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《樱之刻》重要选段:直哉与放哉论艺术(03_07)

2023-05-04 05:32 作者:真紅様  | 我要投稿

【直哉】「昔、友人と芸術談義をした事があります」

「从前,我和友人谈论过艺术」

【直哉】「まだ、若い時の話です」

「是还年轻时候的事情」

【直哉】「その時に、相手は私を評してこの様に言いました」

「那个时候,对方这样评论我道」

【直哉】「弱き神」

「弱小的神」

【直哉】「それに対して、私は相手の芸術をこう言いました」

「对此,我这么评论对方的艺术道」

【直哉】「強き神」

「强大的神」

【直哉】「私がめざす芸術とは、彼女に言わせたら『弱き神』なのです」

「我以之为目标的艺术,要是让她来说的话就是“弱小的神”」

【放哉】「君が目指す芸術、その『弱き神』とはどの様なものだい?」

「你以之为目标的艺术、那个“弱小的神”是怎样的东西啊?」

【直哉】「世界の限界を超える絵画」

「超越世界界限的绘画」

【直哉】「私は、私の芸術をその様に捉えています」

「我这样理解我的艺术」

【放哉】「世界の限界を超える絵画?」

「超越世界界限的绘画?」

【直哉】「はい」

「是的」

【放哉】「世界の限界を超える様な絵画が何故『弱き神』なのだ? それこそ『強き神』なのではないか?」

「超越世界界限似的绘画为什么是“弱小的神”? 那就是“强大的神”吧?」

【直哉】「『強き神』は世界の限界を超える必要などないのです。

『強き神』はその様な状態すら超越している」

「“强大的神”根本不需要超越世界的界限。

“强大的神”连那样的状态都超越了」

【直哉】「『強き神』は世界を超える必要などありません。

そしてわれわれが立つための大地すら必要ありません」

「“强大的神”根本不需要超越世界。

并且连为了我们站立【而存在】的大地都不需要」

【直哉】「私が考える『弱き神』の芸術とは、“立つ”という行為であり、その足がつく場所こそが“大地”です」

「我所认为的“弱小的神”的艺术,是“站立”这一行为,而那双脚所着落的地方就是“大地”」

【直哉】「『強き神』の視点は、極めて超越的であり、完全です。

その神は天上にいる様なものなので、“大地”など必要ありません」

「“强大的神”的视点,是极其超越性【译者注:或译“超验”】的,是完全的。

那个神好像在天上似的,所以不需要什么“大地”」

【直哉】「その神には、そもそも限界など存在せず、あるものは約束された『美』のみです。

『強き神』を信じる芸術は、ただ約束された道を目指せばいい」

「对那个神来说,本来就不存在什么界限,有的只是被约定的“美”。

相信“强大的神”的艺术,只要以被约定的道路为目标就好了」

【直哉】「だが、俺が目指す芸術は、何も約束されていない。

ありもしないかもしれない土地を目指す行為です」

「但是,我以之为目标的艺术,什么也没有被约定。

是以说不定连有都没有的土地为目标的行为」

【放哉】「『世界の限界』という、境界線の様なものを目指すのではないのかね? だったら目指すべき土地があるのではないのか?」

「是以名为“世界的界限”的、边界线似的东西为目标吧? 既然如此,应当以之为目标的土地是有的吧?」

【直哉】「いいえ、私が言う“世界”とは“私”の事でしかありません。

そして、〈私〉は無限に開かれた世界です」

「不,我所说的“世界”只是“我”的意思。

并且,〈我〉是被无限展开的世界」

【放哉】「無限に開かれた世界?」

「被无限展开的世界?」

【直哉】「無限に開かれた〈世界〉に、限界の地は見当たりません。

『世界の限界』を目指す道のりとは、得てして無限の円環の旅路になりかねない」

「被无限展开的〈世界〉中,找不到界限之地。

以“世界的界限”为目标的路程,往往说不定会变成无限的圆环的旅程」

【直哉】「約束されない土地。

無限に開かれた〈世界〉において、見ることのない限界の土地。

そこを目指す行為こそが、私の考える『芸術』です」

「不被约定的土地。

在被无限展开的〈世界〉中,看不见的界限的土地。

以那里为目标的行为,就是我所认为的“艺术”」

【放哉】「難しい事を言うね。

難解な哲学を聞かされている様だよ」

「你说了难懂的话呢。

像是在被迫听难解的哲学似的啊」

【直哉】「そのつもりはないのですが……」

「我没有这个打算就是了……」

【放哉】「いやいや、君が言っているのは難解な哲学だよ。

そもそも、君の言葉はいちいちハイデガーを彷彿とさせる。

だが、そのすべての言葉が逆転している様に聞こえる」

「不不,你正在说的是难解的哲学啊。

说到底,你的话每一句都令人联想到海德格尔。

但是,那些话全都听起来像是相反的」

【直哉】「ハイデガーですか……。

たしかに彼の後期に至るの論文に『芸術作品の根源』というものがありますね」

「海德格尔吗……

他后期的论文中的确有一篇名为“艺术作品的本源”的呢」

【放哉】「ハイデガーが芸術を語る時に〈世界〉〈大地〉という言葉が繰り返し出てくる。

だが、君が言うものと全然違う」

「海德格尔谈论艺术时,〈世界〉〈大地〉这些语词反复出现。

但是,和你所说的完全不同」

【直哉】「そうかもしれませんね……」

「也许是这样呢……」

【放哉】「〈世界〉と〈大地〉の闘争によって亀裂や真実が作品の内にしつらえられる。

"彼はこれを〈形態(ゲシュタルト)〉と呼んだ」

【放哉】「線を引く、一つの面を二つに引き裂くことで何かが浮かび現れる。

芸術家はそれを一つの形に仕立て上げる」

【放哉】「キャンバスと筆によって引かれた線。

そのものは〈キャンバス〉や〈筆〉や〈絵の具〉といった道具の集まりという〈物〉でしかない」

【放哉】「絵画によって、その物質性が消え去る事はない。否、むしろそのむくつけき姿をさらけ出す」

【放哉】「それが、〈世界〉に変容しようとする瞬間の苦悩に満ちた姿を凝縮させているのが〈形態(ゲシュタルト)〉だと言う」

【放哉】「だが、君の言う〈世界〉も〈大地〉も、ハイデガーが言うものと、まったく違ったものに聞こえる」

「但是,你所说的〈世界〉和〈大地〉,和海德格尔所说的,听起来是完全不同的东西」

【直哉】「実際に違います。

私はハイデガーの様に芸術をとらえてません」

「实际上是不同的。

我没有像海德格尔一样理解艺术」

【直哉】「たとえば、彼の言葉にはこうあります」

「例如,他有这样的话」

【直哉】「“われわれが、自分たちの記述は主観的な行為の一種であってすべてのものに尾ひれをつけ、そしてありもしないものを読み取ったのだ、と考えようとするなら、それは最悪の自己欺瞞であろう”」

【直哉】「これはゴッホの絵を評して言ったものです」

「这是评论梵高的画的话」

【直哉】「私はこの直感に対して極めて強く同意します。

ですが、現在の芸術作品の大半は、この直感と真逆に位置していると私には思われるのです」

「我极为强烈地同意这份直觉。

但是我总觉得,现在的艺术作品,大部分处在与这份直觉完全相反的位置」

【直哉】「ハイデガーが言う『芸術』が、今の時代のどこにあるのかが私には分かりません」

「海德格尔所说的“艺术”在当今时代的哪里,我不清楚」

【放哉】「世に転がる現代アートの数々。

ただ奇異な事をするのが芸術であるという態度」

【放哉】「彼らの多くは言う。

“作品そのものではなく、その背景、美術史や社会問題、その他諸々との関係性を見よ。あるいはそういった世界文脈からの剥離された新しい視点を見よ”と」

【放哉】「ばかばかしい発言だよ。あたかもそれ以前の『芸術』にはその様な視点がない様な言い方ではないか。そもそも芸術にとってそれらは必須であり、それ以上の〈何か〉こそが問われるものが『芸術』であった」

【放哉】「今、世界に出回っている現代アートを見ると、ハイデガーの言葉から“それは最悪の自己欺瞞であろう”を取っ払ってしまって」

【放哉】「“われわれが、自分たちの記述は主観的な行為の一種であってすべてのものに尾ひれをつけ、そしてありもしないものを読み取ったのだ”」

【放哉】「と意味を逆転させて言った方がよほどしっくり来る様に思える」

【放哉】「ハイデガーが“最悪の自己欺瞞”と呼んだものが現代に溢れていると言いたいのだろう?」

「你是想说当代充满了海德格尔称之为“最糟的自欺”的东西吧?」

【直哉】「そこまでは言いませんよ。

ただ、ハイデガーの様に考える事は私には出来ないというだけです」

「我不会说到那个地步哟。

我只会说,我无法像海德格尔一样思考」

【直哉】「私には“自分たちの記述は主観的な行為の一種などではない”などと断言出来ません。『美』に対してその様な強い信念を持つ事ができません」

「我无法断言“我们的记述并不是一种主观行为”。无法对“美”持有那样强的信念」

【直哉】「どこまで行っても私は、すべての理解が“主観的な行為”という疑惑に追い回され続けます」

「无论走到哪里,我都会被一切理解都是“主观行为”这一疑惑所持续尾随」

【直哉】「どこまで行っても、私はその正しい解答を見る事はない」

「无论走到哪里,我都看不到那个正确的解答」

【直哉】「否、そもそも私が〈私〉であるかぎり、正しい解答などあり得ない。

私は〈私〉から見た世界でしかすべての事象は存在しえないのですから」

「不,说到底只要我是〈我〉,就不可能有什么正确的解答。

因为一切事象只可能在由〈我〉看见的世界存在」

【直哉】「だとしても、それでもです」

「尽管如此」

【直哉】「それらを超えたものとしての感覚。

そういった瞬間がある様に思われます」

「作为超越它们的东西的感觉。

总觉得好像有那样的瞬间似的」

【直哉】「“自分たちの記述は主観的な行為の一種などではない”と言える様な感覚」

「好像可以说“我们的记述并不是一种主观行为”似的感觉」

【直哉】「その感覚を信じるという事は、ある種の神を信じるという事になる。

友人はその態度を『弱き神』と名付けたのでしょう」

「相信那个感觉,即是相信某种神。

友人应该是将这个态度命名为了“弱小的神”吧」

【放哉】「現代アートの芸術家とやらは、どちらの神を信じているのか聞いてみたいものだ。

そもそも、そんな事すら終ぞ考えた事がない連中なのだろうけど」

【直哉】「放哉先生は現代アートに関しては否定的なのですか?」

【放哉】「いいや、すべてに対して否定的だという事はないよ。

ただ、世界に対してのつまらない注釈でしかない、大半の現代アートなど興味はない」

【放哉】「私は、世界に対して、注釈を増やして回る様な行為に興味がないのでね」

【放哉】「こう見えても、私も宮崎破戒と共に日本画壇の秩序を守ってきた人間だ。芸術全般に対してある程度は寛容なつもりだ」

【放哉】「逆に君はどうなのかね? 現代アートについては?」

【直哉】「私は私に関係のないものに興味はありません。否定もしませんし肯定もしません」

【直哉】「ただ、私は彼らと違うものを見ていますし、彼らが言う、現代アートに必要とされる〈教養〉とやらも一通りは勉強したつもりです」

【直哉】「ですが終ぞ私の心に響いたことなどない。

心に響かないものに対して何も言うことはないです」

【直哉】「そういえば、ハイデガーの『芸術作品の根源』の後記では、ヘーゲルの言葉が引用されています」

「这么说来,海德格尔的《艺术作品的本源》的后记中,引用了黑格尔的话」

【直哉】「“われわれにとって芸術はもはや真理が実在を与えられる最高の仕方とはみとめられない”」

【直哉】「“たしかに芸術がたえず向上して完成の域に達することを期待することはできるが、しかしその形式は精神の最高要求であることは止めたのである”」

【直哉】「“これらすべての点において芸術は、その最高の使命の面からいえば、われわれにとって過去のものである”」

【放哉】「芸術終焉論だね」

「是艺术终结论呢」

【放哉】「ヘーゲルが考える、最高精神としての芸術とは、神的絶対性の事だ」

「黑格尔所认为的、作为最高精神的艺术,即是神的绝对性」

【放哉】「彼の言葉に“芸術は絶対精神の顕現である”とあるが、もちろん〈神的絶対性〉とは〈神〉の事だ」

【放哉】「初期の象徴的芸術形式からはじまり、ギリシャローマの古典的芸術形式、そしてロマン派の芸術形式」

【放哉】「それ以後も芸術は技術的な発展はしていくが、神的絶対性は失われていく」

【放哉】「つまり芸術は〈神〉とその精神を一致出来なくなっていく」

【放哉】「ハイデガーは、ヘーゲルが考えた最高精神としての芸術とは違った形で見いだそうとした」

「海德格尔想要以与黑格尔所认为的作为最高精神的艺术不同的形式来发现」

【放哉】「それが、『芸術作品の根源』で語られたものだよ」

「这就是他在《艺术作品的本源》中所说的啊」

【放哉】「だが、そんなものすらもいまや無くなろうとしている」

「但是,现在连那种东西也快要消失了」

【放哉】「『芸術の終焉』を唱えたヘーゲル。それを延命させようとしたハイデガー、我々はそのさらに先に立っている」

「倡导“艺术的终结”的黑格尔。想要延长其生命的海德格尔。我们站在更前方」

【放哉】「芸術はとうの昔に終焉しているよ」

「艺术在很久之前就终结了啊」

【直哉】「私もそう思います」

「我也这么想」

【放哉】「その場所にある我々にとって芸術とはなんだ?」

「对于在那个地方的我们来说,艺术是什么?」

【直哉】「それに対する正しい解答など知りません」

「对此的正确解答什么的我不知道」

【直哉】「ただ言える事は――

だからこそ『世界の限界を超える絵画』が私には必要なのです」

「我能说的只是――

正因如此我才需要“超越世界界限的绘画”」

【放哉】「ふむ……」

「呼呣……」

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