関大北陽 辻本忠監督 「ビビらないこと、初回をゼロで抑えること」

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「絶対王者」に挑む大阪の監督たち 第4章
関大北陽 辻本忠監督 「ビビらないこと、初回をゼロで抑えること」

高く厚い大阪桐蔭の壁
年が明け、2022年になってもちょくちょく冷やかされることがあるという。
「『あの場面(延長13回)はバントやったやろ』って、試合直後は、色んな方から電話がかかってくる度に言われて……。冬になっても、会話がどうしてもその話になるんですよ」
苦笑いを浮かべながら辻本忠監督が振り返るのは、前年夏の大阪大会・準決勝の大阪桐蔭戦だ。初回から小刻みに点を取り合ったこの試合は、5回を終えて3対6と大阪桐蔭にリードを許すも、6回に1点、7回に2点を挙げた関大北陽が同点に追いつく。さらに8回には2番・杉本瞬の犠飛で勝ち越した。だが、9回表に大阪桐蔭の3番・池田陵真に同点アーチを許し、試合は再び同点に。延長12回でも決着がつかず、13回からタイブレークに持ち込まれた。
13回表の大阪桐蔭の攻撃は無得点。無死・一、二塁からバント失敗で、次打者が併殺打であっさりと攻撃を終えた。裏の関大北陽の攻撃は、1番の勝田成、2番の杉本を走者に置き、打席に立つのは1年生から中軸を打ってきた3番の山田悠平。1点さえ取れば勝てる場面で、セオリー通りなら犠打で送って4番で勝負と考える。
「それはもちろん頭にありました。でも、このチームは山田で勝ってきたチーム。山田のひと振りに賭けようと思って、(ヒッティングを)指示しました」
だが、結果は1ボール2ストライクから二ゴロで4-6-3のダブルプレー。4番の辻鈴太も右飛に倒れ、3アウトとなった。「犠打で二、三塁にしておけば、サヨナラ犠飛で勝っていたかもしれないじゃないか」という声も多かった。
確かに、あの場面は犠打が妥当だったかもしれない。だが、そこには監督と選手にしか分からない信頼関係がある。「彼なら何かをやってくれるかもしれない」という選手の可能性に辻本監督は賭けた。
その場面以上に辻本監督が悔やんでいるのは14回の攻撃だ。14回表に大阪桐蔭が5点を加え、突き放された直後だった。山田と辻が走者となり、5番の田中蓮が中前打で1点を返した。6番の牛尾陽介は三振に倒れたが、7番の梶井風汰の二塁への当たりを二塁手が後ろに逸らし、二塁走者の辻が生還。さらに8番の真鍋元斗の右前適時打で田中が還り、計3点を返した。迎える9番は、12回から守備についていた阿部穏希。
「実はあの時、代打を考えていたんです。でも、仮に代打が打って同点になると、阿部を引っ込めることで、15回に守れる内野手がいなくなってしまうので……。何より阿部の打席で、ノーストライク2ボールから本当は「待て」のサインを出そうか迷ったんです。せめて四球を選んで何とか繋いで、1番の勝田に回せたら……と思っていました。阿部にスクイズという選択肢もありましたが、2アウトになるとこっちにプレッシャーがかかってしまうし、ひとつのアウトをあげたくなかったんです(結果はセカンドフライ)。この場面は、今でも悔いが残っています」
安打数は大阪桐蔭が16本、関大北陽は14本。
「(大阪桐蔭の)先発の竹中(勇登)君は、春に比べると状態は良くはなさそうに見えたので、攻撃面で何とか食らいついていきたかったですが、9回の池田君のホームランが痛かったですね。(先頭打者の)藤原(夏暉)君を二ゴロに打ち取って池田君さえ乗り切ればと思っていたのですが……」
最後は2点差まで詰め寄るも、続いたチャンスを逆転まで持っていくことはできなかった(試合は10対12で敗退)。やはり大阪桐蔭の壁は厚い。そう感じずにはいられない103回大会の夏だった。
自宅から通えた「全国区」の学校
東京方面から西へ向かう新幹線の車内。新大阪駅が近くなると流れる『間もなく、新大阪です』というアナウンス。そのタイミングで進行方向左側の車窓をのぞくと、防球ネットに掲げられた「関西大学北陽高校」という大きな看板が目に飛び込んでくる。さらに数十秒後には茶色い近代的な関大北陽の校舎が視界に入る。この一連の景色は「大阪に着いたな」と感じさせられるショートムービーのようだ。
新幹線の高架と町工場に囲まれた関大北陽の野球部グラウンドは、レフト後方が一般道路で、フェンス越しから誰でも練習を見学することができる。辻本監督も、中学時代、野球の練習帰りにフェンスに張り付いて練習風景をよく眺めていた。
「フェンスの外から練習を見ていたら、(当時の)新納監督から『おう、中学生か。ウチに来いよ』って声を掛けてもらって、すごく嬉しかったんです」
辻本監督が中学2年の春、北陽はのちに近鉄バファローズにドラフト1位指名されるエースの寺前正雄を擁して、センバツベスト4まで勝ち進んだ。
「そのセンバツも甲子園に行って観戦しました。僕が通っていた中学から北陽高校の野球部の選手がグラウンドに移動している光景が見えるんです。当時は、寺前投手の姿を校舎の窓からよく眺めていて、学校の校門前で寺前さんに握手してもらったこともありました。家の近所に甲子園でこれだけ活躍できる学校があるなんて。そう思うと自然とテンションが上がっていました」
東淀川ボーイズでは投手だったが、決して目立つような存在ではなかった。だからこそ、「全国区」の高校の監督から話しかけてもらったことが嬉しかった。甲子園のスター選手を身近に感じることもできた。実家は学校から自転車ですぐの距離にあり、グラウンドはちょうど実家と学校の中間地点にあった。そんなことも後押しとなり、北陽高校で甲子園を目指すことに決めた。

気がついたら打っていた4番
北陽は春8回、夏6回の甲子園出場歴があり、70年のセンバツは準優勝。岡田彰布(元・阪神など)をはじめ多くのプロ野球選手を輩出している。明星、PL学園、近大附、興国、大鉄(現・阪南大高)、浪商とともに〝私学7強〟と呼ばれていた。08年に校名が北陽から関大北陽と改称され、今年で15年目となる。
92年春。辻本少年はそんな伝統校の門をくぐった。入部早々、練習の輪の中でやたらと目につく1人の男がいた。
「髪型はオールバックで顔がいかつくて。当時、少年野球ではローカットのストッキングが流行っていたのに、ピンピンの(長めの)ストッキングを履いている選手が練習に混ざっていたんです。最初はコーチだと思っていたんですけど、後で同級生だと聞いてすごく驚きましたね(笑)。バッティングではポンポンとサク越えを打つんです。僕は入学した頃はピッチャーをやっていて、ブルペンで並んで投げましたが、投げるボールのレベルが違っていましたね。こういう選手がプロに行くんやって、その時に初めて感じました」
その選手が、高校通算52本塁打を放ち、のちにオリックスにドラフト1位でプロ入りすることになる嘉勢敏弘だった。
嘉勢は1年の夏にはレギュラーの座を掴み、すでに5番を打っていた。軟式野球部出身で、硬球に慣れるのに多少時間はかかったが、対応力が付けば途端に見たことのない打球を左右に打ち分けた。マウンドに立てば強いストレートを投げる、現在で言う「二刀流」だ。たちまち関西圏のスポーツ紙でも嘉勢の活躍は取り上げられ、早くからドラフト候補選手として注目を浴びていた。
辻本監督は、2年夏の大阪大会はボールボーイとして嘉勢の活躍を眺めていたが、新チームとなった2年秋の大阪大会2回戦で代打出場。ようやく公式戦デビューを飾っていた。嘉勢に大きく遅れをとっていたが、そこから徐々に結果を出すようになり「気が付いたら4番を打っていた」という。
「入学前は、失礼ながら北陽ならレギュラーになれると過度な自信があったんです。そこまですごい選手じゃなかったんですけどね。でも、すごい同級生もいましたし、負けられないという気持ちはものすごくありました」
辻本監督を4番に導いたのは、豊富な練習量だった。北陽は今も昔も全部員が自宅からの通学生。新納監督の厳しい練習についていくのに必死だったが、大の負けず嫌いな性格もあり「負けたくない!」と歯を食いしばった。当時は練習時間の終わりに制限はなかったが、最寄りの阪急正雀駅まで30分かけて徒歩で帰る仲間たちにはないアドバンテージがあった。帰り時間を気にすることなく、思う存分練習ができた。
「家からグラウンドが近かったこともあり、他の選手たちが下校している時間も僕は練習できたんです。人一倍練習をしてから帰宅して、ゆっくり風呂に入ってご飯を食べてゆっくり休んでも、僕の方が他の選手よりも早く寝られるくらいでしたから」
夜遅くまでバットを振り、厳しいトレーニングにも耐えた。その成果で体も徐々に大きくなり、新納監督からの信頼も掴んだ。プロ注目の嘉勢とクリーンアップを打ったことで、「辻本」の名も徐々に広まっていった。
猛者揃いの大阪、恩師からの誘い
2年秋、大阪大会、近畿大会をともに決勝まで勝ち上がり、翌春のセンバツ出場を確実なものにしていた。しかし、両大会ともに決勝で敗れた相手はPL学園だった。北陽は強力打線が看板で、練習試合を含めて完封された試合はほとんどなかったが、PL学園戦はいずれも完封負けだった。当時のPL学園には、のちに近畿大を経て近鉄でプレーしたエースの宇高伸次、1番打者には千葉ロッテにドラフト1位指名される大村三郎の名前があった。
「あの当時のPLには本当に歯が立たなかったですね。その2人以外にも2年生に福留孝介(現・中日)がいましたし、その下には前川勝彦(元・近鉄)もいて、層がすごく厚かったんです」
ライバルはPL学園だけではなかった。近大附にはのちに首位打者に輝く金城龍彦(元・横浜DeNAなど)と、藤井彰人(元・近鉄など)のバッテリー、上宮には2年生ながら強打者として注目を集めた三木肇(現・楽天二軍監督)がいた。ハイレベルな大阪をどう勝ち抜けばいいのか。当時はそればかりを考えながらバットを振った。この頃はまだ、大阪桐蔭は眼中になかった。
「あの当時は大阪大会の準々決勝からABC放送でテレビ中継されていたので、まずは準々決勝まで勝ち上がる、ということもひとつの目標でした。普段の練習はキツかったですが、大会中は試合が終わればすぐに家に帰れるので、暑さやしんどい試合があっても僕からしたらめちゃくちゃ楽に感じていたんです」
そんな猛者揃いの大阪を勝ち上がり、北陽は春夏連続で甲子園に出場した。センバツは2回戦で敗れたが、夏はベスト16まで勝ち進んだ。
卒業後は京都産業大に進んだ。大学3年までは、嘉勢を追ってプロの世界に行くことを目標に野球に打ち込んだ。しかし、現実は厳しかった。野球に一区切りをつけて就職活動を開始し、某大手企業の2次試験まで通過していた。しかし、心のどこかで野球に携わりたいという思いもあった。
そんな時、新納監督から「ウチに指導者として帰ってこないか」とコーチの打診を受けた。指導者になることはまったく頭にはなかった。高校野球を指導することの大変さを知っているだけに決断までには時間を要したが、最後には「もう1度、ひとつの目標に向かって選手らと喜んで、泣けるのはいいな」と恩師からの誘いに肯首した。ここから、高校野球指導者としての道が開かれることになる。
恩師のもとで学んだ15年間
北陽野球部は監督の長期政権が続く。70年センバツでチームを準優勝に導き、ABC放送の甲子園解説を長らく務めた松岡英孝氏は60年4月から30年間、そのバトンを受けた新納弘治氏は90年から14年まで24年間、指揮を執った。新納氏は16年に育成功労賞を受賞している。恩師でもある新納氏のもとで辻本監督は15年間、コーチとしてチームを支えた。この15年間は、ひと言で言うと「修行」だったと振り返る。
「15年間は下積みというより、恩師に再び甲子園の土を踏んでほしいという思いで、サポートを続けてきました。苦悩や葛藤もありましたが、選手らに愛情を注いでくれている恩師に何とか陽の当たる場所にいてほしいと思っていました。毎日、毎日が必死で、気が付いたら15年が経っていたという感じでしたね」
22歳からチームを様々な角度から見てきたが、同時に恩師の厳しさもあらためて感じた。練習が終われば、細かい指摘を受けることも多く「練習が終わって、監督が監督室に入ったら『今日も何か言われるんかな……』と、ある程度察するんです。グラウンドを引き揚げるのが嫌で、選手の練習にずっと付き合うこともありました。でも今、監督になって、コーチだった自分に『もう少しこうやってあげたら監督は喜ぶぞ』と思うことは山ほどあります」
14年秋に恩師のバトンを受けてからも、就任1年目、2年目は勇退した新納氏がグラウンドに顔を出すことも多かったという。
「当時の自分は野球が見えていなかったと思います。僕の様子が気になって新納監督がちょくちょくグラウンドに来られていましたが、その度に監督から厳しい指導を受けていましたね。新納監督が、監督当時にどんな風にチームを見ていたのか、今になって気づくことが多いです。何より、今の方が選手のことを一層考えるようになりました」
監督就任当初は、とにかくがむしゃらに猛練習を重ねた。自身の高校時代と同じように、ノックでエラーが出れば全員でグラウンドを何十周も走らせるというペナルティーも課した。正直なところ、それが正しいのかと言われれば疑問を持っていた。でも、練習量を減らすと不安になる。そんな自問自答を繰り返すような指導を続けていると、ある時、新納氏から「もう少し選手を見ろ」と言われたことがあった。
「〝いや、ちゃんと見ているよ〟と思ったんですけどね。要は選手らの内面を見ろということだったんです。そこからですね、監督主導ではなく選手主導で練習するにはどうしたらいいかと考えるようになったのは。ただ、やることの引き出しがないと選手は何もできないですから、その引き出しを作ってあげないといけない。選手がどんな風にやりたいのか。そのためにはこちらがどう持っていってあげればいいのか。そう考えながら選手を見るようになりました。いわゆる、ティーチングとコーチングの使い分けです」
「分かりません」と言える選手を育てたい
押し付ける練習では何も選手のためにならない。22歳の時から球児たちに携わってきた経験があるのだから、選手の温度を常に感じながら対話をしよう。上から目線ではなく、隣からの目線での会話を心掛けるようにした。
「選手と監督って本音と建前がありますよね。僕は彼らより長く生きている分だけ経験もあるし、選手の気持ちも分かる部分がある。色んなことを教えてあげたいけれど、選手が心を開いていないと何を言っても入ってこないじゃないですか。例えば、『分かってるんか!』って言ったら、本当は分かっていなくてもとりあえず『はい!』って言いますよね。でも、こちらが『分かるんか?』って聞いたら『分かりません!』ってその場できっぱり言えるような選手を育てたいんです。純粋に野球がうまくなるために、正面から指導者に質問ができる。高校野球って、それがなかなかできないじゃないですか。どうしても指導者が怖くて聞きづらい、聞くのに勇気がいる。実際はそういう雰囲気がほとんどだと思うんです。分からないまま終わってしまうのだけは嫌なので、本音で選手の話を引き出せるような関係を作りたいんです」
練習の合間に選手を集めた時などの辻本監督の眼差しは鋭い。しかし、選手たちと冗談を交えながら会話している姿も時折見られる。そんな時は選手の顔も自然にほころんでいる。
「監督が来たからって、変な空気が流れるのは避けたいですよね。こちらに人事権があるので、話しかければ話してはくれます。でも、チームを作るのは選手たち。監督のチームではないので、選手らで考えて目標設定して励んでほしい。余計な壁によって、嫌なことから逃げてほしくないんです」
目標も決して背伸びはしない。「全国制覇」は、いわば強豪校のスタンダードな目標だが、実際、全国制覇できるような練習をしているのかと疑問に思うこともある。
「だから、全国ベスト8で喜ぶチームでもいいじゃないかって思います。目標設定しながらどこまでやれるのか。そこはしっかり見ていってあげたいです」
特に近年は、新型コロナウイルス感染拡大の影響による休校などで、思うように練習ができなかった。その状況に甘んじて練習をうわべだけで済ませようとするのか、自主練習でさらに追い込めるようになるのか。
「もちろん後者のような選手を育てていきたいですが、そういう意味でもティーチングとコーチングの使い分けは意識しています」
様々な角度から見つめる辻本監督の選手への目線は、実に柔らかい。

功を奏した「大阪桐蔭対策」
昨夏の大阪大会、関大北陽は大阪桐蔭に準決勝で10対12で惜敗した。しかし、監督に就任して迎えた2度目の夏となる16年には3回戦で大阪桐蔭に2対1で勝利している。その年は春の大阪大会準決勝でも大阪桐蔭と対戦し、1対5で敗れていた。注目すべきは、春夏ともに同じ投手を先発させていたことだ。
「エースの清水寛というピッチャーがいたのですが、冬場の練習では壁当てを黙々とやるくらいおとなしい子でした。春になってスライダーを低めに丁寧に投げられていたので、大阪桐蔭戦はどこまで通用するのかを見る意味で敢えて完投させたんです」
ストレートは130キロ台、他には緩いカーブも持ち球にあったが、オーバースローのオーソドックスな右腕だった。ただ、清水の球威だと大阪桐蔭の打者に限らず、芯に当たると外野を越えてしまう。そのため各打者のデータをもとに、対策として外野手をフェンスギリギリに張らせた。のちに17年春季近畿大会準決勝で彦根東(滋賀)がとった「大阪桐蔭対策」でもあるが、その上を越されたら仕方ないとチームで腹を括った。
「あの夏の試合は終わってみると内外野のフライが14個もあったんです。ウチのピッチャーがここに投げると、桐蔭の打者のスイングならどの辺りまで飛ぶかなども選手が分析していました。実際に野手の正面を突く打球が多かったですね」
初回に点を与えないことが第一条件と考えていたが、まずはそれをクリアした。だが、3回に1番の中山遥斗にホームランを浴びて先制を許した。しかし、4回裏に2点を奪って逆転。関大北陽が1点をリードして、その後は膠着状態が続いた。
そして8回の大阪桐蔭の先頭打者は中山。
「中山君は一番タイミングが合っていて嫌やなと思っていたのですが、三遊間を抜けるような当たりが、ウチのショートが差し出したグラブに入ってアウトになったんです。その後、吉沢(一翔)君の左中間を破りそうな当たりも、ウチのレフトがフェンスに当たりながらキャッチして球場から大喝采が起きました。その時、思ったんですよね。『勝てるのかな……』って。でも、『いやいや、相手は桐蔭や』って自分に言い聞かせていました」
春に1度対戦していたため、選手らにはある程度、その年の大阪桐蔭のイメージがあったのだろう。試合前から余計な硬さもなく、過剰に意識している者もいなかった。
「夏に向けての練習では『お前らはやれるぞ!』と、気持ちを乗せるような雰囲気を作ってきました。あの学年は決して実力が高かったわけではなく、しんどいことを目の前にしたら消極的になりがちだったんです。でも、『ここを乗り越えたら大阪桐蔭に勝てるぞ』と声を掛けて、力はなくても度胸を付けたいと必死でした。夏も清水を先発させたのは、あれから2カ月で成長したところを見たかったんです。本人にも『成長したんやろ?』と何度も聞いたら元気よく『はい!』って答えてくれて。僕も頑張っている姿は見てきたので、あとは清水を信じるだけでした」
試合中、辻本監督は狙い球や、守備位置など細かい指示はほとんど行っていない。ベンチでは「行け!」「戦え!」という大きな声だけが響いていた。
そして、いよいよその瞬間が訪れた。9回2死。最後のアウトはライトフライだった。ライトのグローブに打球が収まった瞬間、辻本監督は捕球した右翼手をじっと見つめていた。
「高校の時に甲子園出場を決めた瞬間もそうだったのですが、決定的なシーンはスローモーションというか、無音のようになるんです。それにしても、当時のエースの高山(祐希 現・北海道日本ハム)君はボールが速いし、すごくいいピッチャーでした。あれだけの選手が大阪桐蔭のユニホームを着ていたら、さらに威圧感がありますよ。ウチの選手は最初に目の前で見た時はビビッていたと思います。でも、ずらっと並んだユニホームを見て、怖がらないチームにしたかった。そういう意味では、よく練習して、いい意味で『僕たちは強いんだ』と勘違いしてほしかったんですよ」
「大阪桐蔭に勝った高校」というプレッシャー
大変だったのは試合後だった。
「ベンチから引き揚げる時、ウチの選手が泣いていたんです。『3回戦が終わったばかりなのに何を泣いているんや!』と、随分強い口調で言いました。保護者の方を集めて、そういう話もしました。ウチの選手は全員自宅通学なので『家に帰っても絶対に〝甲子園〟って言わないでください』と。桐蔭に勝ったから甲子園に行けるわけではないですし、あと5つ勝たないと甲子園には行けないんです。ただ、ああいう時って監督はどんな風に話を持っていけばいいんですかね。『桐蔭に勝ったから自信持っていこう』って言うべきだったのか。そこは難しかったです」
翌日の関西圏のスポーツ紙には、関大北陽が大阪桐蔭に勝利した記事が大きく掲載されていた。以降は「大阪桐蔭に勝った関大北陽」という目で見られるようになった。
「それがすごくプレッシャーになるのではと思いました。そう思うと胃が痛くて、実は大阪桐蔭の試合後1時間くらいその場から動けなかったんです。試合後に胃が痛くなるなんて初めてでした。勝ったことで取材を受けるのは嬉しかったですが、『桐蔭に勝ったから──』と言われることで選手が身構えてしまいました。次の試合では思い切った野球ができていなかったように思います」
嫌な予感ほど的中するものだ。次戦の4回戦では金光大阪に0対1で敗れた。力を出し続けることの難しさ、そして指導者として試合結果に応じた選手たちのアフターケアの大事さを、この時ほど痛感したことはない。
ビビらないこと、初回をゼロで抑えること
00年代以降は、全国的にも常勝軍団となった大阪桐蔭。そして19年に全国制覇を果たした履正社。大阪ではそんな〝二強〟が参加各校の前に立ちはだかる。
「よく『大阪桐蔭がいたら大変やな』って言われることもありますが、どこの都道府県にも手強いチームはいますから、そこを乗り越えるためにどの学校も努力はしていると思います。もっと言うと、大阪じゃなくても兵庫や、奈良、和歌山だって大変ですし、東京や神奈川、東北なんかもレベルが高いでしょう。どこの地区にも強いチームはありますから」
辻本の長いコーチ生活の終盤以降から、大阪桐蔭が府内でいわば〝独走状態〟になった。履正社も含めて、どう倒そうか、付け入るスキは見つけられるのか。両校の甲子園での試合を見る度に、プレーの傾向なども含めて彼らの一挙一動をテレビで観察している。16年の夏前まではことあるごとに大阪桐蔭の名前を出してはいたが、今は普段の練習では意識させていない。
「高校野球は毎年戦力が限られます。ウチは決して能力の高い選手が集まっているわけではないですからね。どんな相手との試合でも、選手を最高の状態に持っていくのが指導者の仕事。大阪桐蔭のユニホームを見てもビビらず〝僕らもやれる〟と思えるようになるのが大切ではないですかね。対策とか研究より、そもそもそこが大事ではないかと思います。確かにプレーもそうだし、選手の身体つき、投げる、打つ、走るも大阪桐蔭の選手は違いますよ。それでもまず、怯まずに初回をゼロに抑えると、選手はやれるぞという気持ちになります。そういう流れを初回から作ることが大事だと思います」
「それにしても、とんでもなかったですね。ホンマに強かったです」
辻本監督は、優勝したセンバツの大阪桐蔭の戦いぶりを素直に称えた。
「全員が1球に集中していて、貪欲に次の塁を狙っている。一人ひとりの意識の強さをあらためて感じました。でも……こちらとしても戦い方はあると思っています」
遠く離れた存在だった西谷監督とは、中学生を視察しに行く場でよく顔を合わせるようになった。「最近は声を掛けていただくこともあります。自分もようやく話していただけるようになったのかなと思います。ですので、こちらも気になることを質問させてもらっています」
中学時代の実績で差があろうが、同じ土俵に立てば、そんな過去は関係ない。
「何も実績のない子たちが、ああいう学校に勝つってカッコいいじゃないですか。勝ったことで僕が株を上げるとかはどうでもよくて、選手らによかったと心の底から思ってもらいたいですし、将来、それがどれだけの自信になるのかって思うんですよ。そのための普段の練習だということも分かってもらいたい。高校生が部活で活躍して新聞で取り上げてもらえるなんて、普通は考えられませんよね。そういう意味でも、高校野球の中で成功体験を積んでいってほしいんです」
「HOKUYO」と胸に刻まれたユニホームは、関大北陽の何よりの誇りだ。この上ないプライドを胸に、復活の夏を必ず刻み込む。次は「あの夏は……」と笑顔で振り返られるように。コーチとして15年、監督となって今夏で8年。
辻本監督の指導者としての闘志の火は、今さらに燃え上がっている。