能做些什么。遵循教诲,无论怎样的游戏,无论去何处,大家都一起,没有欺凌。)
そんな、子供の頃の「皆一緒だよ。」の延長線上に今の私があります。目が不自由なために、絵本を読めなかったり舞台を楽しんだりしたことがないとしたら、つまらないだろうなと思うと、一緒にやりたくなってしまうんです。それで、テレビの仕事を始めた頃、たまたま、点字のボランティアを募集していることをラジオで聞いて、点字を習い始めました。今はもうないトモエ学園のことを残しておきたくて書いた「窓際のトットちゃん」がベストセラーになった時は、俳優なんだからと、自分で読んだ朗読テープをつくり、全国の二百か所くらいの点字図書館に寄付をしました。その後、この本からの収入をもとにしたトット基金で耳の聞こえない俳優のための「日本聾者劇団」を設立して、聞こえる人も聞こえない人も一緒に楽しめる舞台をつくったりもしています。
(孩提时的“众生平等。”的延长线上有了如今的我。一考虑到失明的人读不了绘本,也享受不了舞台,一定很无聊,因此我想要大家一起来。这时,开始电视工作的时候,偶然在广播听说正在招募盲文的志愿者,于是我开始学习盲文。想要记录如今已不复存在的巴学园的事而写下的《窗边的小豆豆》成了畅销书的时候,因为自己是演员,因此想要制作自己的朗读录音带,然后捐给全国两百多所盲文图书馆。之后,以这本书的收入为基础的豆豆基金为失聪的演员们设立了“日本聋者剧团”,建立了有听觉和没有听觉的人都能一起享受的舞台。)
そして、「窓際のトットちゃん」の英語版がきっかけになって、ユニセフ親善大使を務めることになりました。ユニセフ(国際連合児童基金)は、子供達の命と健やかな成長のために活動していて、そのためのお金は、募金などがもとになっています。ですから、テレビで広く顔を知っていただいている私達が、多くの人に関心を持ってもらえるよう働きかけるのです。
(之后,以《窗边的小豆豆》英文版为契机,我担任了联合国儿童基金会亲善大使。联合国儿童基金为孩子们的生命和健康成长活动着。这些钱大多是靠募捐而来的。因此,在电视上广为人知的我们,为了引起更多人的关心而活动。)
戦争や飢えで親を亡くしてひとりぼっちになり、施設に入っている子供達を訪ねた時のことです。元気になった子供達でも、優しい手で構って欲しくて、抱っこやおんぶをねだってきます。そこで、私がしてあげるととても嬉しそうに笑います。おんぶがやがてお馬さんになり、何時間も続きます。ある施設では、誰にもなつかなかった二才半の女の子と出会いました。部屋の隅から、ずっと私を見ています。私は、ほかの子のように抱っこをしようと思って、その子の部屋の前を通るたびに、しゃがんで「あなたもいらっしゃい。」と声をかけました。そして、三回目に通った時のことです。私の膝に乗ってきたと思ったら、両腕を私の首に回して、足で私の体にしがみついたまま離れようとしませんでした。どんなに寂しかったんだろうと思いました。私はずっと女の子を抱っこしたまま、施設の中を回りました。
(拜访因战争或饥饿而失去父母的孤儿、进入孤儿院的孩子们的时候。即便是健康的孩子们也渴望被温柔以待,恳求拥抱或是背。我如此做的时候,他们都笑得非常开心。背最终成了骑马,持续了几小时。在某个孤儿院,我遇到了一个不亲近任何人的两岁半的女孩。她在房间的角落一直看着我。我想要像对待其他孩子那样抱她,每次经过她的房间前,总是蹲下对她说:“你也一起来吧。”于是,在我第三次经过她房间的时候。以为她要骑到我的膝盖上,结果她用双腕环住了我的脖颈,用脚紧紧缠住我的身体,完全不离开。她是多么寂寞啊。我一直抱着这个女孩,在孤儿院中来回走动。)
私は、自分の目で見てきた世界の子供達の実情を報告し、子供達が何を必要としているかを皆さんに伝えています。その仕事をする心の根っこにあるものは、「皆一緒。」「皆一緒にやるんだよ。」なのです。
(我报告了自己亲眼所见的世界上孩子们的实情,以及向大家传达孩子们需要什么。从事这项工作的本心是“众生平等。”“大家一起做。”)

