【日本小5道德】15#我想成为这样的人~宫泽贤治
そう言う者に私はなりたい~宮沢賢治
(我想成为这样的人~宫泽贤治)
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
(不畏风雨
亦不畏寒雪酷暑
身强体壮
无贪欲嗔怒
常轻笑)
これは、宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」の書き出しである。宮沢賢治とはどんな人だったのだろうか。彼の生き方を考えてみよう。
(这是宫泽贤治的诗《不畏风雨》的开头。宫泽贤治究竟是怎样的人呢?来考虑一下他的生活方式吧。)
賢治は一八九六年(明治二十九年)、今の岩手県花巻市に生まれた。両親から沢山の愛情を受けた賢治は、友達の辛さや痛みを、まるで自分のことのように感じる心を持った少年に成長した。そして、その心を花巻の豊かな自然にも向けるようになる。
(贤治于1896年(明治29年),在如今的岩手县花卷市出生。被父母深爱的贤治,成长为了对于朋友的艰苦感同身受的少年。并且,他也对花卷丰饶的自然感同身受。)
やがて県立盛岡中学校の生徒になった賢治は、時間を見つけては、山に登って珍しい植物を探したり、綺麗な石を拾って集めたり、星空を眺めたりしていた。いつしか賢治は、(大好きな自然と一体になって生きていくことは、どんなに素晴らしいことだろう。)と考えるようになっていったのである。
(后来成为了县立盛冈中学学生的贤治,只要一有时间,就会登山寻找稀有的植物,或是收集漂亮的石头,或是眺望星空。在不知不觉中,贤治开始考虑道和最喜欢的自然融为一体而生是多么美妙的事啊。)
一方で、自然の厳しさもよく知っていた。雨が全く降らなかったり、夏でも気温が上がらなかったりして、作物がほとんど育たないという岩手の現実があったからだ。それが、農民達の生活を苦しめていた。賢治は、(皆、厳しい自然の中で一生懸命生きている。皆の役に立つことがしたい。)とも思うようになっていた。
(一方面,他还清楚地知道了自然的严峻。因为岩手完全不下雨,或是夏季气温也不上升,导致庄稼几乎不生长。从而导致农民们的生活艰苦。贤治还考虑道大家在严峻的自然中拼命生存着。想要帮上大家的忙。)
盛岡中学校を出ると、盛岡高等農林学校に入学し、大好きな自然のことを思う存分学んだ。同時に、良い土や肥料の作り方を必死になって研究した。卒業した賢治は、二十五才で農学校の先生になった。生徒達と一緒に、自然の素晴らしさについて考えたり、感じたりすることの出来る時間が、賢治には楽しくてしかたがなかった。生徒達もまた、賢治の授業が大好きだった。しかし、賢治はそんな楽しさの中にいても、農民達の苦しい生活ぶりを思うたびに考えた。
(从盛冈中学毕业后,他入学于盛冈高等农林学校,尽情地学习了最喜欢的自然。同时,他拼命研究制作优质土壤和肥料的方法。贤治毕业后,仅25岁就成为了农业学校的老师。他对于能够和学生们一起考虑、感受美妙的自然的时间感到非常快乐。学生们也最喜欢上贤治的课了。然而,贤治哪怕是在如此快乐的时光中,每次想到农民们的艰苦的生活,都会如此考虑道。)
(こうしている間も、農民達は厳しい自然の中で働いている。その辛さや苦しさを理解するためには、自分自身が自然の中で働かないとだめだ。そして、栄養のある土や肥料を開発して、皆の暮らしを良くしたい。)
(此时此刻,农民们也在严峻的自然中劳作。为了能够理解他们的艰苦,自己也必须处在自然中劳作。以及,开发有营养的土壤和肥料,改善大家的生活。)
悩んだ末に、賢治は先生の仕事を辞めてしまう。農民とともに生きようと決心したのだ。厳しい自然の中に身を置いた賢治は、皆のために色々なことを考え、実行した。それぞれの土地に合った肥料を作るため、農民からの沢山の相談に乗った。また、その頃一人で住んでいた家に農民のための小さな学校を開いた。農民の仕事も生活も、豊かで楽しいものになるよう願っていたからだ。朝早くから夜遅くまで働き、くたくたになったが、自分の理想を追う賢治にとっては、とても充実した生活だった。
(在烦恼了许久之后,贤治辞去了教师的工作。他下定决心和农民一起生活。身处严峻自然中的贤治,为了大家考虑并实行了很多事。为了制作出符合各地土壤的肥料,他和农民商量了很多事。此外,他在当时独自居住的家中,为农民开设了一所小学校。因为他希望农民的工作生活都多姿多彩。早出晚归地劳作使他精疲力尽,然而对于追求自己理想的贤治,这是非常充实的生活。)
しかし、そうして働き続けた賢治は、重い病気で倒れてしまう。自然の中で、農民とともに働くことは出来なくなってしまった。一旦は回復し、作物がよく育つ肥料を売る仕事をするが、頑張りすぎてまた倒れてしまう。
(然而,持续着劳作的贤治得了重病。他无法在自然中和农民一起劳作了。他暂且恢复了一段时间,从事起了卖让庄稼良好生长的肥料的工作,然而他过于努力,又病倒了。)
それから二年ほど、賢治の病気は良くなることもあったが、段々悪くなっていった。そんなある日、農民が肥料のことを相談しに来た。賢治は、病気で起き上がるのも苦しかったのだが、「そういう用なら、ぜひ会わなくては。」と言って家に上げると、家族がはらはらするほど丁寧に相談に乗った。次の日、賢治は三十七才の若さで息を引き取った。(農民とともに生きよう。)と最後の最後まで理想を追い続けた賢治だった。
(约两年后,贤治的病情有时好起来了,但还是渐渐恶化。某日,农民因肥料的事找他商量。贤治虽然因病连起身都很痛苦,但他说着“既然是来商量肥料的,一定得见一面。”然后让农民进了屋,非常仔细地和他商量,仔细到让家人担心。翌日,贤治37岁便英年早逝。直到最后,贤治都在持续追寻着和农民一起生存的理想。)
短い人生の中で、賢治は故郷岩手の美しい自然をちりばめた、沢山の詩や童話を残した。そこに登場する人間や動物の多くは、何かをやってもなかなか上手くいかない。しかし、そうであっても決して諦めず、頑張り続ける姿が、宝石のような言葉で生き生きと描かれている。そこには、「雨ニモマケズ」の最後にあるように「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」と願い続けた賢治の生き方が表れている。
(在贤治短暂的人生中,他留下了众多点缀着故乡岩手美丽自然的诗与童话。其中登场的人和动物大多都是做某事都不太顺利。然而,即便如此,他用仿佛宝石般的话语栩栩如生地描绘出了他们毫不放弃,持续努力的样子。在《不畏风雨》的最后“我想成为这样的人”这一愿望表现出了贤治的生活方式。)
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ陰ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病氣ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
这首诗的翻译在这里,以及国语课文里也有提到宫泽贤治,感兴趣的可以在我的专栏里翻到。


