芥川龙之介《罗生门》(二)[转载]
作者:川合康三
1948年生,日本静冈县浜松市人。京都大学文学博士,原京都大学文学部中国文学系主任教授,现为京都大学名誉教授。曾任日本中国学会理事长。
正文:
§『羅生門』(二)
夕焼けのカラスを美しく描いておきながら、今日は見えないと転じる。時刻が遅くてすでに巣に帰ってしまっただけではない。ずっと雨が降り続いてそんな日にカラスは空を飛びはしない。
空を飛ぶカラスの代わりに目に入るのはカラスの糞である。これも闇の迫る時に白い点が視覚的に鮮やかな映像を見せる。
総じてすぐれて視覚的映像を主体として、作者は「見る」人となって読み手に状況を伝えている。
もう一つ気づくことは、描写が次々と付け加えられて展開するのでなく、或る一つのことを提起するとそれが不在であると否定し、言っては打ち消し、言っては打ち消すというかたちで続くことだ。「もう二三人はありそうなものである。」といってから「それが、この男のほかには誰もいない。」「その代りまた鴉(からす)がどこからか、たくさん集って来た。」と言いながら、「一羽も見えない。」代わりにあるのは「鴉の糞」というかたちが繰り返される。この手法は作者が読者に対して高圧的な立場から叙述を繰り広げるのでなく、読者と同じように予想したり予想が覆ったりしながら展開するという態度を示す。
下人は七段ある石段の一番上の段に、洗いざらした紺の襖(あお)の尻を据えて、右の頬に出来た、大きな面皰(にきび)を気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めていた。
語釈:「襖」上着。音読みアウがなまってアオになった。
「気にする」物事に対して困ったことと考える、のごく軽い状態。悩むではない。
叙述が下人に戻る。最初の登場と変化はない。やや詳しくなる。着ているもの、座っていること、にきびができていて気にしていること、雨を眺めていること、などが加わる。にきび云々はなくてもいい情報といえる。しかし余分なことを加えることによって、最小限の情報だけで描写するよりも、下人が生々しく具体的に浮かび上がる。そしてまたこのにきびがあとになって意味をもつ。
作者はさっき、「下人が雨やみを待っていた」と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようという当てはない。ふだんなら、勿論、主人の家へ帰るべきはずである。ところがその主人からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京都の町は一通りならず衰微していた。今この下人が、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。だから「下人が雨やみを待っていた」というよりも「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた」という方が、適当である。
ここにも、書いておいてそれを打ち消すという手法がより詳しいかたちであらわれる。「雨がやむのをまっていた」と作者が書いたのは正確でなくて、雨がやんでも実は行き場がないことがわかる。それは前の段の「ぼんやり」からつながっている。雨がやんだら出て行くのならば、ぼんやり雨を見ていることはない。
この段で下人の外見だけでなく、今の状況が紹介される。
その上、今日の空模様も少からず、この平安朝の下人の Sentimentalisme に影響した。申(さる)の刻(こく)下(さが)りからふり出した雨は、いまだに上るけしきがない。そこで、下人は、何を措(お)いても差当り明日の暮しをどうにかしようとして――いわばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから朱雀大路にふる雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。
語釈:sentimentalisme フランス語。感傷主義ではなく、感情のあらわれとしての行動。
申の刻 午後4時頃。
下がり その時間を過ぎた時間。昼下がり。
差し当たり 今のところ、当面。“目前”
どうにかしようとして どうかしようとして、どうしようかと、とは異なる。どのような手段を用いても、なんとしてでも、といった強い意味を帯びる。
いわば いってみれば、別の言い方をすれば
とりとめもない まとまりがない“漫無辺際”その内容は以下の段に見える。
聞くともなく聞いていた 聞くというはっきりした動作をするのでなく聞く。ほかのことを考えていたので、聞くことに集中しない。
「影響した」とはどのような影響か。暗い気分にしただけではない。雨に降り込められることで生活の問題が切実に迫ってきた。「そこで」明日の生活手段を考える。
ここで主題が登場する。「どうにもならないことを、どうにかしなければならない」。手段、方法がない、行き詰まった状況のなかであきらめることもできずに、あがく。活路を見いだそうとじたばたする。
雨は、羅生門をつつんで、遠くから、ざあっという音をあつめて来る。夕闇は次第に空を低くして、見上げると、門の屋根が、斜につき出した甍(いらか)の先に、重たくうす暗い雲を支えている。
この段は文学的表現がちりばめられている。むずかしい語彙は用いずに、やさしい言葉でふつうの言い方を別の言い方で言い換える。
雨が「つつむ」。包むは広い布、紙などで物の全体を覆い隠すこと。雨は包まない。が、雨が羅生門をすっぽり覆っていることをかくいう。雨を擬人化しているともいえる。「人が紙で物を包む」に合わせれば「雨が雨で門を包む」。「紙が物を包む」ともいえないわけではないが、ふつうは前者。とするとこの語法はやや奇妙。それが擬人化らしさを強める。
「遠くから……あつめて来る」、遠くから雨は音を立てて降っているが、近くにくるほど音が大きい。それがまるで遠くからの音をすべて近くまで集めてくるかのようだ。
「空を低くする」、黒い雨雲が低く垂れ込める。それが夕闇が迫ることでいっそう暗くなる。ここも「夕闇」を擬人化。
「屋根が」「支えている」、実際の風景は暗い雨雲が屋根の上にまで垂れ下がるように低く垂れる、それを逆転する。
こうしたレトリックは日常的な物の見方を変える。事態は当たり前の、ふだん実際に目にしうること。それを変わった言い回しによって新鮮な風景であるかのように見せる。ただし過剰になるとかえって作品のおもしろさを壊すこともある。
中文翻译:
§《罗生门》(二)
把晚霞下的乌鸦画得很美,今天却转到看不见。不仅因为时间太晚,已经回巢了。一直下雨的日子里,乌鸦是不会在天上飞的。
代替飞翔的乌鸦,映入眼帘的是乌鸦的粪便。这也是在黑暗逼近的时候,白点在视觉上显示出鲜明的影像。
总的来说,以出色的视觉影像为主体,作者成为“看”的人,向读者传达状况。
还有一点注意到,描写不是一个接一个地展开,而是以一提起某件事就否定它不存在,说了又打消,说了又打消的形式继续下去。“应该已经有两三个了。”接着又说:“除了这个男人,别无他人。”“相反,不知从哪里又来了很多乌鸦。”说着,“一只也没看见。”取而代之的是反复出现的“鸦粪”形状。这种手法表明,作者并不是站在高压的立场上对读者展开叙述,而是和读者一样一边预想,一边被预想覆盖。
家将坐在七级石阶最上面的藏青色拉门上,一边留意右脸上的肿疮,一边呆呆地望着下雨的样子。
释义:纸门。大家的音读都变绿了。
把“在意”的事情当作困扰的事情,是一种非常轻松的状态。不必烦恼。
叙述回到仆佣身上。和最初的登场没有变化。稍微了解。再加上穿着的衣服、坐着的样子、因为脸上长了痘痘而在意的样子、看着下雨的样子等等。粉刺之类的信息可以说是可有可无的。但由于添加了多余的东西,比起只用最小限度的信息描写,仆佣就生动具体地浮现出来了。而且这个粉刺后来也有了意义。
作者刚才写道:“下人在等待雨停。”但是,下人即使雨停了,也没有什么特别的打算。如果是平时,当然应该回主人家。然而,老板却在四五天前把他请了出来。前面也写过,当时京都的街道非常衰微。现在这个下人,被长年侍奉的主人罢官,其实也正是这个衰微的小小余波。因此,与其说“家将在等待雨停”,不如说是“被雨淋湿的家将无处可去,走投无路”更为恰当。
这里也以更详细的形式出现了先写下来再打消的手法。作者说“一直在等雨停”是不正确的,即使雨停了其实也无处可去。它从前一段的“模糊”连接起来。如果雨停了就走,就不必呆呆地看着雨。
这一段不仅介绍了下人的外表,还介绍了现在的状况。
而且,今天的天气也影响了这位平安时代下人的Sentimentalisme。从申时开始下的雨,到现在还没有要下的样子。于是,家将不管做什么,也要想办法解决明天的生活——也就是说,无法解决的事情,也要想办法解决,他漫无着落地想着,从刚才开始,他听到了朱雀大路上的雨声。只是静静地听着。
释义:sentimentalisme法语。不是感伤主义,而是表现感情的行动。
申时下午4时许。
下降过了那个时间的时间。午后。
目前,眼下。“眼前”
这与想办法、想办法、想怎么做是不同的。无论用什么手段,无论如何,都带有强烈的意义。
换句话说,
漫无边际的“漫无边”,其内容可见以下段落。
不是做出“听”的明确动作,而是“听”。因为在想别的事情,所以没有集中精力听。
“影响”指的是什么样的影响?不仅让我心情沉重。因为被雨困住了,生活问题切实地迫近了。“于是”考虑明天的生活手段。
在这里,主题登场了。“没有办法的事情,必须想办法解决。”在没有手段、方法的情况下,不能放弃,只能挣扎。为了寻找活路而手忙脚乱。
雨笼罩着罗生门,从远处传来哗啦哗啦的声音。暮色渐渐压低了天空,抬头一看,门上斜凸的屋盖前端,支撑着一层阴沉的乌云。
这一段充满了文学的表达。不使用难的词汇,用简单的语言把普通的说法换成别的说法。
雨“笼罩”。包是指用宽大的布、纸等将物品整体遮住。雨没有裹住。但是,雨完全覆盖了罗生门。也可以说是将雨拟人化了。配合“人以纸包物”,就是“雨以雨包门”。也可以说是“纸包物”,但一般是前者。这样说来,这种语法就有点奇怪了。这加强了拟人化的特征。
“从远处……聚集而来”,远处的雨声正响着,越近声音越大。仿佛把远方的声音全部汇集到近处。
“压低天空”,黑色的雨云低垂。但随着暮色的迫近,天色变得更加昏暗。这里也是将“暮色”拟人化。
“屋顶”“支撑着”,实际的风景是阴沉的雨云低垂到屋顶上,然后反过来。
这样的修辞方式会改变我们对日常事物的看法。事态是理所当然的,平时实际能看到的事。通过不同的措辞,让它看起来像一道新鲜的风景。但过度的话反而会破坏作品的趣味。