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【Beyond】遥かなる夢 Far Away1992~1995 内页简介

2023-08-13 23:26 作者:黑壳好日子  | 我要投稿

このアルバムは、BEYONDの日本での足かけ4年に渡る活動の中で発表してきた作品の中から選ばれ構成されている。僕は、彼らが日本での活動を決意し来日した時から現在に至るまで、彼らの音楽活動に関わってきた。彼らとの約3年半に渡る制作活動は、僕にとってもいろいろな意味で大変感慨深いものがある。BEYONDは今後しばらくは日本をベースにした活動を行なう予定はなくこのアルバムをもって僕とBEYONDとの制作活動はいったん終了することになるのだが、このアルバムをリリースするにあたり、楽曲の解説とともに、彼らと歩んできた道のりを記しておきたかった。 ●日本に限らず、様々なメディアがさまざまな分野でアジアに関連する話題を取り上げる事が多いが、それはミュージック·ビジネスのジャンルでも同様である。アミューズの総責任者である大里会長は、いち早くアジアのミュージックシーンに目を向け、何度となくアジアへ足を運んだ。そして、今後アジア各国でミュージック·ビジネスが爆発的に伸びて行くことを実感したのである。現在多くの日本のヒットソングが香港·台湾のシンガーによってカバーされヒットしたり、何人かの日本のアーティストがアジアでコンサートをしたり、あるいはレコードをリリースしたりしているが、同じアジアなのに、とうしても「日本とアジア」と2つを分けて見る考え方が日本側には多い。しかし大里会長は、今後は相互交流、相互融和こそが重要と考えた。そこで白羽の矢が立ったのがBEYONDである。彼らと仕事をし、彼らの音楽を日本でも紹介し、お互いに理解しあうことで、21世紀のアジアでのミュージック·シーンに日本のアーティスト及び音楽関係のスタッフが大いに参画·参入していけると考えたのである。 ■1991年 晩秋、サザンオールスターズなど著名なアーティストが数多く所属することで知られるアミューズが、正式にBEYONDとアジア全域におけるマネージメント契約に調印。アミューズ大里会長の陣頭指揮の下、日本·アジアでのレコード会社との契約を交渉開始。年末までには、日本ではFUN HOUSE、アジアでは広東語版アルバムはWEA、北京語版アルバムはROCK RECORDとそれぞれ契約を締結。またBEYONDのメンバーがレコーディング打ち合わせのため年末に来日。この時点で、彼らのマネージメントは、サザンオールスターズ等を担当する松野氏が手がけることに決まる。また、レコード会社の担当プロデューサーとして佐久間が参加。初のミーティングを行なう。席上、音楽面でそれまで以上に発展させる為に、梁邦彦氏(浜田省吾等のアーティストのRECORDINGに参加している、優秀なサウンドプロデューサー)をプロデューサーとして迎えることをメンバーに提案。メンバーとの共同プロデュースという形で梁氏の参加が決定する。この時点でBEYONDは40曲以上に及ぶデモテープを持参していた。 ■1992年 2月よりレコーディングをスタート。「MUSIC INN山中湖」「山中湖egg studio」を約2ヵ月間おさえる。メンバーは、山中湖近くのホテルに合宿状態となる。レコーディングは困難を極めた。理由はいくつくか考えられる。まず、言葉の問題である。通訳を務めるスタッフはいたが、基本的にお互いがたどたどしい英語でのコミュニケーションに頼るしかなかった。他に日本語で歌う作業上の問題もあった。また大雪に覆れた山中湖は、彼らにとって初めての日本での日々を過ごすには厳しい環境だった。音楽的な方向性も、アレンジなどで梁氏とメンバーとの間に意見のくい違いが生じたが、お互いに他国語である英語を使わざるをえないため、なかなか相互理解を深められない状況にあり、お互いにより強くストレスを感じる結果になったようだ。途中、メンバーが仕事の都合等もあって香港に戻ったり、香港の歌手·許冠傑の引退記念アルバム用に急遽もう一曲レコーディングすることになるなど、作業は全く予定どおりに進まなかった。この間、筆者(佐久間)は別アーティストのレコーディングに参加するためオーストラリアに滞在していたが、帰国後このような状況を見て、2ヵ月間で広東語·北京語·日本語の三ヶ国語のアルバム制作を終了させることを断念せざるをえなかった。また、全ての楽曲に日本語詩を付けることも無理であると判断した。4月、日本でのレコーディング作業は途中ながら終了。広東語版アルバム及び日本語での2枚のシングル分はなんとか録音を完了する。なお、このアルバムには喜多郎が参加している。殘る部分は以後のBEYONDのスケジュールに合わせて調整することになる。広東語版アルバム「繼續革命」は香港にて7月に発売された。また香港で毎年Salem社がスポンサーとなり開催される野外コンサートのホストをこの年はBEYONDがつとめることになり、日本からも多くのマスコミが招待された。一方、日本では5月に東京·渋谷にてマスコミ向けのコンベンション·パーティーが開かれ、メンバーのアコースティックライヴも披露された。香港でのアルバムプロモーションを続ける一方でメンバーは日本語の特訓を受け続け、夏には現地のスタジオで日本語と北京語のボーカルダビングが行なわれた。7月25日、いよいよ日本でのデビューシングル「THE WALL(長城)」をリリース。初秋、香港WEAからの要請で、クリスマスの時期に香港でシングルをリリースすることになり、その打ち合わせのためKOMAのみが来日。9月、日本語版2ndシングル「リゾ·ラバ~international~」に続いて日本語版ファーストアルバム「超越」を発表。メンバーそろって来日し、アルバムのプロモーション活動と並行して、クリスマス用の広東語シングル曲(「無盡空虚」。当初は日本でもリリースが考慮されていた)のレコーディングをスタート。ここで再び梁邦彦氏とメンバーとの意見の食い違いが表面化し、一時作業はストップする。11月には「リゾ·ラバ~international~」のプロモーションビデオを撮影し、東京で開かれた「ASIAN MUSIC FESTIVAL」にも出演。12月中旬からは次作アルバムの準備に入る。翌年の活動計画を練る上で、大里会長よりメンバーに日本への移住の提案がなされ、メンバーは承諾する。筆者と梁氏は次作アルバムの打ち合わせのため香港へ入り、おおまかに楽曲の選択を終える。 ■1993年 メンバーそれぞれが都内に住居を借り、本格的に日本をベースにした活動を開始すべく来日。日本語のレッスンを受けながら、1月末よりレコーディングを始める。今回は東京でのレコーディングとなり前作と比べると進行は極めてスムーズに運んだ。梁氏とメンバーとのコミュニケーションも、これまでの確執が逆にバネとなって良好になり、あらゆる面で前作のレコーディングが嘘のような順調、ぶりだった。4月いっぱいで、広東語·北京語版のアルバム分の録音はほぼ完了する。今作は、日本語版についてのみ2枚のミニアルバムを短い期間をおいて連続してリリースすることになり、それぞれのタイトルも「THIS IS LOVE 1」「THIS IS LOVE 2」と決まる。初めの1枚分については4月までにレコーディングを終了した。5月、広東語版アルバム「樂與怒」が香港などで発表される。メンバーはプロモーションのため、香港の他にマレーシアを訪れ、1万人収容のNegara Stadium(クアラルンプール)で「BEYOND UNPLUGGED LIVE」コンサートに出演。また台湾でプロモーションビデオの撮影も行なった。6月初旬、再びメンバーは日本へ。「THIS IS LOVE Ⅱ」収録用の追加レコーディング、及び日本でのプロモーション、と多忙な日々を送る。6月24日未明、ゲストとして出演していたテレビ番組「ウッチャンナンチャンのやるならやらねば」収録中に事故が発生、KOMAが意識不明の重体に。翌25日には日本語版3rdシングル「くちびるを奪いたい/遥かなる夢に~Far away~」が発売される。6月30日午後、懸命の看護もむなしくKOMAは亡くなった。享年31歳。7月4日から5日にかけて香港で葬儀が行なわれた。その後、日本で行なわれた「黄家駒君を送る会」終了後、メンバーは急遽レコーディングに入る。しかし結局は途中で放棄。この時に作業半ばまで録音された曲が、後に「Wedont wanna make it without you」として発表される。「しばらく休みたい」とメンバーからの申し出があり、3人は香港へ帰国。夏から秋にかけて、それぞれ休養に入る。11月、香港にてデモレコーディングを再開。11月末には正式に現メンバー3人での活動再開宣言を行ない、同時に香港コロシアムで行なわれた「創作人音楽会」に参加。3人になってから初めて観衆の目前でライヴ演奏を行ない、喝采を浴びる。これをきっかけに、'93年度末の香港各局の賞レースでは、張學友(ジャッキ一·チュン)を凌ぐ勢いでオリジナル曲関連の賞を独占する。 ■1994年 1月、日本に戻り、レコーディングスタート。アルバム構成やボーカル技術の点で若干の問題があったものの、日本デビュー3年目を迎えてメンバー·スタッフ相互の理解の向上もあり、バンドの中心人物であったKOMAを失ったことへの想いや活動休止中に溜まったものを吐き出すように、進行はことのほかスピーディだった。また、メンバーが持つ音楽性、ファッション性、アイデアをより具体化させるベく、日本以外のアジアでのレコード会社契約をWEAからROCK RECORDへと移籍。レコーディングは4月まで行なわれる。4月、香港にて北京語ボーカルレコーディングを行なう。6月に香港で広東語アルバム「二樓後座」、7月には台湾で北京語アルバム「PARADISE」を発表。今回は日本よりも香港などでの地固めを優先した為、日本でのリリースが遅れる結果になったが、一方では丸一年リリースがなかったこともあり、特に広東語圏では発売当初は品切れが相次ぐ売れ行きとなった。日本語歌詞については、しばらくのプランクがたたり、とりあえず2曲のみを録音することになる。そのうちの1曲が、11月に日本語での4thシングル「Paradise」としてリリースされた。また12月には「二樓後座」収録の広東語曲に日本語の「Paradise」をボーナストラックとして加えたアルバム「Secondfloor」が日本で発売された。 ■1995年 1月、ROCK RECORDと再契約。メンバーから「当面は香港での活動を最優先し、アルバム及びコンサート活動を行ないたい」との申し出があり、いったん日本サイドとの契約を終了することになる。2月現在、メンバーは次作アルバムのレコーディングの準備中である。 こうして、彼らとの約3年半に渡る制作活動にはいったん終止符が打たれた。幸いこの間に築いてきた彼らとの友情は、今も変わることはない。また、彼らを通して、我々はアジアのミュージック·シーンを今までよりはるかに身近に体験することもできた。これは我々にとって大変貴重な体験だったと言えよう。きっと近い将来、また彼らと再会できる気が僕はしてならない。(佐久間 雅一)

BEYOND再スタートにあたって ※この文章は 小倉エージ BEYONDが3人で再スタートを切るにあたって、小倉氏から寄稿されたものです。 1994年、1月のはじめのことだった。いつも香港ですごすボクの正月の休暇の楽しみのひとつに、香港の主要なラジオやTV局が開催する香港の音楽界の一年を締めくくる年度末の催しがある。そのひとつ、商業電台が主催する'93年度の叱陀樂壇流行傍頒奨禮において、BEYONDの「海闊天空」が「我最喜愛的本地創作歌曲」、つまり、香港で生まれ、最も愛されたオリジナル·ベス·ソングに選ばれた。BEYONDの授賞は2度目、89年の作品「眞的愛妳」以来のことである。そしてBEYONDはステージに登場し、その作品を歌った。ボクは、その時初めて新生BEYONDを目の当たりにした。 それよりも前、彼らは93年の11月30日に開催された商業電台主宰の「創作人音楽會」に出演し、黄家駒への追悼の意を込めて設けられたコーナーのトリに登場し、話題をさらっていた。それは、くBEYONDの活動の再開、そして、コマこと黄家駒の亡き後、スティーヴ、それにポールこと黄貫中、ウィングこと葉世榮の3人による新生BEYONDとしての最初のステージとなったものだ。殘念なことににボクはその機会を逸したのだが、新生BEYONDの登場は大きな興奮と感動を巻き起こしたという。そんな話を伝え聞いていた。さらに、叱陀樂壇流行傍頒奨禮にさきがけて行われた香港電台の第十六届香港電台十大金曲頒奨音楽會においても、同じく「海闊天空」が十大金曲、年間べスト-10の一曲に選ばれ、それもまた話題となっていた。叱陀樂壇流行傍頒奨禮でも新生BEYONDは割れんばかりの拍手と歓声に迎えられて登場した。3人は各々の楽器を手に、3人だけで「海闊天空」を歌いはじめた。イントロダクションが流れ、マイクの前に立ったスティーヴが歌いはじめた途端、どよめきが巻き起こった。思わず息を飲んだ。そして、聞こえてきたスティーヴの歌の違しさ凍々しさに、ボクは目を見張った。時に黄家駒のイメージが重なる。唸る様な低い歌声、独特の歌い回しはまさに家駒のそれを受け継いだものだ。かってのスティーヴには見られなかった歌いぶりである。家駒がスティーヴに乗り移ったかのようにも思えた。しかし、それは一瞬のことだった。目の当たりにしているのはまぎれもなくスティーヴだった。遑しさを身につけ、タフさや野性味も覗かせながら力を付けてひとまわりもふたまわりも大きくなったスティーヴがそこにいた。やがて、そんな彼が感極まったように一瞬声を詰らせた。目が潤んでいくのが見て取れた。しかし、すぐさま彼は立ち直り、再び力強い調子で歌い続けた。新生BEYONDの未来が見えるようだった。「やれる」と確信した。それは、期待や予想をはるかに越えるものだった。スティーヴがあれほどまでに遑しく、大きな存在になるとは思いもよらなかった。痛ましい家駒の事故のあと、残る3人の中で最も混乱し、取り乱していたのはスティーヴだった。兄の身代わりになればよかったと、泣いて突っ伏すような場面もあった。そして、家駒が返らぬ人となってスティーヴは憔悴し何も語ろうとはしなかったという。最愛の兄を失くしたのだから当然のことだろう。しかし、彼にとって家駒は単に兄というだけの存在ではなかった。同じ音楽の道を歩むものとして家駒は先輩や師、時には彼にとって最大のライバルともいうべき存在だった。さらに、リーダーとしてグループをまとめ、引っ張ってきたのも家駒であり、スティーヴにとっては信頼を寄せる大きなよりどころだったからである。スティーヴは優しい性格の持ち主だ。しかし、決して引っ込み思案ではなかった。自身の技量やオリジナリティを磨きあげるべく努力し、個性を発揮し、自身の主張を曲げないところもあったようだ。しかし、それ以上に兄の存在は大きく、兄を慕ってきた。兄の庇護のもとに歩んできた彼だった。それがどうだろう。く叱咤樂壇流行傍頒奨禮のステージに立ったスティーヴにはかつての面影はなかった。微塵もないように見えた。大地を踏みしめるようにしっかりとマイクの前に立ち、毅然とした凍々しい表情を見せていた。様々な出来事のあった、'93年の暮、3人になった新生BEYONDが音楽活動を再開するにあたりファン·クラブのインタビューに答え、ウィングは「僕は変わった。すごく。ずっとハングリーに、パワフルになった」と語っている。そのウィングが残る二人を評して「二人ともすごく努力家になった。歌い方ひとつにしても。ずっと良くなったと思うし、二人がとにかく努力していることがはっきりとわかる。それに話し方も以前とは変わったね。みんなずっと考え深くなったと思う」とも語っている。こうしたウィングの会話の断片からも、殘された3人がその将来について如何に考え、それらを実践するにあたって、それぞれがどれほど努力してきたか、伺い知れよう。

①遥かなる夢に~Far away~ 日本語3rdシングル。バンド結成十周年記念の曲で、KOMAがわずか一晩で書き上げ、日本語盤では最もヒットしたナンバー。プロデューサーである梁邦彦氏のビアノとPAUL.のギターが曲を盛り上げる。アルバム「THIS IS LOVE 1」収録曲。 ②THE WALL ~長城~ 日本進出第一弾シングル。閉鎖的な中国社会を万里の長域にたとえ、その内側で生きている自分達の心の中を歌ったもの。今回は喜多郎氏がイントロを演奏しているアルバムヴァーションを収録。アルバム「超越」収録曲。 ③Paradise 日本語4thシングルでメンバーが3人になってからの復活第一弾。KOMAの死を乗り越え、今後も精力的に活動してゆくにとを誓ったナンバーで、理想追求の難しさを歌った。ちなみにウオーカルはPAULである。現在、ABC系テレビ「驚きももの木ニ十世紀」のエンディングテーマどして使われている。アルバム「セカンドフロアー」収録曲。 ④NEVER CHANGE WORLD 自然の普通性を歌い、BEYOND得意の高揚感のあるナンバー。メンバー、スタッフ日く一番日本語の歌入れがスムーズにいった曲で、全員一数でアルパム「THIS IS LOVE」」収録に決定した。 ⑤明日の約束 92年に香港で発売されたクリスマスシングルで「點解島解」とカップリングで収録されていた「無産空虚」の日本語版。スタッフ及びメンバーの意向で発売を見合わせていたアルバム未収録曲。(日本未発表ヴァージョン) ⑥くちびるを奪いたい シングル「過かなる夢に~Far away~」のカップリング神、曲、コンセプト金てが一致し、BEYONDの持つアイドル、ポップ性がフィーチャーされた、ある意味で究極の一曲。広東語盤では、作者であるSTEVE自身がウォーカルをどっているが、日本語盤ではWONG兄弟(KOMA,STEVE)によるツインヴォーカルどなっている。プロモーションビテオが印象的。アルバム「THIS IS LOVE I」収録曲。 ⑦リゾ·ラバ~international~ 日本語2ndシングル。メンバーの親友であるサンプラザ中野氏による作詩のコーラスの美しいポップなナンバー。これをきっかけに交流も深まり、BAKUFu-SLAMPには活動上、かなク影響を受けている。アルバム「超越」収録曲。 ⑧もー まん たい! 外国人である彼らの立場から見た、日本のサラリーマン世代特有の悩みや苦労を皮肉ったレゲエソング。アルバム中オマケ的な存在ではあったが、終始、笑いの絶えないヴォーカルダビングで、ファンやスタッフにどって傑作である。アルバム「THIS IS LOVE I」收録曲。 ⑨HOME SICK SONG '92年の2ヵ月間の雪の山中湖でのレコーディング最中にできた曲で、文字通りある時期、ホームシックにかかっていたPAULによる自作自演。「THE WALL ~長城~」のイントロと同じくキーボードは喜多郎氏。アルバム「超越」収録曲。 ⑩孤独 人間的な部分が薄れ、どこか機械的で淋しい現代社会に対する不安と怒りを歌ったもの。どこか香港人(身体は中国人で、国籍はイギリス人)を匂わせるハードな一曲。アルバム「超越」収録曲。 ⑪手紙 香港ではプロモーションシングルとしてチャートの上位に食い込むほどの隠れた名曲。アレンジャー梁邦彦氏の才能が光る。KOMAがいなくなった今でこそ、詩の意味がとても重く伝わる。アルバム「超越」収録曲。 ⑫アリガトウ アルバム「セカンドフロアー」に収録されている「总有愛」の日本語盤で5thシングル。'93年の活動休止中に励まし、応援し続けてくれたファンの為に書いた曲で、ここ数年見られなかった全員ヴォーカルスタイル。この曲も含めて、ここ1.2年でSTEVEの作家どしての実力はかなりレベルアップしたどいえる。アルバム未収録曲。

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